概要
徳島城のはじまりは、南北朝時代の至徳2年(1385年)四国の南朝方を破った室町幕府の管領
細川頼之が城山に小城を築いたのが起源といわれ、中国の渭水に例え渭津、渭山城と称しました。たびたび主が変わったようですが、永禄年間(1558〜1569年)には山上の渭山城に森高次、
麓の寺島城に福良吉武が居城していました。
時代がくだり土佐の長宗我部元親が天正10年
(1582年)には侵攻し阿波を平定、さらには天正
12年(1584年)には四国を手中に入れたとされています。
天正13年(1585年)、豊臣秀吉の四国征伐がおこなわれ、長宗我部は土佐1国に押し込められました。
そこで勲功のあった蜂須賀家政(蜂須賀正勝の子)が、阿波国17万5千石を賜りました。入封当初は徳島市西部にあった一宮城に入城したが、入封早々に渭山城と麓の寺島城を取り込み、
吉野川から分岐する助任川、新町川、寺島川などを天然の堀とする大規模な平山城を築造し、翌年には完成させました。なお石垣には特産の「阿波青石」緑泥片岩や紅簾片岩が豊富に使われています。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、蜂須賀家政は領地を豊臣秀頼に返納し出家の上、
高野山に入り表面上は中立の立場を取りました。
嗣子:蜂須賀至鎮の妻が徳川家康の養女(万姫:小笠原秀政の娘)であることを理由を東軍に参加さました。
この策謀が功を奏し、戦後改めて至鎮が旧領に復し、さらに阿波の残りの1万1千石も手にしました。また関が原の戦いが本格化する前に、重臣の高木法斎は西軍として行動したことから追放、一説に謀殺したといわれます。
元和元年(1615年)大坂の夏の陣で、蜂須賀至鎮は2代将軍徳川秀忠より働きが評価され、
淡路一国8万1千石を与えられ、25万7千石を封じられました。
このとき筆頭家老の稲田氏が淡路・洲本城代になるよう幕府から内命があったともいわれます。
このようにして、江戸時代を通して徳島城は蜂須賀氏25万石の居城となり、14代続き明治維新を迎えました。
しかしながら藩主が傍系はたまた臣籍降下した者や他家からたびたび誕生したため、稲田氏 (1万4千石)や賀島氏(1万石)など家老をはじめとする重臣に藩政が牛耳られてしました。 事実、蜂須賀の血筋は7代で絶えたようです。
13代藩主の蜂須賀斉裕の実父は、11代将軍徳川家斉でしたが、子の蜂須賀茂韶は筆頭家老の稲田邦植とともに倒幕派ととして行動したといわれます。
明治8年(1875年)には鷲之門を除く天守や櫓などの建築物が撤去されました。明治38(1905年)日露戦争の戦勝を記念して徳島公園として一般に開放されたが、明治43年 (1910年)までの整備でかつて御殿があった西側の石垣が撤去されてしまいました。
その間寺島川は一部を水路として残し、埋め立てられ線路や徳島駅など鉄道施設が設けられました。
地図

昭和16年(1941年)には、江戸時代初期
に武将で茶人の上田宗箇が造ったとされる
表御殿庭園が国の名勝に指定されましたが、
昭和20年(1945年)の徳島大空襲により、
唯一現存し ていた鷲之門を焼失してしまい
ました。
平成元年(1989年)に、鷲之門が復元され、平成4年(1992年)徳島市立徳島城博物館が開館しました。
山城
頂上の本丸を挟み東・西二ノ丸、西にはさらに西三ノ丸がありました。
天守は元々本丸に西二ノ丸の境付近、後に弓櫓があったところに2階建て創成期の天守があったとされます。
何らかの理由で創成期の天守は解体され、東二ノ丸に3層3階の天守を新築したようです。
山城の機能は篭城など有事のためのようで御座敷、留守居番所、武具櫓、弓櫓、鉄砲櫓などが備わってました。なお徳島城の建物は総じて下見板貼だったようです。
西ノ丸・御花畑屋敷跡
時代により隠居の御殿があったり、広場だったりした場所です。維新後は監獄が設けられましたが、現在は小学校や市立体育館などがあります。
北馬屋跡・北蔵跡
城山の東に位置し、かつては北蔵エリアが北、北馬屋
エリアが南にあったようです。
今日では東が駐車場、西は水辺の憩いの場となっています。
市立徳島城博物館
(居館・御殿群跡)
城山の南の麓に御殿を囲むように東の北隅から、隅櫓-(数寄屋橋)-旗櫓-屏風櫓-月見櫓
西は北から、神鳴門(埋門)=鉄砲櫓=玉櫓=二重櫓=太鼓櫓がしかも多聞櫓で連結されていたといいます。
現在は西の多聞櫓と諸々の櫓の土台の石垣は太鼓櫓のものを除き撤去されています。
表庭園の西と南をかばう様に徳島市立徳島城博物館が建てられ、往時の城の模型や歴史に関する催し物が開催されています。
徳島城博物館の南に表御殿、西に奥御殿が展開していました。
また旧寺島川に沿った石垣には舌石といわれる突起が設けられ往時は折れ曲がり塀と呼ばれる独特の景観を作り出していたようです。
太鼓櫓跡と月見櫓跡
太鼓櫓と月見櫓の間には黒門と呼ばれた大手門の枡形があり南に堀が、堀には下乗橋が架かっていました。西の太鼓櫓は往時は徳島城最大の建物と呼ばれ、幕府の隠密は天守と報告したといわれます。
三層三階で最上階には高欄がめぐらされていました。 東の月見櫓は2層2階でこちらも最上階には高欄がめぐらされていました。
鷲ノ門(三木曲輪)】
鷲ノ門は薬医門と呼ばれる形式で唯一解体を免れた徳島城の建物でしたが、戦災で消失し平成元年(1989年)に、復元されました。
道路の都合で本来とは若干違う位置にあるそうですが、門を西に向かいくぐると三木曲輪となり、それなりの広場があります。現在は屋外の催しものでにぎわうエリアです。
城山原生林
山城を現在の城山として紹介した場合。ほぼ手付かずのホルトノキの群集で城山原生林といわれます。また東の麓には城山貝塚が口を開けています。
藍(蓼藍・タデアイ)
徳島藩の特出すべき産物は、吉野川流域で生産が盛んな藍で、当時徳島の藍商人は、藩の強力な後ろ盾により、全国の市場をほぼ独占するにいたり表高25万石に対し、阿波商人が藍、塩、
たばこなどで得た利益を合算すると40万石以上になったともいわれています。
