【最新更新日 : 2015年09月17日 木曜日

2015年の読書履歴(№6)

★ 評価は、私の独断と偏見でつけたもので、読んだ時点で「ん、これは良かった!」と思った本です。
  本そのものの良し悪しとはまったく関係ありません。☆はイチ推し、◎は、おすすめの本です。
NO 了月 書 籍 名
著 者 出 版 社 評価 抜き書き
60 15.06
がんが自然消えていく10の習慣 田村 周 現代書林 ・治癒力(治す力)は、患者さんの考え方や心の持ち方次第で、大きくも小さくもなります。がんの治療において、大きな影響力があるのは考え方や心の持ち方なのです。
・治す力が引き出せるような考え方、心の持ち方をすることがいちばん重要であり、治療の原点なのです。
・病気が早くよい方向へ向かう人は、治療以外の目標を持っておられます。
 一方、なかなかよい方向へ向かわない人は、いちばんの目標が「病気を治すこと」で、それ以外の目標は病気が治ってから実現しようと考えています。病気を治すこと以外は二の次になっているのです。
・現在の医療では、患者さんも医師自身も、「病気は医師が治すもの」若しくは、「病気は薬が治してくれるもの」と考えています。
 しかし、この考え方や視点はすでに間違っているのです。
 どういうことかというと、手術や薬は、治癒へのきっかけになっただけにすぎないからです。私たちの体自身に治す力があるから、手術や薬が役に立っただけなのです。
・薬の効果は、ほんの数パーセントで、大半は体に備わっている治す力によって病気や症状はよくなっていきます。
・人間の持つ力には未知数で常に無限の可能性が秘められています。「治らない」と思ったり、イメージしたりすることは、この可能性を自分でつみ取ってしまいます。「治る」と強く思い、自分の未知なる能力を信じることで、がんは必ずよい方向へ向かいます。
・どういう種類の治療であれ、「治る」と信じて治療を受けている患者さんのほうが、治ると信じていない患者さんよりも、明らかに早く治療の効果が現れます。
・死と向き合い、いつ死んでも悔いが残らないように生きることが幸せに生きる方法の一つであると思うし、そのように生きていけば病気の状態は必ずよくなっていきます。幸せに生きるために、死と向き合う。病気になる意味もそこにあると思います。おのずと病気に対する意味がわかってきます。病気は健康な人では感じることのできないすばらしい生き方を教えてくれます。
・がんであれ他の病気であれ、病院の治療は、自分の体が治そうと働いているところに、足りないものを補っているだけなのです。
 病気を治してくれる基本は自分の体、自分の治癒力です。
・がんの患者さんは、余命や、今後どうなるかを主治医に聞きますが、たいてい、いい答えは返ってきません。なぜなら、現代医学は守りの治療になっているからです。
・現代医療のいいところに関しては、いいとこ取りをしたほうがよい。
59 15.06
日本人と中国人 イザヤ・ベンダサン 祥伝社 ・日本人には「交渉」という概念がなく、中国に対しては常に条件をつきつけてイエスか、ノーかを迫る、いわば一方的に「押し切る」方式をとり、その上、ひとたび押し切ると次々と条件を加重してくる。
・終世この苦杯を飲まされつづけたのは、おそらく蒋介石であろう。これは今でもおそらく同じで、日本人には交渉→合意→契約→実施という概念がないからであろう。
・たとえば新聞などには平然と「市民感情がゆるさない」という言葉が出てくる。これは言うまでもなく「条約よりも市民感情が優先する。そしてそれが当然だ」という主張だが、いわば「感情の批准がない条約は無効だ」という主張になるから、こういう民族と条約を結ぶのは確かに非常に難しいであろう。
・日支事変とは、私の考えでは、実はこの行き方の帰結なのである。
・中国にとっては実に苦しかったこの諸経験から、この点を非常に鋭く見抜き、かつ学んだのが周恩来であろう。
・彼の結論はおそらく「日本人と契約を結ぶには、交渉より先に、まず相手の感情を操作し、『感情』に批准させねばならぬ」ということであろう。彼の見通しは正しかった。

