人生論ノート

1[人生とは何か]

  人生とは何か?という問は人間が太古の昔から考え続けてきた永遠の問であって、しかもその答は二通りに別れていたことも明らかです.ソクラテスが自分の出身グループであってしかも当面の論敵であったアテネのソフィスト達が「人生とは自己の富と地位と名誉を追求すること」と思い込んでいた時に「人生とは真理に由来する知恵」であるという具合に物質的快楽に対して精神的価値を主張したことはプラトンの「対話篇」に伝えられていますが、同時代と考えてよい前5世紀頃には中国の孔子もインドのゴータマ・シッダルダも同様の結論に達していますから、解答はすでに出てはいても現実の世俗世界は正解とは反対の人間の欲望中心の趨勢に押し流されて来たことも歴史の実証するところです.

 ところで大兄自身のお考えはどのようなものですか?幼い頃から塾通いをしてよい学校に入りこれを好成績で卒業してエリートコースを走り続けて他人より多くの産を成すことだったとすればアテネのソフィスト達と軌を一にすることになります.実にこの人生観は大部分の日本(あるいは諸外国)の母親達の我が子に対する考えで、実はここから現代社会(特に日本)の崩壊現象が生起していると言えそうです.そしてまたこれが優れた宗教人達の嫌悪し、人生の落し穴として危険視するところの魔性の働きでもあったのです.日本では鎌倉時代の僧、中でも特に道元禅師の度重なる忠告の中に見られ、ヨーロッパにおいてもパスカルの繰り返し語る人間の弱さに指摘されています.

 それではこのように古今東西を問わずに共通している人間の精神性(時には霊性と呼ばれる)とは一体いかなる性格の心の働きでしょうか?またこの精神性と人生とはどのような関係があるのでしょうか?

2008/8/25

2[人生の構造、あるいは様式とは]

   構造といっても様式といっても同じことですが、人間生活の外的、現象的形式のことで、動物学的に批評すれば二本足で歩行し、2本の手と10本の手の指を使い集団生活を行い言葉を組み立てる可能性を持つ発声器官を発達させた地球上の動物の生活とその歴史ということになるでしょうか.

 手を使わなければ道具を作ったりできないし、集団生活をしなければ言葉の教育と伝承ができません.こう考えると人間の集団生活様式は必要不可欠の要素ということになるでしょう.  しかしこの定義はどこまでも動物学的外形(現象)的定義であってそれ以上のものではありません.人間は誰でも例外なく家族を基礎にした社会的な集団生活を営んでいてこの基礎的条件に支障を来すと個人としての人間にも精神的障害を惹き起こすことになります.現代社会の諸問題や困難の第一原因がここにあることはほぼ明白です.

 さて人間の基礎的条件である集団生活は親子、夫婦、兄弟、師弟、友人関係が基礎集団の様式であることは自明ですが、これらの諸関係の先行的条件に言語(葉)が存在することが見逃されてはならないでしょう.

 言語の発生とその発達については別に一書を用意するべきですが、ここではこの要件を指摘するにとどめます.言葉を除外しては人間の問題はただの一つも解決することはありますまい.つまり人間から言葉を取り去ったらば人間はただの、つまり一般の動物と何ら変わりがないということです.人間はHomo sapiensですが、これはHomo loquensという事実が先行しているのです.

2008/7/25

3[人間の精神とは何か?]

   古来人間の〈心〉とか〈魂〉、また〈霊〉という言葉を使って人間の肉体と精神の関係、またその生命力について様々に論じられて来ましたけれど、ここでは〈精神〉として総括的に考えようと思います.

 人間の精神とはドイツ観念論の子であるキルケゴールは「精神とは自己であって、自己とは自己自身の関係するところの関係である」と現代人が直接聞いたらば理解に苦しむ定義を与えましたけれど、彼よりも更に現代人である私は「精神とは他者の言葉に対する自己の個性(人格)の関係」と説明したくなります.その前に〈精神とは言葉であって、言葉とは他者(人格)と自己自身(個性)との関係に生命を与える力である〉という前提が先行します.

 分り難くなってしまいましたけれど分り易く説明し直すと、人間は迂闊にも自分自身の言葉を使って自分の知恵で考えている気になっていますが、とんでもない.君の使っているその言葉は親の言葉、つまり彼らが属している社会の言葉であって人間は自分で個人的に言葉(語)を発明することはできないのです.人間が社会的動物である厳然たる事実はここにも横たわっています.

 人間は先ず他者(社会)の言葉を使って考え始め、次第に言葉の原則である論理の構造と機能を知って、成人に達して後、自分自身(個性)でこれを組立て直して自己の考えを纏めるのです.ここで人間は初めて自己自身になり精神になるのです.個(体)性とか主体性とか人間の自由とか叫んだところで上述の過程を経ないで一人前の成人として社会の一員になることはできません.しかし現代の教育学はこの事実に気付いているかどうかも明確ではありません.いささか心もとない有様です.人間が何か(事実・事柄)を知る(認識する)ということは先ず社会的(共同体的)な現象です.そこで一人の人間は精神となり自己となるのです.子供の独り言を反復するだけでは自己にも精神にも、従って成人に達することもないと言うべきです.いずれにしても自分一人で自分自身になれると考えたり、自分は自分を知っている(認識している)と思うのは愚かの極みです.

2008/7/25

4[人生の目的とは何か?また幸福とは?]

   人生論と幸福論が人間の歴史において絶えたことはない.一般的な答は〈自己の願(希)望を実現すること〉が人生の目的で、幸福は〈その目的が実現できたときの実感〉ということになろうが、これは特に青年期の誰もが懐く〈心情〉であって、現実のこの目的に到達できる者の数は多くはなく全体のごく一部の人間に限られるのは、この願望が人間社会の競争原理の上に成り立っているからで、要するに他者との競争に勝った時の優越感や満足感に過ぎないからである.実は高貴な精神でも崇高な願望でもないのである.しかも数の上では構成員の大部分は落伍者になる訳で、不満感と不平感が集団内部に充満するのは避けられない.

 古今東西を通じてのこの一般的に共通の人生論の誤りは目的論的思惟構造の欠陥に由来していると考えてよいであろう.よく考えてみれば、人生に目的などを設定するところに軽率な勘違いがあるのである.仕事(企画)には目的や目標があるのは当然で、この観念と人生観を取り違えていることは明白である.これは学校教育の生活様式が少年期から青年期の大部分の人々にかなり決定的な影響を与えていて、これには旧文部省の教育制度や方針と教師に生得の人生観が強力に後押しした結果であったことになる.

 世界的視野で観察するとヨーロッパ型とアメリカ型に大きく二分された教育感や人生観が存在し、これに自由主義型と社会主義型の近代思想が付加されていることになろうがいずれにしても利己的自己中心的な人生観が世界的に蔓延していることも確実で、特に日本の戦後の場合は世俗のキリスト教信仰さえも除いたアメリカ型無責任自由主義とでも言うべき軽佻浮薄な生活感に押し流されて今日に至り、その間に仏教的、儒教的人生観は跡形もなく消え失せたかに見えるのは妙である.           

2008/7/27

5[真の人生の意義は何か?]

 大体〈人生論〉などというテーマで人間が何かを論じていることは人間という動物がこの地球上の生存を許されている証拠にほかならない.世俗の世界で競争に明け暮れしている場合はそれどころではなくて狭い集団内部のあらゆる上下関係に意識を集中して生きているから自分の生命が先ず第一に根本的に保証されているという事実を忘れ去って他の様々のあれこれに目と心を向けているのである.「野の花を見よ、空の鳥を見よ」というイエスの〈山上の教え〉は当時の貧しい人々に〈自然現象の冠たる人間の価値と尊厳〉を端的に示しているので、この事実に気付けばすべての現象や事柄が今までとはまったく違って見えてくるはずである.多くの宗教家や思想家達がある種の余裕階級から出ていることから説明できるがすべての先哲が古代の貴族出身だったわけではない.よしそうであったにしても人間の生が地球の所持している生命存続条件の大前提の上に成立していることも事実である.

 確かに人間が生きて行くには人間自身が働いて衣食住を賄わなければならないけれど、働くこと自体もその大前提によって許されているのである.働いても何も獲られないのが最初の条件であるとすれば、働くことすら不可能であろう.こうなれば人生の第一義は競争に勝って他者に対する優越感の上に胡座をかいて悠々と暮らすことではなかろう.他者より多くの富を持ち健康で地位と名誉を手に入れ、他者を独占的に支配し権力を振うことが人生の意義であるわけがない.この種の人生観の衝突の結果が経済的格差であり国家(民族)間の争いであり、不健全な精神から生じる心身の病気であり、幸福の対極にある不幸そのものであることは今や明白である.

 してみると人生の第一義は人間の生命の大前提の宇宙的、地球的、自然的現象の事実に気付くことではないか.しかしそのためには人間の知恵の限りを尽くして考え抜かなければならないことになってこれもまた一大事には違いないのである.つまり部分的知識をいくら集めてみても総合的な知恵に到達することはないという事実の壁に突き当たるからである.仏教も儒教もギリシャの知恵もこの辺りまでは来ていたはずである.

 そこで我々の課題は、この壁をどうやって突き破るのかということになる.

2008/7/28

6[人生の意義を知る方法は―その1]

シャカ(ゴータマ・シッダルダ)は数年の苦行の結果正覚大悟し、結論に達して解脱したと言う.日本の禅宗はこの道を歩むように見えるが、実際のところは分からない.孔子は実践哲学的に政治の道徳を考えていたようであり、ソクラテスはこの世の現世的利益ではない精神的真理の価値を問い質したようにプラトンによって伝えられている.三人三様の確信や主張をある程度説明し得たとしても、その真意を正確に知ることは至難の業である.

 しかし、すでに前五世紀の古代において精神と物質の間が直接連続していない事実に先哲達は気付いていたものと見える.精神に重きを置けばイデアリズム(観念論)になり物質からは唯物論(マテリアリズム)が出現するのも理の当然であるが、究極のところは誰にも分かるようなものではない.

 現代はゲルマン―アングロサクソン的物質実利主義的個人主義が主流を占め、これに対抗するのはキリスト教(含古代ユダヤ教)ではなくて、イスラム教勢力になるらしい.この構図の背景には現代のイスラエル共和国とパレスチナ人たちの政治的対立に加えて、アメリカとイスラエルの経済的癒着があって問題を複雑にしているから解決には更に年月を必要とするであろう.

 ただこれも大雑把に両極に二分すれば人間には利己的自己中心的我利我利亡者と利他的他者中心的絶対無私の人間に分けられて、現代は前者が優勢の時代ということになるのだが、地球規模でグローバルな自然学的視点で人類の将来を展望すると、前者の優勢が続くとすれば人間世界の崩壊と人類の滅亡の姿が見えてくる.大方の希望は何とかこのまま済し崩しにできるだけ長く現状維持で行こうというところらしいがそうはいかないであろう.

 人間の精神とか心が、あるいは古代人のいう魂や霊がこの状態で狂い始めると言われてもこれに反論するのはかなり困難である.

 たがしかしただ一人でも狂わずに〈真の人間〉の姿・形、その内実を示す人間が存在するとすればまた話は別である.

2008/7/28


7[人生の意義を知る方法は―その2]

 前項を引き続き更に論ずれば人間は古代ギリシャ人のように夢想主義(イデアリズム)的になるか原始仏教のように諦めの境地(諦念・悟入)に達するかということになるが、近代から現代人までは仏教はもはや特殊の道でヨーロッパの世界ではギリシャ思想(特にプラトン)を復活させてドイツ観念論が哲学者のカント、ヘーゲルの思想において自然科学の発達と歩みを共にして特に大学の世界で盛んに行われたことは周知の事実である.しかし近代の観念論は二度の世界大戦で完全に崩壊して自信を失い、実存主義と唯物弁証法に変貌したが形を変えたところで本質が変わることはあるまい.

 そこでもう一つの別の道が登場したのがキリスト教学内部の〈弁証法神学〉と呼ばれた思想活動であったが首尾一貫して自己の道を歩んだ者はカール・バルトただ一人であったのかも知れない.それはともかく非常に広義に問題を鳥瞰すれば、バルトもヨーロッパ観念論あるいはローマン主義的と批評されるであろう.人間はどう考えてもそれほど変質できるものではないからである.

 ここまで来ればまったく視点を変えるというよりも、考え方を変えて人間を捉え直す以外には新しい道はあるまいが、どうしたものであろうか.

 人間は狩猟採集の時代から何か食物を見つけてこれを捕えたり集めたりすることが人生自体であると考えて自己の意識を集中してきたに違いないから獲物を大量に獲得できた時を〈人生の意義〉と直感してしまったとしても致し方ないようにも思えるが、実は人間がエデンの園に置かれていて「園のどの木からも自由に取って食べてよい」と許可されていた事実の方はごく軽く考えて、ついには忘れてしまったのではないか.こうなれば〈人生第一の意義〉はこの自分の〈生命の最初の条件〉である根底の根底に気付いて、これに驚くことなのではなかろうか.この事実の基礎の第一義は単に一般に経験的に常識的に分っているという性質の知識ではなくて、突然気付くという性格の一種の類推的直覚(感)的認識である.これはここでは論証を省略して〈創造者との人格的関係における対話的認識〉と命名しておくことにする.他日の論証を待たれよ.      

