(総合司会)ではおくつろぎいただきながら、質疑応答に入らせていただきます。ご質問等ありましたら挙手をお願いいたします。こちらからご指名させていただきますので、お名前をお名乗りの上、ご質問ください。
(TM)私は奈良から参りました後期高齢者でございます。大きな病気もいたしましたし、 主人と二人でどちらも病気持ち、いわゆる「老老人介護」でございます。 お二方のようなこんな先生に巡り会ったらと思うのですが、なかなか会えませんので、東京に出てきた際は是非、宜しくお願いいたします(笑)。これはお礼になってしまいますので、一つ質問させていただきます。今の医療はどんどん進んでいく、それに反比例して心の問題が忘れ去られていくような気がします。今、私が住んでいる町でいろいろな健康調査があって、後期高齢者ですから幸いに市からご通知が参ります。それによって病院に行っていろいろな診察を受けたり、血液検査をしたりして参りますが、先生方は何を見てらっしゃるんだろうと不思議に思うのは、患者が来て「こんにちは」というと「こんにちは」という目は患者を見ないで画面を見ている、手は患者を触るのではなくパソコンに行く。「はい」と「いいえ」だけで終わって、最後に「はい、おしまい」という感じなんです。心の問題がどこに行ったんでしょうか。私はそれが非常に疑問に思います。昔のお医者様は実際に手で触って、顔で見て、声をかけて、診察したと思います。病気をしていることが心にどんな影響を与えるのかを考えておられるのか、こちらにいらっしゃる先生には関係ないことで申し訳ないのですが、何かそれに対して一言お話しをいただきたく存じます。
(平野)実はですね、私もそういうことをやっていましたし、やることがあります。例えば午前中、100人の患者さんを診察しなくてはいけないときがあります。午前中で終わるわけありませんね。そういう場合は、コンピュータで流れ作業的にやらないと、嫌な言い方ですが片付けることができません。そういう仕事は私たちにとっても本意ではありません。医者の仕事の内容にもよりますし、また重い軽いという病状にもよりますが、やはり最低でも20〜30分かけられる医療というのがこちらにとっても充実感のある医療なんです。患者さんにとってもそうだと思います。ですけれども、現実に半日に100人来たら100人診なくてはいけませんから、表現は良くありませんが、千切っては投げ、千切っては投げ(笑)のような実情です。それは私たちにとっても不幸なことです。そういうことはやりたくないのです。疲れるし、変な言い方ですが面白くありません。答えになっていない答えで済みません。
(TM)有難うございました。きっと先生を慕って集まる方が多いのではないかと思います。
(平野)実のところ、地元に帰るつもりはなかったのです。帰りたくなかったのです。紆余曲折を経て地元に戻ったわけです。皆さんは怖いもの見たさで来てくれたわけです(笑)。氏素性を知っているので、「まぁ、そんなに悪いことはしないだろう」「(私の小さい頃から知ってるから)話は聞いてくれるんじゃないか」と思って来られたわけです。腕を信用してではありません(笑)。
(忠岡)大変、耳に痛いご質問です(笑)。デジタルが導入されて、より一層患者さんを見なくなったり、見えなくなったり、直接診察しなくなった傾向があります。もっともっとコンピュータが進歩すれば、余裕が出てくるのかも知れませんが、心が通わない医療だというのは辛いところです。ただ今の日本のフリーアクセスできる、つまり誰でもどこの病院に行って診察が受けられるというシステムが続く限り、一人ひとりの患者さんが満足できる時間をとることはなかなか厳しいのではないかと思います。誰かそういう先生が身近に見つかったら安心できると思いますが。これからも心に留めて参りたいと思います(笑)。
(総合司会)では他にどなたかございましたらお願いいたします。
