概要

首里城の創建は、近年の発掘調査から14世紀末のものと推定され、三山時代には中山王の城として用いられていたと考えられます。 尚巴志が三山を統一し琉球王朝を立てると、首里城が王家の居城となりました。

創建当時の建物は、享徳2年(1453年)に第一尚氏の尚金福王の死去後に発生した王位争いである志魯・布里の乱で焼失したようです。

寛正3年(1462年)には尚泰久王の重臣であった金丸(尚円王)が、クーデターにより政権を奪取したようで、尚徳王の薨去後王位を継承し、第二尚氏王統が成立しました。

慶長14年(1609年)薩摩藩が3000名の軍勢をもって琉球に侵攻し首里城を占拠しました。それ以後270年間にわたり琉球王国の表向きは中国の冊封体制下にありながら、内実は薩摩と徳川幕府の従属国であるという微妙な立場となりました。

万治3年(1660年)再建に11年の年月を要したといわれます。宝永6年(1709年)に三度目の火災が起き正殿・北殿・南殿などが焼失し、正徳2年(1712年)に薩摩藩から2万本近い原木を提供されたといます。今日復元された首里城の建築は、この時期に再建された正徳5年(1715年)から昭和20年(1945年)までの姿をベースにしています。

1879年(明治12年)の沖縄県設置に至る琉球処分以後は、正殿など首里城の建物は政府としての役割を喪失し、日本陸軍の軍営として、その後は首里区(後の首里市)に払い下げられ学校などとして利用されたようです。

しかし王宮でなくなった首里城は急速に荒廃が進み、老朽化が激しく崩壊寸前の状態になり、門のいくつかは取り壊されてました。ついには正殿の取り壊しも検討されるほどになりました。

しかし、伊東忠太、鎌倉芳太郎ら関係者の奔走により保存が決定され、昭和初期に正殿の改修工事が行われて国宝に指定され、県社沖縄神社の社殿となり源為朝と歴代国王が祀られる事となりました。

太平洋戦争中の沖縄戦では、日本軍が首里城の下に地下壕を掘り総司令部を置いたこともあり、1945年5月25日から3日間に渡り砲撃を受け、首里城は灰塵ときしました。ちなみに、 龍潭池には、地下壕の入り口や弾痕などが確認できます。

さらに日米両軍の激しい戦闘で、首里城や寺院その城下の町並み、琉球王国の宝物・文書を含む多くの文化財が破壊されてしまいました。

戦後は、首里城跡に琉球大学が設置されました。

昭和33年(1958年)守礼門が再建されたのを皮切りに円覚寺門など周辺の建築から再建が始まり、昭和47年(1972年)日本復帰後に国の史跡に指定され、城の入り口に当たる歓会門と周囲の城郭が再建された。

昭和54年 (1979年)に琉球大学が首里城跡から移転すると1980年代に県および国による首里城再建 計画が策定され、本格的な復元が開始されました。

平成元年(1989年)遺構の発掘調査や昭和初期の正殿改修図面・写真資料などを元に、工芸家や職人を動員した往時の装飾・ 建築技術の復元作業が行われて正殿などの再建に着手しました。


地図

平成4年(1992年)正殿を中心とする
建築物群、城門、城郭が再建され
首里城公園が開園しました。

今日も、首里城を中心とした一帯が
首里城公園とし て整備・公開がすすめ
られています。

平成12年(2000年)には「首里城跡」
として他のグスク などとともに
「琉球王国のグスク及び関連遺産群」の
名称で世界遺産に登録されました。


正殿、北殿、南殿周辺


現在の首里城正殿は18世紀初めに再建され、沖縄戦で焼失するまで残っていた正殿をモデルに平成4年(1992年)に復元したものです。

建物全体が、中国や日本の様式を基本にしながら琉球独特の意匠にまとめられ、正面の石階段の両脇に砂岩でできた対の大龍柱さらに、手すりの奥にもう一対小龍柱があり、その他の柱や梁等にも龍などのの彫刻が多数施されています。