・いわゆる杭州湾敵前上陸〔一九三七年十一月〕で上海の中国側防禦線が崩壊しはじめたとき、トラウトマン駐支独大使による和平斡旋が始まった。いわゆるトラウトマン和平工作である。
・当時、日本の軍事行動を内心もっとも苦々しく感じていたのは、実は、ナチス・ドイツ政府であった。彼らは蒋介石軍の増強により、中ソ国境が現在の如くに緊張することを夢見ていた。
・彼らの狙いが、「反共日蒋同盟」による中ソ国境の緊張化であり、トラウトマン和平工作はこの考え方を基礎としている。
・すなわち日本政府と交渉の結果、その条件を、(一)満州国承認、(二)日支防共協定の締結、(三)排日行為の停止その他とし、彼はこれを全面的に相手に受け入れさせるため、あらゆる努力をしたわけである。
これを提案したのは日本政府だった。
 これは、相手がこの条件を呑みさえすれば、日本軍は平和裏に撤退することを、第三国という保証人を立てて、相手に申し入れたということである。
日本人が過去の経験において絶対に忘れるべきではないことがあるとすれば、このことである――これが、だれからも強要されたのではない「自らの提案」だったという事実である。自らの提案を自ら破棄した者は、もはや誰も信用しない。
・中国政府は協議の末、十二月二日、トラウトマン大使に「日本案受諾」「同条件を基とした和平会議の開催」を申し入れてきた。と同時に、その後情勢は変化しているが日本側の提案に変更はないか、と念を押してきた。
・これに対して日本側は条件に変化なしと通告した。戦争は終わった。だれが考えても、これで戦争は終わったのである。
・日本は百パーセント目的を達した。一番の難問題はどうやら片づきそうであった。中国が満州を承認すれば、全世界の国々の「満州国承認のなだれ現象」が期待できるであろう。事実、中国政府が承認したのに、非承認を固辞することは意味がない。
・だがここに、全く、想像に絶する事件が起こった。
十二月八日に日本は中国が日本の提案を受諾したことを確認した。しかし日本側は軍事行動を止めない。それのみか十二月十日、南京城総攻撃を開始した。なぜか?
・当時の世界の、この事件へのやや感情的な結論は「日本人は好戦民族なのだ」ということであった。
・日本は、南京城総攻撃、およびそれ以降の先頭の理由を説明しなければならない。
・日本軍は、戦力の比較計算など、はじめから全く無かった。(いな)、南京攻略直後の情勢への見通しすら何一つないのである。否、何のために南京を総攻撃するかという理由すら、だれ一人として、明確に意識していないのである。
・これが軍国主義(ミリタリズム)といえるであろうか。いえない。それは軍国主義(ミリタリズム)以下だともいいうる何か別のものである。恐ろしいものは、実はこの「何か」なのである。
一体これは何なのか。この場合、日本人が常に口にする言葉は「軍部の横暴」と政府=軍部間の連絡不備である。しかしこれは理由にならない。
・日本政府が、中国の提案受諾を受けとってそれを了承しておきながら、総攻撃へと向かう日本軍をそのまま放置しておいたのなら、これは日本政府の中国政府への裏切りであっても、軍部の横暴という言いわけは通らない。
「提案を受諾しかつ総攻撃を開始せよ」という最も重大でかつ日本の運命を決定した決断を下した者は、実は、どこにもいないという驚くべき事実に逢着するのである。
・そしてその内容は、実は「市民感情が条約に優先した」のであった。「市民感情が許さないから、契約は無視された。感情が批准しない条約は無効であった」。従って、提案は受諾され総攻撃は開始された。
・このことを、もっとも正しく分析したのはおそらく周恩来であった。