(TY)私は新聞社に勤めておりますので、一番先に質問すると言うことを25年ほどやっております(笑)。話を伺っていて、患者と医師の間合いの取り方というか関係という点で、非常に感銘を受けてお話を伺いました。 確かに20年、30年前は医者の方が患者より横暴というか、強い存在だったと記憶しているのですが、今は患者の方、診療を受ける側、私たち(新聞社に勤めている人間)にとっては、取材される側の権利意識が大変強くやりにくい状況があります。それは医者についても同じではないかなと思います。それは結局は、訴訟が怖い から積極的に医療をしないということに繋がっていくというように感じます。それは双方ともに不幸な状況だと思うのです。それを直していくにはお二人の先生がおっしゃったように、人間的な関係、言葉を持って修復していくしかないのではないかなと思います。それは私どもがやっている仕事と同じ結論になっていくように思います。ただ、そういうふうに思っても、現実はそう上手くはいかないことがあります。言葉を尽くして人間関係を築く、ということの更にもう一つ先に何かがあるのではないかなと思うのですが。
(平野)確かに私たち医者は、権力は持ってないかも知れませんが、権威は持っていると思います。マスコミも私たちも権威や権力を持っているという自覚が必要だと思います。患者さんに与える影響力の大きさ、例えば私が患者さんに対して「お前、死ね」と言ったらこれはえらいことになります(笑)。あるいは「お前、死ぬよ」と言ったら天地が変わってしまうのです。笠に着たようなことはしないという自覚が必要だと思います。反面、昔の仲間だとかの前では一人の人間であり、そこら辺で穴にはまって骨折したり(笑)する人間であることはご理解頂きたいと思います(笑)。
(千葉)今日は、われわれのこの会に、ご子息が言うには「『圧力』をかけるために、うちの両親が参加しますと言っていました」という(笑)、ベテランの荒牧先生ご夫妻がいらっしゃいます。ご夫妻ともお医者様でいらっしゃる荒牧先生からわれわれの今までの拙い話について、何か「圧力」をお聞かせ頂きたいと思います(笑)。
(荒牧)「圧力」をかけるために来たわけではありませんが(笑)、私の息子は口腔外科の医師でかなり勉強していたり、実際に診療していたりしているんではないかと思います。思いますけれども、私は一度も実際に治療をさせたことがないんです。と言うのは、私は従兄弟が歯科医でそこに行くんです。息子は「あの先生は旧態依然として古いから危険だ」という意識を持っています。ですけれども、私は息子にはかからずにその先生にかかるというのは何故かというと、やはり医師が人間の体を治すというのには一つの哲学が必要だからです。「『治す』ということはどういうことなのか」ということを知っておく必要があると思うのです。ただ技術だけではないのです。私の息子はまだそれを知らないと思うのです。こういうときには、こうすればいいんだ、というように機械的な技術を学んだり経験で知っているとは思うのですが、われわれ医師としては「治す」ということはどういうことかということを考えたり、経験したり、本を読んだりして知らなければならないと思うのです。今の医師はあまりそれを勉強していない。ただ技術は勉強していて「こういうときには、こうすればいいんだ」ということは知っているかも知れませんが、医療というものの哲学を勉強していないと思います。私は息子にそれを言っていますが、多分、息子の診療を受けずに死ぬと思いますが(笑)、それができたら君の診療・治療を受けるぞと言っております。こんなことを申すのはおかしいのですが、千葉先生は息子の診療を受けてくださっています(笑)。私はまだ診療を受けることは拒否しています(笑)。横道に逸れたかも知れませんが。
(千葉)では、奥様から一言お願いいたします。
(荒牧(昌))私は耳鼻科の医者です。ですから、忠岡先生からするとちょっと違った面があるのですが、技術的に患者さんを治しています。医者になって非常に良かったなと一つ思っていることがあります。それは患者さんが、人生観とか家庭であったこととかいろんなお話をしてくれることです。私は自分の人生は一つしかありませんけれども、患者さんを通していろんな人生を勉強させて頂いています。それが私にとって本当に楽しいのです。息子が「お母さんよくそんなに遅くまで診察するね」などと言いますが、患者さんがいてくださる間は年をとっても続けていきたいと思っています。お恥ずかしいことなんですけれども、一つ私が大失敗した経験を皆様にお話しします。患者さんが喉頭癌だったのを見損なっていたのです。はっと気がついたときにはかなり進行していまして、大病院で手術して頂きました。私の心の中では、この患者さんは私が死ぬまでずーっと抱えていなければいけない、と思っています。その患者さんが行く先々の病院の先生に、「私がちょっとミスをしてしまいましたのでよろしくお願いします」と言っています。と言うのは、私が習った先生から、「自分がもしミスをしたら、その患者を一生診ていくつもりで医者としてやっていきなさい」という教育を受けたからです。その教えを守っているわけですが、今の若い先生を見るとちょっと違ってきているかな、という気がします。個人的な見解で失礼いたしました(拍手)。
