「師」とは何か

以前準備会ブログに「私には師がいる」と書いた。私にとっての「師」とは、その人がいてくれると いうだけで、心の支えとなる人をいう。したがって、単にこれまで学校で教えてもらった教師を 意味するわけではない。会ったことがない人で「師」と思っている人もいるし、勿論、多くのことを 教えてくれた恩師もまた「師」である。

その「師」の一人からの年賀状に、癌と闘われておられると書かれていた。電話をしたらご本人が出られ、 見舞いは断ると強く拒否された。自分の痛々しい姿を私に見せたくないと思っておられる師の考えは、 すぐに手に取るように分かった。ほんの数名にしか伝えていないとも言われた。

受話器をおいてからしばらくは、何をするにも師のことが気になって上の空だったが、翌日、私は 師のご自宅の付近で小一時間ほど、じっと立っていた。ただ、じっと立っていただけである。 他から見たらさっぱりわからない行動だろうが、自分としてはそれで心の整理がついた。師との 懐かしい場面を脳裏に浮かべながら長時間、電車に揺られて帰宅した。それだけで私の心は満ち足りた。 その夜、珍しくなぜか手書きで書きたくなってしたためた手紙を、師はどう読まれたか。 私にはおおよその想像がつく。

『街場の教育論』の中で内田樹は述べている:

レヴィナスの知的可能性を開花させたのは、師から「教わったこと」ではなくて、「師を持ったこと」と いう事実そのものだったということです。「学び」を通じて「学ぶもの」を成熟させるのは、師に 教わった知的「コンテンツ」ではありません。「私には師がいる」という事実そのものなのです。

心の中にいてくれるというだけで気持ちが安まるのが、私にとっての「師」である。勿論、時空を 超えてである。決して、知的ノウハウを与えてくれる人が私の「師」とは限らないのである。 それぞれの「師」について、「現代社会の問題を糺し未来の扉を開く会」で互いに語り合うことも、 このような時代には必要なことではあるまいか。

「師」は2009年6月逝去なされた。

寄稿トップへ戻る

サイトトップへ戻る