わたしたちは次第に「長い終わりの始まり」の道を歩んでいるのかも知れない。それならばましてや、いま抱える社会問題を正しく把握・分析する必要があろう。いくつかの問題提起をしてみたい。
1.高齢化「問題」
「学問とは母を看ることなり」は陽明学の祖・近江聖人と称えられた中江藤樹(1608-1648)が述べたという言葉である。中江藤樹は1608年、琵琶湖の西岸近江の農家・中江吉次の長男として誕生。通称は与右衞門(よえもん)という。9歳の時150石取りの武士である祖父・徳左衛門の養子となり、米子に行く。14歳のとき、祖父が死去し、家督を相続する。27歳のとき近江にいる老いた母を看ようと辞職願いを提出するが拒絶され、そこで脱藩して故郷・近江に戻った。そこで、私塾「藤樹書院」を開く。屋敷に生えていたフジの老樹から、門人たちが《藤樹先生》と呼んだことから中江藤樹と言われたという。藤樹の説く所は身分の上下をこえた平等思想に特徴があり、武士だけでなく商工人まで広く浸透し「近江聖人」と呼ばれた。
彼が米子にいたときの逸話は多くの人が知っていると思うが、簡単に述べておく。
彼の母が住む近江は冬はことのほか寒く、老母の健康を心配した藤樹は、冬のある日、思い余って母を訪れた。母のためにあかぎれの薬を買い求め故郷へ帰った藤樹は、雪の降りしきる戸外でつるべ仕事をしていた母にその薬を差しだして労り、肩を抱いて家の中へ入ろうとした。そのとき母は、 「あなたは学問をするのが仕事だ。私を訪ねる暇などないはずだ。すぐに帰りなさい」 と、薬も受け取らず、家にも入れてくれずに藤樹を追い返したという。母に諭され、雪道をとぼとぼと帰っていく藤樹の後ろ姿を、老母は涙を流して見送ったという。辛い別れでありながら、母親の自分を思う気持ちを理解した藤樹は、その後勉学に励み、当代一流の儒学者となった。
藤樹独特の教えとして、彼は、徳と人格とを非常に重んじ、学問と知識とをいちじるしく軽んじたということがあげられる。真の学者とはどういう人かを彼は次のように述べている。
些か長々と述べたが、「学問とは母を看ることなり」の意味が理解いただけたと思う。
さて、目を現代に投じてみる。「向老学学会」という学会(NPO法人)があることを、最近読んだ『老いる準備』(上野千鶴子/朝日文庫)で知った。少し、その中からから引用してみる。 この本では、「老人問題」と「老後問題」を区別している。
そして
と書いている箇所になるほどと思った。話題は親子、結婚、介護と進んでいく。
親が娘への選好性を高める、という状況が出てきた。これには少子化の影響がある。七〇年代から継続して行われている世論調査に、「もし、あなたが一生に子どもを一人だけしか持てないとしたら、娘と息子、どちらがいいですか」というものがある。この答は、七〇年代までは息子優位だったが、八○年代の半ばに逆転して、現在では、男女を問わず四分の三にあたる人が、「娘がいい」と回答している。ただし、韓国、中国などの儒教圏では、今でも息子が圧倒的に選好されている。
夫婦関係のなかで、妻が夫に対して優位に立っていられる理由は二つある。一つは妻自身に経済力があること。もう一つは、妻には実力はなくとも、実家に勢力があることである。実家風を吹かせる、というが、実家が強いと、妻は婚家で威張っていられる。現代では、いやならいつでも帰れる場所があるということが、妻の地位を押しあげている。若い世代のあいだで、一見、夫婦関係は対等になってきているように見えるが、わたしには、女の実力が向上したからだけとは思えない。妻の親が背後にいる、つまり、結婚が娘にとって親との分離を意味しないために、夫に対して強く出られるからではないか、と読んでいる。
フェミニストから見ると、夫婦間にも優劣関係というものが存在し、対立する関係のようである。
(最近)「介護は娘に」という期待感が高まっているが、それというのも、介護に対するコストをだれが負担するかというルールに、ここ一〇年から二〇年のあいだに、変化が起きているからである。わたしが「コスト」というときには、おカネだけをさしているわけではない。人手とおカネの両方をさしている。
婿は、男女ともに(老夫婦にとって)もっとも抵抗を感じる対象である。女性の方でも、「抵抗は感じない」順番に、中年女性介護士、娘、若い女性介護士、息子、嫁と来ている。嫁に看てもらうぐらいなら息子の方がだましだ、と思っている様子がうかがえる。子どもはミウチだが、子どもの配偶者は赤の他人、婿や嫁より、実の娘や息子がよい、となってきている。女性の場合は、男性介護士と婿に対する抵抗が、もっとも強い。
「フェミニズムの旗手」と言われた(現在もそうか)社会学者の上野千鶴子が、「私自身が年をとり、老いた女性の問題にめぐりあったから」、このように考えるようになったと語り、「男も女も、できることは全部できるという米国流のフェミニズムが踏み迷った道に、高齢者が進んではならない」と(自戒をこめて)述べている。
とインタヴューに答えるあたりは、フェミニストの面目躍如という感じがするが、“I am peaked”とこの本の冒頭で語る彼女に寂しさが漂う気がした。
中江藤樹の親子関係に対して、上野が述べる親子関係。(なぜか一時話題になった「さもしい」という 言葉が思い出された) 「学問とは母を看ることなり」と言った時代に対して、「親が娘への選好性を高めるという状況が出てきた 」と言う時代。 この違い・変化・原因等々を含め、介護の現状視察も踏まえて、臨床医を交えて議論しておきたい大きな問題の一つである。 高齢化について論じることは、必然的に核家族問題を始めとする家族論、死生論、社会論へと広がるであろう。
小見出しで高齢化「問題」と書いたが、「高齢化」が問題になるのはずっと前から分かっていたことである。それを「問題」とすることが問題である(少子化「問題」然り)ことを一言付加しておく。