(千葉)突然お話しして頂き有難うございました。
(総合司会)他にどなたかございましたらお願いいたします。
(AR)いろいろなお話を聞いているうちに思ったことをお話しさせていただきます。 私も腎臓を一つ取ったり、家族の介護をしたりしてきましたが、やはり「病は気から」と言いますように、医者との信頼感ということが根底にあって、治る病気も治らなかったり、治らないはずが治ったりということがあると思います。先ほどヒポクラテスの話がありましたが、お医者様は患者を治すという信念を持ってらっしゃるわけです。 今、医学部とか医科大学とかお医者様になられるための学校で、技術の他にお医者様になるための心構えとか、そういうことを教えておられるのでしょうか、そういう時間というのはおありなのでしょうか、子どものような質問で恥ずかしいのですが。
(平野)あとになって分かったことなのですが、学校によって差があるとはいえ、医学部というのは授業がやたらきついのです。テスト、進級が非常に厳しい。1年生の基礎は楽ですが、あとは「これでもか、これでもか」という状態で、1週間ほとんど眠らずにふらふらの状態で試験を受ける、ということを何度も経験しました。結局それは何だったんだろう、役に立つはずないじゃないか、と思っていたわけです。今思えば、医者になってからもっときつい思いをするための準備だったのではないかという気がします(笑)。医者になったらもっときつくなる、そのための免疫をつけているのではないかと思います。
(AR)と言うことは、極端に言えば、善いお医者様になるためと反対のことを、大学ではなされているということでしょうか。
(平野)極端に言えば、きつい思いをさせることによって抵抗力をつける。早い話がきつ い思いに耐えられない人間は医者には不向きだということを知らしめる、ということだと思います。実際そういう人間はいました。現実に直面しても思考停止することがないように、詰め込んで、詰め込んで、いじめ抜いていくのが医学部の教育の本質ではないかなと思いました(笑)。
(AR)それでは最初のテーマの一つの善いお医者様とは技術だけではなく、患者やその家族の気持ちを思いはかるという医者だ、となるであろう今日の結論に向けたもっとも大事な部分の教育は、実際には医学部では行われていないということでしょうか。
(忠岡)代わって話します(笑)。ご質問の趣旨の人間教育については、いろいろな試みは拡大されているのですが、残念ながらシステマティックなものはまだありません。結局のところ、個人の努力目標になってしまっています。技術、知識を教えるという段階以上に現場に余裕がないというのが実情です。勿論、人間対人間、研修医と指導医、教える側と教えられる側で日々、教育的な話は出るのですが、個人差があります。医学部に入る以前の基本的な人間教育ということが大切だと思います。例えば、アメリカのようにもう少し医学教育に入る前の教育・人間形成の段階を長くするか、あるいは人間教育を見直してカリキュラムの中に組み込むような努力をするかということだと思います。ですが、6年でも非常に足りない状態で、大学によっては教養課程をカットしてしまうということが出てきています。これは最近の問題ではなく昔からの問題ですが、試みはあるのですがなされていないというのが現状です。
(平野)補足しますと私たちの学生の頃は職人の世界、徒弟制度でした。指導医は親も同じというふうに言われていました。医局というのはそういう締め付けも兼ねていました。ギルド・職業集団として医局というのが上手く機能していた点がありました。それが一方では閉鎖性にも繋がっていましたので、その医局が廃止されました。それによって失ったものも大きいのではないかと多少、弁護になりますが言っておきます。
(AR)ヒポクラテスの誓いは素晴らしい内容だと思います。それをきちんと理解していれば、画面を見ずに患者さんの顔を見るお医者様が生まれると思います。お答え有難うございました。