『君の名は』というのは、昭和27年に冒頭「忘却とは忘れ去ることなり。忘れ得ずして忘却を誓う 心の悲しさよ」というナレーションで始まったNHKの連続ラジオ放送劇である。一世を風靡した作品と 語り継がれている菊田一夫の代表作である。

“昭和20年5月24日、東京大空襲の夜。数奇屋橋の上で互いに命を助け合った、真知子と春樹の純真な愛と 波乱の人生を描いた本格派メロドラマ”とamazonでは説明されている。 ここでは、このドラマについて論じるのではなく、“忘却”という言葉についてである。“忘却”は 『広辞苑』によれば、「すっかり忘れること」と極くあっさりと書かれている。この“忘却”について 2,3記しておく。

「忘却」その1 2006年から翌年にかけて「赤ちゃんポスト」が賛否を含めてしきりに報道された。厚生労働省の 消極的黙認を巡って、親の養育責任問題、子捨ての勧めへの懸念、公表の弊害等々マスコミを あれほど賑わした「赤ちゃんポスト」問題についての報道が、ピタリとされていない。これは “忘却”ではなく、敢えて報道していないのかも知れないが、勉強不足の私には不可解である。 歴史的には古くからあったらしい。2000年にドイツで設置されたことが有名であるが、 その底流にはキリスト教精神が流れている。しかし、日本では“子供を捨てる”という一側面だけが クローズアップされた。忘れ去ってはいけない大きな問題であるので、今後、文献をもっと読んだ上で 論じたいとここでは書き留めておくことにする。

「忘却」その2 いささか苦痛を伴いながら『資本主義はなぜ自壊したのか』(中谷巌著 集英社)を読了した。著者は、 小渕内閣の「経済戦略会議」の提言づくりに参加、そのいくつかは、後の小泉構造改革として実行に 移された「改革」の急先鋒的存在「である」(「であった」と書くことを著者は望まれるかも 知れないが)。ソニー取締役も務められた一橋大学名誉教授でもある。360ページ余りだが、 平易に書かれていて読みやすい本だった。それが、なぜ、私には苦痛を伴ったのか。苦痛と言うよりは、 放り出したくなったと書いた方が正確だろう。冒頭部分で、こう述べている:

「改革」は必要だが、その改革は人間を幸せにできなければ意味がない。人を「孤立」させる 改革は改革の名に値しない。かつては筆者もその「改革」の一翼を担った経歴を持つ。その意味で 本書は自戒の念を込めて書かれた「懺悔の書」でもある。まだ十分な懺悔はできていないかも しれないが、世界の情勢が情勢だけに、黙っていることができなくなった。

因みに「革」とは、皮を剥ぐことから「病気が重くなる。危篤になる」の意味もある (『漢語林』大修館書店)。私たちグループは、10年以上前、世にちらほらと出始めた 「グローバル資本主義」というものの危険性、「規制緩和」の大合唱の落とし穴を主張し続けてきたが、 当時からつい最近まで、冷ややかな蔑視の眼差しを浴びてきた。その「改革」の急先鋒がこう お述べになり、“懺悔の書”と自ら称して書かれた本は、きちんと読了するのが礼儀だろうと 勝手に考えた次第である。数カ所引用してみる:

アメリカ型の市場原理の導入によって、ここまで日本の社会がアメリカの社会を追いかけるように、 さまざまな「副作用」や問題を抱えることになるとは、予想ができなかった。この点に関しては、 自分自身の不勉強、 洞察力の欠如に忸怩たる思いを抱いているのである。 ひょっとしたら、グローバル資本主義とは人類にとっての「パンドラの箱」であったのではないか─現下の 情勢を見るにつけ、私の心にはそんな苦い思いが湧いてくる。しかも、私はその蓋を開けることに 荷担してしまった一人なのだ。

郵政改革は、郵便貯金が自動的に不要不急の公共事に使われる財政融資投融資制度にくさびを 打ち込んだ点で画期的な意味を持つ。しかし、山村でお年寄りの小さな拠り所となっている 小さな郵便局を廃止することにどれだけ意味があるのか。誰のための改革かという視点を 欠いてはならない。

医療も福祉もコスト抑制や競争原理が優先され、高度成長を支えた人たちの尊厳を踏みにじる 後期高齢者医療制度ができた。路頭に迷う人たちには、冷たい『自己責任』という言葉が投げかけられる。 人心が荒み、無差別殺人なども目立つようになった。日本の良き伝統であった『安心・安全』が 脅かされる社会になってしまった。小さな政府であればいいというのは何か違う。

中谷氏を代名詞とする「改革」の中心にいた人々、それに賛同の大合唱をした“大衆”には、 「忘却」が『広辞苑』型の「すっかり忘れる」ではなく、『君の名は』型の悲しさ、苦痛を伴った 忘却であってほしい。そうでなければ、情勢が変わればまた“転ぶ”可能性があるのだから。

「忘却」その3 (2009年)2月下旬、小規模で家庭的な雰囲気が漂う専門学校の卒業制作発表会に招かれた。 高校1年生から20歳までの女子が自分で創ったコスチュームを自ら着て、発表する ファッションショーである。次々に作品が発表され、2時間後にウエディングドレスを纏った 20歳の女性が、最優秀賞を理事長からもらい、本人がマイクを持って挨拶した。挨拶が言葉に ならないほど、感動していたが、ゆっくりと「・・・(同級生の女性の名)、有難う。あなたが いなかったらここまで来れなかった。これからは、違う道を歩むけれど、苦しみ、悩みながら制作して 出来上がったこの感動はいつまでも忘れない。有難う」と声を振り絞って話した。思わずこみ上げるものがあった。

モノづくりを忘れ、貨幣が一人歩きして世界的な恐慌に陥っている現在、何と清々しい言葉だろう。 本来、金銭というものは、勤労の対象としての報酬か、売買の手段として動かなければならない。 まだ僅か20年しか生きていないこの女性は、モノをつくるということの大切さ・感動を全身で 学んだのだ。 人間を深めるのは、学歴でも地位でもない。どれだけ人生に感動したかである。この女性は、 近代経済学を学んで“懺悔”している“学者”が足下にも及ばない「忘れていたモノづくりの大切さ」という 教訓を、会場にいた人間の心をゆさぶりながら与えてくれた。

音楽、美術、書物・・・ふと人生を発見し、自分が深くなったような感動を持つときがある。 それは錯覚かもしれない。が、その感動を肌で感じる習慣はつけなければいけない。今の教育は 大事なことを「忘却」している。

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