概要
高知城は、南北朝時代{1336年(延元元年/建武3年)〜1392年(元中9年/明徳3年)}南朝方
に付いた豪族・大高坂松王丸が大高坂山城を構えたのが起源とされます。
結局、大高坂松王丸は北朝軍との戦いで暦応3年/興国元年(1340年)に戦死したといわれ
ます。
長宗我部元親が、豊臣秀吉より土佐国一国を安堵され、秀吉に従軍して九州遠征の後、
天正15年(1587年)にこの地に築城を開始したものの、3年 天正19年(1591年)で水はけの悪い大高坂山城を捨てて、桂浜に近い浦戸に浦戸城を築くことにしました。
慶長4年(1599年)長宗我部元親が死去し子・長宗我部盛親が家督相続したものの慶長5年
(1600年)関ヶ原の戦いで結局は西軍に属してしましました。
ただ、長宗我部盛親は徳川家康率いる東軍に与しようと考えたが、近江国水口で西軍に属する長束正家に進路を阻まれて、やむなく西軍の主力部隊となったといわれます。
戦後は徳川家康の重臣・井伊直政を通じて家康に謝罪を行いながら、かつて家督相続でもめた実兄の津野親忠を家臣・久武親直の讒言から勘繰り殺害してしまった。結局は、 領土没収・改易となりました。
代わって、山内一豊が遠江掛川城5万9千石から転入し土佐一国9万8000石を与えられ、
浦戸城に入りました。慶長6年(1601年)浦戸は城下町を開くには狭いため、百々綱家を総奉行に任じ、浦戸湾に面した地の利がある大高坂山に近世城郭の造営と、城下町の整備のために
鏡川・江の口川など川の治水工事に着手しました。
慶長8年(1603年)本丸と二の丸が完成。山内一豊が入城し、この際に、真如寺の僧・在川により、河中山城(こうちやまじょう)と改名されたといわれます。
慶長10年(1605年)には幕府に土佐国は20万2600石と検地結果を出し江戸時代を通じて土佐藩の表高となりました。
慶長15年(1610年)度重なる水害から山内一豊の甥で養子となっていた2代藩主:山内忠義は河中の名を忌み嫌い、竹林寺の僧・空鏡によって高智山城と改名しました。後に城の名は省略されて 高知城と呼ばれるようになり城下町もそれにならったようです。
慶長16年(1611年)三の丸が竣工し、ここに高知城の縄張りが完成しました。
しかしながら享保12年(1727年)高知城下は大火にみまわれ、城は追手門以外の殆どが焼失してしまいました。
享保14年(1729年)8代山内豊敷は、深尾帯刀を普請奉行に任じ、城の再建に着手し、寛延
元年(1748年)天守ほか櫓・門などが完成。天守は小振りとなったが外観は焼失前の姿が復興されたといわれます。これが今日の天守です。そして宝暦3年(1753年)城郭の再建工事が完了しました。
地図

明治6年(1873年)廃城令に伴い高知公園
となりました。この際に、現存建造物以外の
建造物が破却されてしまいましたが、
昭和9年(1934年)天守など15棟の建造物が(旧)国宝。 続いて、昭和25年(1950年)天守等15棟は 文化財保護法の施行により国の重要文化 財に指定されました。
天守(咸臨閣)
・本丸御殿(懐徳館)

本邦唯一、本丸全体が往時の姿で残る城郭である高知城。高石垣の上の塀や壁には鉄櫛が今も守りを固めています。本丸は初代藩主:山内一豊とその夫人:見性院(千代)が二ノ丸に御殿ができるまで暮らしていたといわれます。
初代藩主:山内一豊が、先の居城である遠江掛川城を模して造ったといわれる天守。
最上階の高欄を設けるにあたり、掛川城を偲び
徳川家康の許可を得て造ったものといわれています。
南北に千鳥破風、東西には入母屋破風とその上層に 唐破風をつけた安土桃山時代の様式であり、 古風な形式・復古型です。
なお最上層:入母屋屋根大棟の両端には、青銅製の重厚で立派な鯱があり、同じものが入母屋破風にも冠されており天守の中から拝むことができます。