木造の三階建で、一階は下庫理と呼ばれ、主に国王自ら政治や儀式を執り行う場、二階は 大庫理と呼ばれ、国王と親族・女官らが儀式を行う場でいずれも王の玉座が中心にすえられています。
ただし三階は通気を目的とした屋根裏部屋です。

壁等の彩色塗装には、桐油が塗られています。なお、下地の一部は漆だそうです。また正殿は、国殿や百浦添御殿ともいわれたそうです。

正殿の前、西側に広がる広場を、御庭(うなー)というそうです。正殿と北殿、南殿・番所、そして奉神門で囲まれた空間です。 紅白色違いの磚(敷き瓦)が敷かれ、年間を通じて様々な儀式が行われ際の諸官の立ち並 ぶ目印の役割をもっていたといわれます。

また中央の道を浮道といい、国王や冊封使などの中国皇帝の使者といった限られた人だけ
が通ることを許されていました。

北殿  ← 御庭からみた →    南殿△ ― 番所

北殿はかつては北の御殿や、議政殿とも呼ばれていました。通常は王府の行政施設として
機能していたようです。

南殿は南風御殿とも呼ばれ、日本風の儀式行われ、薩摩藩の接待所としても用いられていましたといいます。建物は二階建で、地形を利用して裏側にある書院・鎖之間等に通じていました。

さらに1階西に番所を従えています。南殿と番所に関しては塗装を施したという記録がなく白木の復元となっています。

スペースなどに活用されています。また、北殿は平成12年(2000年)の第26回サミットの晩餐会に利用された場所でもあります。

 ← 奉神門 → 

御庭より                下之御庭より


正殿の東は御内原といわれ現在整備中ですが、王族などの居住空間などに使われていたようです。淑順門は御内原への入り口で、もともと右掖門は淑順門に直接通じている門でしたが、
現在はルートの関係上、御庭からの出口として利用されています。

また、かつて寝廟殿と呼ばれる、国王が死去した時、柩を安置した建物もがありました。そこに向かう国王専用であった白銀門などもあります。

東南には継世門があり首里城の東側の門で、平成10年(1998年)に復元されました。


下之御庭周辺

 

登り口より ← 広福門 → 下之御庭より

広福門は別名:長御門ともよばれていました。下之御庭の北に位置します。

ポストカード「絵葉書」沖縄県首里城

ポストカード:広福門 

また下之御庭の 東には奉神門が壇上にあります。礼拝所である首里森御嶽や系図座・用物座の建物も復元されているそうです。

下之御庭の南側石垣の向こう側には、京の内という城内最大の信仰儀式の場があり、首里城発祥の地ともいわれます。琉球独自の信仰の最高位に位置する聞得大君などた神女たちが、
王家繁栄、航海安全、五穀豊穣などを神に祈っていたそうです。


城門・石垣

  

歓会門            ↑漏刻門・瑞泉門↑   湧水:龍樋

歓会門は首里城の城郭内へ入る第一の正門です。アーチ状の城門の上に木造の櫓が載せています。一対の石造シーサーというの獅子像がは魔除けの意味で置かれています。

瑞泉門は、門の手前右側にある湧水:龍樋にちなんでこのように名付けられ、第二の門です。
漏刻門は第三の門で、漏刻とは中国語で水時計という意味です。瑞泉門とともに双璧の門の上に直接櫓を載せています。また漏刻門で高官も駕籠から下りたことから、かご居せ御門ともいわれたそうです。

 

↑漏刻門      久慶門↑

歓会門の東、内側の瑞泉門より北に位置する久慶門。歓会門が正門であるのに対し、ここは通用門で昭和58年(1983年)に復元されました。今日では、順路の関係から出口専用になっているが、往時は日常的に人々が出入していた門でした。また門の左手に寒水川樋川と呼ばれる湧水があります。

