お昼過ぎ、ピークの時間帯が終わって少し経った頃にお菜屋へやってきた美女はおかしなものも一緒に引き連れているようだった。
否、彼女が意識して同伴させているわけではないのだろう。
鮮やかな濃桃色の着物で一人店内に訪れた彼女の様子を、電信柱の影からじっと見つめる男性が一人。
分かりやすすぎる程に目立つその男性の事など意にも介さない様子の彼女は甘味が並んだショーケースを嬉しそうに眺めていた。
どこからどう見ても一人の女性を追いかけるストーカーの図である。
警察に連絡した方がいいのだろうかと悩むが、もしかしたら知り合いの可能性も無きにしも非ずかと思い直す。
ここに来る道すがらで喧嘩でもして、怒っている彼女と謝る機会を窺っている彼氏とかかもしれない。あまりそうは思えないけれど。
先走って通報して迷惑かけたらそれはそれでまずいし、ああでもどうしたらいいのだろうかとが悩みながら口を開く。
「あの、すみません。差し出がましい事を言うかもしれませんが」
「あら、何でしょう」
「先程から貴女の事をチラチラ見ている方がいらっしゃいまして……」
痺れを切らしたが目の前に立つ彼女にそう告げれば、彼女は首を傾げながら振り返り、手にしていた扇子をボキっと折った。
一瞬の空白。電信柱を指差していたの背中に一筋の冷たい汗が流れる。
どこからどう見てもストーカーと被害者っぽい図だが、他人からはそう見えるだけでもしかしたらそういう趣味なのかもしれないとか考えた自分が馬鹿だったと心の中で後悔してももう遅い。
通報するべきだった。何で迷ったのだ数秒前の自分、と突っ込まずにはいられなかった。
彼女は表情は先程と全く変わらない、美女と言える程美しい笑みを浮かべたまま片手で扇子をへし折ったのだから一段と恐ろしい。
「あらやだ、ゴリラが動物園から逃げ出してきたみたい。怖いですねぇ、猟友会に電話しなくちゃ。ええと、動物ニコニコ皆殺しっと」
燦然と輝く笑みでとてつもなく恐ろしい発言をしながら電話を掛け始めた彼女に恐れ戦く。
さすが江戸一番の繁華街、かぶき町。にはまだまだ理解出来ない事が沢山あるのだ。
それにしても、この心拍数がやたらと上昇する感じは何なのだろうか。未体験の恐怖を今、味わっている。
猟友会に電話をかけた事もなければ調べた事もないのでわからないが、本当に動物ニコニコ皆殺しなどという恐ろしい番号なのだろうか。
というか、あれは人ではないのだろうか。え、ゴリラなの?人間っぽいけれど、本当にゴリラなの?と疑問が浮かんでは恐ろしさがかき消していく。
触らぬ神に祟りなし。もしかしてあの人物は人間の男性なのかもしれないけれど通報されるような事をしている方が悪いのだから仕方ない。
は何も見なかった事にしようと思い視線を店内に戻して、息をのむ。
そこには先程まで電信柱の影に居たはずの人間の男性、もしくはゴリラを物凄い笑顔で思い切り踏み潰す彼女の姿があった。
「お、お妙さん……!」
「あらやだゴリラが店内にまで来ちゃったわ。すぐに処分しますから、ごめんなさいね」
ボキッ、グシャッ、と凡そ人体から響いてはいけない音が轟く。
お菜屋を始めてからまだ然程経たないのに店内で殺人、もしく殺ゴリラ事件が繰り広げられる事になろうとは一体誰が予想出来たのだろうか。
というか、猟友会なんて全く必要なさそうだ。むしろ本当に警察に通報しなくてはならないのかもしれない。
人は恐怖に襲われると本当に動けなくなるんだな、なんてちょっと思いながら勇気を振り絞ってが口を開いた。
「あ、あの、警察を……」
「本当、困りますわよねぇ。こんなゴリラが警察を名乗るなんて世も末だわぁ」
「いやー、お妙さんの愛情が身に沁みますなァ」
はっはっはと笑いながら立ち上がったゴリラ……、いや、やはりこれは人間の男性ではないのだろうか。
頭からドクドクと激しく血を流しているにも関わらず笑顔で笑い飛ばすとか、最早人間業とは思えないが、恐らく人間なのだろう。
ともかくその男性は満身創痍なのに眩しいほどの笑顔でお妙さんと呼んだ女性に向かって話しかけている。
警察を呼びますかと問うつもりだったのに、話の流れからしてこの男性は警察官らしい。本当、世も末だ。
江戸一番の繁華街、かぶき町。恐ろしい町であると実感させられる瞬間である。
「邪魔するなって言ってるだろうがァァァ!」