2008/7/30

8[自信とか信仰とかは何を意味するのか]

 先日友人から「自信とは何か?信仰とは何か?」といきなり問われて即座に次のように答えました.以下はその解答と説明です.

 「先ず〈自信〉とは自分自身の実力に対する確信で、〈信仰〉とは自己の〈生命〉の根拠に対する安心である」と言ってみて、これは面白い人生論上のテーマであると思った.つまり〈自信は自己の衣食住の生活技術における自己の力量に対するある程度客観的な評価が定まったところに成立する〉ということになろうか.この条件が成り立たない場合はまず自力で生きることができないから他人の力に頼らなければなるまい.もちろん障害者や病人のケースは〈特殊〉として別に考えることになる.この基礎的な条件が成立すれば、次に自己の専門的作業(仕事)や技術に関する他者の客観的評価の伴った保証を得た確信という第二段階の局面が問題になるが、この段階は誰にでも一般的というものではなくて、ある程度高度の専門職の人々の場合に限られて、問題は評価する側が時代により社会的条件により、敵味方のような利害関係や人種的偏見によって一概には決定しがたいことになろうがそれでも冷静に客観的にある程度の結論を得ることは可能であろう.

 さて〈信仰〉という中国語より〈信頼〉の方がわれわれの語法に適しているが一般的な定義は、〈人間(自己)を超えた力(諸力)に対する憧れや景仰の心〉とでも言うほかはない.それにしてもこの定義はいかにも曖昧で怪しげである.別の言葉を与えれば、〈自己の存在に対する根本的な安心〉となり、更に進めば〈自己の存在の根拠に対する信頼〉、また〈自己の生命の創造者に対する信頼及び信頼関係〉ということになろう.しかしこれとても自然科学的認識からは遠いし、哲学的知識としても無理がある.自然科学が存在の根拠に行きつくことはもはやあり得ないとすればもう一つの別の道を探求しなければなるまい.

2008/7/31

9[常識とは何か]

 〈常識〉という言葉から、一般的風潮、流行、大勢、世俗化、世間という語が湧き出てくるのは常識が〈良識〉に比べて価値が劣るからで、この意味では一応事実を反映していると言えよう.あるいは簡単に良識は知識人の認識で常識は一般大衆的知識と言えないこともない.

 そこで世界思想史においては古代のギリシャでもインドでも中国でも、中世はともかく、近代や現代でも思想家達は当時の常識を疑うことから彼らの知的活動を開始している.時間論を導入すると常識は良識が一般化し、大衆化した結果で時間を経て良識が頽落したものとも言えよう.ある社会で明確な認識が発生したときは良識と呼ばれるに値するが、時間が経てば常識化して言葉の価値自体も減少するのである.  いずれにしても大衆は常識という一般化した言葉で物事を観察し、考えるが、これは普通親や教師や社会人から学んだ言葉である.人間は誰にせよまったく独創的に独力で自己の思惟を展開することはできない.最初の第一歩は一般化した他人の言葉を使わないわけにはいかないのである.しかし成長し時間をかけて反復思考するうちに自己の考えの欠陥に気付くようになるか、自分の言葉より優れた人物の言葉に触れたときに突然意図せずにその他者の言葉によって自分自身が克服されることになると考えてよかろう.

 さて常識とは歴史的に捉えればその時代の一般的知識・情報にほかならないのであるから、その定説に従ったり、その結論を当然のことと思い込んでいることは、とりもなおさず流行に無考えに(無批判に)押し流されているわけであるから、自分の頭で考えていることにはならないことになる.人間が自分の頭脳で物事を批判的に考えるのはその人間が危機に瀕している時で何よりも重大な危機は人が優れた他者に出会う時である.その時彼は常識に頼って生きることができなくなって自分の脳細胞と格闘することになる.その結果人間は善くもなるし、悪くもなる.

2008/7/31

10[〈出会い〉について]

 M.ブーバーは〈出会い〉は恩寵であり奇跡であると言ったが、これに私見を重ねれば〈出会い〉は神秘であって、また人生最大の危機である.

 しかし、この〈出会い〉が起らなかったら、人間の人生は単なる地上の自然史の中に呑み込まれ解消されてしまうであろう.個性とか個体性は諸元素の中に還元されると考えればよい.

 宇宙物理学的に、あるいは地球上の生物学によって考えれば地上の物質は原初均質の海で始まってやがて諸分子に分化して生物が生れて現在の姿を得たがやがては振り出しに戻って再び均質一物質の原始の海に戻るということになるのだろうか.そうであればわれわれの人生はただの偶然の結果と考えられて何の意味も持つことはできない.そしてまたこの考えは東洋人である日本人が古代から慣れ親しんできた考え方でもあった.

 〈出会い〉の性格にもいろいろあって大きく分ければ現実の人物との出会いと書物における出会いがあるが、現実の場合は時代的時間的に限られ、書物の場合には時代や場所を越えた経験が含まれる.この意味で我々はシャカや孔子やソクラテスともある種の出会いを経験しているわけである.そしてこの場合でさえ書物、つまり言葉を通しての出会いは自然科学的な偶然と言えるようなものではなくなる.語る者とこれを伝える者とこれを読解する者の偶然とは言えない不思議な結びつきが観察されるからである.つまり、人間の脳細胞内の言語機能を除いてはこの現象を説明することができないことは明白である.そうなると〈出会い〉と〈ことば〉の関係を論じなければならなくなるし、キリスト教の場合が特殊か一般かという点にも触れる必要が生じる.

 いずれにしてもこの種の〈出会い〉が存在しなければ人間が他の動物と異なるものであることも定義し難くなろう.

 記者である自分のことを考えても、あの優れた人物たちとの出会いがなかったならば自分の人生は自然の一部に過ぎなかったであろうことは確実である.これが仏教のいう〈無〉であるという具合には簡単には言い切れないのである.

                           2008/8/1


11[〈言葉〉について―その1]

 〈言葉〉とは人間の意志と感情伝達の手段であるという定義は簡潔であるが事実を言い尽くしてはない.現象を説明してはいても本質に触れてはいないのである.人間をホモ・サピエンスと言い、更にホモ・ロクエンスと言うのは正しい.人間の知恵は言葉に由来しているからである.言葉なしには人間は何物も認識できないし何事も考えられはしないのである.これは事実であって単なる想像の事柄ではない.

 言葉の起源と発生の仕組みは生物学的に人体の組織発生の仕組みから言語中枢の発達や脳細胞の機能の諸研究でかなり細部にわたって究明されてきていて、結論を述べれば人間が言語の諸器官とその機能活動なしには人間になることが不可能なことが明白になっている.人間は言葉なしには自然も世界も他者も自己も社会も認識し得ないということである.つまり青い空も海も山も平野も、諸動物も人間も、他者はおろか自分自身をも知ることができないというのである.

 ここで言葉あるいは言語という場合、それは脳細胞の〈言語域〉、また言語の本質である普遍語の機能であって特殊語としての日本語やフランス語のことではない.この意味ではラテン語(含ギリシャ語)が地上の普遍語には最も近いことになろう.

 言語機能の本質は〈論理〉にある.この論理機能は他の生物や動物の組織においても生存の論理(生体組織の機能)として働いているが、人間の言葉はその機能の最高度に発達したものであるに違いない.更に言葉は諸現象を認識している認識者としての自己を反省的に認識することによって自己を〈精神〉として自覚し、他人格を他者として知るにいたる.

 この単なる他者ではない他人格を知ることは人間の生存機能の中で最高度の活動であろう.最も優れた人間の言葉が最高に正確で誤りのない認識に達しているはずであるから、その認識と論理に従うことが他の人々にとって大切なことになろう.しかしどのようにしてその最高度に優れた人格に出会うのであろうか.これも人生の不思議である.

2008/8/1

12[〈言葉〉について―その2]

 ここでは言葉という日本語を〈文〉というシナ語で考えてみる.「文は人なり」はBuffon(1707~88)のの訳文であろうが、〈文〉は〈文体〉のことであることは明白で、この〈文体〉は〈文章〉より定義が難しく特定の個性を持った文章のことで「彼の文章はその人の〈人となり〉である」というところが正しい意味を伝えているであろう.

 〈文〉は文法的にも意味上も首尾完結している文章のことであるが、人の文章はその人の定義と表現の形式(様式)を持っていて、その定義の正確性と表現ので流暢なことによって文の個性が決定されるであろうが、更にその背後でその人格の質が裏打ちされていることに優れた諸者は気付くであろう.そこで文には名文あり悪文あり、強弁あり、慈悲の文あり、精緻の文あり、曖昧文あり、高貴の文があって卑しい文がある.それぞれが記者の人となりそのものであるというのである.空海のシナ語の名文は正確無比で道元の漢語混じりの日本文は最初の思想家としての群を抜いた日本語文で日蓮の言葉は強意の類い希なる超一流の散文日本語を完成したと批評されてよいであろう.明治時代に翻訳された文語訳の日本語聖書は基本的に道元の書き上げた日本文と寸分違わないのは不思議である.現代でも依然として優れた第一級の翻訳書である「ルター訳ドイツ語聖書」は彼の〈人となり〉全体を美事に表現している.この翻訳者が聖書の真意を取り違えたことは滅多にない.

 現代日本語について附言すれば、戦前前期の知識人たちがドイツ観念論の翻訳調日本語で教育され、戦中から戦後の学生青年たちがマルクシズム調日本語の影響を受け、更にアメリカ式商業英語を身に着けて、結局日本語は混乱して未完のまま成熟期に達していない中途半端な始末に悪いものになっていると言う他ないであろう.一民族の言語が未熟で不整合であるということはその民族が崩壊寸前であるという事実を示していると考えられる.言語は社会集団内部で成熟するもので一天才の発明品ではない.天才はその言語が成熟完成している時に輩出して、更に磨きをかける作業を果たすのである.    

2008/8/5

13[人生の諸段階について―その1]

 孔子が保守的な封建主義者であったとしても彼ほどの人物であれば人生の諸階梯をよく心得ていていみじくも「吾十有五而志乎学、三十而立、四十而不惑、五十而知天命、六十而耳順、七十而従心所欲、不踰矩」と言った.人生には当人に相応しい節目があって、これを大きく外すと人間としての正常性や健全性が疑わしくなる.当然個人差があるから他人といちいち比べることは意味をなさないが、ある程度の規準はあると思ってよい.カール・マイケルソンは幼児期、成熟期、老齢期、死期などの人生の諸局面で人間は自己の危機に出会うということを言っていた(「危機に生きる信仰」).人間は誰もが例外なしに〈生れて来て死ぬ〉のであるが、その間で簡単には、あるいは自然には通り過ぎることのできない危機に瀕すると考えるべきであろう.しかしその時が自己が自己に出会って自己を認識する時で、これを正しく取り扱うことに失敗すると人間は精神になることができなくなる.キリスト教(聖書の世界)ではこの現象に〈悔改め〉とか〈回心〉という語を使って説明しているがこれはその人生における最大の危機であることを示している.それが自己を取巻く常識という自然状態から脱出する時だからである.

 発達心理学に従えば、通常17歳が最初の危機でこの時青年は成熟期に差しかかっていて、ここを健全に乗り切れなければ人は成長し損なった人間に留まることになるというのである.これは大脳生理学的年齢を意味しているのであろう.現代の学校社会では中高教育から大学教育期に移行する時期で、受験勉強に明け暮れしていたのでは自己の精神の成熟に必要な言葉の教養や人格的な〈出会い〉の経験に不足することは明白である.ごく少数の奇跡的に幸運の人物だけがこの好機に恵まれるのであろう.この幸運は家庭と学校と彼の属する社会集団が偶々健全で知的に優れた人格高潔な人々に恵まれているということが前提にならなければならない.

2008/8/5

14[人生の諸段階について―その2]

 自分自身の経験を語れば、人間のどちらかといえば自然状態に近い幼年期や少年期を除けば、もっとも激しく物事を考えたのは17、8歳の時で、これが第一の危機であったろう.その内容は学業の選択とその結果であるはずの職業の選択であったろう.当然のことであるが何の結論も出はしないで大学生活が始まり、諸言語と思想史に大部分の時間を費やした記憶は鮮やかである.卒業後もその延長線上で勉強をし、学校で教える仕事も引き受けた.大学でも後半(大学院)はヨーロッパの学者たちの書物を読むことに時間の大半が費やされた.学友たちとの交際も続いていたがそこから受ける刺激や教訓より、現代一流の学者たちの著書から受けたものに比べれば微々たるものであった.日本の学者たちからの影響もヨーロッパの世界でも通用するほどのものに限られていたが、これも理の当然で、それだけの内容(実)に惹きつけられてその思想に魅了されていたのである.古代の三天才とイエスは別にして中世から近世にかけてのアウグスティヌス、ルター、カルヴァン、パスカルは当然のことで、近代から現代までのカント、ヘーゲル、実存主義者、カール・マルクス、シュライエルマッハー、バルトの主著の名文には一応目を通して人生の大半は過ぎてしまったことになるが、第二の危機は二十代後半にかけての少年期から青年期前半のいわば自然的自我が崩壊を余儀なくされる時で、上述の俊秀たちの名著の核心部が痛打にも救いにもなっていることは忘れることができない経験である.もし彼らとの〈出会い〉がなかったら自然人として自然史の一部にはなったとしても私自身は人間の精神の自己として存在することはなかったことも動かし難い事実である.この文章を誇張に満ちた修飾文であると考える人は愚か者である.私はその人を到底友人と呼ぶことはできない.