・しかし、当時、「評論家」であるべきはずの新聞が、逆に「感情」の代弁者になった。それは南京陥落を報ずる新聞の狂態ぶりによく表れている。
・これらを見ていくと、「トラウトマン斡旋日本案」を蒋介石が受諾することによって南京直前で停戦することは「市民感情が許さなかった」ことが、よくわかる。「一切の条約は市民感情が許さない限り無効である」。従って、政府がどういう契約を結んでいようと、諸機関はそれを無視してかまわない――これが当時、言論機関を含めた全日本人が当然とする考え方であったとしか思えない。
58 15.06
激変! 日本古代史 足立倫行 朝日新書 ・奈良大学教授で大阪府(ちか)飛鳥(あすか)博物館館長の白石太一郎さんは言う。
 「『魏志倭人伝』の邪馬台国問題については、単なる所在地問題ではない。
邪馬台(やまと)(白石さんは“やまと”と読む)をを盟主とする倭国連合が畿内にあったとすれば、それは後に律令国家を作った大和朝廷につながるということであり、それは取りも直さず皇室の祖先へとつながる。一方、北部九州にあったとすれば、それが3世紀末の前方後円墳体制に収斂(しゅうれん)するためには、畿内勢力による北部九州の制圧、もしくは九州勢力の東征や東遷があったことになる。
 要は、日本列島の国家的統合の形成過程をどう考えるか、という問題なのだ。」
・佐賀県教育庁社会教育・文化財課の七田(しちた゜)忠昭さんは言う。
 「卑弥呼は邪馬台国の女王ではありません。『魏志倭人伝』によれば、卑弥呼は“倭王”であり“倭の女王”です。そして、倭国王卑弥呼の都である邪馬台国には長官や次官が4名いた。これが邪馬台国問題を考える時の前提です。」
・中部大学教授の大山誠一さんは言う。
 「継体は20年ほど各地を転々とし、大和に入ると磐余(いわれ)(奈良県桜井市)を宮都とします。この継体が、カムヤマトイワレヒコ、つまり神武天皇のモデルなのです。神武の大和平定は長期の武力闘争なので、その部分は壬申の乱の時の大海人皇子(おおあまのみこ)、すなわち天武天皇もモデルになっています。
・アジア史学会の熊倉浩靖(ひろやす)氏は言う。
 「『常陸国(ひたちのくに)風土記』の冒頭、「古は、相模の国足柄の岳坂より東の(あがた)は、()べて我姫(あづま)の国と(とな)ひき」とあるように、東国(あづま)は、畿内と対置しうる独自の政治社会を持っていた。5世紀後半から8世紀前半にかけての、他地域とは異なる前方後円墳の盛行、豪族居館の集中立地、人物や馬中心の形象埴輪の盛行、中国北朝(北斉など)に起源する銅製容器の古墳埋納などがそうである。
皇極(こうぎょく)4年、(645)年6月12日、三韓進調高句麗(こうくり)百済(くだら)新羅(しらぎ)の3国が倭国に対し貢物(みつぎもの)を献上する儀式)の日、飛鳥板葺宮(あすかいたぶきのみや)大極殿(だいごくでん)において、皇極女帝の目前で時の権力者蘇我入鹿(そがのいるか)が殺害されるという事件が起きた。世に言う大化改新(たいかのかいしん)である。
・5世紀末から6世紀にかけて、朝鮮半島では新羅が一気に台頭、押され気味の百済や伽耶諸国は倭国の王権の援助をしきりに求めていた。
57 15.06
思わず笑ってしまう本 田辺貞之助 潮文社 【面白かったものの中から】
千手観音
 ある貧乏な寺で、宝物の千手観音を開帳して、参詣人におがませた。善男善女が山のようにあつまった。そのなかに、ひとり、物知り顔の男がいて、内陣にはいって役僧にたずねた。
 「千手観音という仏さまはお手が千本あるのに、お足はたった二本ですね。これはどういうわけでしょう」
 役僧――「これはよいところへお気づきでした。おっしゃるとおり、そのおあしがたりませんので、お開帳をいたすようになったわけなのです」

