【最新更新日 : 2015年10月16日 金曜日

2015年の読書履歴(№10)

★ 評価は、私の独断と偏見でつけたもので、読んだ時点で「ん、これは良かった!」と思った本です。
  本そのものの良し悪しとはまったく関係ありません。☆はイチ推し、◎は、おすすめの本です。
NO 了月 書 籍 名 著 者 出 版 社 評価 抜き書き

100

15.10 


ハル・ノートを書いた男

須藤眞志

文春新書

はじめに

・日米交渉は、最初から最後まで誤解とパーセプション・ギャップ(認識の相違)の連続であった。
・日本には、アメリカと本格的な戦争をする意志は最後までなかった。それは力の差を考えれば当然のことである。それゆえ戦争回避のための日米交渉に、真剣に取り組まざるを得なかったが、相手国アメリカの真意については、ついぞ正確な認識を持つことがなかった。
・アメリカの場合、ドイツの攻勢がイギリスに迫るに及んで、ルーズベルト大統領が、心中、ドイツの同盟国日本との交戦を通じて、いわゆる〈裏口から」ヨーロッパ戦線に参加するという気持ちになっていたことは否定できない。日米交渉も明らかにそのための時間稼ぎの様相を帯びていた。
・アメリカは表面的には、日本との国交調整のための平和的な交渉を行いながら、その交渉にあたって自国の原則を決して曲げなかった。ハル国務長官やルーズベルト大統領がある程度まで戦争を決意していたと、見るしかないようである。

第三章 東条内閣と日米交渉

・東条内閣は必ずしも英米との戦争に入るための準備内閣であったわけではなく、対米交渉においては、むしろ近衛内閣以上に積極的であったとみることさえできる。
・東条はひと一倍天皇に対して忠誠心が厚く、天皇の御諚を絶対的なものと信じる性格の持ち主であった。大命降下の際に、東条は、天皇から、なによりも外交に努力せよと言われれば、それまでのいきがかりを捨てて、誠心誠意、外交的努力をするであろうと木戸は見抜いていたのである。
・首相となった東条が非戦論に傾いたことは、まずその人事に表れた。外務大臣に、平和主義者であった東郷茂徳を据えたのである。統合は入閣にあたり、内閣の方針は極力、外交交渉で進むと念を押し、東条もこれに対して、九月六日の御前会議の決定を白紙還元する意思と日米交渉打開の決意をしめした。
・東条は大命降下を境に、明らかにそれまでの主張を一変させ、主戦論から非戦論へ、強硬派から交渉派へと方向転換したのである。

・アメリカ側も、日本という国が、外務大臣や場合によっては総理大臣さえ、自国の軍事行動について、十分知らされないような政治機構になっているとは、まさか想像もできなかったのである。

第四章 暫定協定案はなぜ廃棄されたのか

・ホワイトハウスで開かれた「軍事会議」では、「われわれ自身が過大な危険にさらされないで、最初の一弾を撃たせるような立場に、日本をいかに誘導していくか」ということが論議された。

第六章 モーゲンソー案からハル・ノートへ

モーゲンソー案
・モーゲンソー財務長官の試案では、「はじめに」で、「“総力”外交の態度が十分な軍事的態度と同様に重要な国防手段となってきていることはますます明らかになっている」という書き出しで、いかに外交が重要であるかを説き、とくにアメリカのような豊かな国は外交の力を使うべきである、と主張している。
・第二部では、「米国と日本に関する自明の命題」として十二項目をあげている。その骨子は、日米戦争がいかに無駄なものかを説くもので、もし戦争になっても日本の勝利はなく、日本にとって敗北は国家的破産となるであろう、と書いている。

ホワイト工作のねらい
・H・D・ホワイト(日米開戦の年の四一年、後に「ハル・ノート」として有名になる歴史的文書の素案を書いた財務省特別補佐官)
・元ソ連NKVD(内務人民委員部、後のKGB)工作員ビタリ―・グリゴリエッチ・パブロフ氏によれば、ソ連は決して日米戦争を欲していたわけではなく、独ソ戦に備えて、ひたすら満州の日本軍の撤退を望んでいたという。日本が独ソ戦に乗じて満州から北進していることに強い懸念があったからである。
・それゆえホワイト工作の主眼も、なんとかして関東軍の撤退をアメリカの圧力と妥協で実現できないものかという点に置かれていた。
・そして日本軍が満州や中国から撤兵する、その「埋め合わせ」に日本に経済的利益をもたらそうというのが彼らの提案の枠組みであった。
満州からの軍の主力を引く代わりに、日本は通商上の利益を極大化させ、満州国そのものも植民地としてその発展が認められるというもので、ある意味で日本にとって、かなり宥和的な提案のようにも思われる。

第七章 なお残る謎――ハル・ノートと満州問題

交渉の余地はあったのか


<途中>

99
15.10

中国・台湾・香港

中嶋嶺雄

PHP新書

序章 「三つの中国」から「二つの中国」へ

中国に対する日本人の錯覚
・中国というと「古い国」というイメージを思い浮かべてしまいますが、実はまだ中国はようやく半世紀を経たばかりにすぎません。何百年もつづく王朝の間にいくつかの国々が興亡してきたように、長い中国の歴史からすると、まだまだ歴史の評価に耐え得る中国、すなわち中華人民共和国だとは言えないのです。

不安定な中国社会
・一九八九年に起こった六・四天安門事件は、民主化を求め、鄧小平独裁という、まさに「人治(人が治める政治)」の体制に対して「法治(法に基づく政治)」を要求した、中国始まって以来の近代的政治意識に目ざめた学生や市民のデモが天安門広場を埋めていたのです。そしてこの建国四十周年の時期には、中国はまさに体制的危機によって、社会主義体制が崩壊するかもしれないという大きな危機に直面していたのです。

台湾に対する過敏な反応
・中国は現在、江沢民体制の下で、「二十一世紀は中国の世紀」「中国は世界の大国」と言わんばかりに、ある種の覇権国家的な主張をつづけているように思われます。
・それだけに、米ソ冷戦体制崩壊後の世界の大きな問題としての米中関係があり、米中間は戦略的パートナーシップだということを相互に言わざるを得ないように、米中関係は新しい時代の大きな対立構造だと私は見ています。

「国家と国家の関係」発言
・日本人のなかには国連信仰が強いために、「国連」というと、すべての国際社会の運営を平等に行っている機関であるかのようにみなされていますけれども、そもそも戦勝大国としての安保常任理事国が拒否権をもっていること自体、今日の民主的な国際組織の運営とは完全に相反していると言えましょう。

第四章 台湾の発展

民主的な成熟した社会
・蒋経国時代を継承した李登輝総統は、台湾本省人出身の初代総統ですが、あの長い伝統をもつだけに古い体質を備えた中国国民党を、よくもここまで変化させ、台湾全体をアジアでもっとも自由な社会の一つに育て上げたものだと思います。この功績については、歴史が将来、さらに大きな評価を与えることになるでしょう。
・しかも、中国の統一政策の対象になっているとはいえ、二千二百万台湾民衆の民意はきわめて重くなりつつあり、そう簡単に中国によってコントロールできない社会をつくり上げています。

「二つの中国」
・従来から李登輝総統の持論は「台湾は独立した主権国家であって、中華民国台湾はすでに主権をもって立派に存在している。だからいまさら台湾独立を宣言する必要もない」というものです。
・むしろそうした中華民国台湾をいかに中身の濃いものにしていくか、豊かなものにしていくかというところに、台湾の政治改革、社会改革の大きな目標があるのです。
・改めて考えてみますと、台湾は政治的にも民主主義の制度のもとにきわめて成熟した国家をつくり上げています。総統や副総統も民主的な直接選挙で選ばれる、という体制にまでなっています。
・そして立法院などのいわゆる国会議員の選挙も、まさに侃々諤々(かんかんがくがく)、政党間で天下国家を大いに論じて選挙が行われるのです。

台湾海峡危機
・最近の日米ガイドライン(日米防衛協力のための指針)が台湾海峡を含むのかとか、TMD(戦略ミサイル防衛構想)が中国をターゲットにするのではないか、という疑念を中国は表明しています。
・これらはいずれも安全保障上の抑止の体制であり、中国自身が問題を武力で解決するという方針をやめさえすれば、問題は一切ないはずです。
・つまり、武力による問題解決という立場をとりつづけている中国の姿勢そのものが問われているのだと言わざるを得ません。
・とにかく国際社会の出来事を軍事的威圧や武力によって解決しようとする姿勢を転換しないかぎり、中国への信頼性は、本質的には固まらないのです。

第五章 アジアの中の中国

開発独裁による成長
・経済は成長したけれども、例えばそれに伴って政治的民主化や市民社会的成熟が深まったわけではなかったのです。アジアはその多くが開発独裁であって、国民の知的自由や学問の自由、政治的自由、人権、環境への配慮などを考えてみますと、いずれもヨーロッパやアメリカに比して、きわめて多くの問題を残しています。
・第一、アジアのなかに自由に言論が行使できる国はいくつあるでしょうか。アジアには多くの国が存在していますが、日本、台湾、インド、そしておくればせながら韓国ぐらいが、言論や民主主義が保証されている国であって、他のアジア諸国はほとんどが独裁体制を敷いてきています。
・シンガポールやマレーシアも、ピカピカのビルは林立し、大きなハブ空港は次々に建設されるけれども、それはすべて開発独裁だからできるのであって、ここにアジアの大きな問題がある。

社会主義の兄弟国北朝鮮
・日本がしばしば北朝鮮の脅威、北朝鮮の危険性を封じ込めるために、中国に頼って、あるいは北京をパイプとして北朝鮮を説得しようとしていますが、このような日本の外交姿勢は、根本的に間違っていると思います。
・つまり、中国は日本の要請で北朝鮮を説得するようなことを絶対にしない、そういう関係としての中国と北朝鮮の関係があるのではないかと思うのです。
・ここに日本外交の一つの問題があるような気がします。やはりアジアのなかの中国、その中国と北朝鮮はいわば主従関係だと考えなければいけないと思います。

第七章 日本にとっての中国

いい加減な中国の論調
・原爆に関しては、わが国は実に立派だったと思います。あの原爆被災という凄まじくも恐るべき悲劇を、戦後の日本は反米ナショナリズムの根源には決してしなかったからです。
・これは、日本人が戦争責任を感じていることの証です。「原爆を落としたのはアメリカだ。だから、アメリカはけしからん」という形で問題を立てていったのではなくて、むしろ日本の軍国主義、軍部の跳梁に対する反省と批判をもって、原爆の悲劇を直視しつつ、それを決して反米ナショナリズムや日本の戦後の対外政策のなかに位置づけてはいないところに、今日の日本の大きな意味、価値があるのです。これこそが重要な点であり、ここにわれわれが立脚すれば、歴史認識の問題は明確に整理できると思います。

謝罪よりもビジョンを提示すべき
・かつて中国で、中国の近代化の失敗の自己責任を問うた作家に、文化大革命のときに悲劇に陥った夏衍という劇作家がいます。中国人自身が一体、近代化にどう対処してきたのか、自らの責任はどうなのかということを問わずに、日本の侵略を主張することは、中国にとっても決して良くない、というのが彼の主張でした。
・台湾の李登輝総統はかつて私にこう言いました。たまたまその時期は村山首相が東南アジアを訪問していて、ベトナムなどで日本の戦争責任を盛んに謝罪して回っていたときです。そのとき李登輝総統は、
 「一体、あの村山首相の姿はなんですか、全く情けない。五十年も前の戦争のことを、アジアを歴訪して頭を下げて謝って回るなんてことは全く必要ない。いま日本にとって必要なのは、日本がこれからどういうビジョンで、どういうリーダーシップによってアジアのリーダーとして責任を取っていくのか、二十一世紀のアジアを日本がどのようなリーダーシップをもって導いていくのか、そういうビジョンこそ日本の首相に求められているのに、その点については何のビジョンももたず、全く哲学もなく、ただ頭を下げて歩いている。これが日本の首相の姿ですか
 と言って、親日的な心情から嘆いていました。

日中関係のタブー
・今回の小渕訪中でも、建国五十周年をお祝いするのは結構ですが、同時に天安門事件十周年であるにもかかわらず、あの悲劇を全くなかったように、一言も中国の人権問題に触れていません。
触れること自体がもうタブーになってしまっていて、とてもそんなことは触れることができない、恐る恐るでも言えないような雰囲気をつくってしまったところに、日中関係の大きな問題があるのです。
・パッテン元香港総督やクリントン大統領は、一方で中国との友好関係を強調しながら、他方では人権問題を堂々と中国側に言っています。
何回も何回も繰り返して中国側に言っていかなければならないのです。そういうことさえ日中関係ではタブーになってしまったという日中関係の形成の仕方は、日本外務省、そしてとくに日本の政治家の責任だと思います。
・台湾海峡が平和で安定していることは、日本にとって死活的に重要な意味をもちます。そして日米ガイドラインは、まさに先般の台湾海峡危機の発展として出てきた面があることはまぎれもない事実だと思います。

江沢民訪日の教訓
・中国が一方で軍事力を増強しているのに、日本から援助を引き出すために高飛車になるということに対しては、日本政府はきちんとものを言っていかなければなりません。円借款のあり方についても根本的な見直しが必要だと思います。
・日本が中国に言うべきことはきちんと言っていかないと、中国の指導者はますます日本を見下してしまいます。そもそも中華思想的な立場からすれば、日本は中国の属国ですから、そうした秩序観からすれば日本をほとんど評価していません。

