キリスト教用語解

1[信仰・希望]

[信仰、 正しくは信頼]

アブラハムは主(ヤーウェ)を信頼し(続け)た.
主はこれを彼(アブラハム)の義(真実の証)と認めた.(創世記15:6)

 〈信仰〉という旧約聖書の言葉[キリスト教用語]は〈信頼〉と訳出するのが正しくて、日本のキリスト教 会が不注意に使用する〈信仰概念〉には誤解と曲解が付き纏っています.旧約聖書では信仰が名詞形では2回(イザヤ26:2、ハバクク2:4)だけで、他の 40回ほどは〈信ずる〉、つまり〈信頼する〉という動詞形で使われています.日本語の聖書とキリスト教の言葉は中国語や漢文を介して形成されましたからど うしても不正確に定義されたり使用されることが避けられなかったのです.あまり重要でない語の場合はともかく、主要な定義語が誤って使用され続けることは キリスト信徒にとって極めて危険な事態を惹き起こすことになります.

 上の〈アブラハムの信頼〉の文章もその直前に「おまえの子孫はあの〈星〉のようになるだろう」とい う言葉があって、アブラハムはヤーウェの〈この約束〉に信頼したのは明らかです.そこで信仰ではなく〈信頼〉は〈神の約束(の言葉)に信頼する〉ことにな ります.この〈信頼〉というヘブル語はキリスト教徒に採って新約聖書でお馴染みの〈アーメン〉という語で名詞では〈エムーナー〉と発音されます.原義は 〈堅い、確実な、誠実な〉という意味合いの言葉で、〈確実で動くことのない事実に信頼する〉ことを言い表しています.

 そうなると日本人のいわゆる〈信仰〉とは明確に異質の心(精神)の動きと言うべきでしょう.日本人 の信仰は不確実な、想像や願望の実現を〈信じ込む〉というニュアンスを持っているようです.ローマ書のパウロの「神の義は(イエスの)福音の中に啓示さ れ、信仰に始まり信仰に至らせる」(1:17)もこの意味で理解されるべきでしょう.何か不確か で曖昧な希望や願望を仰ぎ望むのではなくて、イエス・キリストという〈神の言葉〉に堅く信頼し続ける人生がキリスト信徒の生活であるはずで、空しい、自分 の安っぽくて軽薄な願望に身を委ねることは〈滅び〉を意味していることになります.確実な神の〈約束〉は〈生命〉と同義になります.〈希望〉も日本式〈願 望〉ではなく〈約束〉に信頼し続けることで、ここに〈メシヤ待望〉の真意があります.

2004/11

2[愛]

なんぢ、心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くしてなんぢの神を愛せよ.(申命記6:5)

かくて信仰と希望と愛は限りなく続くが、そのうちでもっとも大いなるは愛なり.
(?コリント 13:13)

 〈愛〉という語は〈イエスの教えの中核〉と考えられて西欧でも日本でも聖書の中の最も有名な言葉として 注目されてきましたが、どうやら日本で一番誤解された用語中の最たるものと言えそうです.〈愛〉は漢語を使って日本語の〈かわいがる、慈しむ、好きこの む〉等の意味を盛り込んだ語で細かくはかなり多義的ですが、現代日本語では〈好きこのむ、かわいがる〉の意味で多用されて、聖書の〈愛〉の真意から遠い距 離で使用されています.

 旧約聖書ではアハバーとヘセドというヘブル語が、新約聖書ではアガペーとフィリアというギリシャ語 が使われていて、上(神や父)から下へと対等、また社会的関係で使い分けられています.留意すべきは〈神から人へ〉と〈人から神へ〉、また〈人対人〉の関 係がどのように表現され、その内実がいかに捉えられているかということです.新約聖書の場合人間的愛情表現のエロースが避けられていることには特に注目に 値するでしょう.現代日本人の使う〈愛〉はその大部分が人間的愛情もしくは心情の場合ですから、聖書の真意からは遠いと考えるべきでしょう.

 そこで聖書の言葉として〈愛〉を考えてみると、その意味は日本語で〈大切にする、慈しむ〉に近く、上下関係でも対等関係でも意訳を続けると、〈尊敬する、大事にする、(相手の)価値と尊厳を認める〉となるでしょう.

 イエスには「なんぢの敵を愛し、迫害する者のために祈れ」という有名な言葉があって、これがレビ記の 「己のごとく汝の隣を愛すべし」(19:18)の文脈で語られているのですが、これも「自分を愛するほどに」と読むのは誤りで、旧約聖書には〈自己愛〉の 概念はありませんから〈自分に対するように〉か〈(その人のために)隣人を愛せよ〉となるでしょう.旧約聖書では愛は感情の度合の問題ではないからです. これに比べて日本人の愛は自己愛に過ぎなくて、〈限りなく自分に優しい心〉のことらしいのです.この点を読み誤ってはなりません.

 聖書の愛は〈どこまでもその人のために、その人自身を大切にせよ〉ということになるようです.これが可能か不可能かはもう一つ別の問題です.

2004/12

3[希望(と約束)]

主(ヤーウェ)を待ち望め.なが心を堅く、かつ雄々しくせよ.
必ずやヤーウェを待ち望め. (詩篇27:14)

 〈希望〉という言葉は青少年に適わしい語で、日本では〈願望〉の意味に用いられて〈初詣〉の精神状態を表現しています.

 しかし聖書の場合は詩篇や預言書において 多くの場合「ヤーウェを待ち望む」という形で使用され、神殿や富や偶像や人間に対して期待したり、希望を懐いたりすることは明確に否定されています.この 事実は新約聖書においても基本的な姿勢は変わることなく主なる神の業である〈復活の生命〉に対する〈望み〉として語られています(?ペテロ1:3、ロマ 6:3,8:24、ヘブル11:1等).

 こうなると、私たち日本人の宗教性も人生観も自分なりに考え直す必要が生じていることになります.私たちの希望が〈強くなること、豊かになること、立派になること、見栄えがすること〉であるとするなら、聖書はそれらすべての希望を〈空しい〉と言って斥けるでしょう.

 これは世界や生命や死、人間関係や人生観 や社会観の基本的な構造認識の違いに原因があるからなのです.人間が地球上に自然発生的に存在を開始して、弱肉強食、優勝劣敗で繁栄して来たのならそれで もよいでしょうが、創造主の人間には知られていない目的によって人間の生命が創造され、その目的に従って生きるように指示され導かれているとするなら、人 間にとって必要なことは〈その指示や指令や教導を注意深く訊ね、聞き、見出して力一杯その生命を生きる〉ことであるはずです.自分勝手に自己の希望や願 望、つまり実は欲望に過ぎない思いを自己中心的に生き続けることとはかなり遠く隔たった精神構造に由来する機能と現象です.

 創造主が万物と共に人間を作り、これ に生命の力と創造主の指令を聞く能力を与えたと考えると、原初から人間の生命は保証され、生きるのに必要なすべての条件と指示が与えられ、これが約束され たことになります.この故に人間はこの〈約束に信頼して生きる〉のですから「アブラハムは神の約束を信じて生きた」ので、これが〈アブラハムの希望〉だっ た訳で、この希望に従ってイサクが誕生したのです.

 基本的に〈創造主の約束を信じ続けることが〉人間の〈希望〉と考えるべきでしょう.それが空しい願望や欲望から解放された人間の生ける〈望み〉であると言えます.

 聖書における〈希望〉とは〈約束に対する信頼〉のことであって、〈信仰〉と同義です.

2005/1

4[義(神の義、また救い)]

彼らはそこでヤーウェの義(救い)を誉め讃え、
イスラエルの農民の救いを歌うべし.      (士師5:11)

公道を水の流れのごとく、正義をつきざる川のごとく流れさせよ.(アモス5:24)

 士師記の〈デボラの歌〉は旧約聖書中最古の詩ですが、ここでの神の〈義〉は現実のヤーウェの戦における〈勝利〉を意味しています.預言者アモスの 時代になると神の義は〈社会的正義〉の主張の文脈で語られています.士師時代には意識されなかった経済的階級間の格差として問題化していることが分かりま す.貧しい者や弱い者たちに対する配慮は時代を下るに従って益々社会問題として浮上し、エレミヤやさらに第二イザヤに至ると宗教的主題にまで発展します. しかしそのようなプロセスが進行する間も本来の神の義(正しさ、真っ直ぐな、公平な、真実な)が曲げられてはならないことが強く意識され続けていて、「人 々の間を裁く時、正しい者を正しいとし、悪い者を悪いとしなければならない」(申命記25:1)が原則で、この精神は裁判における正義「訴訟において、多 数に従って偏り、正義を曲げるような証言をしてはならない」(出エジプト23:2)、「貧しい者の訴訟において裁判を曲げてはならない」(出エジプト 23:6)、と言っているのは人間の現状いかんにかかわらず神の正義が人間的理由で曲げられてはならないと言っているのは興味深いことです.そうでなけれ ば〈神の義〉は人間の義の反映に過ぎなくなります.

 創造主であるヤーウェ(神)は宇宙開闢以来、彼の義によって人間の世界を支配、統治してきた、というのが旧約聖書の信仰であるなら、この原則はこの世界の終末まで貫かれなければならないでしょう.

 このイスラエルの義の原則を承認した上で神の勝利であった神の義は第二イザヤでは〈救い〉や〈恵み〉と同義になり(イザヤ51:5,54: 17)、詩篇においても同様です(詩篇51,31等).さらにユダヤ教においては義は〈施し〉や〈仁愛〉としての意味を持つに至ります.

 新約聖書ではパウロが神の義と救いを同義に捉え、〈イエスを信ずる信仰による義〉が〈救い〉であることを宣言することはキリスト信徒にとっては周知の事実です(ロマ書、ガラテア書など).

 問題は現代人である私たちがこの〈神の義〉が現代世界においても貫かれていて、世界の終わりまでこの事実に頼んで信頼し、希望を持ち続けることができるかどうかということです.                   

2005/2

5[贖いと犠牲]

人もし罪を犯さば我らのために父の前に助け主あり.即ち義なるイエス・キリ ストなり.彼は我らの罪のために宥めの供物たり.ただ我らのためのみなら ず、また全世界のためなり. (ヨハネ? 2:1,2)

 ヨハネの第1の手紙はイエス・キリストに よる〈贖罪〉の意義を当時の言葉と宗教的概念で簡潔に記していますが、その意味内容は現代人に直ちに通じるようなものではありません.キリスト信徒にとっ ては聖餐式の式文で反復朗読されている文章としてよく知られていてもやはり解説が必要でしょう.

 〈宥め〉は〈贖い〉と訳されてもよくて、元来旧約聖書の祭儀用語(レビ記4,5章)に由来し、さらに古くは〈元の所有者のために買い戻す〉という具合に使われ(レビ27: 19〜)、さらには奴隷状態からの〈解放〉、また〈救い〉(ヨブ記、第二イザヤ等)を意味するようになります.

 しかし、いずれにしても古代語であって現代語ではありません.何故にイエスが全世界の人間のための贖い金、つまり買い戻し費用になったのか、という意味はこのままでは理解するのが困難です.

 どこに問題があるかといえば聖書の他の言 葉にも共通することで〈義〉や〈聖〉、〈罪〉や〈救い〉や〈愛〉がすべて、それ自体で単独に自己完結的に意味を持つのではなくて、必ず一が他との〈関係〉 において意味と機能を示すという事実に由来しています.これを〈存在(本質)概念〉ではない〈関係概念〉と規定することができます.〈宥めの供え物〉は 〈供物〉が完全であってもそれ自体として魔術的(呪術的)効果を発揮することはないし、できもしないと考えるべきでしょう.

 そうなればイエスご自身には魔術的能 力は備わっていないと考えなければならなくなります.ナザレのイエスが私たちの〈救い主〉であるのは、私たち人間がイエスから発信されている〈言葉と行 為〉の意味を正しく知解することがなければ、人間の世界に何も生起しないことになるでしょう.そして、そこで明らかに示されることは、〈創造主(父)〉で ある神が宇宙万物と人間を創造しこれに生命を与え、イエスにおいて人間の生きる道を教え、人間の世界で生起するすべての問題の解決の方向を指し示している ということで、その歴史的時点が〈イエスの十字架〉であったというのが新約聖書の信仰というのが新約聖書の信仰です.    

2005/3

6[罪の概念]

 時はすでに昼の12時頃であったが、太陽は光を失い、全 地は暗くなって3時に及んだ.そして聖所の幕がまん中から裂けた.その時イエスは声高く叫ばれた「父よ、わたしの霊を御手に委ねます」.こう言ってついに 息を引き取られた.百卒長はこの出来事を見て、神をあがめ、「ほんとうにこの人は正しい人であった」と言った. (ルカによる福音書23:44―47)

 〈罪〉に対するヘブル語もギリシャ語も その単語からだけでは聖書の罪の概念を十分に説明していません.原義は〈的をはずす、失敗する〉ですけれど、聖書の罪とは単に個人の〈失敗や過誤〉を意味 しているのではないし、人間の〈汚れや悪い性質〉を指しているのでもありません.人間は自分自身の不完全性の故に失敗したり、汚れてしまったりするのでは なくて、創造主を無視して世界(宇宙)において人間が主人公であると思い上がった結果であると創世記の失楽園は語っています.これをラテン語で hubris ヒュブリスと言いますが、傲岸で強暴な精神状態を表現しています.創造主が人間に与えた〈自由と尊厳〉を人間が自発的に悪用したことになるのですが、何故 にか、どのような理由によるのかは説明されてはいません.誘惑に負けた形で説明されてはいますけれど、これも人間の心の深奥部で何が起こったかを完全に説 明してはいません.

 新約聖書によると人間はイエスの生涯 と彼を十字架にかける人間の行いを見ていて、イエスの〈正しさ〉と人間の〈暴虐〉を認めざるを得ないと主張しています.人間は自分の心を自分で分析してい るだけでは自分の本心も自分の実状も知ることはできなくて、イエスの姿を自分の目の前に見ることによって初めて自己の本質や本心を認識すると聖書は言って いると考えられます.

 創造主(父なる神)とイエス(子なる 神)と自分自身を知ることが同時に生起する、というのがキリスト教人間学の公理です.自分を知るには他者を知ることが必須の条件であるのが一般人間学の公 理であるのと同断です.自分の内心の独り言から脱出するには他者を知り、他者の言葉に耳を傾けることから始めなければなりません.そこで初めて自分に関す る正しい認識に到達することができます.キリスト教における人間の救済の核心はここに尽きます.         

2005/ 受難週


7[復活の信仰]

わたしがもっとも大事なこととしてあなたがたに伝えたのはわたし自身も受けたことであった.即ちキリストが聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪 のために死んだこと、そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと、ケパに現れ、次に12人に現れたことである. ( 第1コリント書15:3―5)

 これはイエスの復活についてのパウロの言葉で、文書としては新約聖書の中でもっとも早い年代の記述です.パウロ自身がイエスの復活の〈生き証人〉ではないことはこれに続く彼の言葉と矛盾することになるが、やはりパウロは二次的証人と言わねばならないでしょう.