禁酒
 「お前、酒をやめたんだってな」
 「うん、かかあの奴がうるさくいうんで、金毘羅さまに願をかけて、向う五年、禁酒したよ」
 「そりゃ、気の毒だな、どうだい、向う十年てことにして、夜だけのんだら」
 「それじゃ、いっそのこと、二十年てことにして、夜も昼ものもうか」

はだしまいり
 客のものをぬすみたがる女郎が、親方からさんざんしかられたので、
 「ぬすみましても、見つかりませんように」
 と、金毘羅さまに願をかけ、七日のあいだはだしまいりをした。
 七日目の夜、一心こめておがんでいると、お宮の扉がぎーっと開いた。さてはご利益(りやく)をさずけてくださるかと、胸をときめかして待っていると、金毘羅さまが両手で賽銭箱をかかえ、
 「これをとられてはかなわん!」
56 15.05
歴史を動かす力 司馬遼太郎
 対話選集 3
文春文庫 【日本歴史を点検する】

天皇制とはなにか

・天皇とは何か。遠い神話的な征服王朝の時代は伝説と憶測の世界で、これは無視していい。それ以後、天皇の神聖は、日本的シャーマニズムに支えられたもので、天皇が神である、とうことによります。少なくとも神とのあいだの交渉者です。
・マッカーサーが、天皇様に、「私は人間である」といってもらったのはきわめて政治的なことで、史的事実からいえば、やはり神です。神であるがために、人民に無害でした。
・天皇の日常は、今でもそうですが、いかなる神主より神主で、神に仕える祭事がじつに多く、どんな神主より忙しいですね。少なくとも摂関政治以後は、神もしくは神主である性格がより濃厚になった。だから、いかなる動乱の世でも京都の御所だけはおかされなかった。
・当時の盗賊は、塀一重の御所にだけは入らない。驚くべきことです。盗賊ですら、神聖血族集団ということを認めていた。
・神であることの無害さは、なまぐさい現実の政治をやらなかったことですね。
・宋学の思想が日本に輸入されてから、天皇を中国の皇帝のように見る思想がおこってきた。
・日本史では、上代の単純な社会のころは別として、それ以後世が複雑になるにつれて天皇は政治にタッチしておりませんね。これが日本的な、そうあるべき自然の姿だったと思います。
・左翼用語でいう天皇制というのは、敵としての幻想や幻影を加味したもので、魔物を魔物らしく仕立てるために、事実性から浮きあがらせてデフォルメしているところが多い。そういう多分に作られた「敵像」を通して日本史をみるという態度は、左翼も捨てた方がよいと思います。

・議会制民主主義が本質的に持っている欠点は、力とスピードに乏しいことですね。だから、アメリカでも、フランスでも、大統領にずいぶん強い権限を与えて、カバーしていますね。

・天皇のことは、幕末の志士に魅力のあった考え方というのは、一君万民思想でございますね。結局土佐あたりの侍、郷士ですが、これは百姓か侍かわからないような階級ですが、ここから出てきた人たちが彼らを抑圧している階級社会を打ち破るには、天皇をかつぐしかないわけです。
・天皇のもとでは、将軍・大名といえども民の一人ですから、平等という論理がみごとに出来あがる。天皇を中心にさえすれば、デモクラシーですら可能であるというところが、きわめて他の国の歴史における皇帝・王家と違うところです。
 一君万民思想というのは、幕末にあって非常に強いエネルギーをもってきておりますですね。
・維新運動の大効果は二つですね。一つは日本が統一国家になったということ。
 もう一つは、廃藩置県によって、日本人の社会は市民社会となったこと。一君万民という形でね。
 ともあれ統一国家となり、市民社会となって、日本は初めて世界歴史の本流と合致したのです。

日本人の意識の底
・幕府というのは、文化財、名勝の保存まで、随分手を尽くしてますね。

・日本人は戦争の場合には勇敢な人間がずいぶんいますね。しかし平常の場合は少しも勇敢ではない。
 例えば危険や迫害をかまわず、おのれの信ずるところを堂々と主張する人はまことに少ない。
・戦場というところは人を殺すところだから、そこでの勇気とは大方は半分気が狂った時の興奮でしょうから、ほんとの勇気じゃありませんね。ほんとの勇気とは日常の場合に、迫害や死を恐れず、自分の信念を吐露し得る気力でしょう。
日本人が最も幸福に生きられるのは、日本人として日本に生まれたからだ、日本の国家は日本人を一番保護しなければならない義務があり、そうしているのですからね。ここのところが、おとなにもわかっていないのですね。人間がある国に生まれるということはどうすることもできない運命であり、その運命故にその国を愛し、立派にすることに努力しなければならないのです。このことが今の日本のおとな達にすらしっかりと認識されていないと思うのですよ。

幕末のエネルギー
島津斉彬
・おそらく同時代の誰よりも政治力があり、理想があり、理想を現実化する能力があって、ほかにその世界観、具体的には日本防衛論などもあの当時としては非常な雄大さで、これだけの対外感覚における雄大さを持っていた政治家は、当時のアジアにはいなかった。
・「日本というのは海岸防衛というのはとてもなりたたない。日本防衛は、まず九州の諸侯をしてニュージーランドまで行かしめるところから始めねばならない。そして中国の諸侯は支那に入り、直隷(ちよくれい)平野を抑え、支那を外国の侵略から守るべし。東北諸侯は日本海を渡り、沿海州から満州に入り、そこを防衛せよ。それでやっと日本防衛が可能である」
・どうも大東亜共栄圏ですが、十九世紀の帝国主義時代において日本を(まも)るのはこれしかないと、彼は日本列島の地理的宿命論から説くのです。
 といって、侵略ではない。斉彬に侵略の思想はなさそうで、防衛のみです。
・この当時、中国は太平天国の乱とヨーロッパ勢力の侵食のために寸断されそうになっている、中国は国家として崩壊するであろう、大いなる空地になり、ヨーロッパがこれをとれば日本の危険は計り知れない、むしろヨーロッパの人間がうろうろしている間に先手を打って抑えよ、というんですから、大きなものです。

