『春の雨』



        いつもならば・・・


        まだ冷たい早春の雨が・・その時は、温かく・・そして優しく感じられた。



        「アンドレー、アンドレはいるかー?」

        私は、いつものように用事を頼もうと厩へと向かい、アンドレの名を呼んでいた。

        「何だい、オスカル?」

        そして彼は、いつものように厩の入り口から、ひょっこり顔を出す。

        しかし・・・

        見慣れたはずのアンドレの顔であるが、昨日までの彼とはだいぶ違って見えた。

        何故なら・・・

        「ふふ・・アンドレ、一段と男前になったな。」

        「からかってるな!お前が俺の大事な髪を切ると言ったんだぞ。男前にならない
        でどうする?」

        そう言うアンドレの目の奥にも、悪戯っぽいものが光っていた。

        確かに私は、からかうつもりで言ったのだが、改めて太陽の光の下で見ると、
        彼の姿に、今までには無いものを感じた。
        日差しのせいかも知れないが、何故か眩しく感じられた。
        「用事は何だい?」と言いたげな彼の笑顔に、私は思わず見とれてしまい、慌て
        て背を向けてしまった。

        「昼過ぎに馬車を出してくれ。アントワネット様からお呼び出しだ。」

        「ああ、分かった。」

        しばらくして私は振り向き、再び厩へと入っていくアンドレの後ろ姿を目で追った。

        黒髪が肩の所で揺れている。
        あんなに短いのは、子供の時以来だ。
        いつものようにリボンで束ねられた髪がないので、変な感じがする。

        それよりも・・・


        彼の背中は、あんなに広かっただろうか・・・。

               *
               *

        アントワネット様の用件は、思ったよりも早く終わった。
        とは言え、夜までに空いた時間は中途半端なので、私とアンドレは屋敷に戻り
        休む事にした。

        今夜の舞踏会から・・・

        アンドレは、『黒い騎士』にならなければならない。


        「雨が降りそうだ・・・。」

        馬車の窓から外を見ていたアンドレが言った。

        「そうだな・・・。」

        私は彼が視線を向けている方向を見て頷いた。
        確かに重苦しい雲が、今にも落ちてきそうだった。

        「雨が降ろうとも、槍が降ろうとも・・・だよな?」

        そう言って彼は悪戯っぽくウィンクをした。
        私は、そんな彼を、とても頼もしく思った。
        黒い騎士をおびき寄せる為とは言え、一歩間違えば大変な事になる。
        命がけなのだ。
        私は、そんな彼に対して素直に言った。

        「アンドレ、ありがとう。」

        彼は、「どういたしまして。」と言う代わりに微笑んで見せた。

        結ばれていない短い黒髪が、端正な顔を縁取り、又しても眩しく私の目に写る
        のだった。

        私はいったいどうしてしまったのだろうか・・・。

               *
               *

        屋敷に戻ると、そのままアンドレは厩へ、私は玄関へと向かった。
        屋敷の中に入ると、ばあやが出迎えてくれた。

        「お帰りなさいまし、お嬢様。雨に合いませんでしたか?」

        「大丈夫だったよ。今にも降りそうだけどね。・・ばあや、すまないが、後で私の
        部屋にショコラを持ってきてくれないだろうか?」

        「はい、かしこまりました。温かいのをお持ちしますよ。」

        そう言って、ばあやがお辞儀をした時である。
        細長い物が、ひらひらと彼女のエプロンからこぼれ落ちた。

        「あ・・これはこれは・・・!」

        私は、難儀そうに腰を屈めるばあやよりも先に、その細長い物を取り上げた。
        それは見覚えのあるリボンであった。

        「申し訳ございません、お嬢様。すっかり鈍くなってしまいまして・・。年は取りた
        くないですねぇ・・。」

        「このリボンは?」

        「ああ・・アンドレのですよ。昨日、髪を切った時、そのままエプロンのポケット
        に入れていたんですよ。」

        薄いラベンダ−色をした、ハリのある絹地である。
        上品な感じはするが、よく見ると、所々色が落ちており、かなり使い込んだもの
        であった。
        そう言えばアンドレは、よくこれをしていた。
        まじまじとリボンを見ている私に気が付いたのか、ばあやが言った。

        「そのリボンはですねぇ・・あの子の母親が着ていたドレスで作ったんですよ。」

        「アンドレの・・・。」

        「私が娘にあげたよそ行きのドレスです。娘も大変気に入ってましたから、だい
        ぶ使い古してありますが・・私が大事に持っていようと思いましてね・・・。」