独立式望楼型4重6階、1重目の屋根を腰庇とし
3重
6階と数えられることもあります。
なお天守には天守台がなく本丸上に、直に礎石を敷き御殿に隣接して建てられています。
天守を東中央に南に懐徳館、西に納戸蔵さらに西の突き当たりに黒鉄門があります。
黒鉄門からは西北矢狭間塀を経て西多聞となります。
西多聞の北には、廊下門/橋・詰門と東多聞となり天守の北側に繋がります。
ちなみに天守の南は黒鉄門東南矢狭間塀で黒鉄門とつながっています。
二ノ丸、三ノ丸
二ノ丸は本丸の北で対をなし並郭式の縄張りを構成し、廊下橋・詰門でつながっています。
詰門が1階、どちらかというと
廊下橋の地階という位置づけ
です。
詰門は東側の三の丸と西がわの梅の段を仕切る役目を担っています。
詰門の上にある廊下橋が本丸と二ノ丸をつなぐといった形になってます。
ただ廊下橋と詰門を総じて詰門と呼ばれるようです。
かつては藩主の居館であった
二ノ丸御殿と西隅に三階建の乾櫓などがありましたが、往時の建物は
現存しません。
三ノ丸は年中行事や儀式を行う大書院・裏書院・藩主の控えの間である御居間など三ノ丸御殿
や東北隅には、二階建の丑寅櫓がありました。
この丑寅櫓には唐破風や廻縁高欄が付けられた、天守閣と同じ意匠が施されていたといわれ一部部材も現存しているそうです。
追手門など城山の麓
追手門広場、馬場跡・下屋敷跡
高知城の正面を守る櫓門で、門前は門と矢狭間塀で囲まれた枡形状になっており、三方向から攻撃を加えることができるようになっています。
南の馬場跡は公園に、隠居や世継ぎなどの藩主一族が住居した下屋敷跡には現在、高知県庁があります。城山をのぼる途中に山内一豊と夫人の像や板垣退助の銅像などがあります。
土佐国の石高
16世紀末の太閤検地の際に長宗我部氏が届け出た土佐国の石高は9万8000石に過ぎなか
ったそうです。これにより朝鮮出兵などの軍役も算定されました。
山内一豊は土佐入国後に再度算定し、慶長10年(1605年)に20万2600石と届け出、表高となりましたが、元和元年(1615年)、阿波徳島藩が淡路国の加増によって表高が17万石から25万7000石になると、土佐藩は「25万7000余石」を申告したそうです。
表高で、幕府による普請や軍役が算出されるので領国経営としては不利なのですが、四国
最大の大名であろうとしたプライドからだったのでしょう。
ただし、幕府は認めず、朱印状は従来のまま「20万2600石余」でした。
その後、新田開発が進んだ結果、明治3年(1870年)の廃藩置県前には実高49万4000石に
達していたとされています。
ちなみに「土佐24万2000石」と称されますが、これは宝永年間以降の武鑑などに基づく俗聞
であったようです。
土佐武士の二重構造
山内一豊の入国当初、「一領具足」と呼ばれた半農半兵の長宗我部氏旧臣が、馴染まずに
反乱を繰り返していました。
そこで土佐の要衝に重臣を配して城を持たせ反乱に備えました。中村の山内康豊(2万石)を
筆頭に、高岡郡佐川・深尾重良(1万石)、宿毛・山内可氏(7千石)、窪川・山内(林)一吉(5千石)、長岡郡本山・山内(永原)一照(1千3百石)、安芸・五藤為重(1千百石)を配しました。
ちなみに元和元年(1615年)に一国一城令により高知城を残し、その他の土佐の城は廃城
となりましたが、安芸のみ「土居」として、五藤氏は代官として明治まで続きました。
一方で藩内の要職を山内家古参の家臣を中心とした上士で独占することとなりました。
慶長8年(1603年)の瀧山一揆(本山一揆)を、最後に長宗我部氏旧臣は郷士・下士として上士の下位に位置づけられることが決定付けられ、他藩に比べて厳しい二重構造となりました。幕末には、土佐郷士の多くが尊皇攘夷運動に身を投じました。