あとがき

・解決が難しく思われる中国と台湾の統一の問題も、要は今日の中国が、台湾民衆にとって自らすすんで一緒になりたいような国になっていないところに最大のカギがあるのです。
・中国に返還された香港は、大変残念なことに、その繁栄を中国自身の手で奪われ、損なわれつつあるように思われます。 

98

15.09


江戸時代

大石慎三郎

中公新書

はじめに

・江戸時代とは、本当の意味での庶民の歴史がはじまった時代である。
・庶民大衆が家族をなし親子ともども生活をするようになったのは江戸時代初頭からのことである。
・人間であるからにはだれしも親はあったはずであるが、親子の生活が家というものを通して継承されるようになったのは、戦国末・江戸時代初頭以降のことである。この意味では家を媒介しての庶民の歴史がはじまるのは、古代邪馬台国前後からのことではなくて戦国時代末以降のことなのである。
・わが日本民族は江戸時代段階においては、約二五〇年余りものあいだ、内外ともに戦争をしていないということである。一つの巨大民族が約二五〇年ものあいだ、まったく戦争をせず平和を楽しみ、文化と富を蓄積した歴史が他にあるだろうか。

Ⅰ 世界にとりこまれた日本

3 狙われた日本の金銀
西欧人への日本の対応
・西欧人がメキシコ、ペルーの現地人にたいして行なった大虐殺、またその後の鉱山における奴隷労働に等しい使役・搾取が日本にたいして行なわれなかったのは、彼らに対応した日本人側のあり方(または日本社会の進展度)に求めなければならない。
・その第一は日本人の知的素質の高さであろう。
・しかも分立する権力軍はおのおの強力な軍事力をもっていたこと、また当時の権力者たちの彼らにたいする賢明な対応などが、その大きな要因といえよう。
・スペイン人がメキシコ、ペルーで実施した植民地経営方式は厳密にいえば、封建制類似の制度であるが、実質的には奴隷制と変わらないものであった。
・インディオたちは、人命などものの数ではないという状態であった。
・スペイン人が新大陸でインディオにたいして行なった行為は、より廉価な(できれば生産費零の)金銀財宝を手に入れるためなら、原住民を全部殺してもなんら恥じることがない、といったものであった。


4 第一次開国“鎖国”
どうして鎖国したのか
・天正十五年(一五八七)、禁教令発令。
・鎖国は、キリスト教倫理が封建体制に矛盾することを嫌った幕府の禁教策の帰結としてたどりついた体制であるが、その背後にはオランダによる日本貿易独占の意図や、西南諸藩が対外貿易で富裕化することを恐れた幕府の貿易利潤独占策があったのだとするのが通説である。

鎖国は世界と接触する手段


<途中>

97

15.09


鑑真

安藤更生

吉川弘文館

第一 在唐時代(一)

・鑑真が日本のために身命を()したという背景には、彼が揚州の国際的空気に馴れた人だったということが大きく作用していたと思う。その上、揚州は昔から日本と関係が深い。
・揚州は日本人が都へ行くにも帰るにも必ず立ち寄る中継基地であった。だから揚州の人々は日本人に親しみを持ち、日本の事情も割合によく知られていた筈である。

・鑑真は、およそ戒律の講座を開くこと、前後百三十回、寺を建てたり仏像を造ることは数えきれないほどで、袈裟を二千枚も作って山西省の五臺山に寄附したことがあるし、貴賤貧富平等の大集会を開き、貧民や病人の救済事業をおこすなど社会事業方面でも活躍した。一切経を写本すること三部、三万三千巻、得度(とくど)させたり、戒を授けたりした弟子は四万人に余る。

・なぜ日本が鑑真を招聘したかという理由
 七三〇年代において特に行われたというのには、その蔭に、特にそうしなければならなかった日本の政治的原因があったと見なければにならないし、事実その要因があったと認められる。
 ①僧侶の堕落
 ②律令政治の矛盾
  庶民の窮乏化がひどくなり、ついに本籍の地を離れて他国に流亡したり、各所にある寺院に身を投じて頭髪を剃り、僧侶となる者が続出した。
  当時、僧や尼は政府の課役(かやく)を免除される特典があったために、争ってこれになったのである。
  仏教を信じホトケの慈悲にすがろうというのではない。名を僧侶にかりて苛斂誅求(かれんちゆうきゆう)から(まぬか)れようとしたのにほかならない。
 ③民衆の流亡
・元興寺の華厳学者隆尊(りゆうそん)は舎人親王のところへ行って、「日本には戒律が(そな)わっていないから、王の御力をかりて、僧の栄叡(ようえい)を遣わして遣唐使に随行させ、伝戒の師たるべき人を迎えて、日本に戒律を伝授したい」と申し出た。そこで親王は隆尊のために奏し、勅をもって栄叡と晋照を入唐させたのだという。

第三 来日以後

一 第六回渡日の成功
・天平勝宝二年(七五〇)、日本政府は十七年ぶりに、また遣唐使を派遣することになり、九月二十四日、光明皇太后の甥で孝謙天皇の従兄に当る藤原清河が大使となり、大伴古麻呂が副使となった。
・翌年十一月にはさきの留学生で、在唐の経験豊かな吉備真備も副使に任ぜられた。このたびの遣唐使は、当時完成に近づいていた東大寺の大廬舎那仏(だいろしやなぶつ)に用いるべき黄金を唐から買って来ることが主たる目的だったといわれている。

・玄宗皇帝の謁見は、七五三年正月元旦に拝賀の儀があり、この日、天子は蓬莱宮の含元殿に出御し、百官参朝し、海外万国の使臣もまた参列した。
・拝賀の日、外交団の席次は東西の二班に分け、東班の第一席が新羅、次はサラセン、西班の第一席はチベット、次が日本になっているのを見て、大伴副使は位置に着くことを肯ぜず、色をなして接伴官にいった。
 「昔から今にいたるまで、新羅は大日本国に朝貢している国である。然るにこれを東の第一席にして、我れは却ってその下に坐らせるとははなはだ不当である。席次を変更して貰いたい」と。
・日本副使の頑として承知しない色を見て、新羅の使をチベットの下に就かせ、日本使を東班の第一席、サラセンの上に坐らせた。

・鑑真は天宝元年(七四二)第一回の渡日計画以来、実に十二年、五度の挫折・大難を乗り越えて、第六度目になって、やっと日本の土を踏んだのである。
・その間に三十六人の同志が(たお)れてしまい、脱落して行った者は二百余人もあったという。
・終始一貫して変わらずに到着した者は、鑑真と、弟子の思託と、日本僧普照の三人だけだった。
・和上らは、天平勝宝五年(七五三)一二月二六日、唐から同行した僧延慶の案内で大宰府に着いた。
・翌天平勝宝六年(七五四)二月一日、和上らは難波駅の国師郷についた。
・天平宝字三年八月一日をもって「唐律招堤(とうりつしようだい)」という名を立てて私立の寺を創立した。
・時の人は「唐律招堤」を略して「唐寺」と呼んだ。後に官立となって「唐招提寺」と名づけられた。

・天平宝字三年(七五九)六月二日、ちょうど唐招提寺の創立準備が進められているころ、普照は平城京の京外の道路ばたに街路樹として果樹を植え、夏は行人をして樹陰に暑熱を避けさせ、飢えれば果実を摘んでこれを食べることが出来るようにしたいと上奏して採用されている。これが日本の街路樹の最も古い例である。
・藤原・鎌倉を通じて明治に至るまで、日本の仏教彫刻といえば、ほとんど木彫に限られてしまう伝統は、実はその源を鑑真一派の木彫に発しているのである。

96

15.09


20世紀 どんな時代だったか 戦争編 日本の戦争

読売新聞社編

読売新聞社

まえがき

・「日本の戦争」を振り返る時、われわれが第一に考えなければならないのは、何が日本を戦争に導いたのかという問いかけであり、その回答の一部は、確たる安全保障観の欠如に由来する無原則な利益の拡大と、リーダーを失い官僚化した組織の政治への介入に求められるであろう。そしてこれは、まさに現在の日本が直面している課題である。

第1章 日米対決

日米衝突 中国めぐり覇権争い
・戦争は、米国と日本の間でほぼ半世紀にわたって生成された問題が爆発したものだった。最も重大な対立点は、日米どちらが中国で主要な役割を果たすかだった。

軍縮会議「対米7割」海軍の執念
・軍縮を巡る、加藤寛治中将主席随員と、加藤友三郎首席全権(大将)の衝突は、「国防は軍人の専有物にあらず」と、国力を判断して「対米不戦」の立場をとる友三郎と、「持たざる国は平時から強大な兵力が必要」とする寛治の戦争観の相違から生まれたものだった。
 このギャップが、海軍内部に「条約派」と「艦隊派」の対立を生んでいく。

海軍と開戦 中堅将校強硬な主戦論
・四〇年当時、日本は、中国大陸からの撤退か、南方進出かの選択を迫られていた。石川信吾(海軍省軍務局第二課長、終戦時海軍少将)は、中国大陸からの撤退は英米への屈従として断固反対の立場をとっていた。
 この時の米内、近衛両内閣は、軍撤退も南方進出もせず国際情勢の変化を待つ姿勢だった。「現在からみれば、この方針が最善だったかもしれない。しかし、石川らには、これは主体性のない無為無策にしか見えなかった」と秦郁彦・日大教授は指摘する。
・石油禁輸をきっかけに「座して死を待つより打って出るべし」との意見が強まる。これが「じり貧論」だ。
 だが、海軍省首脳は、それでも開戦に関してはまだ消極的だった。
 米国との国力の差を考えると、消耗戦、総力戦になれば、国力に劣る日本に勝ち目はないと冷静に判断していた。
・回避派が主流だった海軍省にしても、最後は開戦に同意した。その要因の一つが、「省益」擁護だった。

開戦決定 軍の官僚化 迷走に拍車
・開戦という国家の重要意思決定に至る道は、開戦か平和かをめぐる攻防を軸に、近衛首相ら政府、陸海軍、外務省などの各機関の思惑や利害が交錯し、迷走を続けた。
 そもそも、こうした意思決定のあいまいさは、明治憲法そのものに内在し、現在にも通じる官僚的な縦割り組織の硬直性も反映していた。
陸軍も海軍も結局は官僚だった。陸軍士官学校、陸大と昇っていった学校秀才らがエリートとなるようなシステムができ上がり、新しい状況への即応力が欠如していたのではないか。
両論併記、玉虫色の字句修正、先送り――戦争をめぐる意思決定過程にみられたこうした特徴は、政治のリーダーシップの不在、官僚の独走など、現代日本の政策決定と相通じるものといえる。

第2章 アジアの戦争

勤勉と融合 南洋を開花
・「冒険ダン吉」のモデルともなった南洋のトラック諸島では、島を変えたのは日本人の勤勉さだと言う。
 スペイン、ドイツは、少数の白人が島民を使役した。しかし日本人は働いた。
 裁判制度などが進んだのも日本時代だ。

満州事変 軍独走 国際協調を破壊
・日本政府は軍が次々と作りだす既成事実を追認していった、
・さらに、一連の軍事行動を国民が圧倒的に支持したことも軍に自信をつけさせた。
 事変拡大とともに、「鬼畜に劣る徒輩を排撃」(読売新聞三一年十月五日)など、新聞は中国への侮蔑(ぶべつ)と憎悪をあおった。
 国民も、軍部が引きずったのではなくして、輿論(よろん)が政府を鞭撻(べんたつ)し、軍を激励し続けた。


第3章 帝国統治

戦争報道 強制と迎合で“宣伝役”に
・戦前から戦中にかけての新聞は、数々の規制により報道の自由を奪われていた。だが一方で、新聞社側から積極的に権力に迎合していったことも明らかになっている。

第4章 戦争の世紀を生きる

斎藤隆夫と反軍演説
・四〇年二月二日、第七十五議会の再開二日目に、斎藤は立憲民政党を代表し、「支那事変(日中戦争)の処理方針に関する質問演説」を行なった。
 「ただいたずらに聖戦の美名に隠れて、国民的犠牲を閑却し、(いわ)く国際主義、曰く道義外交、曰く共存共栄、曰く世界平和、かくのごとき雲をつかむような文字を並べたてて、そうして千載一遇の機会を逸し、国家百年の大計を誤るようなことがありましたならば、現在の政治家は死してもその罪を滅ぼすことは出来ない」
・斎藤は一貫して、軍部の政治介入に警鐘を鳴らしてきた。二・二六事件(三六年)後の第六十九議会で行った「粛軍演説」では、軍部によるクーデーター計画である三月事件と十月事件(いずれも三一年)を(やみ)に葬ったことが五・一五事件(三二年)を生み出し、その首謀者に対する軽い判決が二・二六事件を生み出したと指摘。「軍人が政治運動に加わることを許すと、政争の末、ついには武力で自己の主張を貫徹するに至るのは自然の勢いであり、ここに至れば立憲政治は破滅する」と訴えた。
・斎藤は反戦主義者ではなかったが、国民の軍部に対する批判や疑問を代弁し、政治家としての責任を見事に果たした。ところが議会は国民の声を封殺し、軍部と手を結ぶことによって戦争指導体制に食い込んでいったのである。その点で、政党の戦争責任も小さくない。

