では、どのような仕組みによりGALでは、写像理論が成立するのでしょうか。
つまり、今行った図示の点線の部分は、GALにおいていかに解釈されるか、
結局、2つの線分は、1本の線を構成することに、どのようにしたらなるのでしょうか。
これは、結局、対象「殴る」はどうなったか、ということだと思います。
結論的には、GALでは対象「殴る」は2項目めの対象として、認識されていることになります。
しかし、そうすると認識されている対象は、「A」、「B」、「殴る」の3項目になってしまいます。
一見、矛盾するように思われますが、ではこの時、対象「B」はどのように認識されているかを考えて見ます。
そこで、自己紹介のことを考えます。
「はじめまして、Bです」
この時、Bの顔面はどのような状態なのでしょうか。
我々はBの顔面が殴られてボコボコになっている状態を想像できません。
何故ならば、Bの顔面が殴られてボコボコゆえにBと判別できないならば、
その言葉は現象を指示することができないがゆえに、
「Bです」は無意味になるはずです。
ならば、「Bです」と言う時のBの顔面は、Bと判別できる状態にあるわけです。
当たり前ですが。
ということは、Bと判別できる状態もまた1つの顔貌ですから、
「Bです」という言葉の顔貌性等は、1つのデフォルト状態を持っていることになります。
それらは、この「Bです」という主張を聞いた者にとっての、固有の「強度」です。
とすれば、「AはBを殴る」その結果として、Bの顔面が殴られてボコボコになっている状態だとします。
勿論、このBは、「はじめまして、Bです」のBと同一人物だとする時、
「はじめまして、Bです」という主張をした時のBの顔面は、この状況のどこにあるのでしょうか。
したがって、「はじめまして、Bです」のBの顔面も、
「AはBを殴る」のBの顔面も、
同じ顔貌を持った顔面だとなるわけです。
ゆえに、写像理論が成立することになりますが、
注意すべきは、上記で一致している顔面の状態は、
決して殴られてボコボコになっている状態ではない、ということです。
「B」はBとして名と対象が同一の状態で一致している、そのことが写像理論です。
逆に、そうでしかありえません。
したがって、Bの顔面が殴られてボコボコになっている状態は、1つ事象が盛られた状態であるに過ぎなくなります。
この事を、GALは関数がドメインの属性になっている、と言っているわけです。