 だがしかし問題はこの文の記者に如上の世界の一流の名文の真意を読む抜く力が備わっているか否かにあって、それも主観的な自分免許で読んだと思い込んでいるだけで何の保証にもならないのである.そこで私自身の場合四十代以後は自分が第二の危機を乗り越えた時の経験と認識の客観性の確証のための読書に費やされたと言えよう.

 してみると私自身の人生の中核部は〈読書〉であって、これに尽きるように見える.もちろん自己の経験を他者に伝えることも読書に並行して行われたことは言うまでもない.

2008/8/5

15 [読書について]

 記述の文章から私自身の人生論と読書論とはほとんど等価であると言えそうである.あるいは大部分の文化系の学者たちも同じ経験をしているに違いない.しかし読書といっても種々あるであろう.・大衆娯楽小説や日本の純文学(大部分が私小説)や・ヨーロッパ文学史上の名作、・思想史上の論文に・社会科学的論文等々が直ちに思い浮かぶ.古代の天才たちは自分では書物を書き残してはいないが、直接間接の弟子たちが師の言葉をよく伝えている.いずれにしても現代人である我々は書物から人間の思想(史)のすべてを知ることになるのだが、これは人間が先人の知恵を正しく理解し、伝えることによって健全に生きる道を選び取ってきた事実を示している.

 こうなると人間が存続する第一の条件として「技術的知識のみならず先人の知恵の総体的伝承(受継ぐことと後代へ伝えること)」が挙げられよう.この作業が活発に健全に行われていない時には〈文化〉は頽廃と崩壊の道を辿るであろう、と言える.思想・哲学系、文学系、社会科学系の書物の言語はその著者が属する社会の言葉が基本的に使用され、一人の著者が個人的に発明する言葉ということは考えられない.言葉は根元的に他者から著者に伝えられたものである.天才と言えども例外にはなり得ない.Homo loquens(言語人)は起源的に社会的、他者共在的存在なのである.自然科学と言えども例外ではなくて母国語を使わなくても人類共通の言語を使うことなしには自然科学的思惟は成立しない.

 かくて一人の人間が先人の思想(信仰)や人生観を読解して自分自身の思想を書き上げるには少なく見積もっても40年を要するであろう.言葉を変えれば40代に至らねばその人の文体は決まらないということである.ごく稀に若くして一定のレヴェルに達することがないとは言えないが、少数の例外にとどまるであろう.一つの時代が長いコンテキストでその時代の思想を表現し切ることができて、その含蓄を読者が正確に理解するには人生四十年が必要であることになる.

 あの商業出版社の毎年出している若手の文芸賞獲得作家たちの私小説的作文は我々の年代の者たちにとっては我慢するのに骨が折れる.

2008/8/6

16 [文章読解法について]

 事のついでに文章の真意を読み抜く方法について触れれば、私自身が〈解釈学〉を専門に学んだこととは別にこれもまた人生にとって大切な技術であって省略する訳にはいくまい.例えば短い手紙文(書簡)にしたところで、その目的が相手の安否を問うためか、友情の交換か、就職の斡旋依頼か、事務的報告かという具合で書き手の意図を読み損なったら何も分からなくなる.哲学論文の方が内容の理解は別にして目的や構造把握は楽である.文書にも古代の〈神話〉に始まって法律文、文学(韻文、散文)、商用文、大衆娯楽物(戯作物、小説等)、戯曲・台本類、政治用演説、という様々のジャンルがあって、それぞれに読解の要領がある.これも例えば長編マンガひとつとっても作者の真意を読み抜くのは決して易しくない.ましてやドストエフスキーの小説を正確に理解するには、ここまで来ると読者の側の知性と才能が問われることになる.

 読解法の初歩(基本)はまず文章全体から文章作成者の意図(目的)を読み取り、次に文中最重要の文を読み当て、更に特別な意味を持つ用語の概念を確定し用語法の特徴を明らかにするのである.この手続きは神話、小説、聖書の別を問わず変わることはない.この作業を正確に実行するにはまず第一に自分自身の思い込みや一人合点の解釈を排除しなければならない.そして次にその文の意味(意図)が作者自身と共に人格的な姿を出現するのを待たねばならない.読解者が自己の意図や力で文章を読み抜くのではなくて作者がその文意と共に姿を現わすのである.自分の考えや解釈をどこまでも正しいと言いつのる者は最悪の読者であって、当の文意にも作者にも、そもそも自分以外のいかなる他者にも出会うことはない.A.A.ミルンはウィニー・ザ・プーに「詩は向うからこちらにやって来るんだ」と語らせていて、この間の事情を見事に言い当てている.

 付言が許されれば、文は作者が最初に書いた言語で読むべきであり、それも音読するのがよい.音読に耐える文が名文であって、その逆は悪文である.

2008/8/7

17 [自由と選択と責任と―自由論 1]

 ここでいう〈自由〉とは政治・経済・社会・歴史に関わる社会学上の自由ではなく、〈自由の本質論〉とでも言うべき人間の存在論的自由のことである.人間に行動上の自由があることは経験によって知られるが、その自由が何に由来するのかどこから来るのかは自明ではない.行動上の自由は現実の生活では何かを選択する時に行使されていることも誰もが知っている.他の動物も、あるいは植物も含めて適者生存の法則に従った選択判断を行っていないとは言えまいが、これは生物学的鉄則、または動物的本能に従った行動で自由に〈二者択一〉を勝手気儘に行っているわけではない.この故に古来人間に与えられた〈権利〉の一種であるように考えられてきた節があるが、これはおそらく勘違いであろう.

 古代の哲学はともかくドイツ観念論も実存主義もマルキシズムも知った上のことで結論を述べれば「自由とは人間が自発的に他からの束縛を受けずに自己の未来を選び取ること」なのであるが、この場合彼が肉体的(物質的)に地球上の過去の因果関係に縛られている事実は万人共通であるからここでは彼の選択や決断を制限することにはならないと考えられている.

 しからばこの自由はどこから来るのであろうか.動物あるいは物質はこの〈自由〉とどう関わるのかも問われるべきであろう.生物学的、若しくは唯物論的に考えれば、物質的なあらゆる因果関係もまたその必然性をもって未来を選び取っていると考えられるが(これが〈進化論〉の根拠になろう)人間の場合は諸細胞の中の脳神経細胞が他の動物と比較にならぬレヴェルで発達していて、しかもここで言語活動を行うことで外界の諸現象を認識、分析、総合して自己の未来の行動を選択し、決断して行動することになる.ここで他の動物とは決定的に異なる質点は高度に精密な言語活動なのである.

 ところがこの高度の認識判断の未来選択行動はその結果に対して責任が問われるのは自由には失敗が伴う可能性が含まれているからである.〈必然性〉によって完全に支配されている行動に対しては責任が問われることはない.他の動物の行動に責任を問うことは意味をなさない.彼らの行動の失敗は必然的に〈死〉に繋がり、しかもこれに責任が問われることはないのである.実は人間の自由な選択行動の結果も〈死〉である他ないのだが、これには必然的に責任が伴うことを覚悟しなければなるまい.

2008/8/9

18[自由と言語と責任と―自由論 2]

 前回生物学的、従って自然科学的(唯物論的)推論によって人間が他の動物と異なって物質の延長線上にある人間の脳細胞の特殊な高度の発達によって人間の認識能力が自分たちの未来を自発的に自由に選び取る現象的事実に言及した.その先の話になるが、自己自身が自己になるのは先祖・先輩の言葉を使ってその言葉で自己を認識するという手続きを経なければ、自己が精神になることはできないということで、つまり人間は他者から伝えられた他者の言葉で自己を認識することによって反省的に自己が精神になるのである.言葉がなければ人間は他の動物と同質で、自己認識も自己を取巻く環境も客観的に認識することができないわけである.自己とその環境である自然と、更に歴史を他者と共通の言葉で認識することができなければ未来の選択は不可能で人間に〈自由〉という行動様式はあり得ない.

 仮に言葉がなければ人間は動物の一種ではあっても人間ではなく彼の行動は厳密な意味での自由な選択行動ではない.つまり言葉による判断がなければ他の動物と同様でその行為は細胞活動の必然的な組織的反応ではあっても自由に判断された自発的な行為ではなくて、ちょうど動物たちが咄嗟の判断で行動を起すのと同じでその行動が生存に適していても不適切あっても本能的で必然的な行為である.しかし言葉を使って物事を認識・判断している場合には人間は選択自由を行使していることになる.よしその判断が彼の生存にとって不適切であったとしてもである.

 かくて言葉が人間に認識判断を可能にし、自発的な行動を起させるのであるが、その自由な行為の結果はその判断を下した者の責任になる.これは理の当然のことである.倫理はここに始まり、アダムはその責任を取らされて楽園を追われたのである.      

2008/8/10

19[選択と自由と責任と―自由論 3]

 〈言葉〉が人間を自然的必然から、生物学的進化論から解放するとすればここに〈人間の自由〉の基礎があるし、また唯物論の呪縛からも救出されることになろう.他の生物が人間以外の高等動物も含めて結局はダーウィンのいう適者生存(実は弱肉強食)の鉄則に従って行動し、生存しているとすれば、人間だけが言葉を使用してよしその判断が宇宙の原理から外れているとしても自由に、自発的に自己と自己の集団の未来を選択しているとすれば、あるいは自己の未来のみならず他の諸生物のよい将来も選択しているかも知れないと考えてみてはどうであろうか.つまり自然は唯物論的に寸分違わずに自己の宿命を盲目的に驀進しているわけであるが人間は自己の将来を誤っても正しく選び取っているということになる.パスカルは人間の尊厳を自分が滅びるという事実を知っているという現象の中に見ていたが、この知識が他の諸生物の生活にもよい影響を与え得るというのは新しい考え方であろうか.パウロはこの件に関わるか否か判然とはしないが奇妙なことを言っている(ロマ8:18―25).

 未来が選択できるとすれば、その選択の結果には責任が伴うことになるのは当然で、これは一定のルールに違反した事による責任や罰則の意味とは異なる性格の現象と考えてよい.言葉の能力から自由が生じ、自由の結果として責任が姿を現わしたことになる.

 現実には人間の自由な選択判断に全宇宙の宿命を左右する能力や権限がないことは議論する以前に決定されていると考えたのは古代ギリシャ人たちであった.

 言語の機能が人間独自のもので地球上の他の動物から人間を決定的に区別することが確認されれば〈自由〉は地上における人間特有の行為現象になって、人間が特殊中の特殊の存在であることを保証することになろう.ここに初めて〈倫理〉が登場する.それでも精神が人間の肉体の内部で機能する限り唯物論から自由になるのは難しい.しかしその精神が他者と自己の言葉の関係の中で生起し、他者との言葉の交渉において認識し、判断し自発的に決断するとなると問題はさほど単純ではない.少なくとも人類全体としては物質支配から自由であるとは言えないが個人としての自己自身としては物質細胞組織の呪縛から自由である部分が成立しはしないだろうか.つまり〈自己〉が自己自身の物質条件から離れて他者(これも物質的存在であるが)との言葉を介して交渉することによって自由な選択判断が生起するという仮説である.

2008/8/12

20[死と生]

 シャカ(ゴータマ・シッダルダ)が老・病・死(これに生を加えて四苦とする)を彼の人生論の出発点にしたことは知られている.彼の思想に普遍性があるのはこの原点が万人共通の人生苦であるからである.この事実は現代でも変ることはない.彼の思想のすべてがこの世の諸現象の定義とその定義語の組合わせに尽きているように見える.  我々にとって〈死〉は〈生〉がなければあり得ないから死と生は切り離しがたく結びついている.しかし死は現象としては親しいが、生の根源は21世紀といえども決して知り尽くされることはない.

 死も生も唯物論的に考えれば、すべてが必然性の中に呑み込まれて病苦も闘争も精神的苦痛もすべて偶発性の出来事に過ぎなくなる.宇宙物理的に考えれば生と死はこの世界の両枠なのだからその中間の出来事は結局始まって終るだけのことであって、すべては偶然でもあり必然でもあることになる.つまりこの世の出来事には意味も価値もありはしないのである.仏教はこの方向で物事を考えている節がある.これで悟るか諦めるかして大悟徹底してしまえばよいと言えぬ事もないが、はたしてそんなものであろうか.