日米開戦 あの時何があったのか
・元国連大使、加瀬俊一氏は、日本の外交目標として「道義国家日本の旗を高く掲げたい。平和への奉仕に不退転の決意を持ち、安易な対米従属心理から離れ、アジアに信頼されるリーダーとしての責務を果たすべきだ」と訴えている。
・東郷茂徳外相は「ハル・ノートは交渉経過からして疑問の余地のない最後通牒であり、開戦条約の『最後通牒』規定より強いものであった」との認識の上に、「こうしたものが来た以上、日本は自衛のために立ち上がるのであり、自衛のためならば(国際法上、理論的には)無通告で攻撃をしてもよい」とすら考えていたようだ。

第5章 昭和天皇と戦争

「昭和天皇と戦争」京都座談会
猪瀬直樹
 ずっと大きな流れでいえば日清戦争と日露戦争は日本の独立戦争だった。
 つまり弱肉強食の世界で、食うか食われるか、つまり植民地になるか、独立するかという、そういう瀬戸際で選んだ。それは戦争がいい悪いの問題じゃなくて、独立戦争だからしょうがない。
 日露戦争は、ロシアが、韓国から下りてきたら、もうやられちゃいますから、そういう生存の危機意識というものが、日本人の国民の根底にしみついています。どくりつせんそうとして戦わざるを得なかった。
梅原 猛
 藤原不比等という人が日本の天皇制を作った。
 日本の律令では、天皇の権力の及ぶところを全部、剥奪している。それは当時の天皇は知らなかったと思うけれども、ちゃんと要点を全部、剥奪して、そし太政官が、つまり太政官のの中心にいて藤原不比等が自分で一切の権力を握れるようにできたんです。
 だから現在に近いんです。が、明治維新で別の天皇制を作ったわけです。
 一応天皇親政の形で、しかも憲法を作って立憲君主制にした。これは二重三重に、妥協の産物です。だから矛盾が今の天皇制の中にもあったと思うんです。
 明治の天皇制が、ちょっと日本の伝統からいえば変則なんです。
 もともと日本の天皇は武官でも文官でもない。それが武官になった。それは天皇の権威の失墜です。
阿川弘之
 「皇位継承」はともかく百二十五代続いてきているのです。これは世界でも珍しい存在で、大事にしたらいいと思います。天皇制という言葉が時々、出ているけど、これには僕は抵抗がある。大正十二年に共産党が作った用語で、要するに否定する含みを持たせてある。
猪瀬
 東条が(戦争を)やらないような方向で、なんとなく総理大臣になって、非常に消極的になっているのにもかかわらず、議会で「東条、お前、日和ったか」なんて決議を出したりしちゃう。国民の間にそういう空気とか流れというのがあったんですね。メディアの責任は大きいでしょう。
 戦争の負け方で、どこで撤退するのかということを決める意志の強さが、天皇個人だけでなく、その時の政治家や軍人たちも含めてなかった。教訓としてこの問題は残ります。
梅原
 「独白録」には、もう一回、敵に打撃を与えて、それで終戦にしないと結局、無条件降伏せざるをえない。戦果を挙げてと、こういう思想が終戦を遅らせたと思う。
猪瀬
 当時の国家の中枢にいた人たちがずるずると戦争の深みに入っていったことについては、最近の日本の経済状況と同じ。引き際の決断ができず、『中国で犠牲になった十万の日本兵を見捨てることは出来ない』と言いながら、結果は三百万人もの戦死者を出した。この負け方の不得手さを、日本人は戦後の経済戦争でも引きずっている。

95

15/09


「空気」の研究

山本七平

文春文庫


「空気」の研究

・「空気」、この言葉は一つの"絶対の権威"の如くに至る所に顔を出して、驚くべき力を振っているのに、気づく。「ああいう決定になったことに非難はあるが、当時の会議の空気では・・・・・・」「議場のあのときの空気からいって・・・・・・」「あのころの社会全般の空気も知らずに批判されても・・・・・・」「その場の空気も知らずに偉そうなことを言うな」「その場の空気は私が予想したものと全く違っていた」等々々、至る所で人びとは、何かの最終決定者は「人でなく空気」である、と言っている。
・ものごとの採否は「空気」がきめる。従って「空気だ」と言われて拒否された場合、こちらにはもう反論の方法はない。人は、空気を相手に議論するわけにはいかないからである。
・「空気」これは確かに、ある状態を示すまことに的確な表現である。人は確かに、無色透明でその存在を意識的に確認できにくい空気に拘束されている。従って、何かわけのわからぬ絶対的拘束は「精神的な空気」であろう。

・驚いたことに、「文藝春秋」昭和五十年八月号の『戦艦大和』でも、「全般の空気よりして、当時も今日も(大和の)特攻出撃は当然と思う」(軍令部次長・小沢治三郎中将)という発言が出てくる。
・この文章を読んでみると、大和の出撃を無謀とする人びとにはすべて、それを無謀と断ずるに至る細かいデータ、すなわち明確な根拠がある。だが一方、当然とする方の主張はそういったデータ乃至根拠は全くなく、その正統性の根拠は専ら「空気」なのである。
・従ってここでも、あらゆる議論は最後には「空気」で決められる。最終的決定を下し、「そうせざるを得なくしている」力をもっているのは一に「空気」であって、それ以外にない。これは非常に興味深い事実である。
・というのは、おそらくわれわれのすべてを、あらゆる議論や主張を超えて拘束している「何か」があるという証拠であって、その「何か」は、大問題から日常の問題、あるいは不意に当面した突発事故への対処に至るまで、われわれを支配している何らかの基準のはずだからである。
・では、この「空気」とはいったい何なのであろう。それは教育も議論もデータも、そしておそらく科学的解明も歯がたたない“何か”である。
・「あのときの空気では、ああせざるを得なかった」
 「せざるを得なかった」とは、「強制された」であって自らの意志ではない。そして彼を強制したものが真実に「空気」であるなら、空気の責任はだれも追及できないし、空気がどのような論理的過程をへてその結論に達したかは、探求の方法がない。だから「空気」としか言えないわけだが、この「空気」と「論理・データ」の対決として「空気の勝ち」の過程が、非常に興味深く出ている一例が『戦艦大和』の話である。
・これに対する最高責任者、連合艦隊司令長官の言葉はどうか。「戦後、本作戦の無謀を難詰する世論や史家の論評に対しては、私は当時ああせざるを得なかった( ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅)と答うる以上に弁疏(べんそ)しようと思わない」であって、いかなるデータに基づいてこの決断を下したかは明らかにしていない。
・それは当然であろう。彼が「ああせざるを得なかった」ようにしたのは「空気」であったから――。
・こうなると「軍には抗命罪があり、命令には抵抗できないから」という議論は少々あやしい。むしろ日本には「抗空気罪」という罪があり、これに反すると最も軽くて「村八分」刑に処せられるからであって、これは軍人・非軍人、戦前・戦後に無関係のように思われる。

・戦後、この空気の威力は衰えたのであろうか。盛んになったのであろうか。
 相変わらず猛威を振るっているように思われる。
・もっとも、戦後らしく「ムード」と呼ばれることもあり、昔なら「議場の空気」といったところを「当時の議場の全般のムードから言って・・・・・・」などという言い方もしている。
・そして時にはこの「空気」が竜巻状になるのがブームであろう。
・いずれにせよ、それらは、戦前・戦後を通じて使われる「空気」と同系統に属する表現と思われる。そしてこの空気(ムード)が、すべてを制御し統制し、強力な規範となって、各人の口を封じてしまう現象、これは昔と変わりがない。

一体、「空気」とは何であろうか。それは非常に強固でほぼ絶対的な支配力をもつ「判断の基準」であり、それに抵抗する者を異端として、「抗空気罪」で社会的に葬るほどの力をもつ超能力であることは明らかである。
・諸例は、われわれが「空気」に順応して判断し決断しているのであって、総合された客観情勢の論理的検討の下に判断を下して決断しているのではないことを示している。
・われわれは常に、論理的判断の基準と、空気的判断の基準という、一種の二重基準(ダブルスタンダード)のもとに生きているわけである。そしてわれわれが通常口にするのは論理的判断の基準だが、本当の決断の基本となっているのは、「空気が許さない」という空気的判断の基準である。
・ある種の論理的判断の積み重ねが空気的判断の基準を醸成していくという形で、両者は、一体となっている。
 いわば議論における論者の論理の内容よりも、議論における言葉の交換それ自体が一種の「空気」を醸成していき、最終的にはその「空気」が決断の基準となるという形をとっている場合が多いからである。

・戦艦大和の出撃などは“空気”決定のほんの一例にすぎず、太平洋戦争そのものが、否、その前の日華事変の発端と対処の仕方が、すべて“空気”決定なのである。

・天皇制とは典型的な「空気支配」の体制である。

「水=通常性」の研究

・ある一言が「水を差す」と、一瞬にしてその場の「空気」が崩壊するわけだが、その場合の「水」は通常、最も具体的な目前の障害を意味し、それを口にすることによって、即座に人々を現実に引きもどすことを意味している。
・「全体空気拘束主義者」は「水を差す者」を罵言で沈黙させるのが普通である。
・われわれは今まで自己の通常性を無視して、「空気」さえ盛りあげれば何かができるような錯覚を抱きつづけてきた。太平洋戦争とは、まことに痛ましい膨大なその大実験である。
・みな内心では、誰かが「降伏しよう」と言い出してくれないかと、それだけを心待ちにしていた。いわば「陸軍が始めたのだから陸軍が言い出すべきだ、今日言うか、この次に言うか」と一方が梅津参謀総長に期待すれば、御当人は「軍人は最後までそれが口にできないのだから、だれかが言ってくれないとこまる。外務大臣は言わないのだろうか、今日言うか? 明日言うか?」期待し合っていた状態である。

・天皇がただの人間にすぎないことは、当時の日本人は全員がそれを知っていたが、それを口にしないことに正義と真実があり、それを口にすれば、正義と真実がないことになる、と言うことも知っていた。一言でいえば、それを口にする者は非国民すなわち「日本人ではない」ということなのである。

・日本における拘束の原理
 ある状態で、人は何に拘束されて自由を失うのか? なぜ自由な思考とそれに基づく自由な発言ができないのか。そしてその状態にありながら、なぜ「現在の日本には自由が多すぎる」といえるのか。なぜ「譲れる自由」と「譲れない自由」といったおそらく世界の「自由」という概念に類例のない、まことに不自由な分類が出てくるのか。それはおそらくわれわれが、「空気拘束的通常性」の中に、どこに「自由」という概念を置いてよいかわかにないからである。

情況倫理とは
 「あの情況ではああするのが正しいが、この情況ではこうするのが正しい」「当時の情況も知らず、その情況を欠落させ、今の(情況下)基準でとやかく言うのは見当違いだ、当時の情況ではああせざるを得なかった。従って非難さるべきは、ああせざるを得ない情況をつくりだした者だ」といった種類の一連の倫理観とその基準である。
 この論理は、「当時の空気では・・・・・・」「あの時代の空気も知らずに・・・・・・」と同じ論理だが、言っている内容はその逆で、当時の実情すなわち、対応すべき現実のことである。
 従って空気の拘束でなく、客観的情況乃至は、客観的情況と称する状態の拘束である。従って“空気”と違って、その状態を論理的に説明できるわけである。

「空気」と「水」と「自由」の関係
・戦後の一時期われわれが盛んに口にした「自由」とは何であったか。
・それは「水を差す自由」の意味であり、これがなかったために、日本は破滅を招いたという反省である。
・戦争直後「軍部に抵抗した人」として英雄視された多くの人は、勇敢にも当時の「空気」に「水を差した人」だった。
・従って「英雄」は必ずしも「平和主義者」だったわけではなく、“主義”はこの行為と無関係であって不思議でない。
・「竹槍戦術」を批判した英雄は、「竹槍で醸成された空気」に「それはB29にとどかない」という「事実」を口にしただけである。これは最初に記した「先立つものがネエなあ」と同じで、その「空気」を一瞬で雲散霧消してしまう「水」だから、たとえ本人がそれを正しい意味の軍国主義(ミリタリズム)の立場から口にしても、その行為は非国民とされて不思議でないわけである。
・そしてこれらの言葉=水の背後にあるものは、その人も言われている人も含めての、通常性行動を指しているわけだから、この言葉は嘘偽りではなく事実なのだが“真実”ではないということになるわけである。
・この行き方が日本を破滅させたということは、口にしなくても当時はすべての人に実感できたから、「水を差す自由」こそ「自由」で、これを失ったら大変だと人びとが感じたことも不思議ではなかった。

