『ぬくもり』−アンドレのひとり言−


          喉の奥が渇いている。
          ザラついた感触がいつしか不快感へと変わっていた。

          「ゴホン...」

          堪えていた咳が思わず漏れる。
          どうやら風邪を引いてしまったらしい。
          12月に入ってからの急な冷え込みと乾燥した空気に加え...
          今日は衛兵隊員のアルマンが、俺の隣で激しく咳込んでいた。
          あいつに感染されてしまったか。

          こんな時は早く自分の部屋に戻って休みたいが...

          時々パラリというオスカルの本をめくる音が静まりかえった部屋に響き渡る。
          明日から2週間の休暇に入るせいだろうか...
          オスカルも朝の出勤の心配もなく読書で夜更かしするつもりなのだろう。
          一向に本の文字を目で追うという単純な動作を止める気配がない。
          一瞬の静寂を破った俺の咳でさえ、それを中断する事は無かった。

          時々、眉の間に皴を寄せる。
          また時には、その形の整った、それでいて少しあどけなさの残る口元の
          両端が僅かに上がり、表情が緩む。

          小首を傾げ、その状態を保つべく左手がその左側の頬を支える。
          そうかと思えば、頬から左手を外し、右の頬にかかった金色の糸のように
          きらめく髪を煩わしそうによける。

          そんな仕草のひとつひとつが限りなく愛しい。

          だが、お前の瞳は、こんな風に俺が観察している事など全く気が付かない
          様子で、相変わらず文字を追っている。

          お前をそんなにも夢中にさせる本とは...
          全くもってそんな本が羨ましい。

          本が羨ましいなど...
          俺の思考もどうやら少しいかれてきたようだ。
          風邪のせいだろうか。
          オスカルには悪いが、そろそろ自分の部屋に戻ろう。
          そう思い、自室に戻るきっかけを探し始めた時である。

          俺は、オスカルの微妙な変化に気が付いた。
          眉間に皴を寄せる時間が長くなり、左手が頻繁にその喉元へと運ばれる。

          「オスカル、どうした?」

          「あ..ああ。喉が少し痛いような気がする。」

          そう言うとオスカルは読んでいた本を閉じ、顔を上げた。
          その顔は心なしか赤いような気がした。

          「オスカル、お前、熱があるんじゃないか?」

          俺はそう言うと、オスカルの側へ寄り、左手でオスカルの後頭部を
          支えると、もう片方の手をその額に当てた。
          まだ熱は無いようだ。

          「大丈夫だ、これくらい。どうしてもこの本は読んでおきたいのだ。」

          「馬鹿を言うな、オスカル。これから熱が出るかも知れん。早く休むんだ。」

          そう言って俺はオスカルの本を取り上げた。
          オスカルは怒ったのか、今度は本当に顔が赤くなっていた。

          「うるさいぞ、アンドレ。まったく..ばあやにそっくりだ。」

          「当り前だ。血が繋がっているんだ。」

          俺は文句を言うオスカルを無視して、強引にベットへと引っ張っていった。
          オスカルをベッドに横たえると、毛布を肩まですっぽりと掛け、両手で
          オスカルが起き上がれないように押さえた。

          「お前が眠るまでこうしているぞ。」

          本当にこうでもしないと、再び起き出して本を読み始めてしまいそうだった。
          オスカルは強引に子供扱いされたのが悔しいのか、俺を軽く睨みつけ強い
          口調で言った。

          「アンドレ、お前こそ風邪を引いているだろう。早く部屋へ帰って休むんだ!」

          「何だ..オスカル、さっきの俺の咳に気付いていたのか。」

          「さっきは...本の内容が丁度いい所だったんだ。目を離せなかった。」

          「ではなおさら..それ程までにお前を夢中にさせる本が側にある限り、
          お前が眠りにつくまで監視せねばならんな。」

          オスカルは抵抗するのを止めたのか、体を起こそうと入れていた肩の力を
          フッと抜き、枕全体に頭と両肩の重みを預けた。
          そして何かを思い出したように「くすっ」と笑った。

          「..そう言えば、今日アルマンがしきりに咳をしていたな。」

          「オスカルも気が付いていたか。どうやらあいつが発信源らしいな。」

          「2週間しか無いとはいえ、せっかくの休暇だ。早く治れば良いが..。」

          「おいおい、オスカル。他人を心配している場合ではないぞ。」

          「ははは...そうだった。」

          そう言って微笑んだオスカルの表情は、懐かしい幼い頃のものだった。
          張り詰めた所がひとつも無く、無防備そのものの笑顔。

          オスカル...お前は今でもそんな風に俺の前で笑ってくれるのか。

          いつだったか俺は、お前に対して罪を犯そうとした。
          この部屋で。
          このベッドで。
          だが、お前は幼い頃から築いて来た俺との信頼関係を信じてくれていた。

          そんなお前に対して、再び罪を犯す事など絶対にしてはいけない。
          ...そう神とお前に誓ったのだ。

          しかし...

          不思議な事に、例えその誓いが無かったとしても、今の俺は罪の手を
          伸ばそうという気持ちにはならなかった。
          なった事はないが...父親のような優しい感情を覚えていた。
          俺は無意識にオスカルの髪を撫でていた。
          オスカルも心地良いのか、安心しきった様子で目を閉じ、頭を枕に沈めている。

          今...俺たちは心の中でもお互いの温もりを感じているのだ...。

          このまま時間が止まってくれれば良いと思った。
          すると、突然オスカルが俺の心を見透かしたように言った。

          「ではアンドレ、私が眠るまで何か話をしてくれ。」

          「ああ..お安い御用だ。」

          話題は沢山あった。
          175年ぶりに開かれるかも知れない三部会の事。
          ディアンヌの結婚式で、アランは泣くだろうか等...。
          そして、2週間の休暇の過ごし方の話をしていた時である。

          「オスカル?」

          目を閉じていたオスカルが、静かな寝息を立てていた。
          俺はオスカルの額に、そっと唇を寄せた。

          手のひらで触れた時とは明らかに違う感触。
          温もりが強く確実に伝わってくる。
          皮膚の下の血潮までもが感じられるようだ。

          さあ、自分の部屋に戻ろう。
          目の前に横たわる金色の髪をした女神の唇を、再び奪わぬうちに...。
          誓いを破り、再び強く抱き締めてしまわぬうちに...。

          明日、まだ風邪が治らなかったら、おばあちゃん秘伝の薬を二人で飲もう。
          それでも治らなかったら、二人で部屋でのんびりしていよう。
          そんな休暇の過ごし方も悪くない。

          俺は、暖炉の火が安全な事を確かめると、オスカルの部屋を後にした。
          廊下は、体の芯まで凍えるような寒さだった。
          しかし、まだ手のひらと唇と...そして心の中に残るオスカルの温もりで、
          俺は暖かさを感じていた。

          2週間の休暇の最終日はクリスマス...そして、オスカルの誕生日だ。

          今年のオスカルへの贈り物は何にしようか...
          そんな事を考えながら、俺は自分の部屋へと急ぐのだった。


〜Fin〜