 ところで、〈復活の信仰〉とは一般的な復活現象の信仰のことではなくて、〈イエスの復活の証人達の言葉に信頼する〉ことを意味していると考えるべきでしょう.

 更にこの信仰を現代式の解釈学の言表に言い直してみると、新約聖書から使徒信条までの信仰(告白)の表現は〈復活〉を孤立した現象ではなくて、イ エスの誕生から昇天までの諸事件を歴史的、時間的、必然的連関として記述しているように考えられます.そしてこの文脈でもっとも関連が密接なものは〈昇 天〉です.旧約、あるいはイスラエルの思想で主軸になるのは昇天であって復活ではないのです.復活思想はむしろギリシャ思想に馴染む性格を持っています.

 そこでこの信仰を現代語で定義してみると、原点は〈ナザレのイエスの言行〉で、〈十字架〉の秘義から〈この人は正しい人であった〉(ルカ)、〈こ の人は神の子であった〉(マルコ)、〈イエスは神である〉(ヨハネ、パウロ)という新約聖書の〈イエス観〉を天と地との当時の世界観において全人類的に表 白しようとしているのではないでしょうか.〈再臨と審判〉の思想は古代の終末論的言表です.

 最終的にはナザレのイエスを見て、イエスを知ることによって〈人間の尊厳と価値〉と同時に〈人間の罪(人格関係破壊)〉を知らされ、〈破滅と救 済〉が逆説的に成立している秘義が啓示されています.この認識は存在論的でも実体論的でもなく人格関係論〉的に生起すると言えるようです.     

2005/4

8[聖霊と教会]

聖霊によらなければ誰も「イエスは主である」と言うことができない.  (?コリント12:3)

人間の思いはそのうちにある人間の霊以外に誰が知っていようか.
それと同じように神の思いも神の霊以外には知るものはいない.   (?コリント2:11)

 五旬節(ペンテコステ、50日祭)に聖霊の嵐によってキリスト教会が誕生した、というのは使徒行伝が報告するところです(2章).その語るところ は、キリスト教会が人間の願望や熱心や計画によって建設されたのではないということで、古代イスラエル史の終りに、イエスの生涯の結果として、創造主の人 間に対する〈救いと審き〉が告知され、人間がその主旨を知解することによって教会が誕生したのです.これを歴史的事実として使徒行伝の記者は語っているよ うです.ここで人間の願望や計画が完全に排除されていることと、しかもなおこの〈救いと審き〉の事実を人間が知解しているということが聞き逃すことのでき ない最重要事なのです.私たちの信仰が単に人間的な精神の高揚や熱心の現われと理解されるなら、それは聖書を誤解していることになります.五旬節に使徒た ちが理解したことは、イスラエルの歴史において創造主が預言者たちを通して示し語り知らせたことはこの神がそこで歴史的な行為としてイスラエルの〈救済と 審判〉を啓示したということで、使徒たちはこの啓示の内実を〈イエス・キリストの言葉と行為〉において知解したということになります.

 現代の教会が確認し、知解する内実も これと全く同じものですが、私たちは現代人として近代から現代にかけての思想史や哲学史の全てを検討した上でもう一度イスラエルとイエスの歴史から人間の 本質と限界、尊厳と罪性、そして救済と審判を、更に現代人として人間の未来と希望の源泉を学び取ることになります.現代史における現実の人間の姿がどれほ ど愚かで悲惨で絶望的に見えてもイエス・キリストの中に人間の尊厳と希望と生命を見て喜んでいるのがキリスト教会であると言えましょう.

 (ペンテコステに関する旧約聖書の参照記事は出エジプト記19章でその描写は「ラッパが鳴り響き、民は震え、シナイ山は全山煙り、主は火の中にあって、その上に下られた」とあります.16節以下.ペンテコステ(五旬節)の関連聖句は旧約聖書は出エジプト記 19章、新約聖書は使徒行伝2章です.いずれも〈契約締結〉が主題になっています.)

2005/5

9[信仰と知識]

主を恐れることは知識のはじめである.    (箴言1:7,9:10)

私の知るところは今は一部分に過ぎない.しかしその時には私が完全に知られているように、完全に知るであろう.         (?コリント13:12)

 〈信仰〉は実は〈信頼〉の方が訳語として 適切であることは昨年11月の「ことば」で述べましたが、この聖書の〈信仰〉は神秘的な神・人合一経験ではないことは旧約聖書が明示しているところで、こ れがギリシャ的な形式論理による外形的、質量的知識ではない、イスラエル的対人(格)論理性の〈知識〉であることを知っておくことはキリスト信徒にとっ て、生命的最重要事です.

 〈聖霊信仰〉も〈神秘主義〉ではなく て、日本のキリスト教徒がよく誤解する〈信じ込み信仰〉や〈思い込み信仰〉とも異質です.総じて、自然主義や主観主義的になりやすい信仰の心理現象を警戒 しなければなりません.その為には〈知識〉の基礎的理解を避けることはできません.

 この信仰の知識は自然認識や物的対象認識ではなくて、対人(格)的、対話性の言葉による認識であるところにその特性があります.カンタベリーのアンセルムス(11世紀)が Credo ut intelligam (知解せんがために信ずる)と言ったのはまことに至言で、彼がアウグスティヌス以後の正統信仰の独特の継承者であったことを示しています.

 しかし日本だけではなく、ヨーロッパで も、アメリカでは更にひどく、主観主義的心理主義的信仰が歴史上反復的に蔓延して正統的キリスト教信仰を危うくして、その結果として政治・経済・軍事・外 交の分野で〈不正〉が行われる憂慮すべき結果を惹き起こしています.私たちは常に疲れることなくイエス・キリストにおける〈真理と公正〉を追求し続けなけ ればならないでしょう.聖書の研鑽も礼拝説教の吟味・聴聞もこのために怠ることはできません.

 第一コリント書13章の上掲の言葉は対人関係論理の秘儀を巧みに表現しています.

2005/6

10[創造と救済]

はじめに神は天と地とを創造された.            (創世記 1:1)

主なる神が地と天とを造った時、
地にはまだ野の木もなく、野の草もはえていなかった.    (創世記 2:4)

 少し話が難しいのですが、旧約聖書の〈創 造思想〉は世界最初のものではあり得ないけれど、いずれの民族においても思想的活動が始まる時には人間や地球環境の創造について、また宇宙天地、生命の始 源について思いをはせるようになるのは当然で、旧約聖書においても預言者(アモス・イザヤ・エレミヤ)のみならず詩篇やヨブ記の作者たちが古くから〈天地 の創造〉について言及しています.

 結論から述べると、イスラエルの信仰 者たちの場合はギリシャ人たちのように単なる〈自然の創造〉が主題になるのではなくて、人間、特にイスラエル民族の歴史自体がヤーウェによって創造され、 イスラエル民族の〈生命の創造〉が中心課題として論じられています.つまり、イスラエルの諸部族が人類史上に登場し、諸民族との戦闘において勝利を与えら れ、民族の生命が保証され、特別の使命が与えられて他民族より優れた人間性が認識経験され、イスラエルから世界の諸民族に伝え知らせるべき信仰思想を確認 したはずだったのです.ここでは創造=生命の保持・保証=救済という定理が成立しています.

 しかしもし仮にイスラエルがこのよう に優れた内実の恩恵に相応しい生活を実現しなかったならば、イスラエルは神の選びと愛(顧)、救いと恩恵を無にしたことになり、神の(正)義が歴史におい て踏みにじられた訳で、その結果、神の審判が下されることは避けられなくなるのです.預言者たちはこの点を指摘、主張しました.この結果、〈創造=生命= 救済〉の定理に並んで、〈神の正義=審判=終末〉の第2の定理が成立して、旧約聖書思想の構造が形成されました.これはイスラエル精神の構造主義的批評と 言えなくもなさそうです.

 イスラエルの思想は本質的にギリシャ 流の観念的、空想的性格とは異なって歴史(主義)的現実主義です.そうであれば現代のキリスト教会もイスラエル共和国も〈神の正義と審判〉の規準の下にお かれていて21世紀の歴史を歩み続けることになるでしょう.個人としての信仰者も同じ摂理の道を歩んでいるのです.

この夏は信仰者ひとりひとりの生活観を聖書の規準に照らして反省する時かも知れません.

                           2005/7


11[殺すな、盗むな、偽証するな]

出エジプト記20章、申命記5章

 〈モーセの十戒〉(シナイの十戒)は古代 イスラエルの法律の中心に位置する原理とも言うべき〈掟〉で、前半は神に対する条文で後半は人倫に関する戒めになっています.前半の掟は〈真の神以外のい かなる神に類する観念も形像も承認してはならない〉という内容のもので、かなり念入りな偽りの神に対する禁令の形をとっています.現代人である私たちには 偽りの宗教思想ばかりではなく、偽りの信念や哲学や観念の禁止とも考えられます.

 後半は他の諸民族にも諸宗教にも見受けられるごく一般的な人倫思想的表出とも言えますが、それ故に現代にも、どの民族や国家にも通用する普遍的道 徳であると考えられます.それでも紀元前10世紀以前から生き続けている人倫思想であるとすると人間にとって基本的で変更すべからざる永遠の法文というこ とになりそうです.

 僅かに解説を試みるならば、〈殺すな〉は戦争の場合、裁判による死刑、自殺には適用されない用語で、元来は私刑を禁ずるもので生命の保護がその目的です.

 〈盗むな〉はものではなく〈人を盗む〉時 に用いられていて現代なら〈誘拐〉に当たります.〈隣人の持ち物を盗む〉は第10戒において表現されています.〈偽証するな〉は単なる嘘でも中傷でもなく 裁判において偽りの証言をしてはならないことを言っています.〈姦淫するな〉は婚姻関係(契約関係)の尊重の意味で使われています.

 このように元来は古代イスラエルの部 族内の人倫規定であったものですが宗教改革者たちも尊重していて、現代の人倫思想としても、もう一度見直す必要がありそうです.〈殺すな〉は人類法に拡大 すべきで、戦時の〈殺人禁止〉と考えるべきですし、〈盗むな〉は〈拉致〉に該当するし、〈偽証〉も〈姦淫〉も現代的です.〈安息日の戒め〉も〈偽りの神礼 拝禁止〉も自己を神とする現代人に対して語られていますし、〈父母を尊ぶ戒め〉は現代人が勘違いしている重大な人間存在の中核に食い込んでいる〈掟〉のよ うに思えます.    

2005/8

12[預言者の選び(召命)]

「わたしは君をまだ母親の胎に作らない前に君を知り、君がまだ生まれない前に君を聖別し、君を立てて万国の預言者とした」       (エレミヤ1:5)

 若いエレミヤの召命の記事ですが、ここで は〈選び〉が〈聖別〉の行為として語られています.旧約聖書では〈選び〉は〈召命、召し出し、呼び出し〉と同義に使用されていて、古くは〈アブラハムの選 び〉〈モーセの召命〉〈士師たちの選び〉そして〈預言者の召命〉と続いて全く同じ概念で語られています.これは聖書の独自の宗教用語で、新約聖書では〈イ エスによる弟子たちの選び〉という形で福音書に再登場します.ヨハネの福音書でもパウロの手紙でも重要な言葉の一つとして使われています.

 聖書の〈選び〉は人間の側の資格や能力、人間の主体性や自発性によるのではなく徹底的に神(ヤーウェ)の決意によって行われていることは特に申命記(7:6―8,8: 17,9:4)とヨハネの福音書(15:16)で明確に宣言されています.

 世界の諸宗教ではこの点が曖昧で、ギリ シャの思想家たちや原始仏教の聖者のような賢人たちの宗教では人間の側で全てを考え抜いて真理や善に到達するものと考えていて、これは優れた観念論では あっても、天才の宗教哲学で終ることになります.大乗仏教のような〈仏陀の誓願によって救われる〉というのも結局は観念論的な仮説ということになるでしょ う.

 聖書(イスラエル)の信仰は歴史上に 生起したヤーウェ(神)の救いの〈業〉を誤りのない明白な〈言葉〉で歴史的に伝承した〈歴史伝承の宗教〉と考えることができるでしょう.預言者たちの召命 の基礎には出エジプトの救済祭儀において確認されたイスラエル共同体倫理の規準としての〈モーセの十戒〉があって、この〈言葉〉と現在のイスラエルの背反 行為の間で預言者の個性が危機意識においてヤーウェの真意を自覚した時に生起しています.私たちは現代人として人類の現実と将来をどのように自覚している のでしょうか.     

2005/9

13[救い]

救いは主(と共)にあり(主のものなり).主の祝福(恵み)民の上にあれ. (詩篇3:8)

神の義はその福音の中に啓示され、(神の)信実から始まり、(人の)信頼に至る.
(ロマ1:17 -私訳)

 この〈救い〉という語は〈広げる、豊かに する、自由にする〉という動詞に由来していて、〈狭い状態から、苦境から解放し、自由にする〉という語感を持っています.イスラエルの信仰においては〈救 い〉は人間の意志や選択や能力には属さず、ただヤーウェ(主)自身に属する性格の機能で、申命記が繰り返し説くところです(申命記8:11―9:6).

 〈苦境からの脱出〉という意味では仏教のような宗教の救いとも心理的には共通するものがありますが、イスラエルの場合は〈ヤーウェ自身が強力に闘って獲ち取る勝利〉というイスラエルの信仰の原点から発展した概念で、自力による、苦労や努力(修行)とは無縁の信仰です.

 この〈救い〉の概念は旧約聖書中の〈審 き、(正)義、恩恵、選び、契約、約束〉の諸概念と同義なのですが、パウロが〈神の義〉とイエスにおける〈救い〉を同義に捉えていることはよく知られてい ます(ロマ1:17).問題はこの〈救い〉がそれ自体での独立した〈存在概念〉ではなくて、ヤーウェとイスラエルの〈関係概念〉であることにあって、神・ ヤーウェの人類史に対する介入行為として理解する時にはじめて正しく解釈されたことになります.何か一般的に理想的真理がこの世界に存在するという考えは ギリシャ的ではあってもイスラエル的ではありません.イスラエルの信仰者たちは彼らの神ヤーウェは人間の歴史を遠くから傍観している神ではなくて、人類史 のただ中に強引に介入してイスラエルを選び、これを教育し、これを審き、救う〈行為する神〉として経験され、信頼(仰)された神であった、ということにな ります.契約し、約束し、救済し、審く、(実行する神〉が聖書の神で、この神は抽象的、観念的また理念的に思惟される神ではなくて、〈歴史的に伝承される 神〉以外ではあり得ません.