・われわれは今でも「水を差す自由」を確保しておかないと大変なことになる、という意識をもっており、この意識は組織内でも働き、同時にこの自由さえ確保しておけば大丈夫という意識も生んだ。
・だがしかし、この「水」とはいわば「現実」であり、現実とはわれわれが生きている「通常性」であり、この通常性がまた「空気」醸成の基であることを忘れていたわけである。
・そして日本の通常性とは、実は、個人の自由という概念を許さない世界であり、したがってそれは集団内の情況倫理による私的信義絶対の世界になって行くわけである。そしてその情況倫理とは実は「空気」を生み出す温床である。
・そしてその基本にあるものは、自ら「情況を創設しうる」創造者、すなわち現人神としての「無謬人」化「無謬人集団」なのである。
・「空気」も「水」も情況倫理と情況倫理の日本的世界で生れてきたわれわれの精神生活の「(かて)」と言えるのである。空気と水、これは実にすばらしい表現と言わねばならない。というのは、空気と水なしに人間が生活できないように「空気」と「水」なしには、われわれの精神は生きていくことができないからである。
・その証拠に戦争直後、「自由」について語った多くの人の言葉は結局「いつでも水が差せる自由」を行使しうる「空気」を醸成することに専念しているからである。そしてその「空気」にも「水」が差せることは忘れているという点で、結局は空気と水しかないからである。

解説
・近頃は受験勉強で課目数が多いのは子供に負担過重だという意見を述べる人が多いが、人間の頭脳はそれ程記憶容量が少ないものかどうか。山本氏に問えば恐らく、各科目が各専門家のエゴで唯我独尊的に教えこまれるから子どもが拒絶反応を起こすのであって、全ての課目をひとつに束ねる基本原理、あるいは束ねて生きてゆく目的、あるいは考えてゆく喜びなどを子供に自覚させるのが先決だ、と答えられるのではないだろうか。そうすれば頭は受け入れるのである。

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がんを治す「仕組み」はあなたの体のなかにある

真柄俊一

現代書林

まえがき

・がんはしこりとして発見された時点で、すでに全身のどこかに転移している可能性があります。その転移している「がんの芽」が育たないようにすれば、がんの再発は防げます。
・がん細胞と戦っているのは自分自身のリンパ球です。抗がん剤や放射線による治療は、そのリンパ球や、リンパ球をつくっている骨髄にさえ危害を加えているのです。
・一九八八年に発表されたNCI(アメリカ国立がん研究所)の公式レポート「がんの病因学」には、「抗がん剤はがんを治せないだけでなく、増がん剤である」とまで書いてあります。
・日本のがん治療の現場は、いまでも「三大療法」(手術・抗がん剤・放射線治療)に固執しています。
・ここ数年、日本でも代替医療台頭の兆しが見えてきましたが、がんセンターや大学病院では、ろくにその勉強もしないで「科学的根拠がない」と、決めつけています。
・西洋医学の本家であるアメリカのNCIが、それまでの持論を捨てて「証明されたがん治療法はない」と、公式文書で渋々認めたのが一九九〇年暮れのことです。
・一九八七年、アメリカの上下両院議員四〇名は、連名でOTA(アメリカ議会技術評価局)に非通常療法のことを調査するための専門プロジェクトを発足させた。
 「通常療法では治らないとされた末期がん患者が、非通常療法ではたくさん治っている。議会はこれらの療法のことを詳しく調べ、国民に知らせる義務がある」
・欧米先進国が一九九〇年を境にして軒並みがん死亡率を下げ、日本だけが上昇を続けている不思議な謎に対する答えは、「欧米では抗がん剤で治らないことを知った国民(特に知識層)の多くが、それから逃げ出した」ということだ。

第一章 抗がん剤が患者を殺す時

・マスコミが権威側に追随する姿勢をとっている国では、改革が起こらないことは、医学に限らずいろんな分野での歴史が証明している通りです。
・進行した肺がんは治療法がないというのが本当のところですが、抗がん剤や放射線を使わなければ、少なくとも苦しむことはほとんどありません。
・抗がん剤を長期間使えば耐性ができる。

第二章 なぜ、米国でがん死亡率が低下しているのか

・「現代病は現代医学では治らない」
・多くの抗ガン剤治療は激しい副作用を伴っていて、腫瘍を縮める効果が必ずしも生存期間の伸長という治療の本来の目的にはつながっていない。
・要するに現代西洋医学のがん専門医たちは「がんを小さくすること」を治療の第一義にしていますが、それが患者さんのためになってはいない。
・フォード大統領指令によるマクガバン・レポート、そして国会議員四十名の主張から生まれたOTAレポート。超科学大国アメリカが国を挙げて研究調査した結果、
 現行の通常医療、つまり現代西洋医学はがん治療に対し無力に等しいということでした。なかでも、抗がん剤治療は無力なだけでなく、患者さんにとっては逆効果にしかならないということも明らかにしました。
・ガン細胞は抗ガン剤をぶつけても、自分の中の遺伝子のはたらきで抗ガン剤を無力化させてしまう。
・一九九二年、アメリカ国民が代替医療に費やした年間費用が、通常医療の病院に支払ったそれを初めて上回ったのです。
・それまで現代西洋医学側から“非科学的”と排斥されていた代替医療へと、自らの選択の方向を変えたわけです。
・九二年、日本の厚生労働省にあたるNIH(国立衛生研究所)に「代替医療部」が初めて設置されたのです。そして、それが国立がん研究所(NCI)などと同格の国家機関である「国立補完代替医療センター」(NCCAM)に昇格しました。

第三章 日本のがん治療はこんなに遅れている

・代替医療とは現代西洋医学以外の医療の総称ですから、四千年の歴史を持つ中国医学をはじめ、古代インド医学、かつてヨーロッパにおける医療の中心だったホメオパシー医学など、数多くの伝統医療が含まれています。つまり、現代西洋医学よりはるかに長い歴史を有するのが代替医療です。
・西洋医学よりも以前から存在していた医療が、なぜ「代替」と呼ばれるのか。そこには、この百年あまりのうちに急激に発展してきた現代西洋医学の(おご)りがあるのです。
・西洋医学がどんどん「科学的」になるにつれ、見失っていったのが、人間が本来持っている「自然治癒力」です。
・例えば、手術の後、患部を糸で縫います。時間が経てば傷口はふさがっていきますが、糸がふさいだのではありません。その人が持っている自然治癒力がふさいだのです。
・又、何かで指を少し切ったとき、みなさんは傷口をなめたりするはずです。そうするうちに、血が止まり、傷口もふさがる、そんな経験をお持ちでしょう。これが自然治癒力です。

第四章 がんは免疫の病気という認識が生んだ新療法

◆・・・革命的な“安保理論”と自律神経免疫療法
・新潟大学大学院医学部教授・安保徹の著書より
・人間の体は六十兆個もの細胞からなっており、それらの細胞のはたらきはすべて自律神経によって支配されています。自律神経というのは、意思とは関係なく内臓や血管などのはたらきをコントロールする神経です。
・この自律神経には、緊張したときに優位に働く交感神経と、身体を休めたときに優位に働く副交感神経とがあります。それらがシーソーのようにお互いに主導権を握り合いながら、私たちの体の働きを整えているのです。
・安保理論が画期的なところは、免疫を担う白血球もまた、自律神経の支配を受けるという発見でした。
・白血球は顆粒球、リンパ球、マクロファージからなっており、正常なときのそれらの比率はおよそ六十%、三十五%、五%であり、その数と働きが自律神経によって調節されています。
・副交感神経が優位に働くと白血球の中のリンパ球が増え、逆にストレスがかかると交感神経が優位に働いて白血球のなかの顆粒球が増えます。こうしてバランスが崩れると免疫力が低下し、病気に罹りやすく、がん細胞もできやすくなる。また、免疫力が低いままだと病気も治りにくい――というのが安保理論の骨子です。
・ひと言で言うなら「自律神経白血球支配の法則」という画期的な発見です。この安保理論に基づき、副交感神経を優位にしてリンパ球を増やし免疫力を高めることで治癒しようというのが自律神経免疫療法です

◆・・・リンパ球を増やし、活性化させる「刺絡(しらく)治療」とは?
・自律神経免疫療法の中心になっているのが「刺絡治療」です。
・いわゆる鍼灸でいう「ツボ」を針で刺激し、わずかに出血させる治療法を刺絡治療というのです。これによって副交感神経を刺激し、リンパ球を増やし、さらに活性化させます。
・リンパ球が増え活性化することが、免疫力を高め治療につながるのです。
・ことにがんの場合、胎内のがん細胞と戦うのは、そのリンパ球にほかなりません。ですから、リンパ球の増加、活性化が治療法として有効になってくるのです。
・「刺絡治療」をメインにして、マクガバン・レポートを参考にした「食事治療」、それにPNI(精神神経免疫学)にヒントを得た「心理面の治療」を加えた三本柱で、総合的にがん治療に役立てようというのが、私の行なっている「自律神経免疫療法」ということがいえます。

・江戸時代までの医学は「鍼灸」と「漢方」が中心でした。医学といえばそれを指していたのです。その後、明治時代になって現代医学が盛んになるにつれ、鍼灸と漢方は衰退していきます。それは同時に、自然治癒力を重視する治療法の衰退の歴史でもあったわけです。

・筑波技術短期大学前学長、西条一止名誉教授の研究によって解明されたのは、「座位、呼気、浅刺(せんし)、これら三つの条件がそろったときに、副交感神経が優位に働き、しかもその効果が持続しやすい」という事実でした。

・「がん幹細胞」は、ガン細胞を生み出す「がんの製造工場」ともいえる細胞だということがわかっていますが、研究によると「幹細胞に放射線を照射すると、転移する能力が高い悪性のがん細胞が増えることも分かった。

取れるがんは取ったうえで、自律神経免疫療法によって自己免疫力を高めていく、これがより良い選択だと思います。
・手術で取れるものを拒んで最初から免疫治療だけに頼ることは、やはり避けるべきだと思います。
・がん免疫治療において大切なことは、リンパ球の数そのものより、リンパ球を「活性化」させることだということです。
・がん細胞と戦うリンパ球は、もちろん数が多いの越したことはありませんが、ただ多くても駄目なのです。そのリンパ球が活性化しているかどうか、つまりがんと戦い得るほど機能が質的に強くなっているかどうかが重要なのです。

第五章 飛躍的に進化した自律神経免疫療法

・横浜コンフォート病院理事長・宇野克明医師の理論の卓越した点は、がんに関する免疫機能の作用機序を徹底的に追求した結果、がん患者の場合、リンパ球がつくる免疫活性物質(これを「サイトカイン」と言います)の産生能力が健康な人と比較して著しく低下していることを突き止め、これを活性化させて正常に戻してやることができれば、がんの進行が止まったり、治癒に向かうことを発見したところにあります。

・私たち人間の体の中では、毎日がん細胞が生まれているのに、実際にがんとして発症しないのは、体内の免疫機能が働いているからです。
・免疫機能には二段階があり、最初の段階を「原始免疫」といいますが、ここで活躍するのがリンパ球のなかのひとつであるNK細胞です。
・このNK細胞ががん細胞を取り逃がしてしまったときに待ち構えているのが、第二段階の「獲得免疫」と呼ばれているシステムです。
・ここで活躍するのがマクロファージや樹状細胞、キラーT細胞などのリンパ球であり、その中心としてがんと闘っているのがキラーT細胞です。
・このキラーT細胞こそががんとの闘いの主戦力ですが、問題はこのキラーT細胞は命令を受けないと、言い換えれば情報を与えられないと動き出せないことです。
・がんを発病した場合も、低下した免疫機能を正常なレベルにまで回復させること、言い換えればがんを攻撃するヘルパーT細胞(Th1)を元気にし、インターロイキン12インターフェロンγなどのサイトカインをたくさん放出できるようにすることが重要なのです。
・単にリンパ球が多いだけでは駄目なのです。単に数ではなく、質が問題です。重要なことはがん細胞と戦い得るキラーT細胞を活性化し、インターロイキン12やインターフェロンγなどのサイトカインを産生することだったのです。

・がん免疫ドックは、正式には「イムノドック(IMMUNO DOCK)と呼ばれています。免疫機能の状態を検査し、それを明確な数値で表示する画期的ながん免疫検査システムです。
・従来、現代医学側が免疫治療を批判するとき、常にヤリ玉に挙げているのが「科学的根拠がない」という点でした。そうした批判を見事に封じ込めようとしたのが、免疫状態を数値化するこの検査システムともいえます。
・がんセンターや大学病院などで、腫瘍マーカーの検査というと、がんの部位によって二、三項目しか調べません。これは現在の健康保険制度の弊害で、それ以上の検査は保険の適応がないためです。

第六章 がん再発予防にこれほど成功した

・現代医学のがん専門家が「免役」を無視しているひとつのいい例として、彼らが持っている治療手段、つまり手術・抗がん剤・放射線以外の治療でがんが消失した場合に、それを「がんの自然退縮」と呼ぶことが挙げられます。
・「自然治癒力を引き出す」のもりっぱな治療であると考えますが、彼らは「治療」として認めないのです。
・しかし、「がんを治す仕組み」は、もともと私たちの体の中にあるのです。二十世紀以降の医学が、それを忘れてしまっているだけのことです。
食事やメンタル面を含めた指導で、日常生活をできるだけ人間本来のあるべき姿に戻してやると、がんにはなりにくくなりますし、がんになっても治りやすく、また進行が遅くなります。

手術と免疫治療を併用する治療法が最善である。
②手術をしても免疫治療を行わないと、しぼう危険度は約三倍になる。
③手術をしないで免疫治療だけを受けるのは、両方やった場合と比較すると死亡危険度は約八倍になる。

