3.5 分岐問題

それでは強度のような考え方をすると、どのようなことにメリットを持つのか、
ここでは分岐問題とよばれる哲学的な問題について、取り上げてみます。
それはこのような問題です。
我々が、日々の選択を時間の分岐図として記述する時のことを考えます。
例えば、外出して食事をするか否かの可能性ならば、時間軸上、それら2つの可能的な歴史に分割される、
我々はそのように考えます。
そこで、その分岐上、「決断」や「自由意志」を置いてみます。
しかし、この図示には、ある欠陥があります。
分岐点の上に決断Xというものがあると仮定します。
食事をするための外出を歴史Aとします。
そうでないことを歴史Bとします。
この時、歴史A,歴史B双方に決断Xが含まれます。
そして、この決断Xは、歴史A,歴史Bにとって全く同じものなのです。
故に、決断Xがどのようなものでも、もう決断Xにより食事に出掛けたという言い方はできなくなります。
ならば、分岐図において、別の場所に決断Xはあるのでしょうか?
分岐点より前に決断Xがあると仮定するならば、選択へ影響を与えることはできません。
そこで、分岐点より後に決断Xがあるとせざるおえないのですが、
今度は、分岐点において、なぜ歴史Aを選択したのかという理由が分からなくなります。
上記の問いに対し、「決断したからだ」と答えることはもうできません。
何故なら、その回答は分岐点に新たな決断X'を置くことになるからです。
故に、整合性を持つ回答は、次の2つのどれかとなります。 
    ・時間の分岐などない、故に可能性の選択などそもそもない。 
    ・分岐点上の選択の可能性は全くの偶然である。
どちらにしても、我々が持つ決断による選択という常識を維持するのは困難になります。

GALとしてこの問題に回答するとこうなります。
結論的には、GALにとって決断とは、「決断」の理解ということになります。

a.時間軸上の2つの可能的歴史は対称ではありません。
例えば、対称的な2つの可能的歴史とは丁半博打のようなものになるでしょう。
故に、それは思考の対象にはなり得ません。
それに無理に回答しようとすればオカルト的な話にならざるおえません。
確かにこの問題の例では、外出して食事をするか否かの可能性は非対称です。
なぜなら、普通の人間はいずれ外出して食事をするような選択をしないと、死んでしまうからです。

b.2つの可能的歴史が非対称ならば、時間軸においてもそれらは非対称なはずです。
これは、歴史A,歴史Bのどちらかに何らかのマークがあるということと同じことです。
ですから、そのマークを決断Xと名付けても事態に変化はありません。
つまり、決断Xとは対象であって、「決断」という行動ではなくなります。
こうして、分岐点上に決断Xはなくなりますので、
決断Xにより食事に出掛けたという言い方はできるようになります。
これがGALによる常識にも見合った回答となります。
つまり、我々が持つ決断による選択という常識を維持は可能になります。

c.では、この場合の問題点について、さらに考えます。
ここで、分岐点において、なぜ歴史Aを選択したのかという理由が分からなるような気がします。
それには「決断したからだ」と答えることができます。
つまり、この回答は分岐点に新たな決断X'を置くことになるわけです。
分岐点を分岐Yとします。
ですから、分岐Yに決断X'があることになります。
今までの考え方では、この決断X'は決断Xと同じようなものでした。
だから、この回答は矛盾していることになります。
ですが、GAL的に見れば、決断X'と決断Xには明らかに異なる点があります。
それが強度です。
つまり、決断X'の強度は決断Xの強度よりも低いわけです。
では、この強度の違いがなぜ明確なのでしょうか。
それは今問題としている思考の形式が「決断」だからです。
「決断」対象の事象が、時間経過でその印象を変えていくのは当然ですね。
例えば、りんごの落下という事象の理解について、考えてみて下さい。
時間が経過することで、その印象に変化があるでしょうか。
一方、外食を考えれば、満腹になればその印象は否が応にも変化せざるおえません。
したがって、そもそも時間経過でその印象を変えていく理解のことが「決断」なのです。
そこで、決断X'から決断Xへの強度の増加傾向があると考えるのは、突飛な考えではないでしょう。
つまり、決断X'の強度が0であると考えるのは、論理の飛躍にはならないですね。
だから、「決断したからだ」という回答は、「零決断したからだ」となるわけで、
「零決断」は決断をしていないのですから、何も矛盾がないことになります。

d.c.の考察の結果、決断X'は存在しないと思うのは、そういう認識の仕方であって、
趣味の問題になります。
それ以外、別に問題ではありませんから、そもそも時間の分岐などなかったのだ、
と考えることもまた、趣味の問題なのだ、ということになります。
何故なら、GAL的な考察からは、時間的に見れば、決断Xは分岐Yが出現する以前に存在することになります。
つまり、分岐Yは、「行為」に関する時間の分岐ではありません。
分岐Yとは、決断Xが存在するならば、それ以前に強度0の決断が存在するはずである、という認識の帰結のことです。

e.こうして、あらゆるケースで、分岐上の可能性の選択は、全くの偶然となるわけです。
それは強度の増加傾向が、やがてどのような決断に結実するか、ということの理解は、
全くの偶然としか言えないのですから。
言い換えれば、我々が分岐Yに出会うのは全くの偶然と言えるわけです。