雪深い山道を一歩一歩踏みしめるように登っていく。
吐く息が白い、どころの寒さではない。
元は北部の生まれとは言え長年中央勤務だったにとって北部の寒さは正直相当に辛いものだった。
それでもまだ吹雪いていないだけましか。
オリヴィエの城ともいえる北駐屯地から出発して一時間が経過した頃には既に目的の地へ続く場所に辿り着いていた。
目の前に張られたのはKEEP OUTと書かれた頑丈な柵。
小山を一周するようぐるりと張り巡らされた柵の所々に幾つか看板が掛けられていた。
「これより先、軍の所有地につき関係者以外の立ち入りを禁ず」と書かれている。
はそれを一瞥し、柵を乗り越えた。
北部だからといって何も全域で一年中雪が降り続いている訳ではない。
が今歩いている場所も雪に覆われていたが空から新たに雪が降ってくる様子は無かった。
知っている空の色だ。
その土地に足を踏み入れた途端、溢れ出す様に断片的な記憶が蘇ってくる。
どんよりと重い灰色の雲をいつも窓辺から眺めていた。
室内は一年中薄ら寒くて、眠る時も起きている時も常に毛布を手放す事が出来なかった。
自分の身長より少しばかり高い位置にある窓の外を見たくて、床に何冊もの本を積んだ。
見上げる窓からの景色はいつもにどんよりと重い灰色の雲しか見せてくれなかったから。
窓と同じ目線になればきっと違うものも見えるはず。
そう思って本を積んでようやく窓と同じ高さの目線に立ったの目に映ったのは、ただ真白な世界だった。
見る者の動きすら止めてしまいそうな程に真白な雪と、その雪を生み出すどんよりと重い灰色の雲。
それだけがの住む場所から見える外の世界だった。
その日からは外の世界に興味を無くし、今迄のように窓の外を眺める事は無くなった。
ザクザクと一歩踏み出すたびに雪を踏む音がの耳に届く。
それ以外音を立てる存在などありはしない。
全ての生物を拒んだ一角、前も後ろも右も左もただひたすらに真白い雪だけが存在する世界。
気分が悪くなりそうだった。
山頂へ向け足を動かす度に胃の奥から何かがせり上がりそうになる。
自分の足が雪を踏む音、心臓の音、呼吸の音、耳鳴りが交互に襲って頭がふらつく。
一度立ち止まりその場で深く息を吸い込んで吐き出し、は後ろを振り返った。
「出てこい。後をつけてきている事は最初からわかっている」
が後ろを振り返ろうが前を向こうが左右を見渡そうが視界に映るのは真白な雪だけ。
だがの耳は確かに違う音を聞き分けていた。
自分ではない、誰かが生み出す雪を踏む音を。
「出てこないのであれば半径一キロメートル四方を爆発させる。己の身が可愛ければ即座に出てこい」
シン、と静まり返った雪山にの声だけが響き渡る。
数秒の間をおいての辿ってきた足跡数十歩分後ろから見知った顔が不満げな表情で現れた。
伏せて身を隠していたらしい。まあそうでもしなければ身を隠す場所などありはしないのだが。
出発前、誰でもいいから一人連れて行けとくどいほどオリヴィエに言われていた。
しかしは最初から誰も連れて行くつもりはなく、小競り合いになったほどである。
結局最終的にはオリヴィエが勝手にしろと許可を出したのでは一人北駐屯地から出発してきたのだ。
勿論とてオリヴィエの取る手段は十二分に理解していた。
誰かが、そうこの場合誰かというよりも誰が尾行してくるかもわかっている。
緊急時対応する事の出来る人物で雪山の扱いに慣れており、且つオリヴィエの信頼を得ている者でと張り合ってもどうにか出来る者。
そんな人物は知っている限り北駐屯地で一人しかいない。
北駐屯地の中でも彼が断トツで雪山が似合わない男であろう。
褐色の肌は真白い世界で嫌というほど目立っていた。
「何をしている、マイルズ少佐」
の声に動じるでもなく、マイルズ少佐はただただ口を一文字に結び鋭い視線を向けてくる。
彼が自分を追ってくる理由等一つしかない。
心底信頼している、いや、崇拝とでも言った方が似合うかもしれない女王の命令だろう。
ゆっくりと歩を進めたマイルズ少佐はと数歩分の距離を空けた場所で立ち止まる。
「戻れ」
「……承服出来かねます」
視線を逸らす事無くきっぱりと言い切ったマイルズ少佐に今度はが表情を不満げに変える。
わかっている。マイルズ少佐の返す言葉等わかりきっているのだ。
しかし、こちらとてそう簡単に譲れない。
だからこそはオリヴィエ自らついてくると言った時本気で拒否を示したのだ。
「オリヴィエには私から説明する。もう一度言う。戻れ、マイルズ少佐」
「承服出来かねると言いました」