第七章 末期がんにも目を見張る効果を確認

・がんが治るかどうかについて語るとき、最も重要な要素は、実は「患者さんが治ると信じる心を持つこと」です。通常療法では、平気で余命宣告をする先生が多いようですが、その行為が治る可能性を低めていることを知らなければなりません。
手術ができる場合には、まず手術を受けるべきです。そしてその後に、免疫力を上げる治療をして再発を防ぐようにする、という考え方が、生命の安全性という見地からは最善であることを強調しておきます。

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困った隣人 韓国の急所

井沢元彦
呉 善花

祥伝社新書

序章 なぜ、歴代韓国大統領には、まともに余生を全うした人がいないのか

歴代韓国大統領の悲惨な末路――井沢
・韓国の歴代大統領は朴槿恵を除いて一〇名いますが、いずれも悲惨な末路をたどっています。暗殺一名、自殺一名、亡命一名、不祥事件で親族に逮捕者・実兄者を出したのが三名(のべ六名)、軍事クーデタ追認で失脚した者一名という具合です。こんな国は韓国以外にはどこにもないでしょう。

血塗られた李承晩の施政――
・韓国では血縁に絶対的な価値が置かれますから、血縁の維持・繁栄のためにはいかに腐敗と言われようともかまわずやりますし、場合によっては血を流すことをもいとわない。
・朝鮮半島の政治はまさしくこのメカニズムによって動いてきたと言っていいでしょう。政治党派にしてもイデオロギー集団にしても、自分たちが絶対的な正義で善となりますから、他はすべて不正義で悪、殲滅(せんめつ)して当たり前という論理にもなっていきます。
・罪は親子親族にまで及ぶのが李朝の伝統です。

竹島を占拠した李承晩――井沢
・そもそも竹島問題は、韓国が勝手に李承晩ラインを引いたことに始まるものなんです。

後進アジアの革命はみな軍事クーデタだった――
・アジアをはじめとする後進国の革命は、ことごとくと言ってよいほど軍事クーデタです。それにはいろいろ理由があると思いますが、最大の理由は、旧支配階層・地主・進行資本家といった勢力が国家社会の実権を握っており、それぞれが利権獲得に血道をあげて国家国民を顧みることがないという状況下で、大多数の人々が疲弊に(おちい)っているという現実があるからです。
・選挙といったってまともな選挙は望めません。李承晩時代の韓国は、まったくそのような状態にありました。
・軍人というのは、社会の諸集団による利権獲得競争の外に位置していて、国民の安全を図る国防が職業ですから国家意識も強く、利権屋どもを毛嫌いし、純粋に国家国民のために思う気持ちを強くもつ者たちが多いものです。
・どんな利権集団をも抑えての政治力を発揮し得る、唯一の権力集団が軍隊なんですね。国民にもそうした期待があって、世論の支持を背景に軍事クーデタが起きるのが一般的です。

第一章 崩壊へとひた走る韓国社会

韓国では、賄賂(わいろ)も利益斡旋(あつせん)も悪い事ではない――
・韓国に腐敗が蔓延(まんえん)しているのは政治家や役人に限ったことではなく、社会全般にわたることなのです。
・そもそも韓国の社会では、賄賂や利益斡旋などはとくに悪いことだと考えられていません。便宜(べんぎ)(はか)ってやったのだからお礼を貰って当たり前、そこに公私の区別はありません。
・学校の先生に贈り物をするのは韓国の親の常識で、誰もがやっていることです。私の子どもによくしてくださいねという気持ちなんですが、気持ちだけではだめで、形で表してこそのことなんです。
・これが贈り物競争みたいになってしまって、だんだんと高価な物になっていくんです。貰うほうとしても、これだけの物をくれたんだからと、それ相応のことをしてあげるのが韓国では人情深い人として尊敬されます。

大盤振る舞いの精神を善とする社会通念――呉
・血縁に限らず人からたくさんの物を貰えるだけの力があてこそ立派な人物だ、自分がもつ力を人に分けてあげられてこそ立派な人物だという、いわば大盤振る舞いの精神を善とする社会的な通念があるんですね。
・たとえば大統領選挙でいろいろな人に支援してもらったり、手伝ってもらったりしますね。それで大統領になれば、この助けてくれた人たちに対して、それ相応の便宜を図ってやらなければ、「大統領とはいってもなんて力のないやつか」と軽蔑されます。ですから本人としては自分の力を見せつけるためにも、大盤振る舞いをすることになります。
・これが終わりますと、次には息つく間もなく、親戚縁者がどっと押し寄せてくるわけです。大統領といえば最高の成功者です。それならば、自分のまわりの者たちに何か一つでも地位を譲ってあげるのが当然。これをしないと大変なことになります。

国家が信じられない――呉
・朝鮮半島ではひっきりなしに外国からの侵略を受けてきましたので、朝鮮半島の者たちにも中国人と同じように、国家というものは信じられない。信用できるのは家族だけという意識が根強くあります。
・韓国では家族以外の他者は信用できない人たちだというのはごく当たり前の考えです。このことは儒教と深くかかわっています。

若年失業率は日本の二倍――井沢
・日本の失業率は、二〇一一年で全体の四・六%に対して若年失業率(十五~二四歳)は八・二%です。
・韓国の若年失業率(十五~二九歳)は、公表は七・六%だが、韓国雇用情報院の研究によれば、実際には一六・七%にもなる。
・韓国の若年雇用率は二十三・八%でOECD諸国で下から二番目だということです。
・日本の大学卒の就職率は九三・六%ですが、韓国は五九・五%なんです。しかも六〇%近くが非正規雇用で、給料は正規雇用の半分ということです。

韓国経済は輸出を伸ばすしか生きる道がない――井沢
・GDPに占める割合でいうと、日本は輸出一四・〇二%、輸入十四・五五%ですが、韓国は輸出四九・八六%、輸入四六・九八%と、貿易依存度が極端に高い。
・G20で最も高い貿易依存度である。

ウォン安頼みの輸出の危うさ――呉
・日本が通貨スワップ協定で韓国に外貨融通の保証をしているため、ウォンは暴落しないわけです。
 ですから、韓国政府は日本の保証のお陰で、何の心配もなく自国通貨をどんどん売り、ウォン安を維持し続けることができているんです。

第二章 韓国を(むしば)む儒教の伝統・・・・・・身に沁みこんだ朱子学の価値観

韓国が「孤児輸出大国」である理由――呉
・韓国では一九九一年になってやっと、女にも財産継承権が認められ、女が単独で戸籍をもつこともできるように民放が改正されました。それまでは離婚した場合、協議によって母親が子どもを育てることになったとしても、子どもの戸籍は父親の戸籍まま動かすことができませんでした。
・そこで問題は、未婚の母となったときです。未婚の女性が子どもを産んだ場合、女が単独で戸籍を作れないわけですから、その子の戸籍を載せるところがありません。
・そういうわけで戸籍の入り先のない子どもたちが多数出てくることになってしまい、そうした子供たちの多くが外国へ養子として「輸出」されていったんです。
・アメリカへの養子は、毎年一〇〇〇人以上の赤ちゃんが海外へ養子に出されています。
・恥ずべきことに、海外に出す養子のなかでは障害児がとても多いのです。
・障害児を海外に養子に出しているのはOECD諸国では韓国が唯一だそうです。

女を排除する強固な父系血縁主義――井沢
・韓国の血縁主義はきわめて強固な父系血縁主義ですね。女は結婚しても男の戸籍に入ることはできず、実家の父親の戸籍に()り続けるわけです。だから姓が変わらない。
・男女別姓で、これは中国でも同じですが、日本で主張されている男女別姓とはまるで意味が違うものです。(とつ)いできた他姓の女を一族の成員とは認めない、男系の血筋の継承者だけを一族と認める、強固な父系血縁主義です。

・儒教のよくない考えの一つに労働蔑視があります。肉体労働や手仕事・技術仕事、総じて頭ではなく身体を使う労働を卑しい仕事と蔑視する価値観が、儒教にはあるんですね。この伝統的な労働蔑視の考えが、今の韓国でも脱しきれていないと思います。

両班(ヤンバン)は汗を流してはいけなかった――呉
・大の男が汗を流すのはみっともないという李氏朝鮮時代以来の考えが、今の韓国にも残っています。この考えは、李朝時代の支配層として政権を担当した高級官僚、貴族身分の両班(武班と文班の総称)に発するものです。
・李朝時代には、両班たる者は汗を流してはならないということが、万人の上に立つ彼らが確固として守るべき重要な一つの規範としてありました。

朝鮮は、朱子学一本で国家国民を統括した――呉
・日本と朝鮮の国民性が決定的に違ってしまった最大の要因が朱子学にあると思います。李氏朝鮮以前の高麗王朝の時代は仏教国でしたが、李氏朝鮮は仏教を弾圧して朱子学を中心に国づくり、社会づくり、倫理づくりをしてきたわけです。

第三章 「反日なき韓国」の時代はやってくるのか?

朴正煕(パクチョンヒ)は偏狭な反日主義者ではなかった――井沢
・石原慎太郎さんが朴正煕と直接話した内容
 「日韓併合を、或る意味で冷静に評価したのは韓国の大統領だた朴正煕さんだ」
 朴さんは『しかしあのとき、われわれは自分たちで選択したんだ。日本が侵略したんじゃない。私たちの先祖が選択した。もん清国を選んでいたら、清はすぐ滅びて、もっと大きな混乱が朝鮮半島に起こったろう。もしロシアを選んでいたら、ロシアはそのあと倒れて半島全体が共産主義国になっていた。そしたら北も南も完全に共産化された半島になっていた。日本を選んだということは、ベストとはいわないけど、仕方なしに選ばざるを得なかったならば、セコンド・ベストとして私は評価もしている』と言った。

日本統治体験をもつ七〇歳以上には親日派が多い――呉
・[日本の統治は]李朝の両班の残酷性と戦後独裁政権に比べてましであると思われていた事もけっこうあった。
・戦後の韓国の民主主義的学者たちは、国家主義のイデオロギーの極大化により、ナショナリズムが高まり侵略主義に対する独立運動に焦点を置き、その研究成果の大部分は、否定的な面だけであって、客観性の乏しいものが多い。

親日を公言すれば社会的な抹殺を受ける――井沢
・韓国で親日と言えばイコール売国奴です。
・外国に出て韓国の反日教育の間違いを知っていく人は少なくない。
・韓国で歴史を正しく論じることができないのは、論じたら韓国の社会ではまともに生きていくことができなくなるからです。

血のつながった運命共同体の意識で寄り集まる――呉
・海外移住は大部分が国内への不満からなんですが、どこへ行っても同胞相集(どうほうあいつど)うと一塊りになるのは、血のつながっていない相手は信用できない、血のつながった韓国人なら信用できる、という血族幻想のようなものが染みこんでいるからです。
・反日を大々的に公言し、従軍慰安婦碑を建てることでいきがいを感じている。反日教育は単なる頭脳教育ではなく、心身に深く刷り込んでいく反日民族教育なんです。

韓国人の教養は受験に役立つ知識ばかり――呉
・韓国では勉強は学生時代にすることで、卒業したら勉強なんてしないのが普通です。大人になってまで勉強をするのかとバカにされるだけのことです。
・大人というのは、もはや勉学を要しない完成された人間だという価値観があって、日本のような生涯教育なんていう発想はまったくありません。

反日民族主義は「日本の口封じ」への万能薬――呉
・日本が竹島領有権問題を国際司法裁判所に提訴するのは、「日本はこれからは竹島領有権の正統性を、国際社会に向けて積極的に発言していく」という姿勢を強く示したものととして私は評価したいと思いまする
・韓国政府が最も恐れているのは、韓国の反日民族主義が「日本の口封じ」への万能薬ではなくなっていくことです。だから日本は、口を閉じてしまってはならないんです。

日本国憲法のおかしな平和主義――井沢
・竹島の実効支配というのは、言ってみれば侵略ですよね。他国から侵略されているのに、日本はずっと文句を言わずに来た。
・せいぜい抗議するくらいでね。そこには日本国憲法の問題があるんですね。
・憲法第九条では、国際紛争は武力で解決しないと言ってしまっているものですから、この条文がある限りはいくら侵略を受けてもそれに対抗できない。
・尖閣諸島での中国がやっている程度のことなら何とか対抗できるけれども、実効支配しているのを実力で排除することまではできない。
・それをしたら憲法違反になってしまいますからね。そもそも自衛隊の地位も安定していない。
・だから韓国が強気で出られるわけで、要するに日本はそこにつけこまれているんです。
・日本は平和主義だからそれでいいんだと言う人もいますが、これは何々主義かの問題ではなく国家セキュリティの問題ですよ。





<作成途中>

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常紋トンネル

小池喜孝

朝日文庫

・常紋ずい道工事
 労務者は人権を無視された過酷な取扱いをうけ、粗食と重労働で病気にかかる者も多く、医薬も与えられず、体罰を加える。そして使役不能とみたものは、一定の箇所に監禁し、死者はそのまま次々と、大きな穴の中へ投入してしまうという、残酷非道なことが、公然と行われたといわれている。このずい道工事中、百数十人の若者が犠牲となり、ずい道附近に埋められております。

