概要
福岡城は舞鶴城・石城とも呼ばれ,慶長5年(1600年)関ヶ原合戦の恩賞として黒田氏が筑前
1国52万石を与えられたことから始まります。当初は名島城(福岡市東区名島)に入城しましたが、
翌年から7年がかりで黒田長政(如水の子)が築いた巨大な城です。
筑前名島30万石から岡山藩55万石に加増転封された小早川秀秋の替わりに、豊前中津
16万石であった黒田長政が筑前一国52万3千石加増転封されてきたことになります。
2代藩主:黒田忠之は御家騒動(黒田騒動)があり、寛永18年(1641年)には長崎港警備役・長崎御番が幕府から課され、隔年で佐賀藩と担当することになりましたが、黒田氏は明治維新まで国持大名として続きました。
城の主要部分には、福岡市中央区にある大濠公園、鴻臚館遺跡(平和台球場跡)、平成21年
現在で福岡高等裁判所などが含まれています。
往時は上の橋、下の橋に同規模同形式の大手門が2つあったようです。
福岡高等裁判所等と鴻臚館遺跡の間の土橋が上の橋(往時は木製)東丸・三ノ丸〜鴻臚館遺跡
に続きます。
地図

天守台や既存の櫓などを見学するには、
西に進み(大濠公園側)の三ノ丸の入口であった
下の橋-大手門からがお勧めです。
天守台・本丸
福岡城は天守台のみで天守は築かれなかったとされていました。
しかしながら存在をうかがわせる資料も出ているようです。
舞鶴城の由来も、大中小の天守台や失われた武具櫓の配置の
様子からだとか、豊臣秀吉の大阪城の最上階の虎や鶴の様に最上階
に鶴の絵が描かれていたとか諸説あるようです。
ちなみに武具櫓は2階2層で両端が3階の多聞櫓で、大正8年
(1919年)潮見櫓同様市内の黒田家別邸に移築されていました。
(古写真は現存)、昭和20年(1945年)空襲で焼失したそうです。
本丸・祈念櫓
ところで本丸の東の月見櫓、大堀公園に近い西
の三ノ丸西南にあった花見櫓は、博多区の崇福寺
に長らく仏殿として移築されていましたが解体され
元の位置での復元を待っています。
本丸まであがると祈念櫓が見えます。本丸の北東・鬼門を守っているそうで、実際祈祷が行われ ていたみたいです。
しばらく北九州市博多東区大正寺払い下げられていましたが、昭和59年(1984年)元の場所に移築復元されたそうです。
但し、花頭窓が改められるなど往時の姿ではないようです。
下から見た祈念櫓
発掘調査も行われたのですが・・・月見櫓がどうも 規模が一致しないようです。それに解体の際に発見 された棟札には潮見櫓とあったそうです。
今日、下の橋の大手口に控える潮見櫓自体は市内の黒田別邸に移築 されていましたし、 いずれに しろ矛盾に対する納得のいく解答がない限り月見櫓 と花見櫓は復元され ないようです。
下の橋-大手門界隈
下の橋の大手口に向かうと、伝潮見櫓と下の橋大手門(渦見門)が出迎えくれます。
photo by kazuwanco from OCNフォトフレンド
この大手門は大戦後上の櫓部分を解体され一層となり、さらに平成12年(2000年)に不審火で
焼けてしまいました。しかしながら平成20年(2008年)に往時の姿に復元されました。
大手門をくぐり、南下すると黒田如水の隠居所があったとされる御鷹屋敷跡があります。
その小高い岡の周りに往時は黒田家家臣の屋敷門に使われ同地に移築された2棟の建物があります。
長屋門
黒田武士の母里太兵衛邸長屋門
名島門
そもそも名島城の城門で黒田長政が居城を名島城から福岡城に移すとき、林掃部に下げ渡さ
れ、邸宅の門としていました。
2棟の建物を道路の対岸から本丸にあがる途中に表御門の跡があります。なお表御門自体は福岡市博多区 の崇福寺山門として現存しています。
南丸多聞櫓
天守台(群)から南に抜け出すと、本丸の西南に南丸が陣取っています。そこには国の重文で
南丸多聞櫓(1層1階・隅櫓2階)
下に降りて南丸多聞櫓のと東面を見上げると・・・
ちなみに北側の隅櫓は昭和50年(1975年)の解体修理のときに復元されたそうです。
黒田騒動とその前後
黒田騒動とは寛永9年(1632年)に筆頭家老の栗山利章(大膳)から藩主である黒田忠之が、
幕府に対して「謀反の疑いあり」と幕府に訴えられた事件。
そもそも、寛永元年(1624年)の黒田忠之が2代目の藩主に就任してから、始まるようで側近へ
の破格の昇進や、寛永2年(1625年)の華美な御座船「鳳凰丸」を建造、禁止された軍船と疑われ
結局取り壊したり、足軽を大幅に増員したことなどにより藩主と古参の重臣の対立の結果です。
事件の顛末としては、栗山大膳は乱心と扱われ盛岡・南部藩に流されました。藩主の黒田忠之
は無実とされたもの、いったんは筑前を召し上げられたが祖父・黒田如水と父・黒田長政の功労
で再び封じられたとのことです。
なお藩士の藩主:黒田忠之への不信は続き、島原の乱{寛永14・15年(1637年・1638年)}では、藩主の指揮ではなく、家老の黒田一成の下知に従ったと伝わっています。
ただし、黒田一成は、 黒田長政の弟分で、黒田忠之からすれば伯父のようなもの、幕府軍の軍議に請われて参加する程の人物でした、子孫は領地にちなみ三奈木黒田家と呼ばれ筆頭家老・福岡藩の大老を世襲し、明治維新後は男爵となりました。
ちなみに元和9年(1623年)黒田忠之は父・黒田長政の遺言により弟の黒田長興に秋月藩5万、
黒田高政に東蓮寺藩のちの直方藩4万石を分知しました。これにより石高は43万3千石になって
いました。
ただし享保5年(1720 年)には直方藩主の黒田継高が福岡藩の養嗣子を経、6代藩主となったため直方藩4万石は福岡藩に還付され、廃藩置県まで表高47万3千石となりました。
太政官札偽札偽造事件
後に総理大臣にもなった松方正義が日田県知事だった時代に、福岡藩よる太政官札の偽札が
日田県内に流れてきていることを告発しました。
結果として第12代福岡藩主だった黒田長知は藩知事を解任され、後任の藩知事には有栖川宮
熾仁親王が就任しました。
ちなみに、黒田長知は明治11年(1878年)隠居し、長男・黒田長成に家督が譲られました。
鴻臚館遺跡
鴻臚館とは平安時代には、平安京と難波そして筑紫の3箇所に設けられた外交・貿易の施設
です。ただ筑紫の鴻臚館は、奈良時代には大宰府も下で筑紫館として唐や新羅を相手に外交の
実務
を行っていたようです。
しかしながら、私貿易が拡大し今の博多から箱崎の海岸が貿易の中心になるなどしたことから
大宋客宿坊と名も変わり自然消滅したようです。
室町時代には寺院が建ったようで、後の江戸時代は福岡城の三の丸・東丸となり武家屋敷が建 てられました。
明治維新後は陸軍24連隊が駐屯し兵営を行い、大戦後は国体会場を経て平和台球場が造営
されました。
発見のきっかけは昭和62年(1987年)平和台球場の外野席改修工事に伴う発掘調査です。
今日では、市教育委員会のもと発掘調査の成果と計画を紹介する「鴻臚館跡展示館」も営まれて
います。