歓会門↑ ← 城内より見た → ↑久慶門    ↑沖縄・琉球の城・グスク独特の石垣↑

また木曳門は石アーチのみの門で、本来首里城の修復工事のときにのみ、資材の搬入口
として使用された門で、普段は石積によって封鎖され、数年に1度といった頻度で行われる
工事のときだけ封を撤去して使用したそうです。

現在は車椅子等の進入通路として開放され ています。 首里城の石垣は、他のグスク同様、曲線で構成されており、材質は琉球石灰岩です。


守礼門周辺

守礼とは「礼節を守る」という意味で、この守礼門は
中国風の牌楼という形式で建立されています。
沖縄戦で破壊されものの、昭和33年(1958年)に
復元されたもので、沖縄を象徴する観光施設として
有名です。また平成12年(2000年)発行の紙幣2,000
円の絵柄にもなっています。

首里を東西に貫く大通りである、綾門大道にあたり、
往時は西に同様式の、中山門がありました。

守礼門は、上の綾門。中山門は、下の綾門とも呼ばれました。

プラモデル: 首里城 守礼門


園比屋武御嶽石門

園比屋武御嶽石門

国王が外出するときに安全祈願をした礼拝所でした。神や先祖、精霊の世界の門のようで、人が通るものでは、 ありません。門の上部に掛けられている扁額の内容から 尚真王の時代の永正16年(1519年)に建てられたとのこと です。八重山の竹富島出身の西塘という役人が築造したもの ものと伝えられます。現在、国指定重要文化財で、平成12年 (2000年)に首里城などとともに世界遺産へ登録されました。


弁財天堂周辺

弁財天堂は人工の池である円鑑池の島にあり、経蔵として用いられたりして、弁財天が祭られたることになったそうです。薩摩侵入や大戦で消失しましたが、復元されました。

また西にこちらも人工の池である龍潭があり、冊封使を歓待する船遊びの宴が行われたり。
庶民の憩いの場でもあったようです。


円覚寺跡

 

首里城の北に位置し、1492年(弘治5年)尚真王により創建された沖縄における臨済宗の総本山で、第二尚氏王統歴代国王の菩提寺でした。境内は禅宗の七堂伽藍の形式で建造され、亜熱帯植物が茂り、「うる」といわれた珊瑚片を敷き詰めていたそうです。

中でも仏殿は琉球建築の粋を集めた建築物で、内部中央の須弥壇には仏像が安置され、壁画や装飾が施されていました。総門、山門、仏殿など計9件が旧国宝に指定されていま
したが、すべて沖縄戦で破壊されました。

その後1968年(昭和43)より復元整備が進められ、現在総門とその両側の石垣、右脇門、
放生池が復元された。なお、池にかかる放生橋は往時のもので、国指定重要文化財です。
その他遺物や資料が現存しています。


玉陵

第二尚氏王統の歴代国王が葬られている
陵墓で、首里城の西にあります。

そもそもは、第3代尚真王が父、尚円王を葬るために築したもので、世界遺産でもあります。

中室、東室、西室といった3つの建築物に分か
れるそうです。中室は葬儀の後、当時の琉球 の葬制に基づき遺骸が骨になるまで放置し、
数年後に骨を取り出して洗骨したそうです。

洗骨した後に遺骨を骨壺に収められました。

王及びその妃の遺骨は東室に納められ、他の
王族は西室に納められたそうです。 建造物の外は外庭と中庭に石壁で仕切られ、中庭には珊瑚片が敷き詰められています。

ちなみに、2代尚宣威王、7代尚寧王の二名は、玉陵に葬られてはおらず、尚宣威王は沖縄市に、尚寧王は浦添市仲間にある浦添ようどれに埋葬されているようです。

大戦では、日本軍総司令部に近かった玉陵は首里城と共に集中砲撃の巻き添えにあい、東室・西室が破壊されるなど大きな被害を受けましたが復元されました。

また第二次世界大戦で亡くなった旧制沖縄県立第一中学校(現・首里高等学校)の生徒を弔うための「一中健児の塔」などが近くに建立されているそうです。