2005/10

14[メシヤ(ヘブル)=キリスト(ギリシャ)]

ひとりのみどり児がわれわれのために生れた.
ひとりの男の子がわれわれに与えられた.  (イザヤ9:6)

 メシヤはヘブル語で〈油注がれた 者〉の意でギリシャ語では〈クリストス〉と訳出されていて、王や祭司の就任の際に聖別の儀式として油を注いだことに由来する呼称です(レビ4:3,?サムエル 2:10他).旧約聖書で39回使われているに過ぎず新約聖書でもメシヤの形では2回(ヨハネ1:41,4:25)だけで他の場合はギリシャ語のクリスト ス(キリスト)が使用されています.イエスに対する呼称としてはこれの他に〈ダビデの子〉、〈神の子〉がありますがイエス御自身は〈人の子〉を用いたよう です.

 〈メシヤ〉の内実的意味は〈ヤーウェ がイスラエルを救うために遣わす者〉ですが、これがこの世界を救う〈救世主〉の意味でナザレのイエスに用いられて〈イエス・キリスト〉の呼称が定着しまし た.〈キリスト・イエス〉も同義で使徒書で使われ、〈イエスはキリストである〉という信仰の表現になっています.

 このように〈メシヤ=キリスト〉は旧約聖書では〈救済者〉〈ダビデの子〉の意味で新約聖書では〈ナザレのイエス〉との結びつきで〈神の子救い主〉の信仰を告白するために使われています.

 さてそこで現代人である私たちにとっては 徹頭徹尾二千年以前に生きて死んだ〈ナザレのイエス〉が問題であり、主題であり、課題であることになります.シャカやプラトンや孔子が主題になるようにイ エスも研究主題になるでしょう.しかし私たちキリスト信徒にとっては〈ナザレのイエス〉が問題であり課題になるはずです.

 私たちにとってはこの〈イエス〉が徹 底的に魅力になり、謎になり、課題になり、決定的に負担〈負い目)になるのでなければ私たちとイエス・キリストの間には何の関係も結びつきもなく、イエス が私たちの〈救い〉になることも〈慰め〉になることもないでしょう.私たちの〈聖書の読み〉は更に深く、正確にならなければなりません.

2005/11

15 [主をほめたたえよ=ハレルヤ]

主をほめたたえよ、主のみ名をほめたたえよ.   (詩篇135)

 教会用語として定着した代表的なヘブル語に、アーメンとハレルヤがあって、アーメンは〈真実である.確 実である〉という意味で祈祷用語として世界中の教会で使われていて知られていますが、ハレルヤが〈ヤーウェ(主)をほめたたえよ〉であることはしっかり自 覚されていないかも知れません.その意味は元来〈ヤーウェの歴史的な救いの行為〉を讃美するということです.

 正月用語の日本語に〈おめでとう〉があって、これは〈素晴しい、喜ばしい、祝う価値がある〉の意から出て、新年や祝い事の合い言葉になったと思われます.

 東西両用語間に共通要素は認められても、〈主を讃美せよ〉と〈おめでとうございます〉には相手が神と人になるところに差異があります.

 人生の目的が〈神を知ること〉というのはジュネーヴの信仰告白ですが、日本人は一般に〈自分が他人より 幸福になること〉と考えているようです.その差は歴然としていて相互に共通するところは何もありません.これは人生観の違いというよりは世界観(宇宙観) の異質性に由来すると考えるべきで、ここから結果としての両者の間の人間観、生活観、死生観、宗教性の差異が認められることになります.

 新年に私たちが考えることが書き初めに見られるような〈世界平和〉や〈学業成就〉か〈立身出世〉になるのか、初詣の「家内安全」「無病息災」「商売繁盛」なのか、あるいは〈人類共存〉〈地球環境安全祈願〉 、また〈戦争撲滅〉になるのか、はたまた、〈神を知り、他者と共に生きる生活〉になるのかはその人の意識と認識と覚悟によって決定されます.私たちは今年は何を目標にして生きるのでしょうか.

2006/1

16 [愛―その2]

主に感謝せよ、主は恵み深く、その慈しみはとこしえに絶ゆることなし.
イスラエルはいざ言うべし「その慈しみはとこしえに絶ゆることなし」と
アロンの家はいざ言うべし「その慈しみはとこしえに絶ゆることなし」と
主を畏るる者はいざ言うべし「その慈しみはとこしえに絶ゆることなし」と
(詩篇118:1―4-私訳)

 〈愛〉について再説すれば、シェイクスピアでなくても言葉は尽きなくて、その根源は旧約聖書にあることは明白で、〈セド〉という語は詩篇において136篇の反復を入れて数えると実に90回を越えているようです.

 このヘセドは〈憐れみ〉とも訳出されるが、〈慈しみ〉という訳語の方が美しい.預言者ホセアは〈神の愛〉の概念をこの〈ヘセド〉に収斂させヤーウェとイスラエルの契約理念を実体化させています(2:19).

 〈セド〉は元来〈力〉の概念を含み、〈持続する神の愛〉と考えるべきです.イスラエル の契約理念から説明すれば契約を破棄しない、裏切ることのない〈人格関係〉ということになりますから、〈信頼〉や〈信実〉の同義語でもあるわけで、キリス ト教用語の中心に位置していることになります.

 新約聖書のギリシャの〈アガペー〉は日本語の人間的で感情(心情)的な〈愛〉とは異質で、それも福 音書においてはヨハネを除くと多用されることはなく、パウロの神学の専用語のように使用されています.思想史的に要約すると、聖書における〈愛〉の概念は ヤーウェとイスラエルの契約(義務)関係を強力に維持する〈力〉で〈信頼〉や〈忍耐〉の人間的行為の中で現実態として認識され自覚され知覚される様態です (?コリント13章参照).

 新約聖書のギリシャ語語法を解釈すれば〈罪〉は負債であって〈罪の赦し〉は負債の免除を意味します.更に推論すれば〈正義〉は〈借りを返すこと〉で〈愛は窮迫している者に金を貸す(与える)こと〉になるでしょう.

[イエス]

 1月1日が教会暦によるイエスの命名日に当りますが、イエスという名はヘブル語ではイェホシュア(ヤー ウェは救い)の短縮形のヨシュアと同義で、ギリシャ語語法で〈イェスゥス〉として新約聖書で使用されたものです.この名前は〈救い主・イエス〉の実体と一 致しているところが、不思議で、結果としてキリスト教信仰の告白内容を言い表していることになっています.更に附言すれば、そのイエスの内実が前述の 〈愛〉と同質であって、その正確な概念は〈創造主と人間の正しい関係〉そのもので、ここにイエスの存在の歴史的意義が示されています.

2006/2

17 [大斎、四旬節、受難節]

それからただちに御霊がイエスを荒野に送り出した.
イエスは40日の間荒野にいてサタンの試みを受けた.
その間獣と共におられたが、御使たちが彼に仕えていた.(私訳)

(マルコ1:12,13,マタイ4:1―11)

 大斎は聖公会用語で復活日前の6日の聖日を除く40日間の意で、四旬節、つまりイエス・キリストの受難 (苦難)を記念して心身を潔斎する教会暦の期間のことです.起源は第2世紀で、復活日前夜に受洗志願者が、断食・祈祷して準備をすることに由来していて、 6日の日曜日を除いた連続40日間の斎日としたのは7世紀のローマ教会で、40日間はイエスの〈荒野の誘惑〉の福音書記事に因っています.この40日はイエスの事績に倣って克己、修養、悔改めに専念し、断 食、また減食をすることになっていて、特に肉食を避ける習慣があります.

 斎は〈潔め〉のことで精進潔斎を意味しています.肉食のみならず、歌舞音曲を避けるのが普通で、 21世紀初頭の現在ならば、時間や金銭の浪費、隣人に対する権力や支配力の行使を避けるべきでしょう.禁煙なども小さな禁欲になるでしょう.ちなみに中世 のローマ教会の7つの大罪は傲慢・貪欲・邪淫・嫉妬・大食・憤怒、そして怠慢です.ここから十戒に示されている具体的な罪の行為が出現すると考えられてい ます.

 (大斎直前の数日間のカーニバル(謝肉祭)は中世のカトリック教国で始まった陽気な演劇や仮装行列を行う祭で教会の斎日の精神からは遠い習俗です.今年は 2月25日から28日までの4日間です.)

2006/3

18[復活信仰]

  1. 復活信仰の歴史的経過
  2. 発端 空の墓、マルコ16:1―8
  3. 説話(物語) ルカ24章、マルコ16章、マタイ28章、ヨハネ20章
  4. 最初の信仰告白 ピリピ2:6―11(昇天信仰)
  5. 復活の理由付け 使徒行伝2:24,2:30(詩16:10)
  6. 伝承(パウロの場合) 第1コリント15:3―7

[解説]

 新約聖書の復活信仰は福音書の場合もパウロの手紙も、事実報告としてはいさ さか混乱していますから事実の認定から解きほぐせば、〈空の墓〉の事実報告が原 点で、後に弟子たちに現れ、信者の集団において信じられ、パウロにも伝えられ、 原始教会の信仰告白になった、ということになります.更に記すと、最初の信仰 告白ではユダヤ人の信仰に一般的であった〈昇天信仰〉が表面に出ています.〈空 の墓〉から〈昇天信仰〉、更に〈復活信仰〉という順序で発展、確認されたという ことも無理なく推測されると言ってよいでしょう.

 私見によれば新約聖書の復活信仰は「ほんとうにこの人は正しい人であった」 (ルカ23:47)「まことにこの人は神の子であった」(マルコ15:39)「イエス・ キリストは主である」(ピリピ2:11)という経過で確定されていく信仰告白が中 軸になって福音書中の物語(説話)化が進行したように思えます.説話化は民衆 伝道には欠かせない文書表現形式です.

 問題はその信仰の内実で、それはナザレのイエスという歴史上の一人物が、ま ことに類い稀なる〈正しい人〉で、イスラエルの、つまり、自己の先祖の神ヤー ウェに対する信頼と従順の揺るぎなさが他の比較を許さない確実性に達していた ものと考えられます.ここでただ一人の人間イエスの絶対性の確信にとどまらず 創造主の人類全体に対する救済の意図を〈イスラエルとイエスの歴史〉の事実に おいて確認し告白したものと言ってよいでしょう.これこそがキリスト教の復活 信仰であって、被造者である人間が自然の成り行きの中で失われることがないと いう信仰の初代教会における表白であったと考えることができます.

 現代の神学用語で言えば、イエスの神に対する信頼関係が二千年以前のナザレ のイエスにおいて歴史的に確認され、この特別で独一の〈関係〉自体が人間の救 済〈保証〉であり〈希望〉であるということになるでしょう.いずれにしてもイ エスを正しく知ることが〈復活信仰〉の要諦です.        

2006/5

19[信仰]―聖書と日本人の場合の比較

(用語解 1 (04.11) 参照)

 一般に日本人の言う〈信仰〉とは主観的な確信、つまり個人的な〈思い込み〉 または〈信じ込み〉を意味していて、聖書の〈信頼(仰)〉とは似て非なる心理現 象である。日本人の〈信仰〉は独言性の非対話的性格を示していて、聖書の〈人 格間の信頼〉関係用語とは異質である。日本の宗教人の中で〈信仰〉をもっと も深刻にかつ正確に自覚した者は親鸞であったと考えられるが、それでもな お〈信じ込み〉の域を越えることはできなかった言うべきであろう。

 そこで日本人のキリスト信徒は自己の〈信仰〉を再度聖書および(教会の)伝 承と照合点検して〈正しい信仰理解〉を求めることが肝要である。

 〈正しい信仰理解〉とは固定化された定言(義)のような、暗記することがで きるような知識ではなくて、我々の人生の行程において日毎に修正し続けて 逆行することなく進み行く認識過程と考えられる。(ピリピ3:12―16)

 これを要するに、キリスト教の信仰理解とは創造主による宇宙・地球の創 造の業に対する〈信頼〉と自己の生命を含む地上の生命の創造、またこれの維 (保)持および人間の歴史全体に関する摂理と導きの恩寵に対する感恩(謝)の 認識で、この基礎認識から一切の人間的倫理行為が〈愛と奉仕〉の様式におい て現出する.この様式は歴史的には古代イスラエル史に続く〈ナザレのイエ ス〉において啓示されている、と考えられる.

2006/5

20[三位一体]

 聖霊降臨日後の最初の日曜日が〈三位一体主日〉でここから待降節までの期間 を〈三位一体節〉と称して教会暦の後半期に当ります.〈三位一体〉という用語は テルトゥリアヌス(150/60―220頃)に始まり、彼は「父・子・聖霊の三者は 〈神性〉という一つの実体を共有する」と説いていますが、「三つの位格、一つの 実体(tres personae, una substantia)」という明確な定式を与えたのはアウグスティ ヌス(354―430)です.新約聖書では未だ教理の形には達していなくてもマタイ 28:19,・コリント12:4―6,・コリント13:13など既に記されていて使徒信 条では聖霊は第3項に言及されていますが、教理として定着するのはニカイヤ公 会議(325)後のことです.

 その内実、つまり信仰は〈聖書の創造主(父)の知識は子なる神(イエス・キ リスト)から来る〉という経験的事実に由来していて、〈聖霊なる神〉の信仰は、 〈創造・降誕・十字架・復活・昇天・再臨〉の全てを結びつける〈現臨の神〉の信 仰にほかなりません.ただしこの元来イスラエル的な〈信仰理念〉をギリシャ思 想の論理で説明しているために〈三位一体論〉には論理的不整合性が最初から含 まれていたと考えるべきでしょう.これは常に〈信仰の論理〉が信仰の歴史的事 実の経験の後に成立するという当然の現象に立脚しているからで、キリスト教信 仰や教理上の欠陥ではありません.

 その論理の特質は創造主とイエス・キリストと聖霊なる神の三者は〈真理の啓 示と救いの働き〉において分離し難く、一つの実体として信仰され、一者が語ら れる時には他の二者が必ずそれに伴って語られなければならないと考えられてい るのです.

 最後に注意すべきは〈聖霊信仰〉が単なる人間の感性や感情に働きかける神性 と限定されてはならないことで、どこまでも信仰の〈知性と言葉〉において明晰 に自らを開示する神として信じられ教会において伝承されて来た事実です.

 信仰者の内面性また実存性と深く関わる点ではこの信仰は教会・信者の家庭・ 信仰者個人の〈祈り〉において日ごとに経験され、<明晰な言葉>に おいて信徒と神との関係が強固にされ、維持されている時に生きて いるのです.

2006.7

21[預言者]

汝ら『これは主の神殿なり、主の神殿なり、主の神殿なり』という偽りの言葉を たのむなかれ(エレミヤ 7:4)

預言者より祭司に至るまで皆偽りをなす者なり.彼ら手軽にわが民の傷を癒 し、平安(やす)からざる時に平安(やす)し平安しと言えり(エレミヤ 8:10,11).