・この話は、二十世紀の帝国主義の退潮期になってから、日本の軍閥が大東亜共栄圏を夢想するのですが、それと重ねてはならない。幕末、安政の頃の時点で考えると、雄大さに驚きます。
・当時の人はなかなか雄大で、勝海舟が、日本、朝鮮、支那、三国相結んで防衛しようといっている。
・島津斉彬の国防論に前後して、佐賀藩の藩公の鍋島閑叟(かんそう)が、島津論ではちょっとこっちの兵力が足りないから沿海州だけにしろ、といっている。閑叟は、いっそ帝都を東北の秋田なんぞに置き、東北諸藩をして沿海州から北方を経略させるがいい、それでないと日本はやられてしまう、といっている。みんな雄大ですね。
・世界をあげての帝国主義時代ですから、それくらい雄大な構想を持たないと、こっちがやられます。
・例えばアメリカのような太平洋の向こうの国もその手で構想してくる。ペリーが、来た。江戸湾頭に来る前に、沖縄に寄ります。東洋艦隊を率いて那覇港に入って、彼が東アジアの地勢をつくづく見て、ぜひこの沖縄を占領して貯炭所にしようと租借を申し出る。アメリカ本国に対しても、沖縄は大事であるという報告書を送っております。

ペリーが嘉永六年にやって来て、江戸の治者階級が腰を抜かす、在野の武士がむらがり立つ、あそこから幕末の騒乱が始まるわけですが、その江戸湾で黒船を見て皆と一緒に肝を潰しながら、しかし潰しっぱなしではなくてこれからはアレの時代だ、俺もあんなものを造ってやろうと思ったのが、少なくとも三人はおった。一人は島津斉彬、もう一人は鍋島閑叟、それから伊予の伊達宗城(むねなり)です。
こんな民族は、少なくともアジアにはいなかった。三藩同時にスタートしている。
・藩から命じられて実際に造った人間は、蒸気のことも船のことも何も知らない提灯(ちようちん)張替えのおっさんで、かつては粉の行商をしていた。もっともボディの方は、当時村田蔵六といっていた大村益次郎が宇和島に流れて来ていて、それがオランダの造船の本を見るだけで造りました。
・なににしても、こんな民族ってないんじゃないんでしょうか。蒸気船を見てびっくりした民族は世界中にたくさんあると思いますけれども、三年後に真似をして国産でつくったのは日本人だけです。幕末から明治にかけては、日本人のそうした総合的な性格やら能力やらが、まぶしいほどに(あらわ)れています。

・中国は朝鮮を外蕃の国と思っており、朝鮮はそれをもって任じている。中国の垣根という意味ですね。中国は自分自身は中華だと思っている。朝鮮だって日本をみたときに、中国からみた日本は俺と同じ蕃国、つまり中華の周りの垣根としての国じゃないかと思っておる。
 ところが日本人だけが、日本列島という周りが海という地理的環境もありますが、中華だと思いたがっている。少なくとも外蕃だとは思おうとしていない。
・蒙古襲来の時に、フビライの書に鎌倉幕府が怒ったのは、ちょえう戦と俺とを同格に()ているという腹立ちですよ。

吉田松陰
 暑いころで汗が流れてそこへ(はえ)でもとまったんだろうと思いますが、頬っぺたを()いたら、玉木文之進が死ぬほどにぶった。もう死ぬかと思うほど殴られたそうです。玉木文之進の殴る理由というのは、かゆいというのは私情である、その私情を肉体を痛めつけることで封じこめてしまう。つまり学問をしていることは公的なことで、そこに掻くという私情があってはいけない。そういうことを野放しにしておくと、長じて役人になったとき、汚職をするかも知れない。侍に私人はない、公人たることがすべてである、という考え方です。
 幼い松陰が殴られているその(むご)さを見て松陰のお母さんは、あんなにむごい目に遇うならいっそ死んでおしまいと心で祈ったくらいだそうで、折檻の酷さが想像できます。