「貴様の忠誠心はよく理解している。だが私が戻れと命令しているのだ。戻れ、マイルズ少佐」
「出来かねます」
静まり返った雪山にの声とマイルズ少佐の声だけが落ちていく。
それは一瞬の間を置いて足元の雪達に吸い込まれていった。
腹に力を込め吸い込んだ息を思いきり吐き出す。
「私の命令、という意味を理解しての返事がそれか」
「理解しています。しかし私は自分の上官命令を優先します」
じっと睨むようにマイルズ少佐の目を見ても、マイルズ少佐の目は決して揺らぐ事は無かった。
が何を言ってもどうしてもついてくるつもりなのだろう。
「では大総統府の少将である私の命令に背くのだから死んでもいいという事だな?」
それでも尚その場で動こうとしないマイルズ少佐を見て、が左手を上げた。
否、マイルズ少佐にはそう見えただけで、実際はそうでは無い。
が左手を上げた瞬間、マイルズ少佐の左胸にはの腕ほどに太いナイフが突き刺さっていた。
驚きで目を見開き呼吸をするのも忘れるマイルズ少佐の胸からナイフがまるで砂の様に崩れ落ちる。
それはが作り出した幻覚であった。
だが、マイルズ少佐にとってはそれが幻覚であろうが本物であろうが変わりないどうでもいい事である。
が左手を上げた、マイルズ少佐にはそれしか見えなかった、それが問題だった。
錬金術を抜きにしても圧倒的な力量差をまざまざと見せつけられる感覚。
それは完全にマイルズ少佐の負けを意味していた。
「本物であれば死んでいたな、マイルズ少佐」
驚くマイルズ少佐をちらりと見て、背を向け再び歩き出す。
早く行かなくては時間が無くなってしまうのだ。
大佐がの為に作ってくれた時間は往復を含め三日程である。
中央から北方、北方の駅から北駐屯地まで移動するのに一日を使ってしまった。
つまり明日の明け方にはどうしたって北駐屯地まで戻らなくてはならない。
こんな所でくだらない足止めを食う余裕は無いのだ。
しかし、の後ろからは再び足音がついてくる。
どこまでも職務に忠実な所は自分の部下と似ている所があるのかもしれないとは溜息を吐いた。
かけている苦労は女王と自分、一体どちらの方が多いのだろう。
「まだついてくる気か」
「何故私がついてきていると気付いたんです?」
「簡単な事だ。人と全く同じように歩くなど出来やしない。途中で一度歩調を変えてみたら戸惑った足音が聞こえたのだ」
マイルズ少佐の尾行は実に素晴らしいものだった。
の歩く速度、歩幅に合わせ自分も同じように、しかもの踏んだ足跡だけを追ってきている。
だが一定の距離を置かなくては振り返ったに容易く見つかってしまうだろう。
その為にの姿がかろうじて見える距離から尾行をした、結果一度変えたの歩調を読めなくなった。
第一に、オリヴィエの性格を考えれば絶対に誰かしらついてくるのは想像出来る。
もう隠れる気も無くなったのか数歩後ろにマイルズ少佐がついてきていた。
彼は決してフレンドリーな性格とは言い難い。勿論それはにも言える事ではあるが。
故にマイルズ少佐の表情は未だ硬いままだった。
当然と言えば当然である。
いくらオリヴィエ少将の命令とはいえ、大総統府の少将であるの命令に背いたのだ。
マイルズ少佐を追い返すのには相当な時間を要するであろう事は容易に想像出来る。
余計な時間を費やす訳にいかないのだから諦めるしかないかもしれない。
「よくまあ嫌いな人間に黙ってついてこられるものだな」
「……これが私の仕事です」
「私は謂わばマイルズ少佐の同胞とも呼べる者達を虐殺した張本人だというのにな」
数歩後ろにいるマイルズ少佐の纏う空気が険しいものに変わった。
北方へ出張で訪れた時、初めて会ったマイルズ少佐の冷たい視線をはよく記憶している。
イシュヴァール戦線後の名を知らない軍人は誰一人いなかったと言っても過言ではないだろう。
最も優秀な功労者としては上げられたばかりの階級をまた一つ昇った。
それはにとってイシュヴァール人を大量に虐殺した証しでもある。
「それとこれとは、別です」
苛立ちを抑え込み絞り出すように告げられたマイルズ少佐の言葉が届く。
命令しても駄目、力量の差を見せつけても駄目、怒らせても駄目、打つ手無しだ。
何よりも悔しい事にマイルズ少佐がついてきてくれているというだけで先程まで感じていた息苦しさが無くなっている。
どんなに心を奮い立たせても怖いものは怖いのだ。
結局自分は心配されて守られている、それを実感するのは嬉しいと同時にやはり悔しいものだった。
UP DATE : 2009.09.26