・一八九一(明治二四)年に網走集治監(刑務所)をつくり、一、二〇〇人の囚人が道路工事に出役させられた。この道路を網走道路というが、別名「囚人道路」とも呼ばれた。
・札幌の東本願寺別院から発見された「収(囚)人過去帳」には、一八八一(明治十四)年の樺戸(かばと)集治監設置から、一九三四(昭和九)年までに、北海道と樺太(現サハリン)で獄死した四、六〇〇人の氏名が記されていた。
・また「網走刑務所過去帳」によれば、一八九一(明治二四)年の死亡者は二三八人で、そのうち道路工事以外の死亡者二六人を引いた二一二人が、囚人道路の殉難者だった。

・行刑は懲戒を第一とすべしと命じたのは山形有朋であり、懲戒のほかに、「労働力」としての資本の鞭を加えさせたのは、太政官書記官金子堅太郎だった。
・囚人の死を、監獄費支出の減少として奨励した金子は、囚人の血に染まったその手で帝国憲法草案を執筆した。
 一八八五(明治一八)年に提出された金子復命書によって、翌年、北海道庁が開設され、その道庁によって死の囚人労働が実行に移されたのである。
・幌内炭鉱のために設置された空知(そらち)集治監では、一八八六(明治一九)年以降、囚人の死傷者数が急増した。
・一八八六年に、アトサヌプリ硫黄山(釧路支庁弟子屈(てしかが)町にある)の硫黄採掘と清廉のため、標茶(しべちや)に釧路集治監を設置し、その囚人を使った。彼らは硫黄で失明し、栄養失調と過労で倒れた。
・常紋トンネル工事では、人夫の待遇が悪くて、脚気(水腫病といった)の病人がたくさん出た。病人が出ても治療しないし、当時この病気は伝染病だということで、生きてるうちに穴を掘って、埋めてしまったという。
棒頭(ぼうがしら)(タコの幹部)がタコをスコップで叩いてトンネル内に人柱としてたて、それをみせしめに他のタコを働かせた。

・明治政府は、当初、北海道を開拓するのに、「士族(賊軍兵士)・屯田兵・囚人」という三つの拘禁労働者を送り込んだ。自由意思で渡道したり帰郷できる者は、寒冷に耐えて原始林を切りひらくことは、むずかしかったからである。
・道路や屯田兵屋の一部は、囚人によってつくられた。一八八一(明治一四)年の樺戸集治監にはじまり、翌八二年に空知、八五年に釧路、九一年に網走の各集治監が設置され、多いときには七、〇〇〇人以上の囚人が開墾・道路工事・建築現場のほか、炭鉱・鉱山の採掘・精錬などに使役された。
・硫黄山・網走道路で多くの囚人を死なせた典獄(刑務所長)教誨師(きようかいし)ら行刑官は、囚人に懲戒の鞭と資本の鞭をあてる誤りを訴え、囚人の外役労働廃止を内務大臣井上馨に求めた。一八九四(明治二七)年、囚人の外役労働は廃止されたが、廃止を主張した行刑官はそろって職を追われた。
囚人に代わって北海道の拘禁労働者の主力になったのが、タコである。囚人の鎖に代わって、暴力がタコをしばった。
・「タコ」という名称の由来は、「他雇」からきたという説もある。また長年の労働で肩にタコ(﹅ ﹅)ができた熟練土工が、その技術と労働を売ることを「タコを売る」と言い、このことから「タコ」という名がおこったという説もある。
・一方、いちどタコ部屋にはいると、抜け出せず、結局「(たこ)」が自分の手足を食って生きのびるように、自分の体を売って生きるので、「蛸」と呼んだとする説も、一般に普及している。あるいはまた、タコは常に逃走の機会をねらい、逃げ足がはやいので、糸のきれた「(たこ)」にたとえたという説もある。

・「人柱」 人身御供の一種。架橋、築堤、築城など大工事の際、柱の強化の目的で生きながら人身を沈めることをいう。これを水神や地神に奉るのだという説もあり、そのような観念も伴っているが、宗教民俗学的起源は、柱の強化のために人身のもつ霊質を柱に転移しようとしたことにあるらしい。
・北海道のタコにまつわる人柱伝説、常紋トンネルのレンガの壁裏から出た「立った姿の人骨」は「人柱」が物語ではなく事実であることを証明した。
・一八九〇年代の夕張線工事で誕生したタコ部屋制度は、以後、北海道鉄道工事にうけつがれ、一九一〇年代には確立するのである。

・過酷な仕事で酷使され、病気で倒れる労務者も多く、カッケなどで就労できなくなったものを橋の上に一列に並べ、長時間足を川水につけさせ、前に倒れて溺死させることもあった。

・一九四三、四四(昭和一八、九)年ごろ、釧路地方へ強制連行された朝鮮人は数千人いた。
 【私見 : この本では「強制連行」という言葉で統一されているが、「徴用」との違いや言葉の定義が不明】
・強制連行・労働で死んだ朝鮮人の死亡者数は、ほとんどわかっていないのが実情で、葬式をあげたところなどまれで、墓にいたっては皆無に等しい。
・石山では中国人・朝鮮人が一、〇〇〇人ぐらい働いていた。
 石の粉で珪肺病患者が多く出た。中国人・朝鮮人の死者は、石山から海岸へ出る鉄橋の下に埋めたといわれている。

・「作業はモッコかつぎが一番つらい。セメント樽四八貫(約一八〇キログラム)を二人でかつぐ仕事はほんとうにつらいもんだ」
・タコは私語することも禁じられていた。
・「犠牲になったのは、能率のわるい人ですよ。タコは金で買った奴隷ですよ。奴隷に人権なんかないですよ。お役所だってそれを知っていて予算を組んだわけで、とにかくそんなにあまい時代ではなかった。
・タコの過酷低賃金労働を予想した予算で工事費は賄われた。
・タコ部屋が行う工事に、信用人夫として参加するのは、没落または困窮農民であった。

・常紋・厚岸のように死体が遺棄されず、許可書をもらって埋葬するようになったのは、一九一九(大正八)年の「労役者使用取締規則」によって警察の取り締まりが強化され、それが現場に及んだからであった。

大資本の北海道・樺太進出

・日露戦争後の北海道には、王子製紙・富士製紙や日本製鋼などの大企業が進出した。タコは大資本の工場に原料・燃料を運ぶ鉄道線路をつくっただけでなく、工場建設にも使われた。
・四メートルに及ぶ豪雪を水源に持つ朱鞠内湖に、水力発電所を建設した多くの労働者の中に、強制連行・労働の朝鮮人が含まれている。
・大資本はタコ部屋をたずさえて、植民地へも向かった。朝鮮・満州・樺太の鉄道建設や土木建築に、タコ労働が進出した。
・世話役は樫棒及びピストルを携帯して人夫等を督励した。

・炭鉱労働にたずさわったのは主として朝鮮人労働者で、日本政府の手で強制連行され、大資本の下で働かされた。第二次大戦敗戦後も帰国の希望がかなえられずに残留している朝鮮人が、まだいる。
・樺太植民地四十年の大資本成長の歴史は、タコや朝鮮人など「ジャコシカ」の苦汁労働の歴史でもあった。タコや朝鮮人の苦汁労働をぬきにして、北海道・樺太における大資本の急速な成長はなかったのである。

タコ労働の実態

・過酷・人権無視の労働を生み出すタコ部屋制度の特徴ともいうべきものは、次の三点からできている。
 一つは小資本の土建飯場の労使関係から生れた拘禁労働であり、二つはそれが土建業に特有な前近代的な下請制度の上になりたち、三つはその人集めが前借金を口実にした「周旋」という名の誘拐や暴力によって行われたところにある。
・タコ部屋制度は、人間の精神を破壊して奴隷根性を持たせ、タコ部屋以外では使えない人間につくりかえる精神的罪悪をおかしていたのである。
・タコ部屋から逃走した者、函館採用ということにされ旅費を函館までで打ち切られた内地応募者、旅費をもらって六ヵ月ぶりの自由を楽しんで一夜の酒食につかい果たした者などは、ルンペンになった。
・十一月と十二月の土工部屋の切り上げ期には、
山から、奥地から北海無宿は発生する。そして、都市へ、停車場へ、それから各戸へと群がり来る。積雪とルンペンの群れ、それは雪の北海道都市風景だ

「募集」という名の誘拐

・タコ部屋は都市に集中した没落農民や失業者層を吸引した。

一晩の遊興で半年の拘禁

・朝鮮人労働者を大量に使用したところでは、朝鮮人「慰安婦」を置いて、「焼き直し」に使った。太平洋戦争中、夕張炭鉱には多数の朝鮮人が働かされていた。
・強制連行者の契約が切れるころになると、ここへ連れて来て遊ばせて契約をつづけさせた。朝鮮服を着て化粧した朝鮮女性が百人以上いたが、『看護婦にする』とか『嫁さんにする』とかいわれて来た女性たちで、タコと同じようにだまされて来た人たちだった。
・「蛸釣り」や「焼き直し」でタコの相手をする酌婦や女郎や慰安婦も、周旋人にだまされて来た人たちで、身体で稼がされ、稼げども稼げども苦役から逃れられない仕組みになっていた点、全くタコと同じであった。

タコ部屋廃止の動き

・タコ部屋制度の廃止は、日本国民自身の手によってなされたのではなく、敗戦後になってアメリカの占領政策の一環として行われたのだった。このことは、日本に土着したタコ部屋制度が、国民性や日本社会と深くかかわりあっていたと、考えさせずにはおかない。
・しかし、タコ部屋制度の本質はなんら変わらないまま日中戦争を迎え、タコは「国家総動員法」による国家統制をうけ、強制連行された中国人・朝鮮人は「強制収容所」張りのタコ部屋に入れられることになったのである。

タコを救った人たち

・地元には、受動的ではあったがタコの逃亡を助けた善意の住民が数多くいたのである。
・タコの歴史を掘りおこすことは、自分を含めた日本人の人権意識の弱さをえぐり出すことであった。タコを見殺しにした私たちの目のくもりが、どこから生まれたのかを追求することである。
・「タコ」が怠け者、親不孝者、前科者の総称として使われ、親や教師はこの言葉を使って子どもに説いた。説く者説かれる者の両者に、タコに対する抜きがたい差別意識が生まれた。
・教師の多くがタコを差別の眼でとらえ、子どもに「タコは怠け者の成れの果て」と教えたのはなぜか。それは国の命ずる富国強兵や立身出世主義の観点に立って、タコの人間性やタコを生み出す社会の仕組みなどを捨象したからだ。
・国家主義教育に忠実であれば忠実であるほど、社会の底辺に呻吟するタコなどの弱者には、一顧の価値だに与えなくなっていった。
・近代以前の日本社会に存在していた弱者救済の思想は、明治以来の国家主義教育の進行と、国民の貧富の差がはげしくなる中で、次第に失われていった。共同体が崩壊し、「優勝劣敗」と「弱肉強食」の論理が、社会の「敗残者」を見捨てる冷酷さをもたらした。
・慢性恐慌化の「劣敗者」の大量生産で、タコ部屋は「繁栄」した。

「朝鮮人狩り」と脱出ルート

・「支那事変」がはじまった翌年の一九三八(昭和一三)年、戦時労働力を確保するため「職業紹介所制」が実施され、内務省令「労働者募集取締礼」(一九二五年)に代わり、募集事業は政府の独占事業になった。
・職業紹介の国営化は、タコ部屋制度廃止の好機であったにもかかわらず、事実はタコ部屋制度の一層の凶悪化につながった。
・日本に強制連行され、一三四の事業所で強制労働させられた中国人は三万七、五二四人(外務省報告)だった。
・朝鮮人強制連行・労働者は、その総数も死亡者も確認されていない。
・戦争がはげしくなり、労働力の不足が深刻さを増すと、北海道でも「朝鮮人狩り」が行なわれた。職業紹介業務を担当した勤労動員署の役人と刑事と、ときには憲兵もいっしょになって、朝鮮人を捜し出し、共和会手帳と外出証明書を提出させ、持っていない者や不急不用の仕事の従事者と認定された者は、タコ部屋に送られた。

・アイヌでも朝鮮人でも、タコ部屋では差別しなかった。

ある親方の怒り

・「中国人は戦時中の事で、これは捕虜だ。終戦後我同胞が樺太やシベリヤでどんな待遇をうけたか知らぬ筈はあるまい。朝鮮人は当時日本人であった。強制徴用という制度は、日本人にもあった。当時の国情では致し方もない事だ

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米中論 何も知らない日本

田中 宏

岩波新書

第1章 米中冷戦を仕掛けるアメリカ

ブッシュ政権の「コンゲージメント」政策
・ブッシュ政権の対中国政策は「コンゲージメント」という、聞きなれない言葉に集約されている。これは「コンテインメント」(封じ込め政策)と「エンゲージメント」(関与政策)とを合体させた造語である。
・封じ込め政策とは、冷戦時代に立てられた戦略で「中国は独裁的な共産主義国家なので、敵対的な政策をとって崩壊させた方が良い」という考え方だ。
・一方、関与政策とは、中国と友好的な関係を持つことで政治体制を民主化させ、中国をアメリカにとって脅威ではない国へと変質させることを目指すもの。
・ジュニア・ブッシュ政権は封じ込め政策の復活を狙ったが、すでにアメリカと中国の経済関係は深く、関与政策を破棄することは不可能な状態になっているため、やむなく封じ込めと関与とを混合した「コンゲージメント」政策を打ち出すことになった。