われ終日人の物笑いとなり、人みなわれを嘲りぬ.われ語り呼ばわるごとに「暴 虐、滅亡」と叫ぶゆえなり(エレミヤ20:7,8)

 旧約聖書の宗教は ・祭儀 ・預言 ・律法の三本の柱からなっていましたが、〈祭儀〉は体制自体であって〈預言者〉は反体制、あるいは体制批判勢力と言えます. 〈律法〉は神殿崩壊後の〈体制〉になる宿命を持っています.

 興味深いことは旧約の宗教が、〈預言者〉という自己を批判する思想活動を体制 内部から生み出して、これを保持し、その価値を認め、その〈言葉〉を伝承した という事実です.

 これは驚くべきことで、自分自身の内部に自己を批判する視点を持つというこ とは人間の知性の働きの中では最高の機能です.そこでイスラエルは次のように 批評されます.

「地のもろもろの民のうち、われただ汝らのみを知れり.このゆえに我汝らのも ろもろの罪のゆえに汝らを罰せん」(アモス 3:2)

「われエフライムに歩むことを教え、彼らをわが腕にのせて抱けり.されど彼ら はわれに癒されたるを知らず」(ホセア 11:3)

 実にイスラエルはこの預言者たちを迫害するようになります.多くの捕囚前の 預言者たちは王や祭司や体制内預言者たちの手によって殺害されているのです.

 マタイの福音書も山上の説教のイエスの言葉として「君たちより前の預言者た ちも(君たちと)同じように迫害されたのである」と告げています(5:12).

 一般に私たちは自己自身を批判する視点を自分の内部に持っていないために、 まことに〈反省〉は不得手で、一国の宰相から、大企業の社長、教師、宗教家に いたるまで自分の真の姿を正確に知る(見る)ことができません.このために自 分の人生や職務において見事に大失敗の恥を世間に晒しているのです.

 聖書の信仰は預言者の存在においてこの普遍的な人間的欠陥を克服していること を示しています.聖書は〈ヤーウェ(主または神)との対話の書物〉です.この夏 に預言書を改めて読み直して自己の人間的欠陥を正しく認識することが必要です.

2006.8

22[イスラエル]

字義=神が支配する(神が支配すればよいのだが)

その人は彼に訊ねた、「君の名はなんと言うか」.彼は答えた.「ヤコブです」. その人は言った、「君はもはや名をヤコブと言わず、イスラエルと言いなさい. 君が神と人とに力を争って勝ったのだから」  創世記32:27,28――私訳

 これは創世記による〈イスラエル〉の名称釈義ではあるけれど、この記事は時 代も、語義の解釈も正確なものではありません.聖書はイスラエルの先祖をアブ ラハムから数えますが、歴史学的には出エジプト後の〈士師時代〉に部族的、民 族的な出発点があると考えられます.もちろんアブラハム、イサク、ヤコブの族 長名は各部族、つまりアブラハム族、イサク族、ヤコブ族の祭儀(聖所)伝承に おいて伝えられた歴史的記憶が生き続けていると考えることができます.歴史的 にはイスラエルの名は北イスラエル王国のことを指し、アブラハム族の歴史は南 ユダ王国にイサク族の名と共に伝承されています.

 出エジプトの事件も歴史学的には立証が困難で、聖書の記事は明白に祭儀伝承 として保存されています.〈紅海の奇跡〉はイスラエルが九死に一生を得たヤー ウェ(神)によって救い出された民族であることを宗教祭儀として伝えている祭 儀文学と考えるべきでしょう.

 その後の歴史は各部族ごとの士師時代を経過して、サムエルの時代にサウル王 国形成に入り、次のダビデ王によって南北統一王国を完成して、ソロモンの繁栄 時代を迎えます.しかしソロモンの死後統一王国は南北に分裂して北イスラエル と南ユダに分れます.この時代は異教のバアル礼拝がイスラエルに侵入して真の ヤーウィスト(ヤーウェ信奉者)たちがこの異教礼拝と闘うことになります.

 結局イスラエルもユダもアッシリヤと新バビロニアにそれぞれ前721年、前 587年に滅ぼされてイスラエル王国の名は歴史上から姿を消すことになります. 預言者(ヤーウィスト)たちはこの滅亡の原因をイスラエル(ユダ)のヤーウェ に対する〈背反、不信、反逆〉と見ています.

 現在のイスラエル(共和国)はもとより〈イスラエル〉とは〈ヤーウェによっ て救出された大恩〉を忘却した古代の一民族国家の別名と考えるべきでしょう.

2006/9

23[宗教改革]

Reformation(2004/10,11,2005/10 参照)

自由を得させるためにキリストは私たちを解放して下さったのである.

――中略――わたしたちは御霊の助けにより信仰によって義とされる望みを 強くいだいている.    ガラテヤ書5:1―6

 10月31日は宗教改革記念日です.宗教改革者M.ルターはアウグスティヌスの 「恩寵への信頼」を介してパウロの「信仰義認」を知解し、当時(1517年)のロー マ・カトリック教会の儀式的呪術信仰を打破してプロテスタント教会の基礎を据 えました.その歴史的意義はカルヴァンがスイスで起こした改革運動と共にロー マ教会からゲルマン民族の教会と更にはジュネーヴの教会国家の樹立に至る世界 史の大きな転回点を形成しました.
 世俗の教会政治や社会現象を捨象してしまえばキリスト教信仰史においては、 古代末期からギリシャ(プラトン)化した状態のキリスト教を再度聖書に引き戻 したという点に画期的な意義があります.アウグスティヌスはセム人であること もあって聖書の本質を直感的に理解することが可能だったようです.M.ルターは 聖書自体の研究を通して、ローマ教会の儀式的行為や免罪符による義認という偽 りの救済理解を否定して〈個人の信仰と知解〉による聖書信仰の本質に迫ろうと して新しい運動の出発点を確認したのです.

 しかしルターにとって信仰とは〈その信仰の創始者であり、完成者であるイエ スに目を注ぐことによって、このイエス・キリストに対する献身的信頼を持って 心を打ち開くことによって〉のみ達成される精神的状態なのです.

 私たちの教会もルターの開始した聖書の研鑽を更に推し進め、手を抜かず現代 の聖書(解釈)学に目を通して正しくて、明確な〈イエスの知解〉を通してイエ スの御人格に触れたいものです.

 現代は新しい今ひとたびの宗教改革が必要とされている時代であると考えるべ きでしょう.

2006/10

24[救い主]

「わたしは彼を望み見る.ヤコブから一つの星が出、 イスラエルから一本の木の枝が起こる」 民数記 24:17

 メシヤ(ヘブル語)、キリスト(ギリシャ語)が〈油注がれた者〉の意であることは旧約聖書のレビ記 4:3、?サムエル記 2:10他にその原点がありますが、イスラエル王国の末期から滅亡後では〈ダビデの子、救世主〉の文脈で使用され、キリスト教会にとっては〈人間(個人)と世界の救済者〉の意味に変わります.

 イスラエルという民族国家は世界史における独一の不思議な国で、見方によっては人類史上の人間の生命(生活、生き方)の実験民族だったと考えることができそうです.その実験とはこの地球上の生命の存在意義と価値、その希望と絶望、人間的信実と裏切り、倫理的愛と罪悪、その精神性の強さ(強情)と弱さ(卑屈)、理性の力と狂気、賢さと愚かさなど(つまり人間の生命の根源的で基礎的な条件と保護、人間歴史の諸条件とその現象、人間の知性と能力の限界、人間の善(従順)と悪(反逆)など人間生活に関するすべての条件や現象、人間自身の反応と変化についての実験をイスラエル民族の歴史において遂行したと言うのです.

 イスラエルの民族は彼らの神、ヤーウェ(創造主)によって特別に選ばれて、その選びの愛に相応しく生きるように期待され、「わたしは今日、生命と幸い、死と災いを君たちの前に置いた.君たちが主(ヤーウェ)を愛し、その道に歩み、その戒めと定めと掟とを守り、これに従うなら君たちは生きながらえ、祝福されるであろう.しかしこれから心を背け、これに聞き従わないなら、君たちは必ず滅びるであろう」(申命記 30:15―18 部分私訳)と言われて、歴史的結果から判断すれば、この実験に見事に失敗したことになります.

 この失敗による崩壊から回復し、イスラエルが立ち上がるためにメシヤ(救い主)が待望されなければならなくなり、そこにイスラエルの希望が集中していくようになったのには歴史的に、また論理的に必然性があった訳です.ただ情けないことにイエスの時代以前には次々に偽メシヤが現れては消えていたのがイスラエルの現実の姿でした.救い主の待望と実現の間には理論上は無限の距離(時間)が横たわっているという考え方も成立しそうです.しかしユダヤ人たちが気付かないでいるただ中にナザレのイエスは到来したというのが新約聖書の主張です.

2006/11

25[イスラエルの王としてのイエス・キリスト]

わが支持するわがしもべ、 わが喜ぶわが選び人を見よ.
われわが霊を彼に与えたり. 彼は叫ぶことなく、声をあげることなく
その声をちまたに聞こえさせず、 また葦を折ることなく
ほの暗い灯心を消すことなく、 真実をもって道を示す.
彼は衰えず落胆せず、 ついに道を地に確立する.
海沿いの国々はその教えを待ち望む. (イザヤ 42:1―4 私改訳)

 「メシヤ=キリスト」はまず第一に〈イスラエルを救う者〉(イスラエルをその敵から解放する者)を意味しますから、旧約聖書の〈士師たち〉がイスラエル史においてその職務を最初に帯びて登場します.モーセの後継者のヨシュアに続く士師(=さばきづかさ)たちがこの任務を遂行しましたが彼らは政治的、軍事的指導者としてイスラエルをその敵の力から守り、また解放しました.この職務はサウル以後は王の責務になって、ダビデがイスラエル史における最高の理想的な王となりましたけれど、その王朝はやがては滅亡し、栄光のイスラエルは歴史から姿を消して、ただ理念や希望や信念として生き続けたのです.

 王の理想は英邁で果断、人を知り、我を知って言葉に優れ、民を意のままに動かして彼らから信頼され、貧者や弱者を思いやり、臣下を教育訓練して産業を活発にし、隣国との交易に目を配り他の王たちから信頼される、ということでしたが、最近の世界の大国の支配者(=王)たちはどうでしたでしょうか.彼らの失敗の足跡とその罪科は歴然としています.

 イスラエルは王国滅亡後に預言者たちがこの事実に気付き、昔のダビデ王を夢見ることを止めて、新しい理想の王を心の中に画くようになりました.第二イザヤと呼ばれる預言者(イザヤ書40〜55章)はその宗教詩の中に四つの〈主の僕の歌〉(42:1―4,49:1―6,50:4―9,52:13―53:12)という不思議な詩を遺していてその中にダビデ王(あるいはモーセ)の対極に位置する〈苦難の王〉の姿を造型しました.熟読玩味するとこれも理念には違いないが、現実の歴史的経験において練り上げられ、磨き抜かれ、研ぎ澄まされたイスラエルの王の極限の姿です.

 およそ2000年前に誕生したナザレのイエスは思想史上ではこの主の僕(エベド・ヤーウェ)、つまり苦難の僕にぴったり重なり合います.福音書の記者たちは最初からこの基本理念によってイエスを理解していたように考えられます.

2006/12

26[ことば]

神は光あれと言われた.すると光があった.  (創世記 1:1)
初めに言があった.言は神であった.     (ヨハネ 1:1)

 ヨハネの言葉には創世記の思想の反映が見られますけれど、ヨハネの背景にはギリシャ語の哲学的概念の響きが感じられます.しかしいずれの思想も舌足らずで、現代の読者に直ちにその意味内容が直接伝わってくるようなものではありません.共通の理念は〈聖書の神の創造の業〉ですが、ヨハネの場合は〈ナザレのイエスが神であって、既に創造の時に先在していて創造の業に参画していた〉という難解極まる信仰(神学)の概念が組み込まれています.この解説は別の機会に譲るとして、ここでは〈イエスという人物〉が世に顕れて〈真の人間〉の本質を啓示し、ここに人間の問題の真の解決が完全に明示された、という信仰が成立していることを確認すべきでしょう.現代でも世界中の人々は未だに〈真理〉は諸民族の中に少なくとも数種類はあって、各自が自説こそは完全な真理であると信じ込んで、互いに他を誹謗して相争っているのが現状です.しかしこれでは何の解決にも到達することはないでしょう.自説を信ずるところまではいいとして、自分と同じテーマを別様に考えている他民族や諸思想があることが分かったら、そのいずれが思考の方法や、その結論に聞くべき所があるかということを冷静に分析、判断する努力を払わなければならなくなるはずです.これこそが真のグローバリゼーションの第一歩なのではないでしょうか.

 いずれにしてもユダヤ―キリスト教の信仰思想には、創造主の創世の初めから〈神の言〉が生命をもって働いていて、これがイスラエル民族の歴史において伝承され続け、ナザレのイエスにおいて歴史的にも思想(言)としても完全に顕示されたと信じられ論説され伝道されてきたという〈神学〉が生きています.後に解説することになる〈三位一体〉説(小泉君の語法は全くの誤り)もこの歴史的事実の表象として重い意味を持つことになります.問題は私たちの信仰の生活がこれらの基本的な信仰の理念に対してどのような整合性を示すかということにあります.

2007/1

27[イエス・キリストと人間の罪]

我らには‐‐‐‐大いなる大祭司、神の子イエスあり.‐‐‐我らの大祭司は我らの弱さを思いやること能わぬ者にあらず.罪を外にして全てのこと、我らと等しく試みられ給えり.(ヘブル書4:14―16)

 これはヘブル書の著者がその独特の神学で描く人間イエスの姿なのですが、〈大祭司〉という語を除けば、他のことは理解するのにさほど困難ではありません.古代においても、現代の場合と同様〈ナザレのイエスとは一体誰なのか〉という問に答えることが教会の指導者たちの最重要課題だったので、私たちもここから私たちの信仰の道を歩み始める外はありません.ここでこの著者はイエスと私たちの質的な差異を〈罪を犯さぬ者とこれを犯す者〉という一点に絞って定義しています.

 私たちの犯す罪は人倫道徳的なあらゆる失敗や非人間的な行為を含んでいますが、最も重要な罪は他者を無視し、傷付け、殺害するという人間の尊厳の干犯にあることは明白で、この行為は単に人間同志の関係破壊や存在否定にとどまらず、人類の創造者である神の存在無視、また創造主と被造者の関係破壊、恩恵の忘却と否定という極点にまで到達します.その結果として人間は他者との関係を失って、人倫共同体から排除されて孤独になり、不安に苛まれ、罪の自責の苦しみから解放されずに死を願うようになります.これが人間の罪の現実の姿です.

