08
「さぶちゃん」
「何ですか、さん」
「さぶちゃーん」
「どうかしましたか」
皮張りの豪奢な造りの椅子に腰かける異三郎の首に手を回し後ろから抱きついたまま動こうとしないを異三郎もまた無理に引き剥がそうとしない。
もうかれこれ三十分は同じ体勢で居続けている。異三郎はを引っ付けたまま何事もなかったかのように平然と書類を処理し、はつまらなそうにそれを眺めていた。
「さぶちゃん、一緒にお茶しよーよ」
「魅力的なお誘い嬉しいのですが後一時間は終わりませんよ」
「重い?邪魔?いなくなった方がいーい?」
「重くありませんし邪魔ではありませんし居なくならなくていいですよ」
会話だけ聞けば恋人同士のようなのに実際はどこからどう見ても父親に甘えて仕事の邪魔をする幼子の図である。甘さもへったくれもない。
異三郎の座る椅子の後ろに立って腕を回し、後頭部にぺたりと頬をつけて先程からは一人項垂れていた。
「さぶちゃん怒ってる?」
「怒られるような事をしましたか」
「したようなしなかったような」
今朝から何となく異三郎の雰囲気が堅く、不機嫌そうに感じたので必要以上に甘えてみて様子を窺っていたのである。
こういう事は今迄も時折あった。大抵が大きな事件の前だったり重要な見廻組に関する事の前だったり、兎角あまりいい状態では無い。
妙な胸騒ぎを感じては異三郎にぎゅっと抱きついた。
「さぶちゃん、ジェラート食べたい」
「そういうと思いましたのでそこの冷凍庫に用意しておきましたよ。ココナッツとラッテです」
「何でそこまでぬかりないの?怖いんだけど、きっも」
「エリートですから。さんは本当に」
言いかけた所で異三郎の携帯が鳴り始めた。
懐から携帯電話を取り出して画面を一瞥した異三郎が一度へ視線を向けてから通話ボタンを押す。
途端にピリっとした緊張感が異三郎を包み込んだ。
相手の声は聞こえてこないが短い返事をする異三郎の声はいつも通りなのに空気だけがやけに重く感じる。
数度返事をした異三郎が電話を切って立ち上がった。
「さん、ジェラートは車の中で召し上がって下さい。出かけますよ」
「何処に?」
「アレが人質になっているそうです」
異三郎がアレと指すもの、それは鉄之助の事であるとすぐにわかった。
「鉄ちゃんが!?大変、すぐ助けにいかなきゃ!」
ジェラートどころではない。慌てて冷凍庫の扉を閉めたは既に歩き出している異三郎の背中を追う。
何処でとか、誰にとか聞く必要は無かった。異三郎が特に何も言わないという事は知恵空党が相手である事は間違いないだろう。
異三郎の背中を眺めながら歯噛みする。鉄之助が狙われているであろう事はでなくても鉄之助に近い人間であれば知っている事だ。
昨夜真選組に訪れて鉄之助の様子を見に行ったのは何もただ単に鉄之助に会いたかったからだけではない。
どういう状況下に置かれているかを確認しに行ったのだ。その上であれだけ周りの人間が気にしてくれていれば見廻組よりも余程安全だと思ったばかりだというのに。
「さん、私はアレを助けに行くわけではありませんよ」
「さぶちゃんは本当に素直じゃないよね」
「さんが誰にも報告無く真選組屯所をお邪魔してお世話になったお礼もまだ言ってませんからね」
用意されていた車に乗り込もうとしたの足が思わず止まる。
片眉を顰めた異三郎が車内から腕を伸ばしての手を掴み有無を言わさぬ力で引っ張られ、逆らえずの体が車内へと滑り込む。
後部座席の扉が閉められ車はすぐに出発した。
「さぶちゃん怒ってるじゃん」
「怒っていませんよ」
の腕を掴む異三郎の力の強さが其れを如実に表している。表情こそ変わらないものの密かな苛立ちが含まれていた。
予定外の行動を起こしてくれるな、異三郎の横顔にはそう書かれているようだ。
前方も後方も見廻組の車が何台も取り囲み街を疾走していく。
異三郎に連絡を寄越したのは見廻組の人間か、それとも真選組か、はたまた潜入捜査に駆り出されている坂田か。
黙ってじっと前を見据える異三郎の横顔を眺めながらは憂鬱な気持ちを抱えていた。
恐らく行った先には知恵空党も居て、真選組も居て、坂田も居て、異三郎の選んだ役者は全て揃っているだろう。