【幕末よもやま】

・実はフランシスコ・ザヴィエル自身、スペイン王に送った手紙で、日本はけっして征服できないといっているのですね。万里の波濤(はとう)を越えて軍勢を送っても、内陸戦でやられる。日本人は非常に勇猛だから、帆船で少数のくたくたになった兵隊を送ってもやられるだけだ、といっている。4

【織田信長・勝海舟・田中角栄】

・日露の陸戦は勝ち負けなしですわ。日本海海戦でしめくくっただけなのです。
・勝った国の陸軍というものは都合のいい戦史をつくるものです。
・しかし、在野のマスコミが沈黙した。気づきもしなかった。これはジャーナリズムの怠慢です。なぜ連載をすぐやらなかったか。日露戦争の講和が成立したあと、この戦争の実相はどういうものだったか、二カ年大連載をしてごらんなさい。そうしたらほんとうに日本は勝ったのかどうか、それがわかったはずです。そして、そのときから日本人は世界の潮流に乗れたはずです。
きっと太平洋戦争せずにすみましたよ。日露戦争のウソ戦史にあわせて陸軍がとなえた神秘主義を文部省が採用して、小学校にまで流して国民教育をした。それが太平洋戦争のもと( ﹅ ﹅)になっているのですからね。その責任は大きい。ところがそれを、マスコミは一切突いていないし、問いてもいない。
・日米安全保障条約を即時廃棄したとする。この結果日米間に同盟関係がなくなって、日本がアメリカにとって極端に不利益な動きをしたとき、アメリカは主権行使の範囲内の問題として日本の重要都市に武力を行使することがないとはいえない。日本はこれに対して報復できない。この力関係を根底にすえない国策などというものが、いったいありうるか。
安保廃棄論というのは、要するにアメリカがそんなことをするはずがないという、希望的観測にもとづいた議論でしょう。

【日本人の行動の美学】

・「武士道とは死ぬこととみつけたり」というのは、戦争中はただ「死んだら武士道か」というふうに考えられてきました。そうじゃなくて、生きるにはつねに死を覚悟していなければ生きられないのだ、ということ。