 結論から言えば、この問題は〈生〉の価値が分かる人間にしか〈死〉の意味(義)は理解されることはないのである.この論法の根底にはどのように不運な人生を過した人間でも〈生きていて真によかった〉ということを経験する時があったという大前提が据えられている.このことはいわゆる〈不平家〉と目せられる人物には決して理解されることはないが、動物の中にさえこれを知っていると思われるものがいる.これは、だから、生涯において〈生きていて本当によかった〉と一度も実感することも知ることもできなかったということの方に問題があることになる.その人生がどれほど悲惨で苦痛に満ちていたとしてもなのである.ただし、その〈よかったこと〉が他人に比べて少しばかり〈よい〉というようなみすぼらしい程度のものであってはならない.ただひたすら〈自分が生まれて来てよかった〉とひそかに自分自身で確認できるような経験でなければならない.

 ところで〈死〉の意味や価値はどのように知られるのであろうか.これはあの〈生きていてよかった〉という〈生〉と隣り合せに存在していた死であって、あの〈生〉と同時に知られていた〈死〉なのではないであろうか.そのどちらかを先に他を後に知ることができるというようなものではないと私自身は考えている.つまり生と死とは同一の事柄の裏と表なのではなかろうかというのである.私は逆説的に洒落て言っているのではない.事実を語ろうとしているのである.

2008/8/13

21[生と死と生と]

 いささか文学的表現になるが、死も生も向うからやって来るように思える.〈死〉は経験的に確かに未来のもののように見えるが〈生〉は生まれてきた人間には過去の現象として実感されている.しかし生命については動物の生命現象にせよ、地上の生命の起源にせよ現在も将来も解明できるとは考えられない.こうなると〈生命〉も〈死〉も何かが始まって終了するというよりも人間にとっては外から与えられた契機のような現象ではないであろうか.自然学あるいは自然科学、唯物論あるいは物質論ならば生命は自然に偶然開始してエネルギーが消滅する時に崩壊すると考えるであろう.

 哲学や宗教は宇宙・生命の〈始源と終末〉という用語を使ってこの問題を取り扱っているが、多くの場合仮説から推論して結局は未処理の部分を残して、自然科学とは不整合になる.人間は個人としても全体としても自己の〈始源と終末〉については現実には何も知り得ないと思うべきである.

 そこで人生論者としては生まれてきた自己の決定的な過去については何もなし得ないから周囲の〈他者の死〉の経験から自分の死についての〈覚悟〉を決めることになる.そうなると身近な他者の死から何も学ばず何も経験できない人間は死とは無関係な人間としてその生涯を終わることになるであろう.自分自身の死を経験することは誰もできぬが身近な隣人や肉親の死を知らぬ者は多くはない.幼い時には特殊な離別として肉親の死を味わうであろうが、成人に達した人間は他者の死を自己の死として経験し、覚悟するのではないであろうか.また自分自身が死に直接向い合うという危機に瀕することもあろう.ここで人は自分に迫り来る〈死〉に直面しているのであるが、ここから逆に〈生〉の意味を悟るのではないか.この場合はその当人の〈想像力〉が決定的な役割を果していることになろう.

 時間という過去から未来へ同一の方向に流れる時間を無視すると、人間は死と生の自分自身にとって固定された枠の中に生きていて、実は固定されていると思い込んで枠の方の死がこちらへ迫り来るという方向で動いて自分に近づいているので自分は同一の場所で自己の生を死の枠に触れるまで生き続けていると考えるのは文学的過ぎるであろうか.この場合は〈死も生も〉自己が成熟して死に至るのではなくて、自己は最初から決定されている枠として与えられた自己個人の時間的枠なのである.死と生は人間個人個人にとって自由になるものではないのだから.

2008/8/13

22[死と生と病気と]

 もう一つの時間論が考えられて、個人個人の生と死の大枠はそれぞれ決定されていなければならぬ出発点の生の時間は固定されていて動くことがないのは明白で当然のことであるが、死の線の方は多少伸縮自在であったと仮定すると、この限界戦を移動させる主体が何者であるかが問われることになる.これを哲学用語で絶対他者であると考えると結局必然論あるいは決定論になるが、これが各個人の自由選択判断の結果ということになれば、個(体)性的人格の意味と価値が大きく変化してくる.パスカルの人間が自己の死を認識している事実の中に人間の尊厳を見ていたが、この死の時期を僅かでも移動させているとしたらこれもまた大きなことである.

 生と死の大枠が決定されて不動であることは自明のことであるが、完全な決定論や宿命論が成立するとなると〈人間の自由〉は存在不可能になる.唯物弁証法、または史的唯物論は革命の決定論上の人間の自由の役割を上手に説明しているように見えるが、〈死と生〉の問題とは同質の議論ではない.

 小幅であるにせよ人間に〈選択の自由〉が可能な限り、人間には自己の死と集団としての人間の死を早まらせる能力が備わっていることを認めることになる.動物には厳密な意味での自殺行為はない.

 人間に自己の選択判断の誤りから自分と自己の属する集団の〈生命〉を短縮する可能性を認めることは、人間存在の意味と価値を増し加えることになる.宇宙の創造者の始源と終末の大枠は動くことはなくても、人間にだけ自己の責任で将来を選び取ることが許されていて、その結果に対して責任が負わされているという構造である.人間はその生と死の間の僅かの時間の中で何かを選び、何かを行わなければならないのである.

 その人生において様々な事件に遭遇することになるが、自己の生命にもっとも関係の深いものに〈心身の病気〉がある.この病気も原因が外にも内にもあって問題は簡単ではないが、純粋に自分の中から生起するものには自分で責任を負わなければなるまい.もちろん自分自身で避けられないものはその限りではない.  病気は死にもっとも近い関係にあり死の原因の一つであって、死が普遍的であるのに対して病気は個体性を持ち個人が死の契機として考えるのにもっとも適した現象である.あるいは我々が個人的に自己の死について考える契機として病気以外によい機会はないと言えよう.

2008/8/14

23[死と病について]

 もし仮に病気がなかったとすれば、創造者の作った生と死の鉄枠の中で人間はただ健康な人生を送って突然死ぬだけのことで、死について考える機会はただの一度もあるまい.病気についていろいろあれこれ分析検討するべきであろうけれど、自分自身の死について考える唯一の機会としてこれを捉えてみてはどうであろうか.しかし幸か不幸かは別にして我々の人生に病は自分自身についても自己の周囲にも通常経験されている.だからといって誰もが自分自身の死と正しく向き合えるというわけではないのも明白である.

 また病が自分の役に立つからといって、これを自ら招き寄せたり、病に罹ることを願ったりすることは愚の極みである.自分で作り出した病気など何の役にも立たず死の準備にもなりはしない.これはまた自分の救いを自ら作り上げようとする誤った修行精神の頽落した様に他ならない.

 こうなると病も死と同様向うからこちらへやって来るもので根本的に人間の力で作り出せるものではないことになる.そしてこの〈死〉と直接連結していて死の本質(性)を我々に示すような〈病〉とはどのようなものであろうか?

 一般的な病気である流行病、風邪とか中毒症状とかはよい治療によって治癒するが、決して退くことのない〈死に至る病〉というものがある.これは本源的な性格のもので〈死〉に直接する行程にあって、人はここから死を瞥見する経験をし、彼がこれに気付きさえすれば〈死の意味〉を知るに至るやも知れない.

 確かに現代の医療技術が人間を〈死〉から意識上の時間間隔で遠ざけているように見えるが、本質的には古代も中世も現代も何の変りはないはずである.むしろ人間の弱い本性が自己を死から引き離したいと希っているのであろう.

 いずれにしても死は確実にやってくるし、〈死に至る病〉も身近に生起しているのであるから、各自の知性を明晰にかつ強固にすることが肝要なのではないか.あるいは自我の健全な成熟を促す教育や訓練が要請されはしないであろうか.

2008/8/15

24[言語教育]

 死と生が創造の秩序の大枠で人間がその間に宿命的に置かれているとすれば、一体人間の生涯とは何を意味するのであろうか.生と死の間で人間は何を行い、何を知ればよいのか.

 生物学的に、あるいは自然科学的に考えれば、人間も先ず生きていくためには食糧を手に入れなければならないが、これも歴史的事実から遡論すれば、人間は単独でではなく、集団で力を合わせて食料の採集、飼育栽培をすることによって存続することを可能にしてきたと言える.他の動物にも社会的集団行動によって生存するものはあるが、人間の場合は〈言葉〉を使うことによって他の動物とは異質の高度な社会集団組織行動を展開してきたと言えよう.

 そうであれば人間は成長の最初の段階で言葉を正確に使用する訓練を受けないわけにはいかなくて、教育の第一階梯の最重要課題がここに設定されることになる.数を正確に数えることも言葉の訓練の一部である.問題は各人の言葉の諸環境が各自異なっていて、素質や教育環境によって結果としての言語能力の発達状態にかなりの差が生ずることである.しかし巨視的に見て大きく民族、国家、階級、経歴、素質、時代などを総合すればある程度の言語力を判定することはさほど困難なことではない.日本を例に挙げれば、現代日本人の言語力は全体的に比較的劣化している傾向にあると言えよう.欧米の文化的(経済的)言語的影響の悪い結果と考えられる.また日本語を洗練し続ける知的階層の形成に失敗したとも言えよう.

 総合的な言語能力が身につかなければ人間は物事を正確に認識し、推理し、判断することができない.その言語にも経済、政治、法律、思想、技術、文学等々各分野でそれぞれ発達し洗練されるが、民族や国家によって総合的に一定のレヴェルに到達すると考えてよい.ただ一般に、すべての人間が公平に同時にあるレヴェルに達することはあり得ないから、一部の人間がある歴史的時点で才能を発揮することになる.そのためには民族または国家として、長い準備期間が費やされているはずである.孔子の場合(論語)20歳前に言葉(学)を学び始め、30歳で一定の見識を得、40歳ではもはや惑うことがなかったというのである.誰もがこのような行路を歩むわけではないのは当然である.

2008/8/16

25[言葉と人間性と]

 言葉(語)に人間生存の根本が関わっているとすれば、言語の形成(教育)を誤った社会(民族、国家)は繁栄はもとより、存続が危ぶまれることになるが、ただこの問題は国家の言語教育の方法の正、不正、適、不適というような軽薄な性格の問題ではない.更に根の深い民族の歴史の質に関わる性質の問題でその民族や国家や社会の宿命や運命に関わっていて神の存在を持ち出さなくても人間生存条件の中に摂理とでもいうべき条件が入ってくる気配がある.

 〈言葉〉が人間であって、生活様式が人間の本質であるなら言葉の背後にはその言葉を使う人間(個であれ衆であれ)の人間性が潜められていると考えなければなるまい.一般的に通俗的に考えても〈人間性〉には優劣、上下、善悪の差があることは見逃せない.この平板さ、世俗性から抜け出せば〈人間性の質〉が問われていることが分ってくる.

 近代の自然科学(生物学)の言う適者生存(実は弱肉強食、優勝劣敗)が動かし難い人間性の規準であるとすれば、もはや何も言うことはない.

 奇妙な符号になるが、シャカも孔子もソクラテスも異なる地域における同時代の言葉の天才たちであったが、それぞれ独自の様式で当時最高の人間性に達していたものと思われる.シャカは人間苦からの解脱を、孔子は封建主義的限界の中にあったとしても「仁義礼智」を、ソクラテスはギリシャ流の精神の高貴さを後世に遺すことができた.理想主義か現実主義かに分れるであろうが、彼ら自身の方法で考え抜いて後世に伝えるにたる結論に到達したのである.人間史上の重要な時代であったと考えてよい.それが各言語の発達史との関係も認められれば人間の精神史を理解する鍵を提供しているとも言えよう.

 ある地域の特定の時代にそこに置かれたある民族が人間精神の成熟に達する様子には興味深いものがある.これに並行するように一人の人間も個性として20歳から30歳に成長し、40歳にして成熟するのも単なる偶然のこととは思われない.17,8歳がその境目であることも事実で、それが大脳神経細胞の大切な連結期であるという説には納得のいくものがある.

2008/8/18

26[宗教信仰について]

 世界宗教史を眺望すると、その信仰形態には大別して二種あって一つは超越神信仰であり、他は内在神信仰であって、前者には創造神信仰が、後者には汎神論(自然神信仰)や観念論が属している.これを更に細かく恩寵神信仰、神秘主義、他力信仰、自力信仰、修養訓練式に修行鍛錬式という具合に精神と肉体との関係や兼合いから様々に分類することも可能であるが原則は最初の二大別に言い尽くされている.歴史的にはユダヤ教とキリスト教とイスラム教が前者に、仏教とギリシャ哲学が後者に属するが、儒教は実践哲学として脱宗教的傾向を示し、ドイツ観念論がギリシャのプラトニズム系であることを考えれば、キリスト教といえども単一の超越神信仰とは言い難いし、すべての宗教が混淆現象を呈しているという他はあるまい.

 そこで純粋性を追求する精神は宗教改革や脱宗教運動を試みるがこれは歴史的には旧約聖書の時代から反復実行されている.M.ルターの宗教改革はその最大の歴史現象であったと言えよう.カルヴァンもパスカルもこの系統の改革者であることは明らかである.

