03
寝返りばかりうってあまり眠れないまま朝を迎えた。気分は頗る悪い。
会いたいと、幼い頃はずっと思っていた。あの楽しかった頃に戻れるならと何度同じ夢を見たかわからない。
その度に胸が苦しくて本当に呼吸が出来なくなるかと思うほどに動揺するのだ。
楽しかった記憶と苦い記憶が交互に入り混じってを掻き乱す。
いつもその中心に居るのは優しくて綺麗で慈愛の笑みを浮かべる先生だった。
「約束、いつ果たしてくれますか」
誰もいない自室のベッドに寝転がったまま小さな声で呟く。
当然応えるものは居ない。の呟きは空気と共に誰にも届かないまま消えていくのだ。
幼かったあの日に先生と二人で交わした約束、それはまだ果たされていない。
あれから実に色々な事があった。
の意思で決められた事等今迄只の一度もなかったような気がする。
突然松下村塾から引き離され天照院奈落で絶望の日々を送り、佐々木家に引き取られ、今に至る。
言葉にすればたったそれだけ。でもにとっては非常に長く辛い年月だった。
壁に掛けてあった見廻組の真っ白い制服に袖を通しながら遠い記憶へ思いを馳せる。
いつも優しかった先生、本当の兄達のように接してくれた銀時、晋助、小太郎。
暖かくて幸せで永遠にこの時が続くものだと疑わなかったの日常はたった一瞬で全て奪われた。
一人の青年、天照院奈落の朧によっては松下村塾から引き離されたのである。
天照院奈落に居た時、先生が捕まった事や銀時達が攘夷戦争に参加している事を知らされた。
何も出来なかった。知っていたのに何一つ、誰の助けにもなれなかった。
無力な自分を呪い、自暴自棄になっていたあの頃。異三郎が居なければはどうなっていたのだろうか。
大きな溜息を一つ吐き出した所での部屋の扉がノックされた。
どうぞ、と告げれば控えめに扉が開かれて同僚の今井信女がひょっこりと顔を覗かせる。
「おはよーのぶたす、どうしたの」
「テラスで異三郎が呼んでる」
「今行く、ありがとね」
最後のボタンを掛けてベッドから立ち上がる。
近付いていくをじっと眺めている信女の表情は無に近いが、それでも少しばかり心配してくれているのがわかった。
見廻組に共通するのは感情表現が乏しいという点かもしれない。
異三郎にしても信女にしても付き合いの長い人間でなければ感情の其れがなかなか読めない程常にポーカーフェイスである。
きっと異三郎に言えば、エリートなのですから当然ですと返されるに違いない。
「斬る?」
「斬らない。大丈夫だよ、のぶたす。困ったら助けてーって叫ぶから。私の声は何処に居てものぶたすに届くでしょ」
の言葉に緩く頷いてようやく信女が離れていく。
屯所の中でここまで心配してくるのは今から会う相手が恐らく見廻組の人間でないからなのだろう。
昨日の今日だ。信女の斬る発言からして十中八九異三郎がを呼んでいるのは坂田銀時に関係ある事だと推測される。
テラスに向かいながらの足は重くなる一方だった。
いつもならの自室からテラスまで五分有れば余裕で到着出来るのに今日はわざと遠回りをして時間を稼いでみる始末である。
生きて再び会えた事に感謝して喜ぶべきなのだろう。そんな事はとて頭の中で十二分に理解している。
だが、気持ちというのは理屈通りにとはいってくれないものだ。昨日逃げてしまった手前、余計に会いづらい。
異三郎はの気持ちにきっと気付いているのだろう。だからこそこうして再会させてくれるのだろうが、何とも複雑な思いに足が止まってしまいそうになる。
坂田銀時に会うという事はにとってイコールで現実と向き合う事と同義であった。
「さぶちゃんって時々Sになるんだよなぁ」
基本的に異三郎はに対してベタベタに甘い。誰が見ても甘過ぎると思う程に甘いし過保護である。
