岡城概要
岡城は緒方三郎惟栄が源義経を招聘するために文治元年(1185年)に築城を始めた。
はたまた建武年間(1334〜1337年)に城が拡大整備されたなどの伝承もあります。
ただ実際は応安2年(1369年)以降に大友氏の一族である志賀氏の居城として築城されたようです。典型的な山城であることに加え、北には稲葉川、南には白滝川、これら2つの川が東に合流した険しい地形で天正14年(1586年)いわゆる豊薩戦争でも落城しなかった、堅城
でもあります。
文禄2年(1593年)の大友義統(吉統)の豊後除封に伴い、中川氏が播磨三木から入城し徐々
に整備されました。
中世の志賀氏の屋敷は近世に廟所となり、さらに本丸から西の丸に中心的な機能が移った
ものの、中・近世を通じて山城が藩政の中心に君臨し続けたことは珍しい事でした。
他の山城を居城とした藩の多くは、江戸時代の初めから半ばにかけて山から麓に藩主の御殿や政庁の機能も移ったようです。
地図

明治7年(1874年)大分県により
岡城を含む県内五城の建造物は
入札・払い下げとなり、
岡城では
69棟入札となり、城館はすべて
取り壊されてしまいました。
ちなみに滝廉太郎の作曲した
「荒城の月」のモデルは岡城だ
ともいわれています。
岡城の大まかな区分け
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近世の大手門があり、後年には西の丸 |
事実上の天守御三階櫓や本丸、二の丸、 |
惣役所跡
惣役所は今日で言うと総合窓口ということになると思います。現在はドライブハウスと駐車場
あります。そこから東に管理事務所兼受付があります。
北に向かうと長池、七曲、近戸門跡方面。南に向かうと大手門跡、滑瀬坂方面となります。
滑瀬坂
滑瀬坂の先には、中世・近世では白滝川を跨ぐ木造の滑瀬橋があったそうです。
天正14年(1586年)豊薩戦争際には橋が外され、橋詰で激闘が行われたそうです。あまり
整備されておらず、マムシや猪に注意との看板があります。
参考] 岡城・攻 / 岡城・桜時・攻 by 発つ犬、足跡がわかる・・・
岡藩の領土
主な版図は直入郡(竹田市)とその周辺、そして大野川支流の乙津川河口の三佐・海原 (大分市)などの物流拠点を持ち豊後国中最大の7万石でした。