タリバンの陰にアメリカ高官
・国家安全保障会議(NSC)上級部長カリルザドは、中国を東から攻める東アジアの軍事戦略と、西から攻める中央アジアの軍事戦略の両方に深く関与していたのである。ここでも中国とアフガニスタンという、アメリカにとっての2つの攻撃対象がつながっている。

第2章 アメリカの挑発に乗らない中国

「世界支配のライン」を脅かす中国
・アメリカは、油田が並ぶペルシャ湾岸からカラチ沖をとおり、インド洋、マラッカ海峡を抜け、太平洋を渡ってアメリカ本土まで、海の戦略ラインを持っている。これは、第二次大戦前にイギリスから受け継いだ世界支配のためのラインで、このラインをアメリカとその同盟国(日本や西欧)の船が安全に航行できる状態を脅かす者は敵とみなす、というのがアメリカの軍事的な世界戦略である。
・中国から南太平洋諸国への経済援助の増額は、台湾への対抗ではなく、太平洋を支配するアメリカやオーストラリアへの対抗である可能性がある。

第3章 米中、相思相愛の歴史

世界一周していた鄭和の艦隊
・マゼランよりも100年ほど前の一四二三年ごろ、中国人の艦隊が世界一周していた。
 新説によると、世界初の世界一周をしたといわれているのは、中国の明朝時代の朝廷に仕えていた大臣級の有力者だった鄭和に率いられた艦隊だった。

海洋大国だった中国
・鄭和の航海は、当時の明朝の国家的な大事業だった。
・航海が始まった後の三年間には、千七百隻の建造が進められた。これらの船は最大で長さ百四十メートル、三千トンの大型船だった。
・中国勢はヨーロッパ勢より三十倍以上大きな船を造れたことになる。
・造船技術だけでなく技術や制度の多くの面で、そのころの中国はヨーロッパより進んでいた。

ヨーロッパに渡った鄭和の世界地図
・鄭和が大航海によって作成した世界地図はその後ヨーロッパに運ばれ、中国ではなくヨーロッパがその後の五百年間にわたって世界支配を続ける発端の一つとなった。
・鄭和の最後の航海から約六十年後の一四九八年には、ポルトガル人のバスコ・ダ・ガマがヨーロッパからアフリカの南端を回ってインドにいたる鄭和とは逆のコースを航海して、ヨーロッパ人のアジア進出が始まった。

植民地か工業国か
・欧米では、一八三〇~五〇年ぐらいまでに多くの国が産業革命を成し遂げ、工業生産が世界的に急増した結果、自国の消費以上の生産が行われるようになり、作った商品が売れにくくなり、一八七〇~八〇年代には西欧諸国の多くが不況に陥った。
・このため西欧諸国では余った商品をアジアや中南米など他の地域の国々に売りつけたいという欲求が高まった。
・その結果、西欧諸国はアジアへの植民地支配を拡大する帝国主義を採った。アメリカ合衆国も一八九〇年代から植民地争奪戦に参加し、欧米諸国間で植民地の奪い合いが激化した結果、一九一〇年代に第一次世界大戦が起きた。
・この時期、イギリスは、インドに対する植民地支配を強化し、それまで東インド会社を通じて間接支配していたものを、一八五八年にセポイの反乱が起きたことを機会に、イギリス政府がインドを直接統治するようになった。
・イギリスがインドを直接支配する植民地にしたのは、インドの製造業を破壊し、自国の製品を売りつけることが大きな理由だった。
・インドは約九〇年間イギリスに支配された後に独立したが、その間インドは経済発展を阻害され、先進国から発展途上国へと転落させられた。
・産業革命による工業の効率アップは、人々の生活に必要な製品の価格を世界的に下げた。その結果、産業革命をしていないアジアなどの国々は、産業革命をした欧米からの製品の流入によって、製造業が壊滅させられ、農産物を輸出して工業製品を輸入するしか方法がなくなった。
・鎖国によって欧米からの製品流入を阻止しようとする国々は、強制的に開国させられた。中国もその一つだったし、日本にはアメリカなどから黒船が来て開国せざるを得なくなった。開国させられた以上、産業革命をやって工業国になるしかなかった。

飛ばされた改革派・林則徐
・世界のこうした「近代化」の流れに中国が巻き込まれたのは、一八四〇年のアヘン戦争が始まりだった。アヘン戦争は、イギリスが中国での貿易を拡大するために画策して起こした戦争である。
・林則徐は、それまでの中国文明様式では、欧米並みの強い国を作ることができないことに気づいていた。彼はイギリス人商人のアヘン密売を厳しく取り締まる一方で、ヨーロッパの法律や地理などの書籍を中国語に翻訳する政策を行なった。
・また、欧米から近代兵器を買い集め、アヘン戦争が始まると海岸部の一般民衆を義勇兵として組織して近代兵器を持たせ、イギリス軍に対抗しようとした。傭兵によって構成されていた伝統的な中国の軍隊ではなく、祖国防衛の精神にのっとった欧米流の国民型の軍隊を作ろうとしたのだろう。
・ところが清朝政府の上層部では、林則徐の行動を好まない人が多かった。民衆に愛国心的な精神を持たせて戦ってもらおうという期待より、武器を受け取った民衆がイギリスを追い払った後で清朝政府自身に立ち向かってくるのではないかという国内的な恐怖真の方が大きかった。
・「民衆に襲われる危険を招くより、イギリスと交渉した方が得策だ」と政府高官の多くは考え、林則徐の案に反対した。
・和解を目指した清朝はイギリスと「南京条約」を結んだが、これは中国におけるイギリスの権利を大幅に拡大する不平等条約であった。
・イギリスは、中国進出を開始していたフランス、アメリカなど他の欧米諸国(列強)も中国と同じような不平等条約を結べる体制を作ることで、欧米諸国が談合して中国側に圧力をかけられるような仕組みを作った。
・フランスは「黄埔(こうほ)条約」、アメリカは「望廈(ぼうか)条約」という不平等条約を中国と結んだ。

冊封体制から抜け出せなかった清
・中国の悲劇が大きくなったのは、清朝政府が不平等条約を大打撃だと思っていなかった点にあった。
・清朝では、南京条約などを伝統的な「冊封体制」の枠組みの中で処理しており「遠方の国の欲深い野蛮な者どもが皇帝に多くのものを要求したので、皇帝は寛容な心でそれを認めてやった」という考え方をしたのである。
・だが、アヘン戦争後、アヘン中毒者はますます増え、国内の治安も悪化し、一八五〇年からは「太平天国の乱」という大反乱が起きた。
・イギリスは一八五六年には、フランスを誘って清朝に「アロー戦争」をしかけ、清朝に賠償金支払いやアヘン貿易の承認、揚子江沿いの内地の開放などをさせている。
・こうした出来事は、欧米から見れば「中国の市場開放」だったが、中国から見れば「侵略戦争」だった。

客家の血脈
・一八五〇年、広東省で起きた「太平天国の乱」は、キリスト教と中国古来の信仰を混合した「拝上帝教」という広東省にできた宗教が、農民や都市の貧民を信者として集め、清朝を倒そうとして起こした。
・清朝は満州民族の王朝で、中国の人口の大多数を占める漢民族は支配される側に甘んじていたので、清朝を倒して漢民族の国を再興するという「滅清興漢」をスローガンに掲げた。
・太平天国の中心となったのは、広東省に住む「客家(はつか)」と呼ばれる人々だった。
・各地でよそもの扱いされたため「客人」という意味の「客家」と称するようになった彼らは、地元の多数派が作る政治秩序や信仰から外れた存在であることが多く、そこに「大昔は韓民族を率いる貴族集団だった」という自負が重なり、キリスト教を取り込んだ新興宗教を使って滅清興漢を目指す太平天国の乱につながったと思われる。
・彼らは太平天国を建国し、一八五三年には南京を占領して首都としたものの、その後内紛がひどくなり、一八六四年に滅亡した。
・ところが、太平天国にかかわった人々の動きはそれで終わらず、一九一一年の辛亥(しんがい)革命に受け継がれた。辛亥革命で生まれた中華民国の初代大統領となった孫文は広東省出身の客家で、幼いころからキリスト教の影響を受け、清朝を倒そうとする広東の地下運動にも若いころから参加していた。
・太平天国は、神が人間に乗り移るという土着信仰を指導者の権威づけに使っていたが、孫文はそうした古いタイプの客家の反清運動に「民主主義」「民族主義」といった欧米仕込みの新しい概念を吹き込むとともに「中国を民主主義国に変える」という壮大な宣伝文句によってアメリカから資金提供を受けることに成功し、清朝を倒して中華民国を建国する「辛亥革命」を成功させた。

何度も敗れた洋務派
・林則徐ら欧米型の国家をつくることを考えた改革派(洋務派)は力を盛り返し、同時代に起きていた日本の文明開化と同じような国家の近代化や富国強兵策(洋務運動、変法運動)を展開した。
・だが、富国強兵策を進めたにもかかわらず、一八八四年にはフランスと「清仏戦争」を戦って負け、冊封体制下の属国だったベトナムを奪われた。さらに一八九四年には日清戦争で朝鮮を日本に奪われた。
・これらの敗北により、洋務運動は意味がないということになり、清朝政府内では保守派がふたたび強くなった。
・西洋や日本という列強との戦争に相次いで負けた中国では、列強を嫌う人々の意識が高まり「外国勢力を滅ぼして清朝を守ろう」(扶清滅洋)というスローガンを掲げた「義和団の乱」が一九〇〇年に起きた。
・清朝の保守派は、反乱を弾圧するのではなく、義和団の勢力を使って外国勢力と政府内の洋務派を打ち破ろうと考え、列強に対して宣戦布告した。だがその結果は、逆に日本を含む列強の軍隊に北京を攻め落とされるという結果になった。

なぜ中国は近代化できなかったのか
・中国は「近代化」に失敗したのに、日本が明治維新をやって近代化に成功できたのは、どういう違いによるものなのか。
・その理由の一つは「危機感」を感じることができたかどうか、という違いだったのではないかと考える。
・アヘン戦争で中国がイギリスに敗れたことは、「冊封」で考えた中国の清朝自身にとっては対して危機感を抱かせるものではなかったが、日本の江戸幕府にとっては大事件として受け止められた。
・江戸幕府が成立した時代は、ポルトガルやスペインの船が日本に到着し、九州や京都の大名たちがキリスト教に改宗する事態となった。徳川家康や豊臣秀吉は、ポルトガルやスペインの力を借りた大名らの勢力が拡大することを恐れてキリスト教を禁じ、江戸幕府は外国との交流窓口を幕府統制下の長崎に一本化した。
・日本の歴史を見ると、海外からの技術は常に九州など西国から入ってきたが、鎌倉から江戸に至るまで歴代の幕府は常に東国の勢力だった。
・天下を取った東国の勢力は、西国の勢力が外国の武器や技術を取り入れて強くなることを警戒し、その帰結が江戸時代の「鎖国」だったと思われる。
・つまり、鎖国とは国外からの情報を幕府が独占するための政策であり、幕府はそれだけ外国の情報に敏感だったことになる。だから鎖国をしていても、アヘン戦争で中国が負けたことは「次は日本が狙われる」という危機感をもたらした。
・隣の朝鮮は長く中国の冊封体制下にあり、中国の指示に従っていれば、国は安泰であった。
・アヘン戦争後、日本は明治維新によって近代国家に変身し、国民皆兵によってヨーロッパ並みの戦争力を身につけたが、朝鮮の王宮では中国の方ばかり見ていたため、近代化の必要性に気づくのが遅れ、帝国主義国となった日本の植民地にされてしまった。
・日本は一八九四年の日清戦争で清朝に勝ち、台湾を植民地とし、朝鮮を冊封体制から外して日本の影響下に置いた後、中国への進出を強化した。
・南の方でも一八八四年にフランスが清朝に清仏戦争を仕掛けてベトナムを植民地にした。また冊封国だったビルマはイギリスに占領された。これらを機に、ドイツが山東省、ロシアが大連を租借し、イギリスは揚子江流域、フランスは広東省、日本は台湾と福建省にも影響力を拡大し、列強が中国を分割する状況となった。
・当時すでにヨーロッパ諸国はアフリカ分割のための会議を一八八四年に開いており、南太平洋の島々も欧米と日本で分割されていた。中国も、世界を分割して植民地化する欧米日の帝国主義諸国によって、バラバラにされようとしていた。

中国の分割を許さなかったアメリカ
・アメリカは中国が日欧列強によって分割されそうになっていた一八九九~一九〇〇年に「門戸開放宣言」を発表した。これは、中国を欧日列強で分割してしまうことに反対し、たとえば揚子江流域ならイギリスだけが貿易や投資を手がけられるのではなく、すべての外国勢に経済活動の門戸が開放されるべきだ、という主張だった。
・アメリカはまた、列強は中国に独立を維持させておくべきだ、とも主張した。
・アメリカがこのような主張を展開したのは「遅れてきた帝国主義国」だったからである。
・アメリカ政府は「他の帝国主義諸国に支配されて苦しんでいる人びとを助けるために、中南米やアジアに進出する」という理屈を考えた。欧州列強から植民地を奪い、アメリカの保護下で民主的な独立国にしてあげる、という構想をぶち上げた。
・アメリカは一八九八年に米西戦争を起こし、同時期にハワイの王国を潰して自国領に編入し、ハワイ、グアム、フィリピンと太平洋に寄港地を得て、東アジアに進出する基礎を作った。
・アメリカの理想主義は、実は米国内世論の賛同を取り付けるための宣伝文句でしかなかったことが、今ではほぼ明らかになっている。
・こうしてアメリカは獲得したフィリピンを拠点に東アジアに本格進出することを目指したが、そのときには中国は他の欧日列強によって分割されそうになっていた。そこで「中国の独立を維持すべきだ」という「独立支援」の主張を含む門戸開放宣言を行い、他の列強を牽制した。