たった今迄ニコニコと笑っていたはずのお妙さんと呼ばれた女性がテレビの中でしか見れないような見事な回し蹴りを男性の顔面に決めた。
蹴られた男性も何処か満足げな表情を浮かべて床に沈んでいく。
動物ニコニコ皆殺し、その言葉だけがの頭の中をぐるぐると回っていた。
何なんだろうかぶき町。何て恐ろしい町なんだろうかぶき町。引っ越してくる前の噂は本当だったようだよかぶき町。
たった一週間弱前にチンピラがショバ代払えとか言ってきた事なんて現状に比べれば些細なものだ。
若干の現実逃避を始めたの前で、ふぅ、と息を吐いた女性が見惚れるような笑顔を浮かべ振り返った。
「すみません、このゴリラ処分してこないといけないのでまた来ますね。お騒がせしました」
そう言って気絶した血塗れの男性の首根っこを無遠慮に掴んでずるずると引きずり出し歩いていく女性の後姿を見送って、今日はもう店を閉めた方がいいのだろうかと考える。
恐る恐るショーケースの上から店内の床を眺めてみたが、血がついているとか、そういう形跡は全く無かった。
良かったんだか良くなかったんだか、やはり警察に連絡すべきだったのだろうか。
でもその場合一体何について通報すればいいのだろうか。ストーカー被害にあっている女性の話か、それとも今にも抹殺されそうな人がいる話か。
ゴリラを処分してくるって、処分ってやっぱりアレなのだろうか。動物ニコニコ皆殺しなのだろうか。
ここはやはりそう、見なかったふりだ。大人になればそういう処世術も必要になるのである。
そんな事を思いつつ目の前から危機が去ってくれた事にほっと胸を撫で下ろしたの肩を誰かが叩いて、心臓が飛び出るかと思うほど驚いた。
一番最初に目に映ったのはここ数日で見慣れた白い着流しである。
「そんなに身を乗り出して何してんだ」
「坂田さん!昨日も言いましたけれど驚かさないで下さい。というかたった今迄大変だったんですよ!動物ニコニコ皆殺し事件です!」
「え、何その可愛いんだが物騒なんだかわかんない事件。ちゃん、白昼夢とか見てんの?」
ぽりぽりと頭をかきながらのんべんだらりと佇む坂田を見て何故か安堵を覚えたはようやく人心地付く気持ちになる事が出来た。
ただならぬの様子を見た坂田が話してみろと促し、今迄に起こった動物ニコニコ皆殺し事件を身振り手振りを交え話してく。
は誇張もせず真実だけを話しているのだが、話している本人が信じれないような話だった。
坂田はこんな話を信じてくれるのだろうかと一抹の不安を抱いたが、の話を聞くに連れて坂田の顔がどんどん曇っていく。
の話を聞きながら坂田は、あー、だとか、うー、だとか言葉にならないような相槌を返していた。
「お妙にゴリラね、全くあのやろー共余計な事しやがって」
「あれ、坂田さんのお知り合いですか?」
「お妙って呼ばれてた方のメスゴリラはうちの、万事屋の従業員の姉だ。オスゴリラは野良ゴリラだろ」
すっかり慣れた様子で小上りに腰掛けた坂田へ茶を勧める。
今日は昨日と違って客足もまばらだ。茶を啜りながらどうでもよさそうに喋る坂田へ一口大の小さなモンブランを皿に載せて出せば嬉しそうに手を伸ばす。
秋に作った栗の渋皮煮が残っていたので作ってみたのだが思ったより美味しく出来たので今日のおすすめとして店頭に並べてあるのだ。
美味いと頬を綻ばせてくれる坂田を見ていると少しばかり嬉しくなる。
「野良ゴリラって何ですか、聞いた事ないんですけど。お妙さんという女性はとても可愛らしい方でしたよ。ゴリラじゃないです」
「いいやあれはゴリラだ。もしくはゴリラに育てられたに違いねぇ。オスゴリラを抹殺する勢いだっただろ」
「何か武術的なものを嗜んでおられる方かと思いましたが」
ゴリラが警察やってんだから世も末だよなーとつい先程も聞いたような台詞が坂田から飛び出して苦笑する。
やはり先程の男性はお妙さんと呼ばれていた女性のいう通り警察の人間らしい。
警察がストーカー行為などいいのだろうか。それとももしかしてあれはストーカー行為ではなく身辺警護の類なのだろうか。
「いいか、次野良ゴリラが店内に入ろうとしたら射殺して構わねぇ、俺が許可する」
「坂田さん、私銃持ってないです」
「じゃあ痴漢が出た時くらい思いっきり叫べ。警察って言ってもよー、あれはチンピラ警察24時の方だからね。真っ当なもんじゃないから」
「そんなに悪い方なんですか?」
