『大きな手』
「じゃあ、アンドレ、しばらく留守にするが、何かあったらダグー大佐に宜しく頼む。」
「ああ、分かったよ、オスカル。気を付けて・・・。」
俺は、オスカルと旦那様の乗った馬車を見送った。
今は、1789年4月・・・・・
来月からは、175年ぶりに三部会が開かれ、毎日が忙しくなるだろう。
その前に、オスカルをゆっくり休ませてやりたいが、そうもいかない・・・。
今日から2日間、旦那様と、ジャルジェ家の領地の視察に向かった。
オスカルがいないと、俺の仕事も半分だ。
普通なら、休暇でもとって、実家に帰るんだろうが、俺にはこの屋敷が実家みたいなもんだ。
それにしても・・・・・
春霞が、ふわりと暖かく、すべてを包み込む。
花の香りと木々の香りが、むせるように辺りに漂っている。
こんな天気の日には、何となく懐かしい感覚が、まとわり付いてくる。
この感覚は、時々、思い出したように俺を襲う。
昔、この俺を包み込んでいた大きな手の温もりの感覚・・・。
その大きな手の持ち主は・・・。
行ってみようか・・・。
俺がこの屋敷に来たのは8歳の時だったから、もう25年以上が経つんだ・・・。
幸い、おばあちゃんの容体も安定している。
この目が、まだ見えるうちに行こう・・・。
俺は、一通り仕事を終えると、馬にまたがり、パリから少しばかり離れた、ある田舎町に
向かった。
麦畑が黄緑色に輝き、羊達も草を食んでいる。
良かった・・・。
俺の目は、まだ少しは見えるようだ。
春霞のせいかどうかは分からないが、少しばかりかすむが、物の様子は識別できる。
近い将来、一生、昼も夜も暗闇の世界で暮らすようになるのかと思うと、怖くなる。
生活が不自由になる事もそうだが・・・
それよりも、オスカル・・・お前の姿を見られなくなるのが、とても辛い。
俺の人生は、いったい何なのだろう・・・。
そんな事を考えながら、馬を走らせているうちに、目的地に着いた。
確かこの辺だ・・・。
俺の記憶が間違っていなければ・・・。
麦畑の向こう側に、一件の古ぼけた小さな家があった。
近づくにつれ、不確かな記憶が、だんだん確実なものになってきた。
あちこちの壁が剥がれ、屋根も雨漏りなどお構いなしのように、穴だらけだ。
取り壊されていないのが不思議なくらいだ。
かんぬきも外れていて、容易に中に入ることが出来た。
明るい外から入ったので、最初は暗くてよく見えなかったが、目が慣れてくると
次第に、中の様子を見ることができた。
どうやら、今は物置として使われているらしい。
農具が無造作に置いてある。
明かりが差し込む小さな窓辺に向かった。
そうだ・・・!この窓辺は・・・!
胸の奥が、キュッとなった。
俺は・・・この窓から、いつも母さんの帰りを待っていたんだ・・・。
そして、この壊れかけた窓辺に打ち付けられた、茶色く錆びた釘・・・。
(アンドレ、この窓はね、亡くなった父さんが直してくれたんだよ・・・。)
何処からともなく、懐かしい声が聞こえるような気がする。
俺の頭の中では、懐かしい記憶がまざまざと蘇っていた。
この窓辺から漂う、日だまりのにおいが、俺の全身を包み込む。
また、あの感覚だ・・・。
大きな手の温もり・・・。
その大きな手の主は、おそらく・・・。
間違いなく・・・!
俺の目から自然に、あたたかい雫が落ちてきた。
次から次へと、その雫は止まらなかった。
そして、俺は無意識のうちに呟いていた。
「父さん・・・。」
俺には、父親の記憶はない。
でも、その大きな手の温もりだけは、憶えていたんだ。
俺はこの世に生を授けてくれた両親に感謝した。
そして、ここへ来る途中に、自分の人生を呪ったことに後悔した。
懐かしい台所、寝室、食卓を囲んだ部屋・・・。
ほんの少しだけだが、昔の面影が残るその場所を一通り確認すると、
この小さな古ぼけた家を後にした。
春霞が、相変わらず俺を容赦なく包み込む・・・。
切ないほどに、懐かしく俺を包み込む・・・。
そして、また何処からともなく、なつかしい声が聞こえてきた。
(アンドレ・・・アンドレ・・・もうすぐ会えるよ・・・・・。)
〜Fin〜