それでも時々思い出したようにを窮地に追い込んで楽しんだりするのだ。
勿論、最終的には助けてくれる。要は試しているのだろう。全く以て趣味が悪い上司である。
そうこうしてる間にテラス入口へ辿り着いてしまった。しかもが遅いので様子を見ていたのであろう異三郎と目が合ってしまったのでもう逃げようも無かった。
致し方ない。ふぅ、と息を吐き出して出来るだけいつも通りを装って異三郎の元へ歩いていく。
「おはよーさぶちゃん、私はカフェオレがいいなぁ」
「おはようございます、さん。もう用意してありますよ。エリートにぬかりはありません」
入口で異三郎と会話をしているへ痛い程の視線が注がれているのを肌で感じる。
今自分はちゃんといつも通りの会話が出来ていたのだろうか。それすらわからなくなる程気持ちは上の空だ。
視界にその姿が映っただけで心臓がうるさく響いて、外の音が遮断されたようにそこしか見えなくなった。
真上から異三郎の視線が自分の頭上に注がれているのがわかる。一拍置いて異三郎がの手をぎゅっと握った。
その瞬間にテラスの椅子を蹴るようにして坂田が立ち上がる。
隣に居る異三郎が小さく喉の奥で笑って右手を坂田に向けて行動を制し、立ち止まったを引き連れ坂田のいる席へ近付いていく。
間違いなく異三郎はと坂田で遊んでいる。苦々しい気持ちで異三郎を見上げたが、相変わらず涼しげなポーカーフェイスのままである。
坂田が口を開く前に異三郎が先手を打って口を開いた。
「坂田さん、ここは見廻組屯所内ですからお静かに願います。こちらは私の部下で見廻組の一つの隊を任せております、さんです」
「です」
ぺこりと頭を下げる。出来る事ならこのまま坂田が居なくなるまで頭を下げ続けていたいくらいだ。
異三郎に手を引かれ椅子に腰かける。いい加減に頭を上げなさいと言われて渋々、恐る恐る顔を上げた。
向かい側に座る坂田の顔は厳しいもので、途端に居心地の悪さが襲ってくる。
黙りこくる坂田との両方に視線を巡らせた異三郎は二人の様子など意にも介さず話を続けた。
「さん、今回この坂田さんに潜入捜査をお願いする事になりました。報酬等々の話もついています」
昨日の夜、異三郎が潜入捜査の話をしていた事を思い出す。
知恵空党とかいう鉄之助をそそのかしていた連中だ。
元はラップで幕府を貶すだけのどうしようもない不良の集まりだったが、ちりも積もれば山となるという事なのだろうか。
傘下を増やしていく内に倒幕思想が過激化し今では暴徒集団となり、近く大規模なテロを画策しているという噂が流れていた。
見廻組が担当している為、誰を潜入させようかと話していたはずなのだが一晩で風向きが変わったらしい。
「勿論釈放の手続きも済んでいるのですが、手違いで身元引受人の真選組の方が来られなくなってしまいましてね、坂田さんをご自宅まで送って頂きたいのです」
「……そういう事なら車を」
「いえ、さん。坂田さんと古いお知り合いだそうで、積る話もあるでしょう」
既にそこまで話しているらしい。もうこれで知らぬ存ぜぬは通用しなくなってしまった。
正面からじっと見据えてくる坂田の視線は鋭く、隣から送られてくる異三郎の視線もまた決して逃げるのは許さないとでも言いたげな様子だ。
からすれば心の準備が全く出来ていない状況でいきなり二人きりになるのは勘弁して貰いたい所だが最早逃げ場は無かった。
「じゃあ、お願いしますよ。エリートらしく、しっかりと頼みます」
そう言ってが引き留める間もなく異三郎はテラスを出て行ってしまった。
残されたのは一口も口をつけていないカフェオレと、向かい側に座る坂田とクリームソーダだけである。
沈黙が痛い。
久しぶり、いや、御無沙汰しています?お元気ですかは何か変だ。それとも自己紹介から?
