概要

臼杵城は永禄5年(1562年)、大友宗麟(義鎮)が丹生島に形式的な隠居のために築いたことに始まるといわれます。

天正14年(1586年)のいわゆる豊薩戦争では大友宗麟が篭城死守しました。一説に国崩しと称された大砲を国内で初めて使ったといわれます。

文禄2年(1593年)の大友吉統・義統の豊後除封に伴いあまり定かではないのですが、筧家純や福原直高が入城したといいます。 慶長2年(1597年)には太田一吉が6万5000石で入城したとされます。

慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いで甥の太田政成を東軍に、息子の太田一成を西軍に参加させ、自身は病と称して居城の臼杵城に立て籠もっていましたが、東軍の黒田如水と中川秀成に攻められるはめになりました。西軍方から東軍に鞍替えしたとみなされたいた中川秀成とは徹底交戦したものの、かねてから親交があった黒田如水に城を明け渡しそのまま除封となりました。

臼杵城の大まかな縄張り

美濃・郡上八幡(岐阜)4万石より外様大名の稲葉貞道が5万石で入城しました。
稲葉貞通・稲葉典通父子は2代に渡って臼杵城を修築しました。

往時は城には3層の天守と31基の櫓があったといいます。結局稲葉15代明治維新まで続きました。


地図

廃藩後の明治6年(1873年)畳櫓と
卯寅口門脇櫓を除き、天守以下ほとんど
の建物は撤去されました。

徐々に埋まりつつあった周囲の海も
埋め立てが進みました。

なお平成13年(2001年)に大門櫓が復元
されました。


天守台・本丸

本丸から見る天守台 内堀から見る天守台 内堀から見る天守台

地階のない3層天守だったようです。臼杵城では天守櫓と呼ばれていたようです。
内部は4階だったとも伝わっています。 また稲葉氏になり大規模な修理が行われ天守と独立していた櫓をつなぐように改築したのではないかともいわれています。

武具櫓跡

天守が本丸の北西隅で内堀(空堀)に面していたのに対し、武具櫓は本丸南西隅で内堀に面していました。 なお内堀を隔てる土橋の本丸側(天守と武具櫓の間)には鉄門があったそうです。


卯寅口門脇櫓

卯寅口門脇櫓・城内より遠望 卯寅口門脇櫓

卯寅口門脇櫓は寅(北北東)の方角と卯(東)の方角の間に位置するとされる「卯寅口門」の脇に位置することから名前が付けられました。しかし、延宝4年(1676年)以前の本丸を描いた絵図には、「御鉄砲薬櫓」と表記されているそうです。

切妻屋根を冠する2階2層の現存櫓です。現存の建物は嘉永7年(1854年)14代目藩主・稲葉観通のころに建てられたことが近年の解体修理で判明しました。

この櫓は本丸の南端になり、周辺には武具櫓や食糧用の蔵など、軍事的に重要な建物が多かったようです。現在、卯寅口門脇櫓への通り道は城内の稲荷神社の参道でもあります。

崖の上の卯寅口門脇櫓 崖の上にそびえる卯寅口門脇櫓

現在の卯寅口の冠木門往時は更に奥にあり門・櫓門と厳重な構えだったようです。


二ノ丸・大門櫓・畳櫓

臼杵城は元々藩主の居館が本丸にありましたが、延宝3年(1675年)に二ノ丸へ居館が移されたといいます。かつては海城で島の東端に当たる本丸は何かと自然の脅威にさらされていたらしいです。

義太夫前櫓跡 二ノ丸から見る復元された大門櫓

大門櫓正面 時鐘櫓跡から望む 大門櫓-井楼櫓跡・畳櫓なお鳥居のところには中の門があったといいます。

畳櫓は名前の由来ははっきりしませんが、卯寅口門脇櫓同様既存櫓です。
また双方とも特徴的な重箱と呼ばれる(上下階の平面が同規模)二重櫓で、往時はほかの櫓にも多用されていたようです。ちなみに畳櫓は入母屋屋根、本丸の卯寅口門脇櫓は切妻屋根です。
畳櫓正面 畳櫓

登城中見にえる大門櫓・畳櫓と白壁 崖の上の畳櫓
photo by kazuwanco from OCNフォトフレンド

臼杵城大手

会所櫓跡 ― 大門櫓(復元) ― 井楼櫓跡
時鐘櫓跡 ― 畳櫓
―― 中ノ門跡 ―
古橋門跡 ― 亭櫓跡

参考] 臼杵城・攻 by 発つ犬、足跡がわかる・・・


三ノ丸・仁王座

三ノ丸は太田一吉の時代、慶長3年(1598年)に八坂神社(祇園宮)が改めて現在地に遷座したり、石垣や櫓を設け、また稲葉も整備を進めたようです。

万治3年(1660年)に州崎馬場が設けられ、延宝4年(1676年)に築地(埋立)造成許可が幕府から出され武家屋敷の造営もなされたようです。往時の臼杵城

また天保2年(1831年)財政危機を乗り切るため、家老・村瀬庄兵衛を中心に藩政改革に着手します。

その拠点として「惣役所(総役所)」が三ノ丸におかれました。

二王座は、阿蘇山の火山灰が固まってできた凝灰岩の丘で、
比較的上級の武家屋敷が立ち並び、多くの寺が集まっている
地域です。石畳と石垣に調和のとれた建物が、静かな魅力を
醸し出しています。

ちなみに仁王座の由来は中世には八坂神社(祇園宮)が
このあたり遷座しており仁王門があったことによるようです。


臼杵藩の領土

臼杵藩は海部郡の真ん中(臼杵市と津久見市の北半分)が主な版図で大野川河口の家島
(大分市)などにも物流拠点としての飛び地がありました。

ワンコと三佐・家島散策 by 発つ犬、足跡がわかる・・・


稲葉家下屋敷

稲葉家下屋敷は、廃藩置県後に東京に居を移した旧藩主稲葉子爵の里帰りのための住宅として、明治35年(1902年)につくられたものです。上質の材料で格式あるつくりをしています。
内部には戦に使われた武具などの品々を展示して居ます。広々とした日本庭園もあります。
下屋敷を奥に抜けると、「旧平井家住宅」があります。こちらは安政6年(1859年)築といわれる武家屋敷です。 また臼杵城の解体した櫓の部材を使用したといわれる建物もあるようです。