そこで何が行われるか。には異三郎の考え等一欠けら程度しかわからない。異三郎が知らなくていいという事はも別段知りたいと思わなかった。
基本的には異三郎へ全信頼を置いている。其れが揺るげばはで居られなくなると、今迄そう思って生きてきたし事実そうだと思う。
ゆっくりと考え事をする暇も与えず車は停車した。
先に降りた異三郎に続いても車を降りる。場所は思った通り以前から攘夷浪士やならず者達が溜まり場としていると噂されていた廃ビルだ。
既に真選組の面々が勢揃いしていて、廃ビルの屋上には多くの知恵空党の人間達と彼らに捕えられた鉄之助の姿が見えた。
ずらりと並ぶ見廻組隊士達の前に一歩、異三郎が歩み出る。
「ご苦労様です、お互い大変ですね。あんな出来そこないの為にこんな所に駆り出される事になるとは」
「お前、知ってたのか?アイツと攘夷浪士との繋がりを」
「身分を隠してちょくちょく出入りしていたようですね。行き場の無かったアレには丁度いい居場所だったのでしょう」
遥か上空である廃ビルの屋上を仰ぎ見る。恐らく鉄之助を人質に取ったのは知恵空党の頭目、厭魅眠蔵だろう。
佐々木家にも見廻組にも居場所を無くした鉄之助が彼の元をよく訪れていたようだと異三郎に聞かされたのは最近の話ではない。
も独自に追いかけてみた事はあるがその時はまだただのチンピラ風情で大したことはないだろうと思っていたのにこれだ。
鉄之助自身も日増しに過激になっていく組織に恐れをなしたのか、自分が警察の縁者である事が露見するのを恐れ彼らと縁を切ったようだったが、悪者程悪知恵は働くのだろう。
何らかの形で鉄之助が名門佐々木家の出である事を知り利用されたとみられる。
「まァ結局最悪な形でバレてしまったようですがね。見廻組局長の弟、そして真選組副長の小姓。これを握れば江戸最強の警察組織を一気に二つ潰せる……、とんだ見当違いですよ。真選組と見廻組両局長の首があの軽い首と等価だとでも」
嘆きも悲しみも怒りも、何一つ感情等含まれていない。呼吸をするように自然な流れで異三郎が右手を上げた。
「総員出撃だ、人質に構う事はない。攘夷浪士共を残らずに殲滅するのだ」
見廻組隊士達の中で異議を唱えるものはいないが真選組は違うようだ。異三郎の言葉にいち早く反応したのは真選組局長である近藤勲だった。
慌てた様に異三郎の前に立って必死で止めようとする近藤をぼーっと見ていたへ痛いほどの視線が突き刺さる。
先程からじっとを見ているのは真選組一番隊隊長の沖田だ。気付いていたが面倒なので放置していた。
「ま、待て佐々木殿!アンタ弟を見殺しにするのか?」
「ならば取引に応じると?残念ながら私の首はあなた程安くはありませんよ」
は異三郎に逆らうつもりも反抗するつもりも無い。それでも鉄之助はにとってもう一人の兄的存在である事に変わりないのだ。
故には異三郎が鉄之助を殺せと命じても実行する気は更々無い。異三郎自らが手を下すというのなら鉄之助を守る為に動くが異三郎に傷一つつけるつもりもなかった。
だからこそは鉄之助が真選組に行って良かったと思っている。
例えこの様な状況を引き起こしたとしても予想通り彼らは鉄之助を見捨てようとしないでいてくれる。
そして異三郎は其れら全てを織り込み済みで見据えているのだから、やはりは異三郎のいう事に従っていれば間違いないと思う。
信女もまたと同意だろう。口に出して言う事が全てでは無い。しかしそれはや信女のように佐々木異三郎という人間を多少なりとも知っている者にしかわからない事だ。
「どいて下さい。あなた達は自分の心配をなさった方がいい。元攘夷浪士を小姓として使い更には人質に取られこのような事態を引き起こした失態、更には佐々木家から預かっていた子息を死なせた失態、一体どう責任を取られるのか」
それまで煙草を銜えたまま反論もせずじっと異三郎の話を聞いていた土方が険しい表情を浮かべて異三郎の胸倉を掴んだ。
「てめェ、鉄を道具に使いやがったな?邪魔なもん二つ同時に消したかったのはお前の方だったってワケか」
「やめろトシ!」
