『月光』
ただひとつの愛の証です・・・
身を・・・引きましょう・・・・・
そう言って私は、オスカル嬢との結婚を諦めた。
あれからだいぶ月日は経ってしまったが・・・今でも、私の心の中の大半は
彼女の事で埋め尽くされている。
「ふう・・・。」
私は、ため息をひとつつくと自室の窓から夜空を見上げた。
月の光が、その回りの暗闇を、ぼんやりと青白く溶かしていた。
こんな満月の夜は、あの晩のことを思い出す。
(お前は、まじないを信じるか?)
意外な人物から、意外な言葉を聞いたあの夜。
私は、自分の右手にのせたグラスをゆっくりと揺らした。
グラスの中には、今年出来たばかりのワインが入っている。
月がその表面に映り、小さな光を放っていた。
まだまだ熟成されていない若いワイン。
まるで、今の私の心のようではないか。
いつまでも一人の女性を思い続けどうすることも出来ない。
私らしくない・・・。
何処からともなく、ヴァイオリンの音色が夜風に乗せて漂ってくる。
弾いているのは、従妹のカタリーナだろうか・・・。
彼女は、ヴェルサイユの街が見たいと言って、田舎からしばらくの間
遊びに来ているのだ。
その音色は、今の私の心の中に、しっとりと滲み込んでいく。
オスカル嬢・・・
あなたとの思い出は、私の心の中ではたくさん残っているのですよ。
あなたにとっては、ほんの小さなことでも・・・。
オスカル嬢・・・あなたは、あの夜のことを憶えているだろうか・・・?
*
*
アメリカの独立戦争が終わり、フランスからの遠征軍のほとんどが凱旋
していた頃。
近衛の仕事も終わり、私が帰り支度をしていた時のことだ。
同じく帰ろうとしていたオスカル嬢が、何かを探していると言った風に
あたりを見回していた。
「隊長、どうかされましたか?」
「あ、ジェローデル・・。ははは・・今のを見られてしまったか。つい、いつもの
癖でな。アンドレを探していた。」
「アンドレ・グランディエは今日は・・・。」
「ああ、休みだ。昨日の晩、怪我をしてしまった。」
「怪我・・ですか。」
「ああ、酒場でケンカをしたのだ。あいつの怪我のほうが大変だったのに、
屋敷まで私を抱きかかえて帰ったせいで・・いや、ばあやのヤキもあったか・・。
ともかく、大事をとって休ませている。」
「酒場でケンカ・・・もしかして、隊長もですか?」
「そうだが?」
貴族の将校が酒場でケンカ・・・いやそれよりも、あっけらかんと話している
この金髪の美しい人は女性なのだ。
本当に不思議な人だ。
「ジェローデル大尉、よかったら今晩付き合ってもらえないか?」
「え?」
「何処かで酒でも飲まないか?」
「隊長は昨日も飲まれたのでは・・。」
「屋敷に帰りたくないのだ。今は・・部屋で一人きりになると色々と考え込んで
しまう・・・良くない傾向だ。」
この方は・・寂しいのだろうか?
誰もこの方の心の隙間を埋める事が出来ないのだろうか・・・?
いつも一緒にいるアンドレ・グランディエさえも・・・。
「隊長・・・では、私でよろしければ・・。」
―― その晩、私は期せずしてオスカル嬢とパリのカフェで酒を酌み交わす
ことになったのだ。
遠くにシテ島のノートルダム寺院を眺めることが出来るこのカフェは、毎夜、
上流階級の社交場として賑わっていた。
私たちは、夜空を仰ぐ窓際の席へ座った。
その時も、今年のあたらしいワインが出たばかりで、私たちは迷わずそれを
選んだ。
オスカル嬢は、ゆっくりと店の中を見回すと、「くすっ」と何かを思い出した
ように小さく笑いながら言った。
「ジェローデル大尉、お前は安酒場などに行ったことはあるか?」
「いえ、ありません。」
「ふふ・・そうだろうな。」
そう言ってオスカル嬢は、グラスに注がれたワインを一気に飲み干した。
そして、自らグラスにワインを注ぐと、次々と飲み干していった。
「隊長、余計なことかも知れませんが・・・少し早くないでしょうか?」
「何がだ?」
「いえ・・何でもありません。」
「ジェローデル大尉。」
「はい?」
「お前は、まじないを信じるか?」
「え?」
「ははは・・・どうした?豆鉄砲をくらったような顔をして。」
まじない・・・オスカル嬢の口から、この様な言葉が出るとは思わなかったので
私は少し驚いた。
オスカル嬢は、窓から夜空を見上げた。
満月が美しく輝き、まわりの星たちの光をも奪っていた。
「今宵は満月が美しいではないか・・。」
そう言って微笑んだオスカル嬢は、月に青白く照らされて・・・寒気がするほど
美しかった。
私は一瞬、美の女神の狂気に、囚われてしまったかのような錯覚に陥った。
そんな私に、オスカル嬢は容赦なく続ける。
「このような満月を、水だったか酒だったかは忘れたが、それに映したものを
飲み、願い事を三回唱えると、叶うと言うのだ。」
「・・隊長は信じるのですか?」
「いや、信じない。そもそも願い事と言うのは、努力して実現させるものだ。」
「ふふ・・隊長らしい。」
「・・・ずっとそう思ってきた。だが・・・。」
そう言って少し俯いたオスカル嬢の表情は、今まで私が見たことがないものだった。
月の光が、そのかんばせに影を落とし、その瞳は憂いを含み、切ないほどに女性
のものであった。
その時、私は心の奥で確信したのだ。
オスカル嬢は・・・誰かを愛している・・・・・
そして、その思いは・・・・・
そんな私の確信を裏付けるように、オスカル嬢は続けた。
「アメリカへ遠征に行って・・まだ戻ってきていない者が何人かいる。彼らの無事の
帰還を願って、本当に叶うのかどうか・・試してみないか?それとも、お前には他に
何か願い事があるか?」
「いえ・・私には。」
「そうか、では一緒に祈ろう。」
そう言ってオスカル嬢は、満月に向かってグラスを差し出した。
そして目を閉じ、ワインを飲み干した。
私もオスカル嬢の後に続いた。
少しの間、私たちのまわりだけ時間が止まってしまったかのようであった。
私はこの時、オスカル嬢とは別の願い事をした。
それは・・・
「ふふ・・・子供じみたことをしてしまったな。まあいい、明日には忘れてくれ。」
その時・・・私は、オスカル嬢の瞳に小さく煌く雫を見たのだ。
「ジェローデル大尉、本当に・・今宵は満月が見事だ・・・。」
オスカル嬢・・・
あなたはそう言って天を仰いで、涙を隠すのですか・・・?