 これに対してナザレのイエスには父なる神に対する一切の不従順という他の一般の人間に共通の〈罪〉が完全に欠けていて、どのような境遇や生活の局面にあっても父なる神に対する疑いや反抗や背反の意志を懐くことがなかったというのが、ヘブル書の著者の認識であり、主張です.この認識にはイエスの知性の他の人間に比較しての優秀性や人間的な力量の大きさを彼の独一性とする論法の一切が含まれてはいません.これは教会の最初期の信仰告白に「その有様は人と異ならず、己を低くして死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた」(ピリピ2:7,8)とあるのと全く同質であると言えます.

 人間の〈罪〉の本性はその〈不従順性〉にあるという結論、あるいは定義がここから導き出されます.盗みも虚偽も殺意も裏切りも全てがこの不従順と不服従に由来すると言えます.

2007/2

28[イエス・キリストの受難と人間の罪]

「一同が席について食事をしている時言われた『特に君たちに言っておくが君たちの一人でわたしと共に食事をしている者がわたしを裏切ろうとしている』」(マルコ14:18)
「ペテロはイエスに言った『たとい、みんながつまずいても、わたしはつまずきません』.イエスは言われた、『君にしっかり言っておくが、今日まさに、今夜にわとりが二度鳴く前にそういう君が三度わたしを知らないと言うだろう』」(マルコ14:29,30)(私訳)

 共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)はイエスの受難をパウロの手紙(神学)とは異なり、その意味(義)を書かずに受難の事実の経過だけを記述しています.受難の予告は三回に及びますが、ルカの第二予告が最も簡単(潔)で、ただ『人の子は人々の手に渡されようとしている』(9:44)とだけ記しています.

 その事実から判断する限りイエスの受難の歴史的原因は〈ユダの裏切り〉、実は〈ユダによるイエスの官憲への引き(売り)渡し〉で、更にペテロによる三度の〈イエスの否認〉が付加されます.このペテロの〈否認〉も〈無視する〉〈拒絶する〉〈関係を絶つ〉の意味があります.

 このように共観福音書の記述法と用語法に関する限り〈イエス受苦〉の直接原因はユダの背信行為で第二次効果としての〈ペテロの弱さ〉が弟子たちの現実の姿を代表しています.福音書記者たちはパウロとは異なり、弟子たちの行為の中に人間の本質的な過誤を確認していて、これを現代風に表現すれば、〈人間の罪の中核には人格関係破壊の行為がある〉ということになります.この中心点から、殺人、窃盗、姦淫、偽証、貪欲(十戒)が出現し、政治家、実業家、教育者たちの現実の悪行が姿を見せ、芸術家や学者、また宗教家や社会改良家、慈善事業家たちもその例外ではあり得ません.

 人間は創造主から〈自由と責任〉を与えられて人格的存在として言葉をかけられ、個性的存在として生きることを許されているのですが、キリスト教的(聖書的)真理はナザレのイエスにおいて啓示され、この人の中に創造主の〈愛と真実と希望〉を発見した人間だけがここに〈救いの力〉を経験して驚くのです.

 しかしこの〈救いの希望〉は明らかに開示されていながら同時に隠されているのです.私たちはこの力を経験した教会の伝承の内部で生きているし、また生きることができるのです.

2007/3

29[復活者イエス]

イエス言い給う.「我は復活なり、生命なり、我を信ずる者は死ぬとも生きん.おおよそ生きて我を信ずる者は永遠に死なざるべし.汝これを信ずるか」 (ヨハネ11:25,26)

この文章はラザロの一時的復活の際に語られたイエスの言葉としてヨハネが伝えているものですが、すでに〈イエスの復活〉を信ずることによって走り出した原始キリスト教会の旗じるしである「イエスは甦った」という信仰を解説しています.

 キリスト教会の母体はユダヤ教ですが、この時代は世界史的にはギリシャ― ローマ時代で思想史としてはヘレニズム(ギリシャ思想)が当時の文明社会の支配的潮流でした.そのただ中で「イエスの復活」を宣べ伝えて人間の生命の〈尊厳と価値と意味〉を確認して世界精神史の転回点を形成したのです.

 古代史はローマ時代に至って拡大された世界全体を統合する精神的中心(支柱)が見失われ、優れて洗練されたギリシャ思想だけでは人間精神の全域をカヴァーすることは不可能で、ヘブライズム(イスラエル精神)を継承したキリスト教が両者の統合地点になったと考えられます.

 古代に曲りなりにも統合された世界精神は近代から現代にかけての自然科学と機械(電子機器を含む)文明の発達によって再び世界の構造と精神的秩序に変化が生じてグローバル化した世界は中心的支柱を見失ったと言えそうです.現在キリスト教とイスラム教が対立した構造が現出したのは不幸なことのようにも見えますが、キリスト教(含ユダヤ教)が両者の統合に主導的な役割を果たすことになるか否かは不分明です.

 人間にとって自分自身と自分たちの〈生命現象〉は永遠の神秘です.この〈生命の神秘〉の解答が古代においては「イエスの復活」の中に見出されたことは間違いありません.現代におけるこの問題の解決は現代の宗教者(信仰者)に課せられた重要な任務になるでしょう.単なる自然主義や不可知論に逃げるようなことでは現代世界の混乱と不安はいつまでも解決を見ないまま継続するでしょう.「復活のイエス」の中にこの神秘は示されていて、現代の信仰者たちにとってはその解答の探求が課題になることは明白で、その鍵はあの「ナザレのイエスの人間性」の中にあります.

2007/4

30[復活―昇天―聖霊降臨]

「あなたがたは、なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか.その方はここにはおられない.よみがえられたのだ」(ルカ24:6,マルコ16:6,マタイ28:6)

「我は天にても地にても一切の権を与えられたり.されば汝ら往きて、もろもろの国人を弟子となし、父と子と聖霊との名によりてバプテスマを施し、わが汝らに命ぜし全てのことを守るべきを教へよ.視よ.我は世の終まで常に汝らと偕に在るなり」                   (マタイ28:18―20)

 キリスト教にとって出発点である〈復活と昇天と聖霊降臨〉の三件の出来事は個々別々に論ずるのではなくて三連続の事件として理解するのが正しくて、この場合もその中心人物が〈イエス・キリスト〉であること、すべてがこの人物を巡って生起して、新約聖書がこの三つの出来事を個々別々に取り扱わないで一連の同一、同質の内実を示す事柄と考えていることです.ここにキリスト教会の出発点があると考えられます.歴史学的には個々の事件の事実性を証明する方法はありません.しかしこの三連続の出来事の内実はと問われれば、それは「イエスは生きている」ということになるでしょう.

 ルカの復活記事を現代語に訳せば「その人はここにはいらっしゃらない.生きているからです」となるに違いありません.更に精確には後半が「‥‥立ち上がって出て行かれたからです」となるかも知れません.要はイエスの復活信仰の真意は「イエスは生きている」ということで、これも更に現代語訳を押し進めれば「イエスと彼に信頼する者(たち)との間には生き生きとした関係があって、この関係は永遠に続くであろう」ということになるはずです.

 この最後の意味内容が〈聖霊によってイエスを知る〉というペンテコステ(五旬節)の事件として生起し、この結果としてキリスト教会が誕生し、イエスと信徒との関係が全世界に伝播したのです.

 聖書は如上のすべてを古代末期のギリシャ語でユダヤ―ギリシャ的に表現し、確認しているのですから、私たち21世紀の現代人は語り伝えられた事実を曲げることなく現代人として受け止め、知性の限りを尽くして確証して次代に伝えていかなければなりません.当てずっぽうの生半可な理解と信心ではすまされないのは当然です.この信仰の中には現代日本人がまだ気付くことさえできないでいる畏るべき偉大な価値が隠されています.        

2007/5

31[教会=キリストの体]

「この教会は彼(キリスト)の体であって、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが満ちみちているものにほかならない」(エペソ書 1:23) われらは神の作品であって、善い(祝福された)行いをするように造られたのである.                         (エペソ 2:10)

 教会と〈聖霊〉の関係については昨年と一昨年のペンテコステの項(#8,#19)に既にふれましたが、上のエペソ書の著者の〈キリストの体(ソーマ・クリスティ)〉という概念はパウロの実際的で有機的な〈体の思想〉から更に発展して神秘的な体の概念に到達しています.この信仰は復活、昇天後のキリスト(イエス)は聖霊において個々の地上の信徒たちに働きかけ、生命を与え、力づけ、励ましているだけでなく、その聖徒たち全体の中に満ち満ちてこの世界において一つの体としてキリストの真理を伝承し、告げ広める生き生きとした有機体(組織体)として存続し続けるという信仰に達しているのです.このことはイエスを〈救い主〉として〈世界の問題の解決者〉として信じる信仰によって知解される特殊な宗教的概念であって、一般的な人間的常識の領域を越えていると考えるべきでしょう.

 人間の諸問題はほとんど解決不可能と思える人間の〈悪や罪〉の問題から、日常生活上の種々様々の困難である病気や貧困、環境問題や人間間の絶えない仲間割れや闘争、不安や失敗や種々の精神的困難などの真の解決が〈真実の人間〉としてこの世界で現実に日々を過ごしたナザレのイエスを知ることによって解答を与えられるという信仰がこのエペソ書には鏤められています.この著者は次のように祈っています.

「どうか父(神)がその栄光の富に従い、御霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強くして下さるように.また信仰によって、キリストがあなた方の心の内に住み、あなたがたが愛に根ざし、愛を基として生活することにより、全ての聖徒と共に、その広さ、長さ、高さ、深さを理解することができ、また人智を遙かに越えたキリストの愛を知って、神に満ちているもののすべてをもって、あなたがたが満たされるように祈る(エペソ 3:16―19)」 

2007/6

32[審判と滅亡]

主は言われた 「アモスよ、君は何を見るか」
わたしは 「ひとかごの夏の果物」と答えた.すると主はわたしに言われた.
「わが民イスラエルの終りが来た.わたしは再び彼らを見過ごしにしない」 (アモス 8:1,2)

 イスラエル最初の記述預言者アモスの言葉でイスラエル王国の滅亡を豫言していて、この豫言は前721年にアッシリヤによるサマリヤの包囲・陥落によって実現しました.預言者の目には北王国の繁栄が実は腐敗と映っていたのです.預言者の活動はホセア(北イスラエル王国)、イザヤ(南王国)、ミカ(南王国)と続いて、南ユダ王国も前587年にエルサレムの陥落・崩壊によって滅亡しました.イスラエル(南ユダ)王国の歴史はここに終息し、旧約聖書の精神史は外形上の歴史から精神化の時代に入りエレミヤ以後は人間の内面的な実験や思想の展開期が始まります.

 近代日本も太平洋戦争の終結(敗戦)によって歴史的転回点に立たせられましたけれど(1945年8月15日)、朝鮮戦争以後は経済的な復興期を迎えベトナム戦争に続いてやがてバブル成長期に入り実質的というよりは外形的な経済的繁栄を経験して、その崩壊と共に精神的な病弊に悩まされているのは、単に経済的格差が広がったからではなくて、強固な精神的自立(独立)と健全な対話の精神の育成に失敗したからであると考えるべきでしょう.人間観(人生観)の浅薄さには目を覆うものがあり不活発な知性の病弱性に対しては戦後の日本の教育(家庭と学校と社会)の不見識で無定見な歴史的結実と見るほかはありません.最近の教育基本法(安倍首相主導)に見られる貧しくて美しくも力強くもない言葉(旧基本法に付加した修飾語)の羅列はみすぼらしくて、恥ずかしい限りです.どうも日本人はもう一度あの敗戦の歴史的意味を噛みしめるべきではないでしょうか.

そのためには日本の近代史全体を再検討するべきで、自己の過去に目を瞑って自己陶酔的で自己欺瞞的で軽薄な民族主義に決別する決心と覚悟が要求されます。その意味でもこの夏を無駄に過ごしたくないものです。

「公道を水のように正義をつきない川のように流れさせよ」アモス 5:24

2007/7

33[生命(ネフェシュ)]

主なる神は土の塵で人を造り、命の息をその鼻に吹き入れた.このように人は生きる者となった. (私訳)(創世記2:7)

 これは旧約聖書の中でもっとも古い資料と考えられる.ヤーウィスト文書に書かれた人間の創造記事です.表現がいかにも古代的で中東地域共通の諸概念によって構成されています.土の塵で造形(塑像)されるところはギリシャ的ですが生命の息を吹き入れて土の人形が「生きる者」(ネフェシュ・カイヤー)となったという表現はヘブル(イスラエル)的です.この生命観は新約聖書にそのまま受け継がれています.

 〈ネフェシュ〉は霊とも魂とも訳出されますが、もとは〈息・喉〉から出た言葉ですけれども日本人が考えるように人間の内部に存在したり、人間が所有したり携帯したりすることができるような物質やエネルギーでさえなく、北欧の学者ペーデルセンによれば「霊は魂の活動部分である.それは魂の中心部ではなく、そこから出発して逆にそれに働きかける力なのである.‥‥ネフェシュはその全体において魂であり、心はその内実において魂である.」というのです.あまり分かりやすいとは言えませんが、「土の塵はもとの土に帰り、霊はこれを授けた神に帰る(伝道の書12:7)」のであり、「あなたが霊を送られると彼らは造られ、‥‥ その霊を取られると彼らは死ぬ(詩104:29,30)」のです.

 いずれにしても〈生命〉はこの世でもっとも神秘的な現象です.自然科学者たちが全力を挙げて説明しようと試みていますが納得のいく学説は成立していません.

 旧新約聖書の「生命」の理解は著者たちが「創造の秘密」を神秘的に直感したとか、天才の知性によって奇跡的に推理したとかいうことではなくて、彼らが自分自身を含めて人間の生命現象の現実を彼ら(信仰者)の知性の限りを尽くして考え抜き、人間が何(者)に信頼して生きるべきかという〈人生論と信仰論〉の特殊な結論として形成され成立した〈生命観と人生観〉と考えられます.この場合殊に〈正しい生き方〉、つまり〈健全な人生観〉が聖書の生命観を理解し、正確に解釈する鍵になります.現象の神秘からではなく人間の現実の生活経験から理解するのです.この夏は少し落ちついて自分自身の〈生き方〉を再検討してみたいものです.

2007/8

34[旧新約聖書の関係]

――しかしアケラオがその父ヘロデに代ってユダヤを治めていると聞いたので、そこへ(ユダヤ)行くことを恐れた.そして夢でみ告げを受けたのでガリラヤ地方に退き、ナザレという町に行って住んだ.――(マタイ2:22,23)

 1月の6日が顕(公)現日(エピファニー)でこれはイエスの救いが全世界に示されたことを記念する日です.3人の博士たちがイエスを拝した日として祝われてきたものです.