「元攘夷浪士の厄介者の弟を俺達に預けこうなる事を予期していながら全ての責任を俺達になすりつけ邪魔な弟と俺達を消して万々歳ってワケか」
「誤解ですよ、私はあなた達のファンだと言ったでしょ、ただ組織においてあなた達のようなはみ出し者を扱いかねる無能者も居るという事です」
土方に胸倉を掴まれても尚異三郎は表情一つ、声色一つ変える事が無い。
いきり立つ土方とは逆に異三郎は驚くほど冷静に言葉を続けた。
「我々は歯車の一つである事を理解した方がいい。私ですか?理解していますよ。自分がとてつもなく巨大で優秀な歯車でしかない事位は」
「てめーは一生人に罪をなすりつけやがれ!」
「トシ!」
土方を諌めようとした近藤が声を荒げた瞬間、近藤の背後に信女が音も無く立ち刀を抜いた。
「私の首をもっていくというのならば、首が一つ足りませんよ」
信女の刀が近藤へ向けられようとした瞬間、信女の刀が止まる。
そんな事が出来るのかと半ば感心する思いでは腿のホルダーから銃を引き抜きつつ信女の持つ刀を見つめた。
止めたのは沖田だ。沖田の刀は信女の刀の芯を貫いていた。一体どのような刀術を以てすればあのような芸当を瞬時に行う事が出来るのだろうか。
刀を扱わないからすれば魔法やマジックにも等しい技である。
「抜いてみろ、次は……ブチぬく」
「それはこっちの台詞だよ、一番隊隊長さん。のぶたすに傷一つつけたら隊長さんとゴリさんの頭に穴開けちゃうからね」
沖田の頭と近藤の頭に向けてが両手に銃を構える。
敵である知恵空党を無視して仲間であるはずの見廻組と真選組だというのに一体何という構図だろうか。
土方が異三郎へ刀を向け、その後ろで土方を止めようとした近藤に信女が刀を向けようとして、それを沖田が止めて、その沖田と近藤に向けてが銃を構えている。
誰一人一歩でも動けば全員が今見据えている相手を止める為に各々の武器を使用する事になるだろう。
「や、やめろ、トシに総悟!」
「さんも信女さんも武器をおろして下さい」
一触即発の空気を払拭するのはやはり両局長である。
沖田と土方が刀を下したのを確認してからもまた銃をホルダーへ戻し、信女も刀を収めた。
だが既に敵意剥き出しとなった互いの陣営は沸々と湧き上がるものを抑えきれずにいるようだ。
見廻組と真選組の空気に触発されたのか黙って事態を見下ろしていた知恵空党も騒がしくこちらを煽っている。
鉄之助さえ居なければ彼らなどにとってはどうでもいい存在だ。正直全員を黙らせる事は訳ないだろう。
廃ビルへ立ち入ろうとする見廻組の足止めをするように真選組が辺りを取り囲み、異三郎の前に土方が刀を手にして立つ。
「正気ですか、土方さん。そこを退きなさい」
「あいつらに乗るつもりはねェよ。だがここから先に行くってんなら通すワケにはいかねェ。この先は俺達が行く道だ」
土方が挑発するように口を開く余所で近藤と沖田、他数名が動くのが見えた。
どうやら異三郎達をここで足止めしているうちに別働隊を動かして鉄之助を奪還するつもりらしい。
顔を動かさず視線だけで辺りを探るように見れば信女の姿が無くなっている事に気付いた。
異三郎が動じていない所をみるとどうやら信女もまた既に見廻組の別働隊として動いているのだろう。
「俺達は茨斬り開いてでもここを行く、茨斬り開いてでもここを帰る。鉄と、バラガキどもと一緒にな」
土方が大凡警察組織の人間とは思えない程人の悪い笑みを浮かべて異三郎へ刀を向ける。
どうするか、一瞬迷ったが異三郎の表情を見ても一歩前へ出た。
異三郎もまた土方同様、が見た事ない程に悪どくて、それでも嬉しそうな表情を浮かべているのだ。
「さぶちゃん、私行くよ」
「仕方ないですね。さん、裏切ったら泣いちゃいますからね」
「大丈夫、私はずっとさぶちゃんの味方だよ」
武器も持たずに異三郎の横を通り抜けて土方の真横を通る。
鋭い視線を感じたが誰一人動こうとしなかった。否、の動きが早過ぎて誰も止める事が出来なかったの方が正しいだろう。
「トシにゃん、さぶちゃん傷つけたら撃っちゃうからね」
ひょい、と身軽に塀を飛び越えて廃ビルに足を踏み入れる。
の背後で土方が喉を鳴らして低く笑った声が聞こえた気がした。