概要
元和3年(1617年)信州松本城主より明石藩10万石の藩主となった小笠原忠真は、2代将軍
徳川秀忠より築城命令が出されました。当初は明石城の西方、明石川河口西岸にあった船上城に小笠原忠真は入城していましたが、命令により姫路藩主本多忠政と相談しながら、 築城から町割りまで行いました。
3箇所築城候補地がありました。
1.塩屋町(神戸市垂水区塩屋町周辺)、2.かにが坂 (明石市和坂周辺) 3.人丸山(赤松山)
が検討され、人丸山には大きな池が西には明石 川があり城の防備に役立つとして人丸山に定りました。
徳川秀忠は普請奉行として播磨林田藩主 建部政長ら3名を派遣し、普請費用(土木工事費用)として銀一千貫(時価31億円相当)を支給しました。
人丸山の地の利を利用し、幕府と明石藩の共同事業として元和5年(1619年)正月から普請が始まり、8月中旬には本丸、二ノ丸、三ノ丸の石垣・土塁・堀が整ったため幕府の普請 奉行は任を終え帰参したそうです。作事工事(建築工事)は一国一城令で廃城となった伏見城、三木城など用材を使用し着工され、坤櫓は伏見城、巽櫓は船上城の遺材が使用された と伝えらます。
天守こそ天守台のみで築かれませんでしたが、本丸4隅に3層3階の櫓を持つ巨大な城が、元和6年(1620年)には完成しました。
地図

苦心して明石城を築城した小笠原忠真は、
1632年(寛永9年)豊前国小倉藩に加転封。
半年ほど幕府直轄地の蔵入地(俗に言う天領)となりました。
1633年(寛永10年)信濃国松本城より (戸田)松平康直が7万石で入城したが、ほぼ1年後
急死したため松平光重が家督相続したものの1639年(寛永16年) 美濃国加納藩(加納城は
岐阜城の後継城)に転封となりました。
入れ替わりで大久保忠職が7万石で入城しました。10年間後の1649年(慶安2年)肥前国唐津
藩に転封となります。
その後丹波国篠山城より(藤井)松平忠国が7万石で入城、その子松平信之と共に名君とし て知られ、林崎掘割の用水路や一里塚の設置、海岸の防風林の造成、新田の開発に努め たそうです。文化人としても造詣があり、城内十景を選ぶ、この時に別称の「喜春城」の名 を付けられたといいます。
1679年(延宝7年)松平信之は、大和国郡山藩に転封となると、郡山にいた本多政利が 6万石で入城しました。
しかし、領内を収める事ができず1682年(天和2年) 僅か3年後、 苛政を責められ陸奥国岩瀬藩に1万石に減知転封となりました。(その後改易・他藩預かり)
(越前・結城)松平直明が6万石で入城し、以後明治維新まで10代189年間親藩 結城松平氏 の居城となりました。2代藩主松平直常の1739年(元文4年)には城の大修築が行われたようです
8代・松平斉宜は11代将軍・家斉の二十五男で、この時2万石の加増を受け 8万石になり。
同時に10万石格となりました。
幕末は佐幕派となり鳥羽伏見の戦いでも幕府方として参戦しましたが、その後、明治政府に帰順しました。
1881年(明治14年) 本丸北東の艮櫓が、神戸市の相生小学校(現、湊川小学校)の用材として、解体されてしまいました。
これをきっかけに、旧藩士など有志による保存活動が行われ、1883年(明治16年)明石公園、1898年(明治31年)には 皇室の御料地となりました。
1901年(明治34年) 宮内省により、本丸未申櫓、巽櫓は修理されたものの、本丸北西の乾櫓は解体されてしまいました。
1918年(大正7年)兵庫県が御料地を借り受け県立明石公園として開園しましたが、昭和4年(1929年)御料地全域の払い下げとなりました。
1995年(平成7年) 阪神・淡路大震災により大きな被害を受けてしまいましたが、
1999年(平成11年)修復が完了。同時に未申櫓と巽櫓を繋ぐ塀が復元されました。
未申櫓(坤櫓)
photo by kazuwanco from OCNフォトフレンド
天守閣が造られなかった明石城では最大の規模をもつ櫓で、天守台のすぐ南にあります。>
天守の代替櫓の役割が伺えます。東側に入口と第二層は唐破風の上に千鳥破風が重なる豪華で特徴的な二重破風があります。
←
天守台より望む
↑稲荷郭から見上げる 稲荷郭の下から見上げる↑
三の丸から仰ぎ見る→
「未申」のとおり位置的には本丸の南西隅になります。高さ7間2尺9寸(13.60m)、赤い格子の妻部△を南北に向けています。
巽櫓内部からみる→
1982年(昭和57)年の大改修で、構造上、他から移されたものであることが明らかになり、
伏見城からの移築説が裏付けられました。
巽櫓
photo by kazuwanco from OCNフォトフレンド
本丸の南東端に築かれ高さ7間1寸(12.19m)の隅櫓、妻部△を東西に向けており未申櫓とは90度異なります。
西面と北面の第二階、第三階には窓がなく、入口は北面にあります。
1982年(昭和57)年の大改修で、柱などの木材はすべて統一された規格品による建築物で、廃材・転用材などは確認されていないそうです。つまるところ築城時に新築されたようです。
天守台
南に未申櫓があります。南から見ると未申櫓の奥に
鎮座していることになります。
この巨大な天守台は、熊本城の天守台と同規模だそうです。
もともと天守を築くつもりはなかったともいわれています、巨大な天守台を作ることで格式と威厳を誇ったのかもしれません。
入口
それぞれの入口には、櫓門があったと思われます。
東の丸虎口
稲荷郭←本丸←二ノ丸←東の丸←
東虎口
大手(南・正面)虎口
ほかに西(南西)と北などにも入口がありました。
参考] 明石城・攻 by 発つ犬、足跡がわかる・・・