 旧約聖書の教えは律法と預言と詩(文学)に分類されていますがそのすべてが〈ナザレのイエス〉に向かって収斂していて、教会では旧約聖書を正しく理解することと〈イエスを知ること〉とは同一の知性の働きであると考えられてきました.これがまた信仰と知性の一致とも言えるでしょう.旧約聖書の内容を正確に理解できなければイエスを救い主と信じ、また告白することができません.またこの逆も真理なのです.

 そこで旧新約聖書の内実を一般的知性で表現してみると次のようになるでしょう.

  1. 創造主に対する信頼、つまりこの全世界(宇宙)が一人の創造主によって創造されたと信ずること.
  2. この創造の業の中に人間の生命の創造が含まれ、これがその業の頂点として信じられていること.
  3. 創造主を信ずることは信仰(頼)者自身が自己の運命を信じ抜くことをも意味する.つまり現実の自己の生活がどれほど悲惨であっても自分の生命は創造主によって与えられ維持され導かれているということ(事実)を信じ、創造主に信頼して人生を送ることを意味する.
  4. 上記の事実(真実)は〈イエスを救い主〉と信じ、この人に信頼し、この人との対話(祈り)を日毎に反復し、その対話から限りない恵みと真実(理)を教えられ、その真理の力がこの他のすべての知恵と力に勝っていることを確認すること.
  5. その結果人間は互いに助け合ってその生涯を送るのが最上の人生であることを日々確認すること.
2008/1

35[イエス・キリスト]

イエス・キリストの福音のはじめ.-----(中略)-------ヨハネが捕えられた後、イエスはガリラヤに来て、神の福音を宣べ伝えて言った.「時は満ちた.神の国は近づいた.悔い改めよ.そして福音に信頼せよ」(マルコ1:11,14,15) 私訳

 顕現日の後は大斎(受難節)が40日間続き最後の受難週の後に復活祭を迎えます.私たちはイエス・キリストに意識を集中して日々を過ごします.

 さて歴史上のナザレのイエスの教会での敬称はイエス・キリストでイエスはヘブル語のイェホシュアの短縮形のイェシュアのギリシャ風呼称でその意味は〈救う〉に発した当時の一般的なものです.キリストはギリシャ語ですが元になるヘブル語はメシヤ、即ち〈油注がれたもの〉で〈救済者〉を意味しています.ここから判断できることは古代イスラエルに始まった〈イスラエルを救う者〉の理念が十字架にかけられた〈ナザレのイエス〉から当時のギリシャ-ローマの世界に宣教されて共通の概念が形成されたという事実です.そして福音書記者マルコが確認した〈福音〉が当時のギリシャの文化圏に伝えられやがてローマ帝国の世界に300年かけて徐々に、しかし確実に浸透したのです.ここではイエス・キリストの名称そのものが旧約聖書と新約聖書の内実を結びつけて、全人類的な信仰の表白になっているものと考えられます.マルコの福音書に記されたイエスの宣教第一声は、「神の国」と「悔い改め」と「福音」の三語を緊密に関連させ、「神の国はイエスと共にすでに来ているのだから、今までの自分の考え方と生き方をすっかり棄て去ってまったく新しい知性(認識)によってイエスの福音に信頼して生きよ!」という具合に考えられています.これはマルコの神学的姿勢を明白に表明していますが、ナザレのイエスの出現が喚起した当時の衝撃が生き生きと伝えられています.

2008/2

36[受難と復活]

私がもっとも大事なこととして君たちに伝えたのは、私自身も受けたことであった.それはキリストが聖書に書いてある通り、私たちの罪のために死んだこと、また葬られたこと、聖書にある通り三日目によみがえったこと、ケパに現れ、次に12人に現れたことである.(Iコリント 15:3,4)   ―私訳
イエスは‥‥一緒に食卓につかれた時、パンを取り、祝してさき、彼らに渡しているうちに、彼らの目が開けてそれがイエスであることが分かった.彼らは互いに言った.「歩いている時にお話になり、聖書を解き明かして下さった時、私たちの心が内に燃えたではないか」(ルカ 24:30―32)    ―私訳

 第一の聖句はパウロの言葉で最初の復活の出来事から20数年後に書かれ、第二の言葉はルカの福音書の復活記事で更に20年後のものです.早い方が新聞記事のように書かれ後の方が説話的に語りかけています.つまり〈事実の伝承〉と話し手の〈心理描写〉の差があります.

 さてこの季節は私たちの〈ナザレのイエス〉の「受難と復活」に念いを馳せることになりますが、この聖書の概念を現代語に置き換えると、人間の「死と生命」という主題が浮上するでしょう.

 ギリシャでもインドでもまた中国でも〈死と生〉は人間の究極の主題であり課題であり難題でもあって全ての宗教や哲学が格闘してきたし、常識的な人生論や人生観が真剣にあるいは見当違いにそれぞれの解答を出してきましたが、イスラエル史の〈律法と預言〉の最終的な解決として〈イエスの教え(言葉)と行為〉が示されたと新約聖書は告げています.

 パウロはローマ書で「私は彼ら(イスラエル人)が神に対して熱心であることは公言するが、その熱心は深い知識によるものではない.彼らは神の義を知らないで、自分の義を立てようとして神の義に従わなかったからである.キリストはすべて信ずる者に義を得させる(救う)ために、律法の終りとなったのである」(ローマ10:1―4私訳)、と言っていて、これは彼の全イスラエル史の批評であり解釈でもあります.これを人類史(現代史)として更に範囲を拡大して理解することが出来れば、人間の〈死と生、生命と死〉の問題を解くことになると考えられます.(続く)

2008/3

36-2[受難と復活―2]

墓の中に入ると(彼らは)右手に真っ白な長い衣を着た若者が座っているのを見て非常に驚いた.するとこの若者は言った.[驚くことはない.あなたがたは十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのであろうが、イエスは、よみがえって、ここにはおられない.ごらんなさい、ここがお納めした場所である.(マルコ16:5,6)
律法はモーセを通して与えられ、恵みと真実はイエス・キリストを通してきたのである.神を見た者はまだひとりもいない.ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが神をあらわしたのである. (ヨハネ1:17,18)

 弟子たちは[イエスはよみがえらされた]と信じて彼らの宣教を開始しました.つまり彼らを集め、彼らに教え、彼らと共に生活したあのナザレのイエスは十字架につけられて葬られたことは確かなことだったけれど、その墓は3日目(2日の後)には空虚でイエスの遺体はそこには発見できなかった、というのが事の始まりだったのです.その後クリスチャン(キリストのような者たち)という名で呼ばれる者たちが彼らの知っているイエスの教え(言葉)と行為を伝えるようになり、この人物の中に人間としての生活の模範と希望、また人間にとって解決不能な諸問題に対する解答を見出して「イエスは生きている」という信仰によって生きる集団としてのキリスト教会を形成しました.

 「人間の生と死」はこの地上のすべての人間にとってその〈意義と内実〉を明らかにしなければならない命題ですが、ユダヤ教の内部から出発してギリシャの世界に広がったキリスト教はそのすべての謎を解く鍵をナザレのイエスの中に見出す希望を懐くに至ったと言えます.新約聖書はこの難問に対する解答文書として成立したものと考えられます.人間がこの地上に現実に生きていて、しかもすべての人間が死ぬように定められているのは何故であるかということが問題なのです.他の諸宗教や思想に対する際立った特質として〈人間の罪〉という主題がユダヤ教以来この主題の中に潜在していることと、〈イエスの死〉がこの難問を解く鍵としても提示されていることを忘れては〈人間の生と死の本質〉を解明することはできないでしょう.パウロが「それは聖書に書かれているようにキリストが私たちの罪のために死んだこと、また葬られたこと、聖書にある通り三日目によみがえったこと‥‥」(・コリント15:3,4私訳)と言っているように、パウロだけではなく最初の弟子たちには〈イエスの死〉が〈われらの罪のため〉であるということが自明の理になっているのです.

 〈罪〉という語は旧約聖書以来のユダヤ人に伝統的な宗教用語で、創世記の「失楽園」以来聖書全体を一貫して流れる聖書の主題です.この罪は天地の創造主である神ヤーウェに対する人間の反逆、また不服従の行為の別名ですが、日本人である私たちに分り難ければ、われわれ人間の間柄の問題として捉えればよくて人間関係の破壊、つまり〈裏切り〉、反抗、また非道な仕打ちの行動と同質の非人格的行為を意味しています.このテーマは日本の近代文学においての主要な課題になっていて戦後の作家たちの間でも太宰治や遠藤周作が好んだ主題でした.勿論戦前の文学者たちもこのテーマを見ないで通り過ぎることが出来なかったことは言うまでもありません.代表的な例として漱石文学を挙げれば、彼は「門」などの三部作以来「心」から「明暗」に至るまで、彼自身の未解決の〈悩み〉として〈罪の意識〉を追求し続けます.残念なことに「則天去私」と言ってみても問題は些かも解けて来はしませんでしたけれど.

 日本人は明治以来欧米のキリスト教文化に触れないわけにはいかなくて嫌でも自分の中にこの〈罪〉の主題を抱え込みながら、キリスト教や聖書の本質には迫り得ないために、奇妙な悩みや不安の中に依然として生き続けているようなところがあります.

 私たちは現在よりも更に知性と信仰を明晰にして聖書の真理を追究する勇気を持ち続けるべきではないでしょうか.現在の程度の日本人のキリスト教理解ではまことに心もとなく思えてなりません.

2008/4

37[五旬節]

「だからイスラエルの全家はこのことをしかと知っておくべきである.君たちが十字架につけたこのイエスを神は主またキリストと確認しているのである.」人々はこれを聞いて鋭く心を刺され、ペテロや他の使徒たちに「兄弟たちよ私たちはどうするべきでしょうか」と言った.するとペテロが答えた.「悔い改めなさい.そして君たちひとりひとりが罪の赦しを得るためにイエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい.そうすればあなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう」 (使徒行伝 2:36―38 私訳)
「だからイスラエルの全家はこのことをしかと知っておくべきである.君たちが十字架につけたこのイエスを神は主またキリストと確認しているのである.」人々はこれを聞いて鋭く心を刺され、ペテロや他の使徒たちに「兄弟たちよ私たちはどうするべきでしょうか」と言った.するとペテロが答えた.「悔い改めなさい.そして君たちひとりひとりが罪の赦しを得るためにイエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい.そうすればあなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう」 (使徒行伝 2:36―38 私訳)

 上の句は最初のペンテコステ(五旬節)の折にペテロの「イエスはキリストである」という内容の説教に対する聴衆の反応を描写したものです.ポイントが「私たちはどうしたらよいのか? どうするべきか?」という質問とその解答にあるのは明白ですが、更に説明を付加すれば、ここで語られている「悔い改め」とは単なる〈反省〉や〈修正〉や〈やり直し〉ではなくて、一人の人物であるナザレのイエスの〈教えと行為〉を自己の面前に示され、その人物と現実に対面した時の人間に生起する精神(心)の状態を意味していて、〈これは大変なことに立ち至ったぞ〉という認識を示しています.また同時に〈どうしたらよいだろうか〉、〈この窮状から脱出する方法はないのか?〉という切迫した現実問題が提起されています.

 現代風に言えば〈人間実存の避けられない実状〉ということで人間はこの状態で正しい自己認識に到達するという事実を聖書(あるいはキリスト教〉は示していると考えてよいでしょう.人間はただぼんやりと、自然状態で自己自身を知ることは不可能で、他者の目、特に確実な優れた人物の視点から自分自身を正確に見抜くのでなくては正しい自己認識には達し得ないと思うべきです.ナザレのイエスの真(実)の姿に映し出された自己を見るということになるでしょう.これがキリスト教(会)の[教会=イエス・キリスト]の出発点であり、キリスト信徒の到達点であると言えます.現代のキリスト教〈会〉はあまりに複雑に発展構成され、夾雑物を数多く抱え込んで、自分で自分が何者であるかさえも分かり難くなっています.もう一度原点に立ち帰ることが肝要であると思うべきでしょう.

2008/5

38[教会=イエス・キリスト]

「御子は見えない神のかたち(像)であって、すべての造られたものに先立って生まれた方である.‐‐‐万物は彼(御子)にあって成り立っている.そして自らはそのからだなる教会の頭である.‐‐‐神は‐‐‐その十字架の血によって平和をつくり、万物、すなわち、地にあるもの、天にあるものを、ことごとく、彼によってご自分と和解させて下さったのである.」(コロサイ1:15〜20)

 この実に壮大なキリストと教会と全世界(宇宙)との関係はパウロ後の第2パウロとでも呼ぶべき人物の書き遺した文章でエペソ書(1:15〜23)に記されているものと内容は同じです.歴史的には〈教会〉は使徒行伝に報告されているように五旬節に人間の計画によらずに人間がイエスを正しく知る〉という事件が生起してその活動が開始したのですが、この〈イエス・キリスト〉はパウロ後の時代には全世界との関係において捉えられ、理解されて、人間の本質的な諸問題が 〈イエスという一人の人間〉と創造主である〈神〉との間で解決されていることによって、人間のすべての問題と困難の解答が啓示されたと信じられています.

 人間の歴史が現代においても驚嘆に値するほど混乱し、疲弊しきって、希望を失い、絶望的状態に陥っているのは、考えてみればイエスの時代には古代世界がイスラエルもローマも現実に崩壊の危機に瀕していたのですから、私たちが聖書において〈ナザレのイエス〉に出会っている状況は実にあの時代と些かも変わっていないと考えて間違いはありません.古代においてそうであったように私たちの現代もイエスに出会い、イエスを見出すことは困難で、私たち自身も聖日ごとにイエスを示されていながらイエスの真の姿を見ることもできずに礼拝堂を出て真の教会から遠ざかっているのではないでしょうか.

私たちが自分の生きている現代世界が確実で、このまま進歩発展すれば人間の将来は安心であると信じたり、自分たちはすでに〈真理〉を知っていてこれを手にしていると思い込んでいるとすれば、それが最も危険な崖っぷちということになります.

 「しかし今君たちが『見える』と言い張るところに君たちの罪がある」(ヨハネ9:41)というイエスの言葉は単なる皮肉や冗談ではないと思うべきでしょう.

2008/6

39[教会の本質]

わたしはまことのぶどうの木、君たちはその枝である.(ヨハネ15章)

 教会は「唯一の・聖にして・公同なる・使徒的な教会 (una, sancta, catholica, apostolica)」とニカイア・コンスタンティノポリス信条は告白しています.