いつもそうやって、自分の気持ちを押し殺してしまうのですか・・・?
ああ・・・そんなあなたを目の当たりにして、何も出来ない今の自分がもどかしい・・・。
アンドレ・グランディエ・・・君は・・気付いているのだろうか・・・オスカル嬢の
気持ちを・・・。
いつもは、常に彼女と行動を共にしている彼が羨ましかったが、この時ばかりは・・・
彼が気の毒に思えた。
これほどまでに、彼女が・・・他の男性に対する叶わぬ恋に耐え忍ぶ姿を・・・まざまざと
見せ付けられる彼が・・・・・。
そう・・・アンドレ・グランディエは間違いなくオスカル嬢を愛しているのだから・・・。
その後、どんな話をしたかは憶えていないが、夜もだいぶ更けてから、私たちは
カフェを後にしたのだ。
その夜は、いくつの願い事が満月に届けられたのだろうか――。
*
*
あれから何年も経ってしまった。
どうやらあのまじないは、まんざら嘘ではなかったらしい。
あの時私がした願い事は・・・
トントン――
その時、私の部屋の扉を叩く音がした。
「ヴィクトール、よろしくて?」
「カタリーナ。」
「もう、叔父様と叔母様はお休みになられたわ。」
「カタリーナ。こんな夜更けに男性の部屋に来るということはどういう事か分かる
かい?」
「ヴィクトール、それはあなたが私を女性として見てくれているという事かしら?」
「・・もちろん。それがたとえ幼馴染の従妹殿であったとしてもね。」
「ふふ・・それは、あなたの瞳に他の女性が映っていない場合よ。一緒にワイン
でも飲みましょうよ。」
「ははは・・。カタリーナには参ったよ。君は昔からそうだったね。だからいつまで
も結婚できないのかな?」
「ヴィクトール、今の台詞、そっくりあなたにお返ししてよ・・ふふ。」
そう言って、カタリーナは私の部屋へ入り、窓辺へと向かった。
「あら、ヴィクトールったら一人で飲んでいたのね。」
「今、召使にグラスと・・ワインをもう一本持って来させるよ。」
「月が綺麗ね・・・。」
そう言って満月を見つめるカタリーナも、今夜は一際美しく見えた。
月の光の魔法なのだろうか・・・。
私は、かの人に質問された事を、カタリーナに聞いてみた。
「カタリーナ、君は、まじないを信じるかい?」
「そうね・・・。信じたり信じなかったりだわ。」
「では、こんなまじないを知っているかい?・・水か酒の表面に映した満月を
飲みながら願い事を三回唱えると、叶うという・・・。」
「・・・・・・・?知らないわ。でも、面白そうね。」
「カタリーナ、ちょうどグラスが来たようだ。では・・ひとつ試してみようか。」
私はカタリーナのグラスにワインを注ぎ、次に自分のグラスにも注いだ。
トクトクトクという、ワインの注がれる音が、夜の静寂に滲み込んでいった。
グラスの中のワインに、満月が小さく輝いていた。
そして・・・私たちは無言でそれを飲み干した。
「カタリーナ、何を願ったの?」
「ふふふ・・秘密・・・。ヴィクトールは?」
「僕は・・・愛する人の幸せを・・・。」
「あら、愛しているなら、自分のものにしたいと願わないの?」
「願わなくとも・・僕が愛を告げれば、大抵はその思いは叶う・・。もちろん、どんな
女性も幸せにする自信はあるが・・・厄介な事に、幸せとは・・・その人の価値観で
いくらでも姿を変えるからね・・・。」
「・・・・・・・。ヴィクトール、相変わらずの自信家ね。」
「ふふ・・・だから、いつだったかも、愛する人の幸せだけを祈り、自分のものにしたい
とは願わなかったのだよ。でも、その人は今、真実の愛に目覚め始めている・・・。
だから、同じ事を願って、もう一押ししてみたのだよ。」
「・・・分からないわ、ヴィクトール。だから、あなたはいつまでたっても・・・。」
「カタリーナ・・・愛する人が幸せなら、僕もまた幸せなのだよ。・・・ほら、もう月が雲に
隠れていく・・・。どうやら僕たちは運が良かったらしい。」
私たちは、雲がゆっくりと流れ、満月がそれに隠れてしまう様を黙って見つめていた。
秋も、もうすぐ終わる・・・。
私がした願い事は・・・・・
オスカル嬢・・・あなたが本当の幸せに巡り会えますように・・・・・。
〜Fin〜
あとがき
大人になってだいぶ経ってから、もう一度原作を読み直した時、
ジェローデルが、とても魅力的に思えました。
愛するがゆえに身を引く・・・なかなか出来ることではありません。
秋の夜長に物思いに耽るジェロを書きたくて出来たお話です。
(2002年10月19日)