 ルターの中には中世的性格が濃密であるが時代が進めば知性的、理知的、合理的性格が顕著になり、アンセルムス(1033―1109)に至るとCredo ut intelligam(知らんがために信ずる)という姿勢が成立する.アベラール(1079―1142)はこれに対してIntelligo ut credamと言ったがいずれにしても知(理)性と信仰とは中世以来の対立主題であって、この二者は人間性において統合されなければなるまい.我々はアンセルムスに組みして〈知解を目指した信仰〉の立場を守る者で、盲信や信じ込みをまず第一に排除しなければならない.

 知性と信仰の関係論は人間が言葉による認識によって生きる動物である限り知性的認識を捨ててはどのように熱心で頑強な信仰といえどもその基礎を失うと承知しないわけにはいかない.パウロやルターが外見上どれほど信仰熱心に見えようとも主観的熱心や敬虔や信心深さを警戒していた事実には変わりない.彼らは結局は言葉の達人であって、その言葉において信仰の深さに到達していたのである.

2008/8/29

27[日本宗教史について]

 ごく常識的に日本宗教史を鳥瞰すると、原始神道的信仰と儒教(実は政治学)を別にすれば、仏教と神社神道を批評することになり、仏教も中国経由の大乗仏教(北伝)で、これは小乗仏教(南伝)に比べるとシャカ直伝的性格からは遠くなり観念論的教説に満ち溢れていると言われねばなるまい.歴史的に批評すれば奈良仏教までは大陸経由の輸入仏教で空海の天才をもってしても論理的な高度の理解に達し得てはいても仏教の本質にどこまで迫っていたかについては些か不明確である.鎌倉仏教に至って日本人独自の仏教理解と受容に達したとはいえこれも悪くすると仏教の本質自体からは遠のいたと言われるかも知れないように思える.道元は自分の正確な日本語で彼の理解を叙述したが、この理解がシャカの直伝性にどれほど近いかという点には疑いの余地がある.日蓮はほとんど完全に日本的でその散文の日本文としての美事さは別にして宗教性の点では質が劣るし、親鸞もその論理がパスカルの賭のルールに近いとしても、実は日本人の古来の心理に最も近い祖先崇拝のヴァリエーションではないのかと疑いたくなる.

 専門的論評はここでは避けるが、日本人の宗教一般について述べれば、日本列島人の心理構造の中にもっとも深く根付いているものは祖先崇拝心で、これが自然信仰の基礎構造を形成し、人間と自然を結合している.日本人は自然と合一(体)することに精神の安らぎを求め、また実感したらしい節がある.超越者を観念としても知らない場合の自然の帰結と考えてよいであろう.自己と血縁的先祖、自己と自然、この三者の結合に精神の安らぎを求めたのである.

 ところで現実の生活において日本人の追求する実際的安心の拠り所は新年の初詣の三大祈願である〈家内安全、商売繁盛、交通安全(あるいは無病息災、受験合格)に如実に顕れている.どこまでも世俗的現実的実際的、自己中心的で身も蓋もなくて、些かも見栄を張らないところが正直で、本心を見事に表現している.これが健全な人間精神なのか否か、実は判然としないのである.馬鹿正直ではあっても、実は弱肉強食、優勝劣敗の自然科学的適者生存の進化論の実体なのではなかろうか.こうなればゲルマンもアジアも西欧も東洋もない人間の露骨な精神の真髄なのであってこの行く先には人類の悲惨な滅亡が見えてくるように思えるのはこちらの僻目であろうか.そうであればよいのだが.

2008/8/30

28[教育とその本質]

 現象としての〈教育〉はどのようにも観察され批評できようが、その本質となると問題は簡単ではない.表面上あるいは実際上は教育とは子供に読み書き算盤を教え物象を観察分析する訓練を行い、社会の仕組みや生活技術を伝授するのが初等、また中等教育で、高等教育はそのすべての科目を政治、経済、法律、科学、高等技術という具合に専門化してこれに文芸、美術、音楽を加えて全体を構成させている.戦後の教育では戦前に行っていた修身、道徳、国家精神教育を排除したために倫理的側面が等閑にされてしまったことに戦後数十年して気付いてあわてて「期待される人間像」なる徳目を提示してみたが、些かの功もなく現在の不道徳時代を現出するに至ったと言えよう.

 これは有体に言えば教育の基礎根幹に道徳以前の〈人間観〉が確立していなければならなくて、日本人の人間観が、儒教、仏教の到来と共に洗練される以前にすでに古神道と農耕社会的習俗によってすでにかなり曖昧に固定化されてしまった結果であるという仮説も成り立つようである.日本人が歴史時代に受け入れた外来宗教は結局は列島先住民である大和民族に馴染まなかったということになる.このためにキリスト教も含めてすべての高等宗教を正しく知解することに失敗した結果が現代日本人の精神的現状であるというわけである.

 それでは教育の本質はと問われて一足跳びに結論を述べれば、〈教育とは人間(集団)が存続(生存)するために必要な基礎認識概念と生活技術を次の世代に正しく伝え、これを更に強力に伝承するシステム(組織制度)である〉という答が出現する.しかしそのためにはその伝承が真に人間を生存させる力であるか否かを集団内部で検証することが可能でなければなるまい.この検証力が萎えてくればその人間集団は内部的に崩壊する.またこの検証力が健全で公平で客観的であるためにはすでに政治も経済も科学技術もグローバル化している21世紀において、すべての高等(積極的)宗教と優れた有力な哲学思想をでき得る限り正確に理解し、そこから誤りなく導き出された判断結果を基礎に自己の人間観を確立し自己の属する人間集団の未来を切り開かなければならないであろう.もはや自分好みの、一つの民族の傾向や希望で自己の属する民族(集団)を存続させることは不可能である.そのためには世界の歴史的知恵を総合した判断と結論が要請されるであろう.

2008/8/31

29[言葉と対話と伝承と]

 言葉(言語)が独り言から発生したのではなく、人間同志の対話行動から現出したことは疑い得ないが、その対話性の言語から自己認識が生まれて人間である自己が精神になり、他者認識も成立し、やがてその人間集団の共通言語が完成するのであるが、この言語が自然認識や歴史認識を可能にし、その目的は自己と自己の属する集団がこの地球上で存続するためであることもほぼ明瞭である.元来動物の神経細胞の働きは自己の生存を自動的に可能にするためのもので、言葉はその器官の最高に発達した段階であると言えるから、言葉を正しく誤りなく使うことで人間は自分たちの未来を切り開いている動物であると定義することができる.

 ここまで考えれば人間が自分たちの先輩の言葉(知恵〉を正確に聞き、これを理解し、その内容を今度は自分の言葉で次の世代に伝えるという必要が生起し、ここに知恵の伝承現象が始まるのである.先人の知恵を正しく伝承することに失敗した集団は健全に生存することが難しかろう.言語は人間の大脳組織の最高に発達した部分であるから人間はこれを駆使して存続してきたのである.

 言語が人間の対話行為からこの世界に出現したことは疑いないからその主要機能が〈対話〉にあることは明白であるが、これと同時に世代を越えて先輩たちが到達した知恵の結実を伝承する機能が備わっていて、この伝承機能はまた言語を洗練し、精度を高める役割を果している.伝承が途絶えた地域では言語は衰え、精度は減退し、その社会は弱体化する.現代では学校教育が盛んになった割に言語機能が衰えているのは何故か?現代の都市型文明の形成と学校教育の不健全な発達が真の、また高度の言語機能や能力の発達を阻害している.

 言語を発達史的に観察すると、中国語もギリシャ語もサンスクリットも特定の地域の文明史を背景に発達して最後に特別の才能(天才)の出現によって高度の思想的内容と共に完成するものと考えられる.その点でオリエントの文明史と言語の発達との関係は切り離し得ない.しかもこの場合完成された言語は話し言葉(パロール)であると同時に書き言葉(エクリテュール)として発達し、文字の使用によって時代を越えて長い年月を経た〈伝承〉として、また古い時代と新しい時との言語的、思想的対話を可能にしている.この歴史的事実を無視しては言語現象を正しく理解することはできまい.

2008/8/31

30[宗教信仰と言語的伝承と]

 宗教信仰を初詣に神社へ参拝して自分の御利益を願うものと思い込んでいるのは当人の自由であるけれど、これはあるいはいかにも〈日本的〉宗教現象であって、原始信仰とまでは言わなくても積極的高等宗教のレヴェルには達していない.仏教は仏・法・僧の三宝と言い、キリスト教は父(神)・子(イエス)・霊〈教会で働く神)の三位一体と称してそれぞれ自家の信仰を体系付けている.両者の信仰は「何ごとのおはしますかは知らねども忝なさに涙こぼるる(西行)」という見事に言い当てられた日本人の信心の本質とは質的隔たりを見せている.

 つまり高等宗教においては信仰が単なる主観的個人的信心ではなくて社会的歴史的伝承を伴った知的理解に達する客観的普遍的な宗教を互いに確認している.信仰はその出発点においてまた終着点においても個性的であることは明白であるが、独善的で神秘的でまったく主観的な信心に留まるならばそれは他者とは何の関係もない百人百態の信心現象に終始するであろう.つまり他人には関係のないどうでもよい自由勝手な信心の形態ということになる.

 高等宗教といえども個人的個性的宗教(信仰)経験(体験)の要素を除いてしまっては宗教は成り立たない.しかしその原点には教祖あるいは創始者の普遍性を十分に備えた個性的体験があって、これを基礎に〈伝承〉とも呼ぶべき信仰の伝播が生起し、これが時代を越えて正統の伝承を形成して新しい時代に単に神秘的で神聖な有難い経験というものではなく言葉で知解できる様式で伝えられ、各時代、各地域、各民族において受容される歴史的な信仰として確認されるのである.この要件を満たさぬ宗教はついに歴史上から姿を消すことになるであろう.

 ギリシャ哲学と中国の儒教はすでに脱宗教、非宗教家を達成しつつあったから前者はドイツ観念論に姿を変え、後者は封建主義の政治倫理と化して日本の武士道と合体したりしていたが、仏教とユダヤーキリスト―イスラム系の信仰は宗教として現在においても存続していて、この場合も仏教が大乗教において観念論化して力を弱め、宗教らしい宗教は超越一神教の形で正当性を保持して伝承を重んずる信仰様式を守っている.原始宗教は宗教ではあっても、もはや積極的な役割を果たすことはないであろう.

2008/9/3

31[日本の近代化と学校教育の正体]

 1853年と54年にペリーが黒船を率いて浦賀に入港して以来日本は主としてアメリカに強いられて開港を迫られ近代先進国の市場になることを強制されてきた.この結果として日本は外国の軍事力に脅かされて工業化、軍国(主義)化を余儀なくされ、この状態をA.J.トインビーはチャレンジ&リスポンス論で説明したが、現実の日本は〈富国強兵〉の国家形成を開始した.

 富国強兵は欧米諸国の利益追求力に対する日本の防衛組織形成を目的として彼らに対抗するために産業技術を育成し、強力な軍事組織を建設しなければ日本の国土と人民がフィリピンや東南アジア諸国のように、あるいはインドのように植民地化され奴隷化されるという危機感があったのも事実であの開国時点では他に考えられる方法はなかったに違いない.

 富国強兵の内実は優勝劣敗の競争主義奨励であり、その背後に〈産めよ、殖やせよ!〉の人口増加政策があったが、この先の必然性としての地球上の資源、特に食糧資源の限界枯渇が完全に無視されていた.

 日本の学校教育は上記の基礎構造の上に形成されていたのだから、それ相応の欠陥を内包していることは明白である.その上に悪いことにこの学校教育の精神、つまり本質的動機に人間の欲望拡大賞賛気質が確実に公に承認されてこれを絶えず活性化させるのが日本の国家政策である公立学校教育の基本方針であるなら、現在の中国の資本主義化、自由主義化の本心とまったく重なる.この性格の将来は暗いと言わざるを得ない.

 現代の世界はゲルマン―アングロ・サクソン主導の産業社会であるが、この先進国を模倣してある程度成果を収めた日本も、他の中進国や後進国も、そしてもちろん先進国においても、弱者や敗者に対する思い遣りや心遣いは見せかけのもので、その意味で経済利益偏重の倫理性の極めて低い社会・国家の体制が完成されてしまったようである.この点では上層も下層も同断でそれぞれの様式で自己中心主義を確立したものと見えて、学校教育がこれに抵抗し、善い人間性を涵養したようには思えない.殊に戦後の学校教育には露骨な出世エリート志向が顕著に露呈されていると言わざるを得ない.この現代の精神性はあるいは古代の精神的遺産や知恵を軽視して捨て去ったことに原因があるかも知れない.

2008/9/3

32[民主主義とは]

 私が11歳の時に日本が欧米連合国との戦争に敗れて、日本は民族主義的軍国主義を放棄させられ、民主主義国家に強制的に方向転換を余儀なくされた.民主主義を採用することが日本の将来の正しい歴史的方向であることは誰も疑わないのはそれが社会の合理的運営制度であるからで、人間が社会的動物であって、人間としての成熟が万人に共通・同質の条件である限り、すべての民族(人種)、国家、またそのすべての成員にとって民主主義は人類の政治制度の最終目標、終着点である.