 私たちの信仰問答では教会は「この世から選び分たれて、キリストの御言と聖礼典の下に立つ交わり」と定義され(ヨハネ15:16)、また教会は、「キリストの御言葉が真実に宣べ伝えられ、聖礼典がその設立の目的にふさわしく行われ、キリストの御名が自由に告白されるところに存在する」(エペソ1:23)と主張されていて、〈公同の教会〉は「キリスト教会が歴史全体を貫いて自己同一である」(K.バルト)と考えられています.このことは神の啓示には〈一つの歴史〉があるということと等しく、教会が本質的に変わることがないし、変わることができないということを意味します.教会が人間の希望や願望によって形成され、その運営が自分の思いのままになると考えている人々にはこのことは決して理解されることはないでしょう.

 「ただ一つの、聖なる、公同の使徒的な教会」とは人間の歴史の中にキリスト教会の信ずる唯一の認識(知識)の伝承が存在するということを意味していて、教会はこの地上の〈一本の伝承の樹〉なのです.この伝承はキリスト教の伝承で更に歴史的に正確には〈イスラエルのイエスの伝承〉、あるいは〈ナザレのイエスの伝承〉です.この事実を正しく理解するには〈イスラエル史〉の、つまり〈旧約聖書〉の優れた研究と解釈に限りなく接近する必要があります.

 人間の歴史は視点を変えると幾通りにもそれが互いにまったく異なるようにも見えてきて、その解釈も多様化してしまいます.そこで一つの正しい解釈と理解に到達するのは至難の業です.にもかかわらず、教会はイエス・キリストの中にこの問題を解く鍵を発見し、求め続けてきました.諸宗教間の真理決定問題や自家の信仰の真理性の主張の課題など乗り越えられそうもない困難や障害が直ちに直感されますけれど、他宗教との対話と同時に自家の神学の一層の研鑽が要請されるでしょう.固定化された自明の結論から自分自身を切り離さなければ一歩も先に進むことはできません.教会の聖日ごとの礼拝(含聖礼典)は聖書(言)の繰返しの限りない解釈の継続であり、人間の歴史における唯一の「正しい言葉」への希望に満ちた接近であり、その力の下での弛まない修練にほかなりません.

2008/7

40[教会=伝承の樹]

 最後に兄弟たちよ、すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて純真なこと、すべて愛すべきこと、すべてほまれあること、また徳といわれるもの、称賛に値するものがあれば、それらのものを心にとめなさい.
 君たちが私から学んだこと、受けたこと、聞いたこと、見たことはこれを実行しなさい.そうすれば平和の神が君たちと共にいますであろう.(ピリピ 4:8,9)

 パウロの〈最後の言葉〉ですが、前半は人類一般の道徳・倫理の話で後半は教会の伝承、特にパウロ的伝承について語っています.人類史全体から価値あると認められている道徳規準は、年代順に列挙すれば 1.孔子 2.シャカ 3.ソクラテスで、多少の差はあっても大体前5世紀頃に集中して各地に現れて〈人間の知恵〉を美事に定義し、いずれも書き遺すことなしに弟子たちに語り伝えています.パウロが彼らのすべてに通暁していることはあり得ませんが、パウロの語っている前半の言葉の内容は私たちの視点で見渡せば〈人類史上の知恵〉に該当します.この事実は論語における孔子の言葉、原始仏教伝承におけるシャカの言葉、プラトンの対話篇におけるソクラテスの言葉に明らかに看取できる道徳的善行為に共通の徳目によって実証できます.これより更に古い人類の道徳的規準は旧約聖書のモーセの十戒に集中的に表現されていますが、これは仏教の中にも、蒙古法の中にも(含、朝鮮古代の戒め)伝承されていて、人類普遍の道徳法として1.殺すな、2.盗むな、3.偽証するなが成立していることが分ります.

 日本人は仏教にも儒教にも朝鮮に比べても比較的新しい年代の後進文化に属することになりますが、共通の人類法の支配領域に入ります.大和朝廷成立後は平安時代にも鎌倉時代にも江戸時代にも古代以来人類一般に共通の道徳規準の下に教育されていたことになります.

 パウロはこの事実に、特にギリシャ―ローマの世界で〈ナザレのイエス〉の存在を意識しながら新しい時代の〈世界倫理〉を語りだそうとしているかのように見えます.その道徳の根幹には〈十字架の逆説的真理〉が厳然と据えられていて、この〈真理〉が人間関係の解き難い謎と困難(罪)の解決の鍵であり、解答であると主張し宣言しているのです.

 日本人は太平洋戦争に敗北して以来、旧来の善い徳目や戒めから解放されたことに喜び過ぎてアメリカ的利己的、利益追求の生活原理を採用し、他者と共に力を合わせて助け合う精神を忘れて家庭も社会も崩壊する道を選び取ったように見え、その結果を今刈り取っているのでなければよいのですが、そうであれば今ここで真剣に考え改めなければならないでしょう. 

2008/8

41[キリスト教的修練]

君たちは知らぬか、競技場を走る者のすべてが走っても賞を得る者はただ一人であることを.君たちも勝つために走れ.競技する者はすべてに節制する.彼らは朽ちる冠を得るためなれど、我らは朽ちぬ冠を得るためにこれを為すなり.
そこで我らは目標の定まらぬような走りはせず、空を打つような拳闘は決してなさぬなり.(私訳)                (コリント9:24〜26)

 パウロのオリンピック競技に言い及んだ言葉で、彼はあの古代競技会に対して「目標のはっきりしない空を打つような朽ちる冠のための競争」とからかいながら〈天上の冠〉のことを説いています.

 現代の日本人はと言えば、勝てば「勝った勝った、やったやった、日本!日本!」と絶叫して全世界に恥をさらしています.余程の劣等感がなければ人前であのように振舞うことはできますまい.

 しかしこれは単に個人としてもと言うばかりではなく、民族としても、国家としても、更にたたみかければ〈人間として〉その生活様式に問題がありそうです.

 パウロの「キリスト教的生活の訓練や修練」の奨励がオリンピック競技を宗教的修練の模範と考えている訳はなく、ましてや恵みを忘れた〈自力宗教〉の勧めをしているはずはありません.

 現実の現代オリンピックは特にこの数回は商業主義と肉体の限界に挑む英雄競争主義に堕して各所に病的な頽廃を露呈していて、その根源が〈自己利益追求〉の自己中心主義、更にその基礎に現代金融自由主義の経済原理ががっちり据えられていることは疑う余地がありません.この基礎構造の上に政治も経済も更に教育も福祉も医療も、宗教さえも組み込まれてしまっていることに気付くべきですが、政治家も企業家も教育者も宗教家も、事実を直視するのが怖くて、現実から目を背けて自分の利益獲得に邁進しているようです.この構造に現代オリンピックの構造がぴったり重なり合っているのは当然のことでその原理は社会学的には〈弱肉強食、優勝劣敗〉と表現されます.この道の行く先は 「彼らの最後は滅びである.彼らの神はその腹、彼らの栄光はその恥、彼らの思いは地上のことである.しかし私たちの国籍は天にある.」(ピリピ3:19)とパウロは考えていますが、彼は殉教を覚悟してこの認識に到達しているので、私たちの場合はまだまだ地上の思いにしがみついているように思えます.

2008/9

42[宗教改革―2]

神よ、願はくはなんぢの慈しみにより、我を憐れみ、なんぢの豊かな憐れみによりて、わがもろもろの罪をぬぐい去りたまえ.わが不義をことごとく洗い去り我をわが罪よりきよめたまえ. 詩篇51篇(私訳)
神の義はその福音のうちに顕示され(神の)真実に基づき、(人の)信仰に至らせる.  ロマ1:16(私訳)

 10月31日は宗教改革記念日で、M.ルターがヴィッテンベルクの城教会の扉に 95箇条のテーゼ(主張)を貼り出して改革の口火を切った日です.その第1条は「我らの主イエス・キリストが 『悔改めよ!』(マタイ1:17)と言う時、彼は信徒の全生涯が『悔改め』の一語に尽きることを求めているのである」と書かれていて、これはローマ教会のサクラメント(儀式)による形式上の〈赦し〉や単に形に表れた悔改めの行為ではなく、信徒の徹底的な信仰における改革(心)を意味していたのです.ルターの個人的な〈信仰の歩み〉には伝記的なまた宗教史的な限りない興味深い経験が隠されているけれど、その核心にはルターが彼の学力で「聖書」を読み抜いたという事実があって、この〈言葉〉による正確な聖書理解と自己理解がなければあの宗教改革はあり得ませんでした.全聖書の研究が彼の中で結晶していく過程を知ることこそが宗教改革とルター自身を理解する鍵であるはずです.ルターはヘブル語の旧約聖書とギリシャ語の新約聖書を修道院で読み進んでいくうちに悩みと迷いの雲が打ち開かれて〈福音〉、つまり人間を〈救う力〉に触れたものと考えられます.これは単なる人間の心理的な安心というようなものではなくて、言葉による人間の歴史(彼にとっては教会の歴史)と自分自身の真の姿の理解を意味していて、驚くべきことに彼はこの経験から近代ドイツ語を完成したのです.つまり全体的な人間理解に達した者には自分の母国語を完成させる力も身に付いているということなのです.現代の日本語は聖書の現代語訳(口語訳)を見ても分かるように聖書の内容も自分の日本語も正確に使えないという、人間としての実力の無さが示されているようです.さてそこでどうしたものでしょうか?

2008/10

43[滅亡と回復の預言]

汝らは繰り返し聞いても悟らないであろう.
繰り返し見ても分かることはないであろう.
これは彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟り、悔い改めて癒されることがないからである.
そこでわたし(イザヤ)は言った.
「主よ、いつまでですか」
主は言われた.「町々は破壊され、家々には人影もなく、人々は遠くへ移されるまでこうなっている」
その中に十分の一の残る者があっても、これも焼き滅ぼされる.
テレビンの木、樫の木が切り倒されてその切り株が残るように聖なる種族はその切り株である. (イザヤ書6:9―13要旨―私訳)

 真正のイザヤ預言でアモスと基本的に同質です.イスラエルは〈滅びの預言〉を聞いても悟らず、滅びを見ても理解せず、決して悔改めることがない、と語られています.しかし最後の「切り株」として残る「聖なる種族」の預言が真正か否かは今は措くとして、その文脈を解釈すれば、〈イスラエルは必ず滅ぼされる.それも徹底的に滅亡する〉が第一で、すべてが滅びるのであるが、「切り株」とか「聖なる種族」としてのイスラエルは何かということを問わねばならなくなります.これを第二に〈回復預言、また救済預言〉と考えては解釈学上文脈が同一ではなく意味が重ならないのです.

 滅亡預言はアモス、ホセア、イザヤ、エレミヤ、エゼキエルの前半、と捕囚前の預言者に共通で同質です.これらの書の中にある回復預言は原則として捕囚後の預言の付加と考えるのが正しいと思います.例えばイザヤ書では40章以後の第二イザヤ、第三イザヤはもちろん、第一イザヤの11―12章も後代の付加です.アモス書9:11―15も明白に同断です.

 そうであれば回復預言はまったく旧に復するイスラエルの回復の預言ではなくて、その意味は〈イスラエルはヤーウェから特別に愛され、選ばれたにもかかわらず、ヤーウェ(神)に背いてその〈戒め〉を守らなかったから、かくも徹底的に滅ぼされた〉という歴史的事実をイスラエル(含ユダ)に対しても全世界に対しても報告し続けなければならない、ということにあって、これが滅亡したイスラエルに与えられた〈使命〉である、ということになります.これをナザレのイエスを通して聞いたキリスト教会は自分自身でもこれを再確認して、それでもなお、イエス・キリストの再来までは地上で創造主の恵みにおいて生きることを喜ぶことができる、というのが〈福音〉の内実であり意義であるはずです.

2008/11

44[福音書の降誕記事]

「見よ、おとめがみごもって(男の)子を産むであろう.その名はインマヌエルと呼ばれるであろう.これは「神われらと共にいます」という意味である.」(マタイ1:23) 「彼女は(男の)子を産むであろう.その名をイエスと名付けなさい.彼はおのれの民をそのすべての罪から救う者となるからである.」(マタイ1:21)

 降誕の記事はマタイとルカに記されていて、マタイでは上の言葉に続いて東の博士たちの話を語っています.「イエス」という名は旧くは〈イェホシュア(ヨシュア)〉で〈ヤーウェは救いなり〉という意味です.マタイは常にイエスは旧約の預言の成就であるという立場を保持しています.旧約聖書に約束されている内実のすべてがイエスに収斂していることになります.

 「マリヤは月が満ちて初子を産み布にくるんで飼葉桶の中に寝かせた.客間には彼らのいる余地がなかったからである.」(ルカ2:6,7)

 ルカの羊飼たちの話は地上の密やかな言葉に対する天の栄光の充満を語っています.しかしルカの真意はおそらくは神の子の〈謙遜〉にあるようです.(ピリピ2:7-8)マタイとルカの語り口は民話形式とも神話様式とも言えそうですが、その意図は〈イエスが誰(何者)であるか〉を伝えようとしているはずです.

 マルコはイエス受洗の際の「すると天から声があった.『あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である』」という表現で降誕と同じ内容を語り、ヨハネは「すべての人を照らすまことの光があって世に来た.彼は世にいた.そして世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた」と記しています.マルコは〈イエスは神の子〉と告げ、ヨハネは〈イエスは神である〉と主張しています.もっともマルコの〈神の子〉は編集加筆です.

 いずれもおよそ二千年前の福音書記者たちの信仰によって書かれたものですが、これを現代人の私たちがどのように読み解くのかが現代の教会に与えられている課題です.

 歴史(学)的に観察すれば、最初にイエスに出会った人間は一人の人間であるが、活力に満ちた、明晰な頭脳の持ち主の、魅力的で個性的な人間であるイエスを見出したはずで、福音書記者の筆はこの点ではまったく一致しています.次はその言葉の独自性と人間性の豊かさに注目していて、最後に見落とすことができないことは祭司長やピラトに対する首尾一貫した態度と共に生活した弟子たちのために自分の生命を犠牲にした十字架への歩みに示された堅固で揺るぎのない精神であったと言えるでしょう.このイエスを〈正しい人〉(ルカ)〈神の子〉(加筆されたマルコ)、〈インマヌエル〉(マタイ)、〈神〉(ヨハネ)と告白し、後の教会は三位一体の〈子なる神〉の告白に到達します.この道程は〈ナザレのイエス〉の変化ではなくて信徒の側の〈信仰告白〉の変遷です.現代人である私たちはこのミステリー(神秘)を解読することによって人類史と世界史と人間である自分自身の謎を解くことになるはずです.

2008/12

45[イエスの呼称(称号)]

「そのころイエスはガリラヤのナザレから出て、ヨルダン川でヨハネからバプテスマをお受けになった」(マルコ1:9)

イエスの呼び名は推測すれば、ごく初期には「ナザレのイエス」(マルコ1:24)か「ナザレ人イエス」(マタイ2:23等)であったろう.ここには称号は何もなく〈ナザレ出身〉というほどの意味である.「イエス」は〈ヨシュア〉、つまり「イェホシュア」の短縮形で〈ヤーウェは救いである〉の意のギリシャ語音である.〈称号〉の最初は「正しい人」であったという仮説も考えられる.この〈正しい〉は dikaios でむしろ〈義しい〉と言う方がよくて(マタイ27:19,使徒3:14他)、旧約聖書の「義人」の概念と一致する.