どうしたらいいのかわからず、やはり異三郎を呼んで来ようと立ち上がったの手を坂田が掴んだ。
唐突に視界が全て真っ白に染まる。
あっという間に引き寄せられ骨が軋むほど強い力で坂田に抱きしめられている事に気付くまで少々の時間を要した。
鼻腔に広がるのは懐かしいような、それでいて知らない大人の匂い。
やめてとか、痛いとか、見廻組屯所内でとか、様々な言葉が頭に浮かぶのに口から何も出てきてはくれない。
を抱きしめる坂田の腕が酷く震えていた。
「会いたかった……!」
氷解されたのは何か。
腹の底から絞り出すように紡がれた坂田の言葉にどう応えたら良いのかわからず、でも嬉しくてそっと坂田の掌に自分の手を重ねた。
だって同じ気持ちだ。何度会いたいと思ったか。その度に何度願ってはいけないと思いを打ち消そうとしたことか。
松下村塾の彼らは師を取り戻さんと攘夷戦争に参加した。
天照院奈落に居た自分は彼らと正反対の位置に居た。望んで居た訳じゃないなんて言い訳は通用しない。
でも嬉しい。嬉しいけれど怖い。怖いけれど嬉しくて、答えが出てこない。
「とりあえず、出ませんか」
他にテラスを利用しているものは居ないが、それでもテラスで働いている者が居る。
それにここは見廻組屯所内だ。いつ何時誰が訪れるかわからない。
詰まる所、こんな場所で抱き合っている人間が居れば目立って仕方ないのだ。
の言葉を聞いて少し緩んだ坂田の腕から隙をついてするりと抜け出して、出口へ先導しようとするの手を坂田が掴む。
絶対に逃がさないという意思表示のようにの手を掴んだ坂田の手には相当の力が込められているようだ。容易に剥がせない。
幸いテラスは見廻組屯所の玄関脇なのですぐ外に出る事が出来たのは助かった。
見張りの隊士が手を繋いでいると坂田を見て目を引ん剥いていたが見なかった事にしようと決め、忘れる事にする。
「何で見廻組に、いや、もう何から話したらいいかわかんねー」
「私も、です」
見廻組の屯所から少し離れた辺りでようやく話し始めた坂田がの手をぐっと引き寄せて顔を覗き込んだ。
赤い双眼がを捕えて、その鋭さに息が止まりそうになる感覚に陥る。
少年は大人になり、少女も大人になった。こうして向かい合えば時間の経過を厭というほど思い知らされる。
「何で敬語なんだよ、銀さんとはもう他人ってか」
「そういうのじゃないんだけれど……」
久しぶり過ぎて、未だに戸惑っていて距離感が掴めないのだ。
もう十数年ぶりだというのに関わらず何故坂田は以前と同様に接する事が出来るのか、からすればそちらの方が不思議なくらいである。
思わず俯いたの頭に掌が降りてきて、ゆるゆると撫でられた。
そしてそのまま抱き寄せられる。今度は先程よりずっと優しくふわりと包む込むように。
「悪ィ、そうだよな。俺だって突然でどうしたらいいかわかんねー。でも、生きててくれて良かった」
「うん……、坂田、さんも」
「何それ、もう昔みてーに銀時って呼んでくれねーの?」
くつくつと笑いながら耳元で囁かれた声が昔よりずっと低く大人の男性の声で、体中に熱が集まってくるのがわかった。
慌てて坂田の胸を両手で押してもビクともしない。を包み込んでいる身体だって昔とは全然違う。
わかっているのか、いないのか。恐らくは前者だろう。胸を押していたの両手を坂田の手が掴んで正面から向かい合う形になった。
を見下ろす坂田の表情が優しくて、泣きたくなる。
「ぎ、銀時は変わらないね。見た目は変わったけれど、いじわるな所は変わらない」
「ようやく呼んだな。そんな事ねーよ、俺はずっとに優しかっただろ?いじわるなのは高杉だろうが」
拗ねたような口調で、それでも優しい響き。坂田の表情が本当に嬉しそうに緩んでいくのを見て、の心にも温かい何かが流れてくるような気がした。
自分に会った事を坂田はこんなにも喜んでくれる。嬉しいと思う気持ちと同時に湧き上がってくるのは不安と罪悪感だ。
元攘夷志士と幕府お抱えの警察組織である見廻組はやはり正反対の位置に居ると言えるだろう。
ようやく両腕を解放した坂田の手がの手を握って、逃がさないとばかりにしっかり指が絡められる。
「で、ウチまで送ってくれんだろ?ゆっくり行こうぜ。話てーこといっぱいあるし」
「銀時、手」
「離さねーよ。昔はおめーがピーピー泣きながら追っかけてきてよく手ぇ繋いだだろー」
半ば意地になっているような坂田の様子を見て、そういえばこういう性格だったと思い出す。
未だ十に満たなかったと十過ぎていた坂田の身長差はとても大きくて、それは大人になった今もあまり変わらないようだ。
の手を引いて少しだけ前を歩く坂田は大きくて、なのにその背中は昔の姿とダブって見えた。
「私、銀時の家知らないから送っていけないんだけれど」
「かぶき町あんまり来ねーの?覚えられなかったら今度からかぶき町に来たらその辺の奴に万事屋銀ちゃんって聞きゃ大抵わかるからよー」
「かぶき町は真選組の縄張りだからってさぶちゃん、佐々木局長が」
さぶちゃん、とが言った瞬間に手を握る坂田の力がまるで咎めるように強くなった。
「ふぅん、まーいいや。とりあえず帰ろうぜ。積もる話があり過ぎるからなー」
坂田の言葉に少し困惑しながら頷く。
積もる話、当たり障りのない話という訳にはいかないだろう。
どこまで本当の事を話せるのか。一抹の不安を抱えながらは手を引く坂田に置いていかれないよう足早にかぶき町を歩いた。