百済と百済王 |
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朝鮮半島に4世紀から7世紀にかけて、三国時代と呼ばれる時代がありました。高句麗、百済、新羅の3国が鼎立して、その勢力を争った時代です。
3つの国を大きく分けますと、高句麗は現在の北鮮の辺りに、百済は韓国の西半分、新羅は東半分に当たる地域にあったと見てよいでしょう。百済と新羅の間に伽耶といわれる地域がありましたが、ここは部族連合体のような形態をとっていて、統一国家ではありませんでした。倭国はこの地域に進出して、半島での権益を確保していました。
北からは中国の勢力が加えられており、南からは倭国の勢力がやってきていて、三国関係はたいへん複雑でした。倭国と百済との交流は4世紀後半から始まり、5世紀初め頃には百済と連合して高句麗や新羅の奥深くまで攻め入っています。 |
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しかし百済は高句麗の南下政策によって圧迫されて南方に撤退し、都を漢城(ソウル付近)から白馬江ほとりの 熊津(現在の公州)へ、そして更に下流の泗比(現在の扶余)へと移しました。その百済がやはり南方へと進出し伽耶地域に権益を築きます。新羅もまた伽耶への進出を図り、6世紀の初め(枚方に縁の深い継体天皇の頃)には伽耶を挟んで百済、新羅、倭国が対立します。新羅の圧迫は強くて、562年には倭国の伽耶での権益は消滅してしまいます。
この結果百済と新羅の対立は直接的なものとなり、百済は倭国との関係を強化するため643年には義慈王が2人の王子豊璋と禅広を人質として倭国に送ります。
660年新羅は中国の唐と連合して百済を攻め、これを滅ぼしてしまいます。百済王族の鬼室福信が倭国にいた王子豊璋を担いで百済復興を図り、倭国はこれを援助して大軍を半島に派遣します。しかし、豊璋が戦略上の違いから福信を殺害してしまうという事件が起こり、また倭国の艦隊が白村江(白馬江)の合戦で壊滅してしまい、復興の夢は果たされずに百済は完全に消滅してしまいました。わが国の天智天皇の時のことです。
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倭国に残された王子禅広は、天智天皇から難波の地を与えられて亡命者たちと共に街を築き上げます。JR大阪環状線の寺田町から桃谷へかけての一帯ですが、近くには百済の名前も残されています。禅広はその後持統天皇によって百済王(くだらのこにきし)の姓を与えられました。これは百済王家が百済からの渡来者の中で中心的な存在として認められたことになります。またこれは百済王家がわが国の重臣としての地位を確保されたことにもなるのです。
禅広の曾孫に当たる百済王敬福が陸奥守であったとき聖武天皇が大仏建立を発願され、その鋳造は順調に進んでいました。ところが大仏を仕上げる鍍金に使う金が不足して完成が危ぶまれました。 そのため天皇はたいへん心を悩まされておられましたが、その時、敬福が任地の陸奥国涌谷で産出した金900両(約13kg)を献上しました。これのよって大仏完成に目途のついて天皇は大いに喜ばれ、敬福の功績を讃えて従三位宮内卿に昇進させられると共に河内守に任ぜられました。
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百済王敬福は河内守に任ぜられると共に、 河内国交野に地を与えられて一族は難波からここに移住しました。それが現在の枚方市中宮です。この地は既に交野郡家があり開発されていたところと推定されていますが、百済王一族はここに新しく街を建設しました。その氏寺として造られたのが百済寺であり、その建築様式は皇室の勅願寺に匹敵するものであったことが最近の発掘調査で分かってきています。
百済寺は奈良時代末期から平安時代初期に建立されたものと推定されていますが、敬福は766年に死没していますので、恐らく百済寺建立の発願はしたものの、その完成を見ずにこの世を去ったものと思われます。
百済寺跡
寺は平安時代半ばに焼失しましたので、その姿を元のままに復元することはできませんが、その礎石が完全な姿で残されており、また数字の発掘調査によって伽藍配置がはっきりと確認されています。
その保存状況から古代の寺院の様子が分かり、古代におけるわが国と半島との交流の徴(しるし)となる文化的価値の高いことから、次のような経緯を経て昭和27年(1952)国指定特別史蹟に指定されました。
昭和 8年(1933) 大阪府が史蹟名勝天然記念物保存法により史蹟に仮指定
昭和16年(1941) 文部省により史蹟指定
昭和25年(1950) 新公布の文化財保護法にても史蹟指定は引き継がれる
昭和27年(1952) 特別史蹟に昇格
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