【坂本龍馬の魅力】
・「対外商業が第一で、政治のほうがおくれている。おくれを早く片づけろ」と龍馬が言ったときに、日本国内でいつまでも政争を重ねているのは日本全体にとってマイナスである、ということを痛感していた。
・人に伝えたいという願望が表現を平易にさせる。
55 15.05
継体天皇と朝鮮半島の謎 水谷千秋 文春新書 ・この十余年のうちに継体天皇をめぐる研究の状況も随分変わったように思う。最も大きな変化は考古学からのアプローチが質量ともに格段に進展したことで、今やこの分野の主役は歴史学から、考古学を中心とした研究へと交代した感さえある。
・『古事記』『日本書紀』以外には史料がそれほど多くあるわけではない文献史学に対して、年々新たな発掘成果が生み出され、データが積み重ねられていく考古学は今後も豊かな可能性を有している。
54 15.05
アジアの中の日本古代史 上田正昭 朝日選書 ・「日本国」という名称はいつごろから使われるのか。七世紀後半からと考えてよい。論拠の一つは中国の文献(『新唐書(しんとうじよ)』)です。
・遣隋使も遣唐使もすべてが朝貢使です。いわゆる対等外交ではありません。しかし、遣隋使や遣唐使の場合は、中国王朝から爵号や軍号をいっさいもらっていません。隋や唐から朝鮮の国も匈奴(きようど)なども、みな軍号などをあたえられています。これは何を意味するのか。つまり倭国の王は自立していく、中国王朝との朝貢関係を変えていくわけです。だから中国の皇帝しか使えないはずの「治天下(ちてんか)」の称号を使うわけです。
・そういう前提があったから、推古(すいこ)朝の遣隋使が持参した「国書」に「天子」を名乗ることになるのです。『随書』東夷伝倭国の条に記している有名な「()(いず)(ところ)の天子」の「国書」がそれです。
・歴史を考えるときに、島国の中だけで考えていたのでは見えてこない。
・冠位十二階以後、わが国の冠は布あるいは漆で固めた冠です。神主さんが被っておられる冠も漆で固めた冠です。
 朝鮮半島などではまだ八世紀でも金銅の冠が使われているのですが、わが国は帛冠(はつかん)に変えます。こういうところも日本的な独自性です。和魂漢才と申しますが、内なる文化と外なる文化を巧みに折衷して日本独自の文化を築いていくわけです。
・雅楽がわが国土でどういうように具体化してきたか。縄文時代にも音楽や舞がありました。縄文時代には明らかに神祭りの時に使ったと思われる土面や石面が出土しています。あるいは石笛も実際に出ていますし、土笛もみつかっています。弥生時代から古墳時代になると、明らかに日本列島のなかで作られた琴、朝鮮半島の伽耶琴ではありませんで、日本列島に住んでいる人びとが造った琴が、つぎつぎに出土しています。
・少なくとも天武朝には始まっている七夕信仰は、今も日本人の暮らしの中に生きている。
53 15.05
尖閣問題 真実のすべて 石 平 海竜社 ・共産党政権と中国軍は、その海洋制覇の目標を次のように定めた。
 第一段階としてまず、2012年までに第1列島線に防衛線を引き、その内側の海を完全に制覇して、外国海軍の侵入を防止する。そして2020年までに複数の空母部隊を建設し、第2列島線の内側の制空権と制海権を掌握する。さらに2040年までには西太平洋とインド洋における中国軍の独占的支配権を確立する。
・戦略のポイントはすなわち、西太平洋を完全に中国の「内海」として支配し、そうすることによって、この海域を通るシーレーンを海上輸送の絶対的生命線とする日本などのアジア諸国の生死を制することである。
 つまり、海を制することによってアジアにおける中国の覇権を不動のものにするのだ。それこそが中国の海洋性は戦略の最大の着眼点である。
52 15.05
医者に殺されない47の心得 近藤 誠 アスコム ・日本人は世界一の医者好き国民です。
・病気の9割は、医者にかかったからといって治るわけでも、回復が早くなるわけでもありません。
・血圧やコレステロールを薬で下げると、数値は改善しても早死にするリスクが高くなる。
・日本人のがんの9割は、治療するほど命を縮める。
・抗がん剤が効くというのは、「がんのしこりを一時的に小さくする」だけで、がんを治したり、延命に役立ったりするわけではありません。
・最近の「予防医学」は、実態は「“患者を呼ぼう”医学」。
・がんで苦しみ抜いて死ななければならないのは、がんのせいではなく、「がんの治療のせい」です。
・今の日本で大人がかかる病気はたいてい「老化現象」で、医者にかかったり、薬を飲んだりして治せるものではない。
・血圧もコレステロールも高いほうが長生きする。
・手も足も口も脳もまめに動かして、身体をさびつかせないこと。喜怒哀楽を豊かにして、五感を活性化し続けること。「よどまない」ことが、何よりの健康法です。
・医者によく行く人ほど、早死にする。
・医療に関しては「信じる者は、救われない」。「信じず、合理的に考える」こと。
・薬を飲まずに、歩け!
・その症状は、薬の「副作用」ではなく、「主作用」
・風邪薬は、風邪に効かない。
・タマゴと牛乳はカンペキなサプリ
・長寿の秘けつは「脂っこいもの」
・早寝早起き、バランスのよい食事に勝るものなし
・「高血圧に塩はダメ」はウソ。塩が足りない人のほうが病気になりやすく、短命です。
・一日に5杯以上コーヒーを飲む人の肝臓がんの発症率は、飲まない人の4分の1。
・しゃべって、笑って、食べて。口を動かすほど元気になる。
・よく歩く人ほどボケにくい
51 15.05
日韓がタブーにする半島の歴史 室谷克実 新潮新書 ・朝鮮半島に伝わる最古の正史(官撰の歴史書)である『三国史記』には、(日本)列島から流れてきた脱解(タレ)という名の賢者が長い間、新羅の国を実質的に取り仕切り、彼が4代目の王に()くと、倭人(瓠公(ホゴン))を大輔(テーポ)(総理大臣に該当)に任命したとある。その後、脱解の子孫からは七人が新羅の王位に即き、一方で倭国と戦いながらも新羅の基礎をつくっていたことが記載されているのだ。
・脱解による瓠公の大輔起用の結果、出来上がった体制は、王は倭種、ナンバー2は倭人となった。これは「倭種・倭人が統治する国」に他ならない。新羅に≪倭・倭体制≫が出来上がったのだ。