概要

日出城は木下延俊が、慶長6年(1601年)徳川家康から豊後国速見郡 3万石を与えられ、
1年ほどで完成した平山城の城郭です。国東半島の付け根で別府湾を臨む位置にあります。
ただし、当時の豊前中津城主の細川忠興が自ら縄張を担当し、援助をしたため少ない石高と短い築城期間の割には立派な城でした。

木下氏は豊臣家と血縁関係のある外様大名として微妙な立場だったようですが、金山や銀山を開発し、のちには水利事業や紙漉を推進し、幕末まで16代続きました。


地図


ちなみに城下カレイは城の麓の海域から真水が
出るようで臭みがなく、往時は武家のみが食せ、
将軍家へも献上されていました。

日出城と現在の日出町

建物は明治7年(1874年)2月、

大分県が天守閣をはじめ九つの櫓

を競売に附し取り壊してし まいました。

日出城の城内


本丸

現在は日出小学校の敷地になっています。南東隅に3層の層塔型天守がありました。
天守から西には2層の望海櫓が南側の門の上に築かれていたと言います。
裏門櫓跡には外大手門から明治7年(1874年)に移された元禄8年(1695年)製の時鐘が吊るされています。

天守台の南東根元 裏門櫓台跡
時鐘が吊されている↑裏門櫓台跡

↓本丸北西の堀と月見櫓台   本丸南の石垣↓
掘割 本丸石垣
本丸東石垣 本丸北東隅
裏門土橋から望む↑《本丸北東隅》↑堀の対岸から望む

本丸北東隅は元々入隅があったようですが大正9年(1920年)に暘谷学舎の拡幅の際に石垣が積み直されたのか現在入隅にはなっていません。


二ノ丸・裏門櫓

本丸を西から北、東へと囲んでいました。現在は住宅地などになっていますが、西には 藩校
「到道館」の建物が、東に日出中学校があります。北には観光施設「二の丸館」とかつて民家として払い下げられた裏門櫓が移築復元されています。

二の丸館 - 門 - 裏門櫓 裏門櫓(南面)

裏門櫓(東面) 裏門櫓北西面と門


鬼門櫓

元々本丸北東隅の入隅北にあったもの
で明治4年(1875年)に入り民間に払い下
げてられました。

大正10年(1921年)より現東仁王へ移築
され長く時を重ねていましたが、近年では
荒れるに負かしていました。

しかしながら、平成20年(2008年)持ち主
が日出町に寄贈したことで、いったん解体
され二ノ丸地域・萬理図書館の 駐車場の
北東隅に修理・移築 されました。

鬼門櫓移築・復元前

←↑photo by kazuwanco from OCNフォトフレンド

現在の鬼門櫓の位置は本丸から見ると堀の外の北西に移築復元されたことになります。

本来の位置からすると、石垣の入隅も鬼門除けとも考えられますが、さらに櫓自体北東隅を欠き1階2階とも平面図で示せば五角形になっています。櫓に対してそのような意匠を凝らすのは珍しいとのことです。

大手口後からみた鬼門櫓の東面鬼門櫓北東面

東面や北面の2層入母屋屋根が歪に見えます。北東面が独特な雰囲気を出しています。

鬼門櫓北面鬼門櫓北西面

平成25年(2013年)3月18日(月)落成式が執り行われ、4月2日(火)から内部の無料公開が行われるそうです。時間帯は午前8時半〜午後5時、1階は鬼門櫓や日出城に関する資料を展示。2階では、町内の文化財などの映像資料を公開する予定となっています。

鬼門櫓南西面鬼門櫓南面

参考] 杵築城と日出城・速見の2城・攻 by 発つ犬、足跡がわかる・・・


立石領の木下氏

寛永19年(1642年)、日出藩の2代藩主として木下俊治が家督相続した際、弟の木下俊由に立石領5千石が分知され2万5千石となりました。

木下俊由は寛文4年(1664年)公認され交代寄合(参勤交代のある旗本)となり その間、兄弟間での確執が強まったといいます。

立石領はわざわざ、島原藩の港であった 現在の豊後高田の港を使用したといいます。こちら、日出藩の木下同様、幕末まで続きました。