もし本当に坂田の言う通りの人物であればお妙さんの身が危ないのではないだろうか。
その疑問をぶつければ坂田は真面目な表情で首を横に振って、ゴリラ同士は平気だとさも当然のように答えた。
一体坂田の目には人間はどう映っているのだろうか。もしかしたら坂田の目を通すと自分もゴリラに見えているのではないだろうかと不安がよぎる。
聞いてみようか、そう悩んでいるを余所にもう一口茶をずずっと啜った坂田が深々と溜息を吐き出した。
「ちゃん、真選組って知ってっか?あいつら警察を名乗っちゃいるがロクなもんじゃないからね?ストーカー野良ゴリラとかニコチン中毒のマヨラーとかサディスティック星の王子とか地味しかとりえがないのとか、本っ当ロクなもんじゃねーから」
聞き慣れない言葉の羅列だが、地味だけが取り得の人はどう考えても害はなさそうだしとりあえずいいんじゃないだろうか。
ストーカー野良ゴリラというのは先程の人物の事だろう。野良ゴリラ云々は置いといてもストーカーはまずい気がする。
ニコチン中毒のマヨラー、体に悪いものばかりだが本人が良いなら然程困る事はなさそうだ。
サディスティック星の王子というのは最早想像もつかない。天人なのだろうか。名前からして嫌な予感がひしひしと伝わってくる。
何て答えたら良いのかわからず押し黙るの顔を、片眉を顰めた坂田が覗き込む。
宛ら、娘に何かを言い聞かせる父親の様な雰囲気を漂わせていた。
「そういやよ、ちゃん。本屋のジジイから聞いたんだけどチンピラが来た時に真選組の誰かが助けてくれたとか」
「はい、そうなんです」
「そいつ大丈夫か?助けてやったんだからーとか言い寄ってきたりしてねぇか?」
「いいえ、とても親切な方でした。そういえばここ数日いらっしゃらないですねぇ」
そういえばそうだった。エビマヨの人も真選組と名乗っていたはずだ。
あの日から既に一週間弱が経過しているが未だ訪れていない。もしかしたらあの時に何か失礼を働いてしまったのだろうかと不安になる。
エビマヨは人気商品になりつつあるので然程売れ残る事はないが、それでもいつも買う人に買って貰えないのも寂しいものだ。
なんてが回想を巡らせている横で何やら坂田がそわそわと茶を飲んだり湯のみを持ち替えてみたり置いてみたりまた持ってみたり世話しなくしている。
どうしたのだろうか。トイレにでも行きたいのだろうかと首を傾げるを坂田が意を決したように仰ぎ見た。
表情が能面を貼り付けたかのようにありえないほど硬い。
「ちなみにー、あの、あれだよ?全然関係ないんだけどね?そいつの名前とか分かっちゃったりしたりする感じ?」
「真選組の方ですか?」
「そうそう、いや別にどうでもいいんだけど変な奴だったりしたら何つーの、銀さんがビシっと言ってやらなきゃいけねーかなーなんて」
額から大量の汗を流して真剣な瞳をむける坂田の問いに、個人情報保護という文字が頭を掠めたが、別にいいかと思い直す。
坂田は真選組にも詳しいようなのでもしかしたら知り合いかもしれない。
ビシっと何かを言ってもらうような変な人ではないとわかれば坂田の心配もなくなるだろう。
「土方十四郎さんです」
然して何の感慨もなくさらりと告げたの言葉が届いたのか届いていないのか、坂田はぴしりと固まったまま動かない。
一拍置いてぎしぎしと音がしそうな程ぎこちない動きでの方へ体を傾けた坂田がの両肩を掴んだ。
力が込められているようで結構痛い。目が血走っているように見えるが気のせいだろうか。
「ごめん銀さんちょーっと耳の調子が悪いみたいだからもう一回言ってくれるかなぁ」
「土方十四郎さんです」
「いやいやいや、なーい、それはなーい、ありえなーい、ちゃんその冗談は笑えねーよ?」
「いえ、冗談ではなくてそう名乗っていらっしゃいましたが」
答えるたびにの両肩を掴む坂田の指の力が強くなっていく。というか、肩に指で貫いた穴が開きそうな勢いだ。
一体どうしたというのか。顔面から大量の汗を垂れ流す坂田の姿はもう尋常ではない。警察を呼ばなきゃいけない雰囲気を醸し出している。
何故普通に店を開けているだけなのに一日に何度も警察を呼ぶか悩まなくてはならないのだろうか。
虚ろな目でぶつぶつと独り言を言い出した坂田を前にして何て声をかけたらよいのかわからずはただ呆然と坂田の顔を眺めていた。
UP DATE : 2017.05.27