中国分割禁止で敵となった日本
・第一次大戦後にアメリカが欧州諸国に諮って決めた「中国分割の禁止」には、標的があった。それは日本だった。
・北と南東から中国に進出していた日本は、ヨーロッパ諸国が中国から事実上撤退した第一次大戦後、中国の分割・植民地化を模索し続ける唯一の国となった。
・アメリカは、日本の中国進出を食い止めることを主眼にワシントン会議を開き、中国の独立維持と国民党政府に対する支持を続けた。

世界の動きを読めなかった日本
一九〇四年の日露戦争は、北から中国に進出してきたロシアを食い止めるため、イギリスが日本に軍資金を出して戦わせた戦争である。
・イギリスはその二年前に日本と「日英同盟」を結び、東アジアにおけるイギリスの世界支配の補佐役として日本を同盟国とした。
・ところが第一次大戦後、世界の経済的な中心がイギリスからアメリカに移り、ロンドンを拠点としていた国際的な資本家たちもニューヨークに軸足を移した結果、中国を含むアジア支配の様式を決定するのはイギリスではなくアメリカになった。
・またそのころから資本家たちは、宗主国の製品を売るために植民地に資本を投下して鉄道を作り、その鉄道を守るために植民地の軍事支配を続けるという直接支配方式の植民地政策より、植民地の独立に協力して宗主国の言うことを聞く民族政府を作り、そこに金を貸すとともに宗主国の製品を売り、民族政府が金を返さない場合にのみ武力を行使するという間接支配の方が、投資効率が良くて儲けが大きい、ということに気づいた。
・それで、世界支配権がアメリカに移った後、植民地を独立させるという考え方が欧米で力を持つようになり、第二次世界大戦後の終結とともに、世界各地の国々が独立するようになった。
・戦前の日本の問題は、そのような欧米における世界支配の変化を把握した政策がとられず、政府内で世界の変化を把握していた勢力が、英米による世界支配の構造を無視して中国進出に走ろうとする軍部の台頭を止められなかった点にあった。
・日本は、アメリカが中国分割を禁じた後の一九三二年に満州国を建国し、そこを拠点に中国の華北に進出していったため、アメリカとの戦争は不可避になった。
・満州国を建国するにしても、アメリカと交渉し、何らかの意味でアメリカのためにもなる国として作られていたら、アメリカとその傘下にあった中国の国民党政府は、満州国の存在を認めていたかもしれない。

国民党も共産党も親米になった
・中国の人々にとっては、イギリスや日本に国土を分割されて直接支配されるより、独立を維持した方が良かった。だから中国では国民党も共産党も、イギリスや日本より、アメリカに親近感を持つようになった。
・アメリカを支配する一族といわれるロックフェラー家は、一貫して「親中国」の立場をとっている。その背景には、かつて産業革命直後のイギリスの資本家が「中国人の服の裾を少し長くするだけで、イギリスの繊維工場は何百年もフル操業だ」と考えて興奮して以来の、国際資本家たちの中国市場への伝統的な関心があった。
・どんな理由であれ、中国の国づくりに協力してくれるアメリカ人は「間接支配」や「新興宗教」だったとしても、中国人にとっては「分割支配」よりはずっと歓迎できる存在だった。

第4章 中国という果実

「選挙をやれば共産党が勝ってしまう」
・冷戦の始まりは、アメリカの軍事産業や財界などにとっては都合がいいことだった。
・ところがこの方法だと、戦争が始まると軍事の需要が急増して好景気になるが、戦争が終わると需要が急にしぼんで不況になってしまう。
・第一次大戦後、アメリカでは軍事需要が減った結果、一九二九年から大恐慌に襲われることになった。その教訓から、第二次大戦後は軍事産業を永続させ、景気を悪化させない体制が模索された。
・軍事産業を永続させるにはアメリカが関与する戦争を永続させねばならないが、冷戦は絶好の機会となった。
・冷戦構造は、人はあまり死なないが軍需産業はフル回転でき、しかも分断の悲劇はアメリカから遠いところで続くという戦時体制だった。

アジアで冷戦をどう展開するか
・蒋介石は、戦時中のアメリカで作られた国民党に対する良いイメージを使いつつ、アメリカの軍事産業や国防総省などの冷戦推進派と結束し、共産中国を敵とするアジアの冷戦体制を作ろうと動いた。

意図されていた朝鮮戦争
・朝鮮戦争は、北朝鮮が韓国側に攻め込んだことで始まったが、戦争が始まる要因はアメリカ側にもあった。北朝鮮軍が攻めてくる半年前、米軍が韓国から撤退していたのである。
・米ソにとっては、朝鮮の独立プロセスをアメリカだけで管理するか、ソ連だけで管理するか、半々にするか、という三つの選択肢があった。全部ソ連に任せると、日本の本土のすぐ近くまでソ連の影響下に入ることになる。
・戦後日本をアメリカ傘下の同盟国として再編(再洗脳)しようと考えていたアメリカとしては、ソ連の影響力が日本の近くに及ぶことだけは避けたかった。
・結局、ソ連が日本に宣戦布告した直後、アメリカはソ連に朝鮮半島を三十八度線で分割して管理する方法を提案し、同意を得た。
・国防総省が北朝鮮の南進攻撃の可能性を知りつつ国務省の撤退方針に従い、北朝鮮の攻撃開始をわざと誘発した可能性も考えられる。
アメリカは、一九四一年の真珠湾攻撃や一九九一年の湾岸戦争でも「戦争誘発戦略」をとっている。
・朝鮮戦争が起きたことでアジアの冷戦が一気に始まり、冷戦体制を作りたがっていたアメリカの国防総省、軍需産業、そして台湾の国民党政府は、目標を実現できたことは確かである。

「麻薬」と「CIA」
・国民党勢力がビルマのシャン州の人々に造らせた麻薬をCIAがアメリカに運んで自国民に売り、その金が冷戦体制を維持していたとしても、不思議はない。

産軍複合体の誕生とケネディ暗殺
・一九六一年、アイゼンハワー大統領は任期を終える直前に行った演説で、「今やこの産軍複合体は、自らの権力を拡大するために国益に反することまでやりかねない。われわれは自由と民主主義を守るため、彼らが必要以上に大きな力を持たぬよう、監視せねばならない」と述べた。
・ケネディは政権の途中から、フルシチョフが冷戦を終わらせてソ連を立て直したがっていることを知り、ソ連との和解と冷戦の終結を画策した。
 ところが「産軍複合体」はこれを全力で阻止し、CIAを解体して冷戦を終わらせようとするケネディと真っ向から対立し、結局ケネディは一九六三年に暗殺され、その後ベトナム戦争は泥沼化していった。
・アイゼンハワーの懸念は的中したのである。

ニクソン訪中の隠された目的
・中国は当時、文化大革命の最中で、表向きアメリカ敵視を掲げていた。ところが、この文化大革命とは実際のところ中国内部の政権争いで、アメリカ敵視策はそのための道具にすぎなかった。
・「打倒アメリカ帝国主義」といったスローガンは、本物のアメリカではなく、国内の実務派に向けられたものであった。
・実際の外交としては、中国はすでにソ連と仲違いしていたから、アメリカと国交を回復することは、ソ連と対抗する意味で中国にとっても重要だった。
・ニクソン訪中は、アメリカにとって「ソ連の脅威と対抗するために、ソ連と仲違いした中国と接近する」という目的があったとされている。しかし、ソ連は当時すでに「冷戦を終わらせて軍事負担を減らしたい」と考えていた。それでも冷戦が続いていたのは、産軍複合体の力が強いアメリカが、冷戦を終わらせたくなかったからである。
・結局のところ、ニクソン政権が中国に接近したのは、ロックフェラー家などアメリカの資本家たちが中国に投資したかったから、というのかせ最大の理由だったのではないか、と思える。

ウォーターゲート事件の陰にも産軍複合体
・ウォーターゲート事件は、米中関係の視点からみると、中国に接近してアジアでの冷戦を終わらせようとしたニクソンが、冷戦を維持したい産軍複合体によって潰されたプロセスだったとみることができる。

李登輝の高等戦略
・李登輝は、訪米から選挙までの一連の動きの中で、アメリカを台湾に引きつけ、アメリカ人に「台湾は民主的な選挙をやり遂げたのに、中国はそれをミサイルで威嚇し、選挙もやらず人権侵害を続けている」と考えさせることに成功したのだ。

第5章 張りぼての中国経済

一党独裁と腐敗防止は両立しない
・改革開放政策とは「先に富めるものから豊かになって良い」という方針だったが、これはずるいことをしても豊かになって良い」と受け取られがちだった。
・清貧で知られた中国共産党の役人たちの多くが、賄賂や横流し、縁故重視などに手を染め、腐敗した官僚制度に対する人々の不満が強まった。
・共産党は、一党独裁を維持しながら、行政担当者や国有企業幹部の腐敗を取り締まる政策を強化する政策をとっている。だがそれには限界がある。

深刻な中国の不良債権問題
・中国には、中国銀行、中国農業銀行、中国建設銀行、中国商工銀行という政府系の四大銀行があり、預金と融資の大半をこれらの銀行が扱っているが、四行のうち中国銀行を除く三行は、不良債権が増えすぎて、放っておけば倒産してしまう債務超過の状態に陥っている。
・四大銀行の全貸出額の八割は国有企業向けで、その半分以上が貸し倒れ状態になっていることが、その原因だ。
・社会主義時代の中国では、利益を出すことより、従業員の生活を保障することが国有企業の役割だった。従業員が多すぎて仕事をほとんどしない人がかなりいても「全員がある程度の暮らしをできるようにする」という社会主義の目標から見れば、問題ではなかった。企業が赤字を出しても、政府がそれを穴埋めしてくれる仕組みがあった。

「法治」が実現しない
・経済が法律や決まりによって動いておらず、行政のさじ加減で企業の行動が規制されるため、賄賂や官民の癒着が解消できない。法律を定め、役所も企業もそれに沿って動いている限り罰せられないという「法治」の体制が必要なのだが、それが実現できないところが中国の問題であり、弱さでもある。

第6章 中国のマーケットを歩く

功を奏さない取り締まり
・日系企業が自社製品のニセモノを作っている工場を突き止めたとしても、それを止めさせるのは難しい。
・欧米企業の多くは、北京にある自国大使館から、中国の中央政府に苦情を言ってもらうのである。地方政府は、下手をすると汚職で摘発されてしまうので、中央からの指令なら聞かざるを得ない。
欧米諸国は、大使館が進出企業の手助けをするが、日本政府にはそうした意志が希薄だとの指摘もある。

日本より過激な中国の地方分権
・浙江省などの郷鎮企業の動きは「一村一品運動」など日本の地域振興策とも似ているが、日本よりはるかに徹底した地域中心運動だ。その背景には、中国が強力な中央集権国家のように見えて、実は日本よりはるかに地方分権になっているという現実がありそうだ。
・(戦後日本の地方自治は中央から制御されているから、実は「自治」とよべるものではない。中国を旅行して日本に帰ると、むしろ日本の方が社会主義や国家主義、全体主義の体制に近いと思えた)

第7章 台湾という火種

「李登輝は半分日本人だったんだ」
・李登輝という政治家の行為には、鬼気迫るものがある。彼は権力の頂点に登りつめながら、国民党の圧政が復活しないよう、中国による武力支配にも向かわぬよう、民主化を逆戻りできないようにするために、自らが政治的に「自爆」することで、国民党政権を潰してしまった。

故宮博物館は誰のものか
・中国大陸で使われている漢字は、共産党政権が農民の識字率を高めるために簡略化した「簡体字」であるのと対照的に、台湾では今も伝統を重んじて、複雑な「繁体字」を使っている。
・台湾の人々の過半数が現状の中国と併合されることを望んでいないことは、選挙や世論調査で明らかだ。

エピローグ 何も知らない日本

・十九世紀に朝鮮の人々は、政治的に中国ばかりを見ていたため、欧米列強が中国を破り、東アジアを植民地化し始めたことの重大さに気づくのが遅れ、新事態に素早く適応した隣国日本によって蹂躙され、植民地にされてしまった。
・今の日本を見ると、政治的にアメリカばかりを見ているため、今後アジアで起こりそうな世界的な変化を見落としているのではないか、と懸念される。
昨今のアメリカの強大さを考えれば「対米従属」は必ずしも悪いことではないとも思うが、それしか見えない状態に陥っている日本の現状は、百五十年前に世界の動きを敏感に感じ取って明治維新を成し遂げたころの日本と比べると、ずいぶんお粗末な状態だと感じられる。われわれはもっと国際的な「事件の裏側」に関心を持つべきだと思う。