 だがしかしこの民主主義諸制度は論理的合理的帰結ではあっても現実の世界では実は机上の空論に過ぎない.人間の歴史は現実には理想を追求し、合理性を最高度に発揮しようとしていても、実際には誤りに満ち、絶えず修正・改善され続けなければならない性格の生活であって、最善の理想的な社会(世界)は常に未来に存在するのである.  さてそこで日本の場合はどうであったろうか.古代、中世は今は措くとしても、徳川時代は封建社会であって民主主義社会とは異質の社会制度が行われていたから民主主義的思想に触れたのは幕末期以後である.

 世界史においては、古代ギリシャと古代イスラエル(士師時代)に専制王政政治ではない一種の貴族(部族長)制民主主義が行われていたと考えられる.いずれも小規模地域単位の代議員様式(構造)であった.近代においては専制君主制を倒すが、強力に制限を加える代議員議会制度の形で間接的に民意を反映する仕組みを採用していて、原則として直接民主制は行わない.この事実は全員が知性的能力において対等に各自の判断力を行使することができないという現実を基礎に成り立っている.

 歴史的に批評すれば理想的な民主主義者どこにも存在しない.つまりギリシャのユートピアなので、現実的には無限の〈修正主義〉こそが理想的なのではないか.

 日本の場合欧米のお手本を真似て未だ学習半ばに至らずという所であろう.欧米とても選挙法、議会運営法、官僚統制法、金融経済産業社会経営法、これらのすべてをグローバリゼーションのスケールで再検討しなければならないし、更にまったく新しい発想で出直さなければならないと思うべきである.08/9/6

2008/9/8

33[結婚とは―その1]

 (この項は教会員教育上早急の必要に迫られてノート全体の文脈を断ち切ることになることを承知の上で挿入されている.政治の項は再説されるであろう)
 〈結婚〉についての現代のキリスト教会における最も優れたテキスト・ブックはK.バルトの「教会教義学」V巻第4分冊中の127頁から366頁にあって、その全体は「交わりにおける自由」の〈男と女〉の章で〈結婚〉はその一部分である.次の章は〈親と子〉が主題になっている.

 この問題に適切に正しく答えるのは簡単なことではない.おそらく結婚経験者の大部分と未婚者を含めて、このテーマに対する健全で人間らしい、正しい解答を示し得る者はほとんどいないと考えるべきである.ましてやこのノート一頁で優れた善い提案が行われる可能性は極めて低いことを承知の上で緊急に書き記している.

 聖書は、あるいはその基礎の上に形成されたK.バルトの〈キリスト教倫理〉は、創造主である神は、人間を〈連帯的人間〉として作り、この人間を〈孤独の人〉としてではなく、〈他者と共存・共生する人間〉として、特にその他者を認め、受け入れることによって自己を認識し、自己の喜びは他者を助け、励ますことであり、自己を働かすことは他者を敬うことであるように人に呼びかけ、語りかけている、と言うのである.

 そしてその連帯的人間性の第一の典型的な領域における区別と関係は、〈男と女との間〉にあると言う(創世記2章参照).またこの男女関係の頂点は「結婚」であって、この区別は「創造の秩序」において決定されている.しかし結婚が男女関係のすべてではない.男と女の関係は〈親と子〉〈兄弟、姉妹〉〈教師と子弟〉〈先輩と後輩〉の他に多くの人間の様々の諸関係が想定され、現実に存在する.しかし〈結婚〉における男と女の〈出会い〉、〈選び〉、〈約束〉、〈永続性〉、〈死別〉など、またそこから派生する〈困難、病苦、貧困、苦難〉の諸経験は人間生活の〈高貴と尊厳、慈愛と協力、楽しみと喜び、苦しみと憐れみ、忍耐と真実〉のすべてが最高度の人間性の訓練と教育であることは疑いえない.中国人の友人の教会週報に「失敗的結婚」という語があったが、その鮮烈な印象が忘れられない.誰のことか、吾が事か、と一瞬ドキリとしたのはそのシナ語の直截な表現に感動したのである.―この項続く

2008/9/8

34[結婚とは 2―男と女の存在論]

 結婚の問題の基礎論として〈男と女〉の存在論と関係論が解明されなければなるまい.これを学問の専門分野に分ければ、生物学的分析と人間学的分析(含心理学)と社会学(含歴史論、政治学、経済学)的分析になろう.雌雄の問題を生物学の領域で論ずることになるとこれは人間論の比ではなく複雑怪奇で神秘的でさえあって小中学校の生物学の手に負えるものではない.これを人間学に限定すればかなりの問題は解けてくる.人間はK.バルトの言うように確かに男か女かに生まれてくる.中間(性)はない.この人間の構造論は現実に様々の問題が生起していても大原則として不変である.しかしこれを歴史社会学的に検討すると現在の父(男)系社会が人間の歴史全体において行われていた訳ではなくて、原始社会ではむしろ母(女)系社会であったと考える方が自然であろう.だがこれも自然であるのが正しい存在形態であると決定するのも性急である.人間が歴史(含自然史)のどの部分で人間らしい人間になったのか.また人間性の基準はいつ確立されたのか.またこの男性優位の存在様式はいつまで存続するのか.いずれも一度は検討する必要がある.これらを考慮した上で男女問題を処理すべきであろう.男の筋力が何故女より強いのか.女の生命力の方が何故男より柔軟性があって寿命が長いのか.子供の出産が何故女に限られるのか.生殖の秘密はどこにあるのか.いずれも基本的な問題で、現象分析はある程度可能でも最終的結論を得るのは困難であろう.

 にもかかわらず、この男と女の現実の対話と協力無しには人間は存続することができないのである.実にこの〈対話と協力〉が男女の生存様式であり、人間の存在条件なのである.

 人間だけに許されている〈言語〉の発生もこの〈男女間の対話〉が契機であったと考える生物学者もいるが、これが仮説の一種であったとしても〈神学的生物学〉として興味深いものがある.

 しかし誰もが結婚するわけではないし、誰にでも子供が与えられるわけでもない.結婚問題の中心事項としては〈出会い〉と〈選び〉が位置し、〈判断〉と〈決断〉がこれに続くことになるが、これはまた生易しい課題ではない.この認識判断を誤ることによってあの〈失敗的結婚〉が成立することになる.

2008/9/10

35[結婚とは 3―出会い]

 先項の結婚の与件である〈出会い、選択、判断、決断〉のすべての行為は当事者本人が自分自身の責任で行う事柄であって他人は親と雖も介入することはできず許されてもいず、介入しても意味をなさない行為である.動物が彼らの伴侶をどのように選ぶのかはまことに不思議な現象であるけれど、人間の場合は当事者以外には理解できなくて、結果としてよかったか失敗であったかが判断されるだけのことである.しかしその行為は実に人類全体にとって重大な価値があって、人間の道徳・倫理の基礎の基礎をなしている故にここである人間集団が根本的に失敗すれば、その集団はやがて滅びに至るであろうし、その腐敗が人類全体に及べば人類は絶滅するに違いない.

 このように考えれば男女の出会いと対話の関係は人間の道徳と倫理の根幹をなしていてその範囲は〈結婚〉自体の枠を越えているが、〈結婚〉がその一部でありながら〈中心〉を形成していることも不動の事実である.何故ならそれが〈創造の秩序〉であるからで、この中心的事実を巡って人間の社会的現象のすべてが生起し進行しているのである.他の事象はここから始まった周辺的現象である.

 にもかかわらず、その〈結婚〉に正しく向き合い、誤りなく判断し、決断することはこれもまた至難の業である.当事者以外に理解し、納得し、判断することができないから他人は自分の周囲に生起している個々のすべて結婚について評価することは意味をなさないが、ある時代、ある地域の傾向や方向はそれ相当に予測できそうである.現代つまり21世紀の神(創造者)の無い〈認めぬ)時代の将来性は暗いと言わなければならないが、各自が自分自身の判断と決断で、家族を守り、社会の方向を正しく指し示そうとする以外に為すべきことはない.要は一人一人の知恵と他者に対する思い遣りと互いの協力が実現するか否かに人間の将来はかかっているのである.結婚は各自の自分勝手な好みや選択の行為ではない.

2008/9/10

36[結婚とは 4―出会いと選択]

 この項は特に結婚前、つまり婚約の時期に当る内容である.結婚に限らず人生上の〈出会い〉のすべてが、不意の、ほとんど偶然の条件に支配されていることは明白で、男と女の種々の出会い、殊に結婚の場合、それが意図的に、計画的に、社会勢力操作的に経済的計算上実行されていてもその本質は人間の意図と計算を超えた領域で生起すると考えるべきであろう.その意味では出会いは結果から偶然と言うよりも必然に近くなる.だが現実には偶然も必然も無視されて大部分が社会的経済的要因で決定されている.民族や国家の存立も現代では人為的な力による支配が大きくなっている.

 以上の現実を知っての上で、一対の男と女の〈出会い〉の偶然性を一応排除して、人生の知恵による規準を考えてみると、双方から相手を認め受け入れ、承認する第一の要件は〈人生観〉であろう.この人生観は当人の民族(時には国家)、出生時の歴史的条件、家庭環境、両親の素質、性格、本人の教育環境などが背景としてその人間の人となりを決定しているが、そこから自分で選び取り、形成してきた自己自身の〈人生観〉が、他者との〈出会い〉の第一の決定的な規準になることは明白である.ことに結婚の場合にその判断が正確であっても不正確であっても自分と相手の〈人生観〉が意識的にも無意識的にも判定規準になっていることは事実であろう.

 この人生観の中には〈人間観〉、〈倫理観〉、〈生活観〉、〈家庭観〉、〈教養観〉のすべてが含まれていてその中心には本人の〈信念〉、あるいは〈生き方〉がなければならなくて、古くはこれをヨーロッパでは〈信仰〉、つまり宗教的信念と言ってきた.これを日本人の宗教間や信仰と直ちに同一視することは危険で、その内容(実)を正確に捉えた上でなければ同日に論ずるわけにはいかない.

 要は双方が相手を正しく理解し誤解せずに受け入れることであるのだが、これが至難の業である.

 (この続きは親と子、家庭教育の項になるが、後日のこととする.)

2008/9/11

37[教育の断面―発達心理学]

 結婚(男と女)問題をひと休みして、教育問題に言及してみたいと思う.日本人の大部分は教育とは〈学校教育〉のことと勘違いしているように見えるが、常識的に考えても家庭教育があって社会教育があり、宗教教育があって企業教育がある.更に細かく特殊教育の分野に分けられることも誰にでも知られていよう.

 しかしここでは主として人間教育の一分野として〈発達心理学〉に視点を据えて考えると、最初期は家庭教育に属している領域になろう.

 幼児教育は母親(養育者)が乳児に向き合うことから始まるわけで(胎教は今は措く)人間はここで生まれて初めて人間(人格)と向き合う.ここで母親はその子供にとって何か特別に決定的な役割を果していることになる.その母親が一動物としての存在であるのか、人間らしい一人の人間であるのかでそこで生起する教育現象の質が違ってくる.幼児は最初の養育者の絶えざる語りかけと配慮と必要な身体的世話を受けて、信頼と安心を経験し言葉の交換によって遅くとも2,3歳頃までには大脳細胞組織連絡が形成されて、人間らしい存在の基礎が完成する.この時期は人間にとって決定的に大事な時で、これに続く4,5歳から中学生前期までは基本的な生活習慣・躾教育、言語上の基礎訓練、自然観察、生活技術教育、基礎的な社会歴史教育が主として学校で行われることになるが、人間(格)教育としての倫理・道徳教育、他者への配慮・礼儀の教育は幼児教育に続いて各家庭で重点的に実行されなければなるまい.現代の日本ではこの部分も学校に委ねて、学校で出来るものと誤って考えたために青少年教育は大失敗に終ったのである.青年期後期は社会生活に備えての学問技術教育に移行するが、どうやら17,8歳を境に人間は少青年期から成人期に達することが経験上も確認されている.大脳神経細胞内部を直接観察することは直ちには出来ないとしても、言語能力の発達の結果と人間観、社会観の完成度からある程度の成長効果が確認できよう.この時期までに相応の学習効果が得られない場合、人間は成人に達する時期を逸したことになるようである.晩成の場合もあろうが、むしろそれは特殊の事例になろう.重大な問題を引き起こすのは17,8歳の頃である.

2008/9/12

38[言語教育―教育の一断面]

 教育に種々様々の局面があることは前項で触れたが、〈言語教育〉についてここで言及しておきたい.〈読み書き算盤〉が初等教育の必須事項であることは論を俟たないけれど、人間にとって〈言語教育が他の何物にも勝って決定的に必要不可欠な要件(エレメント)であることについて教育者たちが迂闊であるかも知れないからである.

 〈読・書・算〉の本質は実は〈言語教育〉の基礎階梯であることに誰が真剣に気付いていたであろうか.もし教育者の大多数がこの事実を知っていたら現在の日本の言語がかくも乱れているはずはない.現状には目に余るものがある.耳を覆いたくなるといったらよいであろうか.他国は知らず日本の言語教育は内外国語を問わず失敗に終っている.