 この〈義しい人〉が〈神の子〉(マルコ15:39、マタイ27:54)になり、〈神〉(ヨハネ)になる.

 これをイエスの生涯に合せて考えると、ルカが描いた聡明な少年(12歳)イエスが出発点であるが(ルカ2:51)、ルカは〈天才イエス〉や〈奇跡の行者イエス〉を書こうとはしていない.むしろ「それからイエスは両親と一緒にナザレに下っていき、彼らにお仕えになった」(ルカ2:51)と言っている.この〈仕える〉という語は〈下に立つ〉こと〈従順に服従すること〉を意味する.ルカの描写はどこまでも一人の健康で尋常な両親との関係の自然で良好な少年の姿を伝えようとしている.そしてその意図は明らかで誰にでもそのまま素直に理解される.

 公生涯に入る30歳の頃の記事は四福音書ともバプテスマのヨハネとの交渉によって始まるが、福音書の主役であるイエスはただ「イエス」と呼ばれて終始する.ただイエス自身が自分を「人の子」というのは自己の受難と結びつけている場合に特徴的で(マルコ8:31他)、旧約の黙視文学との関係が指摘される(ダニエル7:13―14)時は意味が異なる.

 「イエス・キリスト」と呼ぶ場合はキリストがメシヤ(油注がれた者)のギリシャ語訳であるが、これが称号であるか、一種の固有名詞的用法かは議論の余地がある.いずれにしてもこれは教会誕生後の教団的用法であることは当然である.

 このように福音書の段階(時期)ではイエスは〈イエス〉か〈ナザレのイエス〉と呼ばれ福音書の中に教会(教団)成立後の信仰が読み込まれる時に〈神の子〉あるいは〈人の子〉また〈キリスト〉が加わると考えるべきであろう.教会の信仰告白のような場面設定の時は歴史的事実の報告とは言えない(山上の変貌等).ここに福音書を読む時の難しさがあるがこのような手続を怠らずに歴史的イエスに近づく工夫が必要で更にここから〈信仰の対象〉としてのイエスを知ることができればその収穫は大きいと言えよう.この道は〈イエスを知る〉道であり、イエスを知解して信ずる道である.

2009/1

46[受難]

それから人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺され、三日の後によみがえるべきことを彼らに教えはじめ、しかもこのことをあからさまに話された.(マルコ 8:31)

  イエスの受難予告ですが、共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)共通の記事で、もちろん教会(教団)成立後の作成記事であることは〈復活予言〉を含むことからも明らかですが、その主旨は〈ナザレのイエス〉のような〈生き方〉をすれば、この世界では必然的にその時の支配者や指導者たちと衝突して抹殺される、という事実を明示することにあります.

 この意味ではこの事実は人間の歴史において繰返し実証されていて、旧約聖書の預言者たちのことは福音書のイエスの言葉によっても指摘されています(マタイ 5:12).イエスの先駆者たちにも見られるこの種の殉教の例はイエス以後の教会史のみならず一般社会の歴史においても絶えず反復されていて、あるいは人間の歴史は〈イエスの死〉を模範にした数々の殉教によって崩壊と滅亡とその結果としての無惨な絶望状態を免れ、その惨状から幾度も立ち上がって再生されてきたのかも知れないのです.

 福音書の受難予告に続くイエスの言葉は
「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て自分の十字架を負うてわたしに従って来なさい.自分の生命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにまた福音のために、自分の生命を失う者は、それを救うであろう.人が全世界をもうけても、自分の生命を損したら、何の得になろうか」(マルコ 8:34―36)

 どうも推察するところ、「汝ら悔い改めて、福音を信ぜよ」というイエスの第一声も「わたしに従って来なさい」というこれに続くことばもその内実は上述の言葉の中に潜められているようです.現代人は、ことに戦後の日本人はただ只管〈自分の生命を救おうとして〉、アメリカ人に至っては〈全世界をもうけようとして〉この数十年を夢中になって動き回り真の目的もなくただ徒に焦り暮らして来たようです.今度のアメリカの二重、三重の大失敗(戦争と金融と外交)によって人々の目が確実の覚まされたのならばよいのですけれど、いつでも大衆の目は夢見る眼差しで自分の人生と世界を眺めているように観察されます.これが杞憂でなければよいのですが‐‐‐

2009/2

47[イエスの受難]

わがいましめはこれなり.わが汝らを愛せしごとくたがいに相愛せよ.人その友のためにおのが生命を捨てること、これより大いなる愛はなし.(ヨハネ 15:12,13)
主はわれらのために生命を捨てたまえり.これによりて愛ということを知りたり.われらもまた兄弟のために生命を捨てるべきなり.(第1ヨハネ 3:16)

 福音書はマルコの筋立てに従ってイエスの受難を物語(説話)風に語っていますが、上の言葉は一種の〈勧告文〉の様式でイエスの十字架の事実を伝えています.説話様式ではナザレのイエスは祭司長たちの〈妬み〉によって十字架刑に処せられたと語られていて(マルコ 15:10,マタイ 27:18,マルコ 3:6参照)、一種の社会学的人間論形式の構造さえ看取されます.つまりイエスの受難は自分たちの利益(権)や人気が傷つけられたと感じまた考えた当時の指導者や支配者たちがイエスを排斥・排除するために十字架につけて抹殺したというのです.恥ずべき卑劣な支配者層の行為の結果で、そこには神殿経済の利権さえ絡んでいることは〈宮潔め〉(マルコ 11,マタイ 21,ルカ 19,ヨハネ 2)の事件からも推察できます.説話風の語り口からは歴史的、社会的背景やイエス自身の能力や性格、またイエスと人々(民衆)との個性的な人間関係の特殊性など、種々様々な推論が成立しますけれど、そのすべてを捨象して原点の原点まで追求してみると、ヨハネの結論に到達したのではないかと考えられます.

 ここではイエスと人間一般との関係という具合ではなくて、イエスとイエスの弟子たちとの実に特殊な関係が浮き彫りにされてくるのです.歴史的事実の原点は〈イエスの存在〉と〈イエスと弟子たち〉のもっとも近い〈人間関係〉であることは間違いありません.そこでこの原点から推論するとイエスの十字架刑のすべての秘密はこの〈関係〉の中にあると考えてよいでしょう.

 つまり〈イエスの生命は端的に彼の友人である弟子たちのために与えられた〉という仮説が成立します.これがもっとも素朴な歴史的原点ではないでしょうか.そうなるとイエスはユダかペテロ(あるいはこの二人)を通じて祭司長たちと〈取引き〉をしてイエスの生命と引換えに弟子たちの生命を救った、と考えられます.冒頭のヨハネの言葉は必然か偶然かは別にして平仄(辻褄)が合っています.

 そしてこの推測を公定するように思えるのがヨハネ18章のゲッセマネの園での〈イエス逮捕〉の場面の「わたしがそれ(イエス)であると言ったではないか.わたしを捜しているのならこの者たち(弟子たち)を去らせてもらいたい(8節)」というイエスの言葉です.これが後にパウロの神学によって〈贖罪論〉に発展します.

2009/3

48[イエスの愛の強さ=復活]

過越の祭の前にイエスはこの世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知り、世にいる自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛し通された.(ヨハネ13:1 口語訳)
極みまで(文語訳)、この上なく(新共同訳)、
eis telos (ギリシャ語―徹底的に、完全に)
unto the end (KJB), to show the full extent of his love (NEB), now he showed how perfect his love was (J.B)

 ヨハネは彼の福音書全体を通して〈復活のイエス〉を「我は復活なり、生命なり、我を信ずるものは死ぬとも生きん」(ヨハネ11:25)と言って読者の前に描いています.この意味ではイエスは既に生前のイエス自身が「生命」そのものであったと告げていると考えられます.しかもその〈生命の力〉はイエスの弟子(仲間)たちに対する〈愛の力〉として語られています.13章の言葉はイエスの〈愛の強さ〉を最後まで〈愛し通された〉(口語訳)と言っていますが、この和訳は文語訳では〈極みまで〉、新共同訳では〈この上なく〉となっていますけれど、文語訳の方が原語(ギリシャ語)に近いのは明白です.英語でも the full extent, また how perfect という語でその愛の徹底性と完全性を示そうとしています.

 イエスの〈生命〉はその〈力〉の中に働いていて、その〈力〉を新約聖書は〈愛〉と言っているのです.〈生命〉はそれだけでは自然の生命力に過ぎなくなってしまいますが、〈愛〉は他者との関係の中で生きる〈生命力〉です.その本質は〈自然性〉の中にあるのではなく他人格との間の関係を表現する〈愛〉の中に働いてその力を実現します.他者との関係が成立しない生命はそれだけで孤独に終って消え去るだけの自然現象です.自然の生命力はそれだけでは〈愛〉には成りません.イエスの力の不思議は彼の〈愛の力〉の中に存在し、働いています.ヨハネは彼の福音書でこの力の強さを一貫して徹底的に描き抜こうとしているように読み取れます.〈イエスは彼らをその極みまで完全に愛された〉(南部訳)と訳してみてはどうでしょうか.               

2009/4

49[聖霊論]

そういうわけで君たちに示しておくが、神の霊(の力)において語る者は誰も「イエスは呪われよ」とは言わないし、また聖霊(の力)の中にいなければ誰も「イエスは主(救い主)であると言うことができない.(Iコリント12:3)―私訳

 今年は5月31日がペンテコステ(五旬節、聖霊降臨日)です.この日にキリスト教会は誕生したと新約聖書は考えていますが、その原因や理由については説明に多くの言葉を必要とします.しかしいずれにしてもその中心的事象は「イエスがキリストである」という認識と告白に始まります.ここには自己の〈罪の悔改めとその赦し〉の経験に根差した信仰的経験がなければなりません.信仰者各自の経験は各人様々ですが、そのすべては〈イエス・キリストに出会う〉という事実が出発点です.

 その経験が「聖霊によらなければ」(口語訳)不可能であると語られていますが少し意訳すると「聖霊に感じざれば」(文語訳)になり、「聖霊の影響がなければ」 under the influence of the Holy Spirit.(NEB)となるけれど―ギリシャ語を直訳すれば―「聖霊においてでなければ」、あるいは「聖霊の中にいなければ」となります.これをもう一度意訳すると「神の力の中に居なければ」になるでしょう.この観点で参照できるヨハネの第一の手紙には「イエスを告白する霊はすべて神から出ているものであり、イエスを告白しない霊はすべて神から出てい驍烽フではない.これは反キリストの霊である」(4:1,2,3)で、主旨はパウロの論点から遠くはありません.

 さてしかし聖霊論には福音書に「聖霊を汚す者はゆるされない」(マルコ 3:28, ルカ 12:10, マタイ 12:32)という言葉があって、他のすべての人間的な罪は赦されても、聖霊に逆らい、これを冒涜する罪だけは永遠に赦されることはないという文脈で、理解が困難な言葉の代表格です.聖霊が神認識の原因であることは論理上理解できるとして、これを〈冒涜する〉ということはこれも〈侮蔑する〉といい直した方が意味が分りやすくて、聖霊による神認識はどちらかといえば形式論理ですが、〈聖霊を汚す〉は聖霊に対する内面的な人間の精神的態度を表現しています.つまり、神(創造主)に対して、これを侮る、軽く視るということですから、神を自分より低く見る、自分を神より高くする、ということになり、これは単なる言葉の上のことではなくて、〈生活態度〉そのものであると考えると分りやすくなります.要するに人間の中には、自分自身の判断や考えを隣人である他人に対してだけではなくて、創造主に対しても、そのような者は存在しないと、自分自身ですでに自分の考えにおいて決定してしまって言葉や祈りの中ではあたかも自分がその神を認めているような素振りをしながら、実はまったく〈生命の造り主〉である神を最初から無視して自己の生活を設計、工夫しながら絶えず自己実現を謀るという者(たち)がいて、この精神的態度が〈聖霊を(本心から)汚す〉という言葉の真意でしょう.ここでは人間が神になり人間が創造主になっていることになります.

2009/5

50[教会論]

二人または三人がわが名によって集まるところには我もその中にいる.

(マタイ 18:20,ヨハネ 14:23参照)
この教会はキリストの体であってすべてのものをすべてのもののうちに満たしているかたが、満ち溢れているものにほかならない.
(エペソ 1:23,コロサイ 1:15―20参照)

 福音書はイエスの名によって自分たちの生活と運命を共にする者の集まるところにイエスもその中に存在すると言い、パウロ後のエペソ、コロサイ両書は教会がこの世界における「キリストの体」自体である、という具合に少々神秘主義的に表現しています.つまりキリスト教会はイエス昇天後のこの世における「見えるキリストの形」であると言うのです.「教会」という信徒の集団が存在しなければ、見えるイエス・キリストはこの世界には現実体としては存在しないことになります.教会が単なる理念や思想ではなくて、見える教会という現実存在であるという事実は歴史の構造様式からの必然性と言ってよいでしょう.もちろん哲学的、また歴史学的、そして人間学的に教会信仰を早くから確立していたのです.

 ギリシャ人たちはプラトンに代表されるように彼らの〈理想〉を観念論的に追求するのに対して、イスラエル人たちはどこまでも現実的に歴史の経過から〈真理〉を見出そうとします.この思想史的闘争の中で新約聖書のいささか混淆的な表現が出現したようです.グノーシス主義というキリスト教信仰にとっては危険な思想的潮流が当面の相手(敵)だったために、福音書とヨハネの思想とパウロ、パウロ後の記者たちの間に少しずつ差異が見られることになったのです.

 日本人はと問われれば少々謙遜して言えば、この極東の列島人の大部分は主観主義的神秘主義者たちで思い込みの独り合点型の思惟様式に属しているように思えます.もちろんいくらでも例外は発見できますからこれですべてが決着しているわけではありません.しかし〈思い込みの信じ込み信仰〉では新約聖書の原点に到達できないでしょう.ここに日本人の信仰のアポリア(根本的困難)があるようです.つまり最初に聖書が伝えようとしている真理や事実に行きつく以前に自分の好みや思い込みによって自分勝手な主観的結論を得てしまうために相手の語ることに耳を傾けず、聖書と自分の間に対話が成り立たないのです.

 しかし私は日本のキリスト教会の将来に対して、いささかの悲観論も持ち合わせていません.私たちの先輩の何人かがすでに正確な対話を始めていたのですし、私たちもその足跡を追いかけているからです.よい指導者たちの真実の言葉だけが私たちの〈救い〉であり〈解決〉です.

2009/6

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