        そう言ってばあやは、慈愛に満ちた眼差しで、リボンを見つめた。

        次の瞬間・・・

        私は、ばあやの優しげな表情の魔法にかかってしまったのか、思わぬ事を言っ
        ていた。

        「他に・・アンドレが持っていたリボンはないだろうか?私も欲しい。」

        「え・・・?お嬢様がですか?」

        驚いた様子で私を見ているばあやに気が付き、私は顔を赤らめてしまった。

        「あ・・その・・き、記念だよ。髪を切った記念に欲しいな・・と・・・。」

        慌てて言い直す私に、ばあやは再び優しい表情になり、言うのだった。

        「ありがとうございます、お嬢様。このリボンで宜しければ受け取って下さいまし。」

        「だって、これはばあやにとっても大切な物では・・・。」

        「いいんですよ。お嬢様にお持ち頂けるなんて、私にとってもアンドレにとっても
        身に余るほどの光栄でございます。」

        そう言ってばあやは、まだリボンを握りしめている私の手を、彼女の両方の手
        で優しく包んだ。

        限りなく優しく・・・温かい手だった。

        「ありがとう・・ばあや。大切にするよ。・・でも私が持っている事はアンドレには
        ・・その・・・」

        「はい、内緒にしておきますよ。お嬢様と私だけの秘密でございます。」

        そう言って、ばあやは悪戯っぽく微笑んだ。

        赤ん坊の頃から私の事を見ているばあやは知っているのだ。
        私が、こういう事に関しては、異常に照れてしまう事を・・・。


        自室に戻った私は、机の一番上の引き出しを開けた。

        ここには私の「宝物」が入っているのだ。

        父上から戴いた短剣。
        母上から戴いた耳飾り。

        それに・・・大人になった今ではガラクタに過ぎないであろうが・・・。
        幼い頃アンドレに貰った色々な「宝物」たち。

        鉛のコマや、「探検」と称して拾ってきた小石やどんぐり。
        庭に落ちていた松ぼっくり。
        少し大きくなってから貰った、四つ葉のクロ−バ−の刺繍の入ったハンカチ。

        これら一つ一つを見ていると、アンドレの成長過程を見ているようで、思わず
        顔が綻んでしまう。

        そして・・・このリボン・・・。

        いつの頃からか、幼かったアンドレの髪は、このリボンで結ばれ・・・結ばれた
        髪の長さが伸びるにつれて、彼は男らしくなっていったのだ。

        リボンを引き出しに仕舞おうとした時、思わず手が滑り、またしても床に落とし
        てしまった。


        その時・・・

        私は心の中に、何か得体の知れない黒いものが広がるのを感じた。


        私は・・もしかしたら取り返しの付かない事をしようとしているのかも知れない。

        アンドレを『黒い騎士』にさせるという事は・・間違っているのかも知れない・・・。

        でも・・もう後戻りは出来ない。
        私もアンドレも走り出してしまったのだ。

        雨が窓をたたく音が聞こえる。
        とうとう降り出してしまったらしい。
        私はリボンを握り締めたまま窓辺に立ち、降りしきる雨を見ていた。

        私らしくもない・・・。

        私は、変化を怖れているのだ。
        アンドレの髪のように、何かが変わってしまう。


        それは、アンドレ自身なのか・・・それとも、アンドレと私の関係なのか・・・。


        私は、そんな不安を払拭するかのように、ただ雨音を聞いていた。

               *
               *

        私は、森の中でアンドレの合図を待っていた。

        舞踏会の様子は、見なくても分かる。
        すべて計画通りいくだろう。

        さんざめく中、優雅な音楽が流れ、それに合わせて華やかに着飾った人達が
        舞う。
        時折、甲高く響く貴婦人達の笑い声。
        むせ返るような香水の匂い。

        そして・・・突然、シャンデリアの明かりが消える。
        暗闇をつんざくような悲鳴が聞こえる。
        そして皆、口々に同じ言葉を叫ぶ。


        「黒い騎士だー!」

        「黒い騎士だー!」


        私は、心の中でひたすら唱えていた。


        『アンドレ、無事で...。』


        そして・・・願わくば、黒い騎士が現れることを祈る。



        降りしきる雨を避けるように、私は木の下でアンドレを待っていた。

        騒ぎが落ち着き、しばらく経ってから、黒装束から着替えたアンドレが私のもと
        にやって来た。
        その表情は、「ヤツは現れなかった。」と言っている。
        でも、大仕事をした後の割には、涼しい顔をしていた。


        無事だった・・・。


        私は居ても立ってもいられなくなり、気が付くとアンドレの元へ走り出していた。

        「オスカル、濡れてしまうぞ・・!」

        アンドレは驚いた様子で私を迎え、自分が羽織っていたマントを私に被せた。

        体中に広がるアンドレの温もり・・・。
        そして、子供の頃から知っているアンドレの匂い・・・。

        私は、そんな昔と全く変わらないアンドレに触れて安心したのか、自分の顔を
        アンドレの胸に預けていた。

        「どうした、オスカル?疲れたのか?」

        「アンドレ・・・。」

        「ん・・・?」

        「これからも・・ずっと私の側いてくれ・・・。」

        「ふふ・・お前が嫌と言ってもそうするつもりだ。」

        私は、そんな風に半分おどけて言うアンドレを見上げた。
        雨ですっかり濡れてしまった黒髪が、その顔に幾つもの雫を落としていた。


        そして・・・

        優しく輝く黒曜石のふたつの瞳・・・。


        その瞳に見つめられ、そしてその逞しい腕に守られ・・まだ冷たいはずの早春
        の雨が、限りなく優しく、暖かく感じられた。

        「さあ、早く屋敷に帰ろう・・・。」

        そう言ってアンドレは、私の顔にかかった雫を拭ってくれた。
        ずっと私に落とされるアンドレの優しい瞳の輝き。

        昔と少しも変わらない・・・。


        私は、春の雨が・・・すべての不安を流してくれるよう・・・心の中で祈っていた―――。


〜Fin〜


        ■ あとがき ■

        静かに降る春の雨の情景が書きたくて出来たお話です。
        なので、原作の黒い騎士にまつわる季節からは外れています。
        ご了承下さいませ。