 理想的なことを言えば教育者が完全に近い能力と知識を備えていなければならないが、現実には無理であろうから、文科省なり学校は単に語学教育分野に限定せずに教師全体の国語力の向上を常に考えていなければならないであろう.教師の言語能力は適当でよいというわけにはいかないと考えるべきである.  社会学的に言えば一民族、一国家の中で完全に近い言語力を保持する階層はどの時代でも限られているので、多くを望むことは出来ないが、教育の専門家たちが事実に無知でいるわけにはいくまい.その結果が彼の国の倫理的、政治的、経済的、技術的危機を招くからである.

 しかし自分の属する民族なり国家なりが言語先進国に比較して低いという現実があり得るし、もう少し穏やかに言ったとしてもその国が世界規模で考えて言語先進国の標準語(中央語)に対して一方言語と考えることも必要であるかも知れない.ここで断っておくが人間としてどの民族の人間であろうが根本的に他の民族よりも言語能力が劣っているということはあり得ないということで、つまり人間としての言語力のハードは万人に共通であるが、そのソフトの構造に歴史的差異が認められるということなのである.

 どの民族の人間も自己の言語能力の増強と洗練に力を尽くさねばならないのである.

2008/9/12

39[一般言語論]

 言語活動が人間の大脳神経細胞の最高の発達と発声器官の独特の性能によって人類全体に共通に可能になっていて、これはハードの器官組織がすべての人間にとって分け隔てのないことを意味しているから民族人種に何らの区別がないことを意味しているが、言語組織や構造に関しては民族や国語の間に発達の差異が認められるのは事実である.つまりソフトの発達段階には地域や歴史によって区別が生じていることを意味する.言語の発達はメソポタミヤに始まるとして、インド北部や中国、ギリシャで前5世紀には各言語とも最高度に発達して優れた思想家たちを同時代に上記の3地域に輩出したのは些か不思議である.サンスクリット、中国語、ギリシャ語の美事な成果には目を見張らせるものがある.

 言語学が世界の言語を屈折語、膠着語、孤立語、抱合語のように分類区別しているが大胆に全体的に言い切ってしまえば各言語に決定的な本質的な区別はないが、どの言語が最高度に発達しているかを問えば、その論理性、推理力、分析力、総合力という具合に比較してみると、やはりサンスクリット語、ギリシャ語(ラテン)中国語が圧倒的に優れていることを認めざるを得まい.しかしギリシャ語からその後継者のようにラテン語、ラテン語からフランス語と英語とドイツ語という具合に、また誤解を恐れずにいえば日本語は中国語の特殊な後継語、または親族語である可能性がある.文法的には両者がまったく別種の言語であったとしてもである.またこれも仮説の域を出ないが、上記の言語形態の発達段階がいずれが先でどれが後であるかを決定することは不可能で実はそれらは循環的に先後を反復している可能性も考えられる.問題は中学生が考えるほど単純ではない.

 日本語について特に述べれば、中国語の定義力を除いてしまうと日本語はほとんど情感語になってしまって論理や推理の力が低いと言わざるを得ない.また日本語を使った文学は客観的表現に弱い、私小説的な主観文学になる例がほとんどである.

2008/9/12

40[愛について―人間関係論]

 〈愛〉という語はその文字が漢字であるのを見ればシナ(中国)から日本に伝えられた概念であって、これに対応する古来の日本語は必ずしも漢語に等しいわけではない.更にヨーロッパ語の語法が浸入して以来その内容が更に複雑化したと考えねばなるまい.

 いずれにしてもこの〈愛〉という言葉は人間関係のすべてを被うかなりの広い概念内容を有している.人間関係を越えて人格関係概念と言った方が良さそうであるが、日本語の場合は〈かわいい〉や〈かわいがる〉が〈愛〉の語に相当する本質概念であったように思える.つまり男女間の情愛や親子間の心情を表現するのにもっとも相応しい語であったろう.近代の日本語には中国語の他にヨーロッパ語が入り込んで〈愛〉に関してはキリスト教系の概念が混入して問題が複雑でしかも曖昧になり、その上そのギリシャ語系の概念理解が不正確であったために旧来の日本語の語感の中に退化してしまった言語現象を観察することが出来る.日本では〈愛〉は主観的、情感的で〈情愛〉とでも言うべき内容を示している.

 この語はシナ語においても確実で豊かな内容を育んでいたように見えて、〈可愛がる〉〈可愛い〉とは別に〈大切にする、大事にする〉という深い意味を持っている.

 ヨーロッパ語ではヘブル語系の契約概念を含んだ「ヘセド」や自己犠牲概念を持った元来は親子関係を表す「アハバー」に由来して、ギリシャ語の「アガペー」が彼らの信仰上の〈愛〉を示す語として使われてきたのはよく知られているが、近代の日本人はこの種の宗教や信仰の事柄にはなかなか馴染まずに、若い男女間の恋愛感情の〈愛〉に執着して〈歌(詩)〉や文学においてこの語を乱用した嫌いがある.このように日本人は伝統的にも近代においても人間関係を深く豊かにする傾向から離れて自然の情感を重んずる従来の日本的な人間関係に留まってしまった感が否めない.この責任は日本の学校教育には負えないであろうからキリスト教会(界)の指導者たちが重く受け止めるべきであろう.

2008/9/13

41[宗教教育あるいは人間教育]

 他宗教についてはほとんど何も知ってはいないが、キリスト教に関して言えばこの主題には二局面あって少数派の宗教では〈伝道教育〉の側面と本来の〈人間教育〉に二分される.前者はかなり実際的、現実的要請の原点があり、後者は他宗教にも共通のすべての人間に普遍的な主題である.

 伝道教育から考えるとその中心的な課題は〈知的教育〉に傾くであろうが、人間教育の主要なテーマは一般的には〈情操教育〉と言われるかも知れないけれど、ことはさほどに単純ではなかろう.教育の両側面に当てられた用語とも近代のドイツ観念論が背景に見え隠れする.現代語を使えば〈全人教育〉ということになろうか.  視点を変えて、人間にとって最重要主題は〈個人の信念〉と考えられる機能(?)は一人の人間のどの時期に、どのように成り立つのかが問われてよいであろう.幼児期では無理と普通は考えられようから少年期後半か青年期初期ということになって、知的側面を強調する論者なら青年期前期を採るであろうが、情操面に目を向ける者は少年期を選ぶに違いない.

 どこまで統計的に実証されているかは別にして経験上の意見では中学生時代に信仰教育を確実に受けた者の信仰は生涯続く確率が高いと言われている.知的には未熟な年代であっても精神の形の土台がこの時代に築かれるというのである.

 私見を述べれば人間の心の安心と養育者や周囲の人々に対する信頼関係は幼児期に形成されてほとんど固定化され、これはその人間の生涯崩れることなく続くように思える.その基礎の上に知的な、言葉による人間理解と状況解釈が行われ、学問的また専門的な精度や正確さを加えた社会や歴史の理解が進んで、〈信念〉も洗練されたものになるに違いない.こう見ていくとやはりもっとも大切な時期は幼児期に完成していることになるから、〈家庭教育〉と幼稚園(保育園等)教育を更に細心の注意をもって行うべきである.教育学も今までにまして綿密に丁寧に洗練されなければならないであろう.現在の程度の教育学には限界がある.

2008/9/14

42[理想主義と現実主義―神の国と地の国]

 理想主義(イデアリスム)と現実主義(レアリスム)は古代末期にアウグスティヌスがその主著「神の国」(De Civitate Dei)で使用した有名な言葉の現代語的意訳である.アウグスティヌスの神の国はむしろ〈神の都〉と言うべきで、地の国も〈地上の国〉のことである.どうやらこの構造は人間の大脳の中に定着した基本的な性格を帯びていて、カントでさえもこの地上から天の星を見上げて同じようなことを言っている.プラトンはイデアリスムで、自然学系のアリストテレスはレアリスムなら、カント、ヘーゲルはイデアリスム(観念論)でマルクスや実存主義はレアリスムである.

 21世紀の人間はどうかと問えば些か後退した共産主義を含めて自由主義産業社会は〈現実主義〉である.目前の利益を貪欲に追求するのが理想であるが、これは理想主義とは義理にも呼べまい.その背後には後進地域のと地と人民を植民地化し、彼らの独立宣言後も間接植民地として温存し続け、これを金融資本主義の手法で呪縛しているのが現代の現実主義であって、どうやら彼らの理想主義でもあるらしい.こうして貧富の差はいよいよ拡大し、その手法の悪辣さからこの21世紀初頭にすでにあちこちで行き詰まっている.

 それならカントの言う天上の星の〈道徳律〉やアウグスティヌスの「神の国」の理想は人間の見果てぬ夢に過ぎなかったのか.現実の弱小の人間にとって〈理想〉とは他人より少しでも豊かに有利に生きていこうとして、子供に塾通いをさせて、有名校に入れ、エリート社員や官僚になり、裕福な企業家や高級官僚また政治家を目指して少しも他者のことは顧慮せず、ついには親子兄弟の間でも死闘を繰返すことなのであろうか.まことに目を覆うばかりである.この生き方は単純に生物学の法則にも反して地獄の世界さながらである.これをアウグスティヌスはこの世界、つまり「地の国」と考えたのではないか.

 イエスの〈幸福論〉はあの「山上の教え」に示されていたが、ここには理想と現実が逆転して美事な逆説(パラドックス)を構成しているように見えて実は理想と現実がこの地上で一体化しているとも見て取れる.

2008/9/14

43[道徳と倫理]

 道徳とか倫理はシナ語であるけれど、ヨーロッパ語(ギリシャ語系)の意味内容は生活習慣に発して醇風美俗に至る.Ethos→Ethics,Sitte―Sittlichkeit,moralなどの社会通念がやがて哲学的観念や理念として洗練される.ヒブル語ではトーラー(律法の原意)とホクマー(知恵)がこれに当たっていて、アングロ・サクソン(英語系)ではteaching,lesson,日本語では教え(教訓)、少し捻って譬えや諺であろう.日英語は素朴で、ヨーロッパ語群はギリシャ語哲学以来の思想の影響下にあることは明瞭である.

 いずれにしても道徳と呼ばれる観念が成立するにはいくらか長続きした安穏な時代の後のことで、野蛮な闘争に明け暮れていては少々無理であろう.むしろ人間の中に潜んでいたに違いない〈人間らしさ〉が特定の社会(共同体)において自覚されるようにならなければこの種の理念が定着することはなかろう.「衣食足りて礼節を知る」というのは単なる常識のように聞こえるが、事実を言い当てているに違いない.

 さてしかし更に詳しく考えて見ると、人間らしい暖かい穏やかな気風というものはある程度ゆったりした健全な状態で親(母)と子の間で醸成されるものではなかろうか.これ以外の更に優れた情景を創造するのは難しい.ただしこの環境が宇宙内の自然の偶然に過ぎないのか創造主の綿密な状況設定なのかを決定する方法はあるまい.この人間性の原点は人間学のみならず、宗教現象と宗教学の出発点でもある.

 〈慈愛や仁愛〉を説かない宗教はあるまい.マルクシズムは〈憎悪〉を彼の社会運動の原点に据えているが、これは〈愛〉を裏返した逆説であろう.〈愛〉にはこれを経験した者の満足感があり、〈憎しみ〉には愛を経験し損ねた者の不平感が充満している.

 その上で道徳や倫理には個人生活を越えた集団・社会の連帯感や互助精神や、更にそこから人間存続の厳格な法則までを予測する方向が感じ取れよう.

2008/9/16

44[常識―社会通念とは]

 常識という漢字から来る印象よりも〈社会通念〉の方がよくその意を伝えている.つまりその時代の社会に一般的に通用している共通の知識や流行の風潮または考え方のことである.しかしこの一般的通念は時代や歴史の節目で劇的に変化することがあって、最近の日本では明治維新と敗戦(太平洋戦争)時の経験が記憶に鮮やかであるが、21世紀初頭の現在時点ではもはや忘れられているようで、現時点が自由主義・産業・金融経済の変革期であるから、ここでもう一度新たに経験できそうである.

 ヨーロッパ史も考慮すると、19世紀から20世紀は自然科学万能時代で古代の宗教や哲学、また中世のキリスト教思想からも脱出して新時代の開始によって思潮全体が大きく変化した上に生産技術も進歩し、交通手段も発達したために世界の政治や経済の構造が大きく変化したために主として上流・知識層の思想に激変が生じ、一般大衆も少し遅れて動き出して社会通念が出来上がって、これが中進国から後進国にまで及ぶことになる.日本は欧米に遅れて絶えず追いつき追いかける習性が身に付いたようである.追い越した領域もないことはないが、常識や通念全体が先進文化を追いかける姿勢のままで追い抜くことはあり得ない.「美しい日本」と言ったところでその言葉に内実はない.

 しかしこの〈通念〉がこの21世紀初頭に激変期を迎えたものと考えられる.F.ベーコン(1561―1626)は4つのイドラ(幻想)を示して個人、民族、世俗、伝説などの人間が通常無批判に身に付ける誤信や固定観念の危うさを指摘しているが、現代でも未だ教訓として生きているようである.結婚・家庭・親子関係、教育・学校、就職、社会、更に死と生、自然、地球、宇宙などの21世紀的社会通念(常識)のすべてが今こそ疑わしいのであるけれど、一般大衆、庶民の感覚で、あるいは世俗社会の通念では解釈不能どころか事実認識も不確実、不正確、更に根本的な誤認識に至るのである.

