概要

大洲城は肱川に臨んだ平山城で、鎌倉時代には物流要衝の地とみなされ、元弘元年もしくは
元徳3年(ともに1331年)に宇都宮豊房が地蔵ヶ岳城を築いたことから始まるといわれます。

天正13年(1585年)には道後湯月城を本拠地とする小早川隆景の枝城・支城となり、養子で実弟の小早川秀包が3万5千石で治めました。

天正15年(1587年)には戸田勝隆が宇和・喜多郡16万石で入城。

文禄4年(1595年)板島(今の宇和島)に入った藤堂高虎は、豊臣の蔵入地(直轄領)大洲の代官となり、大洲城に入城。 慶長14年(1609年)には脇坂安治が淡路国洲本より5万石で入城しました。

その頃、大津から大洲と地名が改められた言われます。洲本の洲をあてたと伝わります。

元和3年(1617年)加藤貞泰が伯耆国米子より6万石で入城し落ち着きました。

縄張りとしては、丘の上を本丸とし、中腹から麓ふもとにかけて本丸を半ば囲うように二の丸があり城主の御殿などがありました。

三の丸は二の丸の南と西側を囲み重臣たちの屋敷がありました。

4層4階の天守は老朽化などから解体されたのは、明治21年(1888年)のこと。

しかしながら、平成16年(2004年)に発掘調査や古写真、雛形などの史実をもとに伝統工法で、本格復元されています。なおその勇姿はJR予讃線からも拝めます。


地図

天守には台所櫓と高欄櫓が付き従っています。ただ従者の2櫓はともに国の重要文化財。
天守とこれらをつなぐ多聞櫓も同時に復元されたました。

他に城山直下の肱川沿いの苧綿櫓や街の南には三ノ丸南隅櫓(大洲城最古の建築物)が現存し
国の重要文化財。ほかに県指定文化財の下台所があります。


天守閣

天守閣本丸より

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復元天守の特徴は良好な
資料に 基づき4層4階の大型
天守を伝統的 工法による木造
である こと。

概観は破風が多用され、
常最上階や張り出し設けられる
ことが多い 華頭窓が2階に多く
使われいることが特徴です。

構造上では心柱の周りに吹き
抜けがあることです。

天守内部階段

ただしこの吹き抜けが明治
時代 構造上 の欠陥とみなさ
れました。

天守南面

天守(北西面)と高欄櫓

吹き抜けは、老朽化とともに天守が解体された理由になっ たとも言われます。 ちなみに心柱は大洲藩主の菩提寺であった如法寺から切り出されたものです。

天守北東面


築城ジオラマ屋根の構造の展示物

展示物は普請のジオラマ、建物の構造などで厳選されてます。


高欄櫓

高欄櫓西面 高欄櫓西面

天守と高欄櫓南東面 


台所櫓

台所櫓西面 台所櫓2階南面

天守閣の現在の入り口は、台所櫓からとなっています。


苧綿櫓(オワタやぐら)

かつての二の丸東端に位置し、昭和34年
(1959年)解体修理され土台の石積みを2.6
かさ上げ されたそうです。

苧とは麻のことで、衣類の保管場所であった
ともいわれているそうです。

苧綿櫓

苧綿櫓東面 

肱川から仰ぎ見る苧綿櫓 苧綿櫓と天守と肱川


下台所

下台所北東面 下台所北西面

食料庫として使われていたそうです。

下台所南西面


三の丸南隅櫓

往時は城の南の守りの要でした。現在は愛媛県立大洲高校が三の丸石垣の上に建って
います。大洲城最古の建築物といわれています。

参考] 大洲城・攻 by 発つ犬、足跡がわかる・・・


天守の復元

大洲城の天守は 19.15mあり、藤堂高虎もしくは脇坂安治に創建されたと考えられていますが、明治21年(1888年)に老朽化や内部の吹き抜けが構造上の欠陥とみなされたことから解体されました。

しかしながら、古写真、雛形などの多くの資料があり、史実をもとに伝統工法で、本格復元れることになりました。

平成11年(1999年)には発掘調査が行われ、平成12年(2000年)には木材の切り出しの御杣始め式が行われました。 なお心柱は大洲藩主の菩提寺であった如法寺から切り出されたものです。

平成14年(2002年)には起工式や木材の搬入を祝う木曳き式が挙行され、平成15年(2003年)には上棟式が行われました。瓦は岐阜県産の千度以上の高温で焼かれたものを使用しました。

その間適宜、一般公開がなされたそうです。それぞれ国の重要文化財である高欄櫓と台所櫓とにL字に連結した往時をしのばせる姿で平成16年(2004年)に竣工となりました。