2008/9/18

45[常識との闘い―自己認識の第一歩]

 F.ベーコンのイドラ(前項山椒)の破壊はいわば常識との闘いを意味していてパスカル(1623―62)の「パンセ」は少し遅れてフランス流の偶像破壊を行っている.後者が前者の社会学的方式とは異なって神学的思索を強力に深めたことは周知の事実である.いずれにしても世間が伝統と言い、歴史といい宗教と言い信仰と言うすべての通念をその根底から見直して批判し、それぞれの内実の正しい位置を決定しようとする思索活動であった.いつの時代においてもこの種の作業を果すのは転換期の優れた知識人たちで、いわゆる天才たちの仕事である.

 自己の属する特定の時代を根底から徹底的に批判するのはすべて言葉による作業に終始するのは当然のことである.それもきわめて緻密な言語操作によるほかない.旧約聖書の預言者たちもこの作業を完遂していて、その成果には目を見張らせるものがある.実は旧約聖書の本質また中心課題はイスラエルの王国批判あるいはイスラエルの過去の否定にあって、しかもこれがいかにして救出されるかという逆説的課題と背中合わせになっている.

 一般大衆の一員である者はこの場合どのように考えるのであろうか.もっとも暢気な者たちは常に大多数の人々の流行や意見に従って決して自分自身で考えたり判断したりはしないからこの場合は除外するが、いくらかでも自分で考えようとするものには迷いや不安がつき纏うであろう.この場合大事なことは自分の中に自分自身の確実な規準があるかどうかということであろう.ただしその規準が単なる民族的な、部族的な自己中心的な自己利益追求的な他者を顧みない主観的な、普遍性のない人間性の乏しいものであるとすれば現実には脆くて永続性のない不安定な規準に過ぎないものと言われよう.

 つまり世界の高等(積極的)宗教や主要な思想・哲学は一民族を越える普遍性を帯びるけれど、消極的(原始的)な信仰や人生観には個性はあっても世界に通じる共通性に欠けるために独言的独善的性格に留まり他者を助けることが出来ないことになる.言語の発達から推論しても、ギリシャ(ラテン)やインド(サンスクリット)や中国に比較すると後進民族の言語は普遍性に欠けていることは否めなくて、概念規定力や論理的能力に未発達な部分が残っているために、更に時間をかけて先進諸国語の諸機能を積極的に取り入れながら洗練されなければなるまい.

2008/9/19

46[言葉について―再説の再説]

 またしても言葉について述べれば、日本語とかビルマ語とかが、その民族固有の他の民族や地域からまったく区別された特有の発達を遂げた言語であるという一般的常識あるいは通念はまったくの浅薄で愚かな誤った理解である.いずれの言語も隣接する民族や国の言語と交渉がなかったはずはなく無関係ということはあり得ない.日本は島国であるけれど、すでに古代において南方語、北方語、西方語という具合に中国大陸や南方諸島の諸言語が幾度も繰返し浸入して来て奈良時代に朝鮮語系の膠着語文法で組織されたようなのである.そしてその後で日本語の名詞に決定的な影響を与えた言語はシナ語と漢字で、この経緯はよく知られている.文法が膠着語(トルコ語、蒙古語)に類似していて、日常単語が南方系(含大陸系)で、高級名詞概念が中国語という不思議な言葉ということになるが、考えてみればヨーロッパ語でもラテン語を除いたらフランス語も英語もドイツ語も成り立たなくなるから同じことである.

 そこで純粋で混じりけのない日本語等というものは存在し得なくて、現実には他の優れた言語から学ぶことなしに一民族、一国家の言語は機能的に優れた立派な言語にはなり得ないのである.現代の日本語は英語とアメリカ語の他にフランス語やドイツ語からも多くを取り入れていて、よく気をつけて観察すると日本語文法でさえもいくらかの誤った影響を受け始めている.これはとにかく良いとか悪いとか言っている場合ではなさそうで、後日優秀な日本語の教育者なり指導者たちが形を整え直して優れたよい日本語文法を作成しなければならないであろう.

 とにかく文化は高い方から低い方へ、優れた方から劣った方へ傾いて流れているという鉄則が崩れることはない.言語の場合はその最も最適で典型的な実例であろう.

 現代の日本語はことに最近の50年間の現実の姿は日本語の歴史においても最悪の時期を経験していると言えよう.次の時代の期待すること切なるものがある.

2008/9/22

47[宗教―内在神信仰と超越神信仰]

47 宗教―内在神信仰と超越神信仰?  宗教信仰を宗教史の発達過程で分けて先進(高等)信仰と後進(消極的、原始)信仰と分類するのは進化論的思惟の性癖であって、これを内在神信仰と超越神信仰に分けるのは宗教の質的分類とでも言うべきであろうか.創造神が宇宙の外に存在するのはこの天地宇宙を創造する者として論理的に当然であって、内在神が星や地球の内部に潜んでいるという考え方はむしろ経験主義的な考え方で、そのいずれが正しいかと問われても判定の決め手はないと言うべきである.創造神信仰は旧新約聖書に鮮やかに語られているけれど内在神信仰は原始信仰から仏教に至るまでの諸宗教の中にあって数に限りがない.前者がユダヤ―キリスト―イスラム教の系列に見事に語り伝えられ文書としても同時に記録されているが、これは超越神と内在神とを問わず、その存在の確証が得られていないこと、またその実証も無理であることは明白で狂信者や熱心過ぎる信仰者を除けば理性的に他者、ことに不信者に対して語り伝えることは出来ないであろう.

 そこでいずれが真(理)かと問われれば、その解答は歴史的経験的に語る他はあるまい.キリスト教はイスラエル―ユダヤ―キリスト教的伝承において自らの経験を示し、仏教はシャカとその弟子たちの教えや解釈を語るであろう.

 21世紀の現代では自然科学的実証主義的思惟が圧倒的にこの世界を指導していてこの法則に従わない思惟や判断は迷信として退けられるのが一般であるから、先進文化圏においては宗教信仰はますますその存在領域を狭めていて、公教育や一般文化の中ではもはやその居場所を失った感がある.しかしその一方で迷信や誤信(仰)は後進的未開発領域で依然として病的な様式で蔓延っているのは、この点では古代も現代もあまり変化はないのかも知れない.これはむしろ民衆の知能の発達の程度に比例して生起している現象であるかも知れない.日本の場合文化・知能の発達指数は全体として決して高くはなくて、最近低下しているものと考えられる.

2008/9/23

48[戦争とは何か]

 現代では戦争は国家間の争いであるから部族間の〈戒め〉である〈モーセの十戒〉の「汝殺すなかれ」からはいくらかの距離があるけれど、その中心課題は時代が変わっても同質と考えるべきであろう.

 闘争には大別すると2種あって、一つは食物獲得の闘争で、他は覇権闘争である.人間以外の高等動物にも同質の闘争が見られるが、よく観察するとそれなりの法則が支配しているようである.戦争の場合もこの2本の柱を軸に推移しているものと考えられる.

 実は実際の戦闘の前に経済戦争と貿易戦争が起こっているのが近代から現代にかけて顕著に見られて、これに加えて各国の支配者たちの覇権意識が民主制の選挙闘争と絡んで見え隠れしている.しかしこの二本柱のうちの食糧争奪戦は国際間の組織で上手に交渉を繰返すことによって解決できないことはないが、覇権闘争の方は最近のアメリカの例に見るように場合によっては始末に悪いことになる.これは人間の罪性の中でも自らを神、つまり絶対者に見立てていることになる最悪の事態である.

 旧約聖書では人間が神のようになろうとする欲求を原罪の原点においていてギリシャ語でヒュブリスと言っているが、歴史上の政治的支配者たちが再三反復して犯した尊大で傲慢な数々の行為とその精神は21世紀の現代でも少しも変わってはいなくて依然として国際戦争の第一の原因である.しかもそれらの行為の背後には大国の大量破壊兵器が準備されていることを思えばその人間の卑怯卑劣な本性には目に余るものがある.強力な軍事力をもって外交を行い国際競争に勝とうとするその心根の惨さはその出発点ですでに極まっていると言うほかあるまい.

 とにかく軍事力で相手を殺戮破壊して自己の支配を拡張しようとする現代の大国の浅ましさをパックス・アメリカーナ(アメリカ的平和)と言って自己の正義性を主張するのはやがてはパックス・ロマーナと同じ運命を辿ることになる以外の道筋はあるまい.

 こうしてみると人類は人間相互間の争いを未だ巧みに解決する方法を見出してはいないし、人類存続の確証も保証も入手していないと考えるべきであろう.まだまだ成熟には程遠いというのが現実の正直な感想になるであろう.十戒の「殺すなかれ」はグローバル化するべきである.

2008/9/24

49[礼儀作法―人間関係論として]

 孟子の「仁義礼智信」から説き起こさなくても、礼儀作法が人間生活、あるいは人生においてある種の重要な位置を占めていることは明らかであろう.しかしその多くは社会の秩序を守るために利用された作法のことで現代では直接利益に結びついた場合にだけ意識され用いられているらしい.それにしても現代人の代表を気取る若者、青少年の礼儀知らずには目に余るものがある.確かに若年層が礼儀作法を身に付けるには時間を要するけれど、誰かが教えなければ子供は何も知り得ないのだから、教える者自身が礼儀知らずであればそこでは何も起こることはない.

 この状態は敗戦後顕著になり最近またひどくなったように思えるが、これは社会自身がすでに崩壊してしまっていることを意味しているのではあるまいか.戦前の日本社会は徳川時代以来の封建主義の名残の慣習と欧米思想の生齧りの知識と戦後のアメリカ式平民思想の誤用によって構成されていて、結局のこの主軸を持たない現代日本社会は道徳の土台や規準を持たないために〈神国日本の美しい国〉に憧れたり、ヨーロッパの個人主義を決して理解することができずに個性の確立することのない弱体化した精神を育成したものと考えられる.

 道徳や礼儀作法というものは本来親から子へ、教師から子弟へ確固とした価値観を伴って伝承される性格の社会慣習であって敗戦後の日本はこの視点から分析して最悪の事態であったことは明白である.つまり崩壊した敗戦後の「神国日本」には日本民族の〈人間性の規準〉が消え去ってアメリカ化が主流になった結果、人間関係の基本構造が失われてしまったのである.よい手本と勘違いしたアメリカの人間的規準は崩れつつあったとは言えキリスト教的人間観であったのだが、日本人はこの〈キリスト教〉を決して理解することも信ずることもできなかったというべきであろう.

 一方キリスト教自身も20世紀以後の現代では大きく力を落として、自然科学主義と産業金融自由主義が野合した近(現)代世俗主義が世界倫理の主流を占めている現状は次の時代の健全で明るい〈人間観〉を形成確立するのに数十年以上の年月を必要とするであろうから、しばらくはよい人間関係が成立する条件が整う時期を待たねばなるまい.それでは〈よい人間関係とは?〉が次のテーマである.

2008/9/25

50[人間関係について]

 人間社会の構造は〈集団社会〉にせよ〈個性的人間のグループ〉にせよその主軸は〈人間関係〉であるから、人間関係の性格を分析することでその社会の構造(構成様式)が決定される.

 原始社会であるなら最初の人間関係は〈夫婦〉と〈親子〉で更に〈兄弟姉妹〉がこれに続くことになろう.夫婦と親子は他の動物にも共通する部分であるが、人間の場合はこの人間関係の質が人間性の規準になると言えよう.まず〈夫婦〉が個性的人間の組み合わせではなく単なる男と女の没個性的関係であればそれは原始的とも野蛮とも動物的関係とも説明されるに違いない.この場合は親子も兄弟もその他の親族との人間関係も文明的と言うよりは野蛮で原始的な性格に留まるであろうし、その集団社会の性格も没個性的でむしろ蜂や蟻の世界の方が機械的で理想的と観察されるかも知れない.

 しかし人間は機械的で没個性的な〈集団社会〉に留まろうとはせずに〈個性的人間のグループ社会〉の方向を目指して歴史の舵取りをしたものと考えてよい.野蛮から文明へは没個性的人間から個性的人間への変化であるとも言えよう.

 さてしかしこの個性的人間は言葉によって形成されるのである.言葉は親(養育者)から子へ伝えられ、更に複合的に教師から子弟へ、先輩から後輩へと伝承され、よい言葉、健全な言葉、力強い言葉、人間性豊かな言葉の伝承の歴史の中で生きることが人間としての最高の幸福であろうが、その一方で貧弱な言葉、不健全な言葉、非人間的な卑しい言葉というのがあってその中で生きることは不幸の極みである.

 よい人間関係とはよい言葉の関係である.更に知的に正確で確固とした言葉の訓練が必要であるが現代の日本では家庭でも学校でも優れた言語教育という教育活動が認められていないし、ひょっとすると気付かれてもいないのかも知れない.他方で小学生から英語を教えようという妙なことを考えてるようであるが、まずよい教師を得るのがきわめて困難であるばかりか絶望的であろう.英語教育が悪いというのではない.およそ言語自体が分らずに言語教育を行うのは無理な相談であろう.

2008/9/25

TOP