概要
佐賀城は、沈城、栄城、亀甲城、佐嘉城、とも言われ、室町(一説に鎌倉時代)から戦国末期にかけての龍造寺氏が居城として いた村中城を改修・拡張したものだといわれます。
慶長13年(1608年)より佐賀城の総普請が開始されたとされ、龍造寺氏の重臣:鍋島直茂の計画に則り、嫡男:鍋島勝茂が慶長16年(1611年)に完成させました。
佐賀城は赤石(安山岩質凝灰角礫岩)を多用した石垣や土塁を用いて築かれ、堀の幅は80mにも及ぶ広壮なもので、慶長14年(1609年)には5層の天守が完成していたといいます。
その間、慶長12年(1607年)、名目上の藩主であった龍造寺高房が急死、その父:龍造寺政家もほどなくなくなり、鍋島勝茂が佐賀・鍋島(初代)藩主と成っています。ちなみに父:鍋島直茂は後見役となりました 。
元和元年(1615年)一国一城令により、鍋島氏のかつて居城であった蓮池城が廃城となりました。
ただし、佐賀藩の内分与により、立藩した支藩の鹿島藩には、常広城が居城として認められ、
さらには、水害による被害の多さから9代鹿島藩主:鍋島直彜の時、鹿島城を新築が認められ、文化4年(1821年)には鹿島藩の居城は、鹿島城に移されました。
島原の乱{寛永14・15年(1637年・1638年)}には、原城を総攻撃の際、佐賀藩は抜け駆けしたとして、藩主:鍋島勝茂は半年間閉門という処罰をうけました。
寛永19(1642)年には長崎港警備役・長崎御番が幕府から課され、隔年で福岡藩と担当することになりました。
佐賀城の本丸は城が完成して以来、藩主の
居所でした。また城の東側には向陽軒屋敷が
別邸や藩主の憩いの場、その後、鬼丸にも
西屋敷が設けられました。
4代藩主:鍋島吉茂の時、享保11年(1726年)
の大火で、天守、本丸、
二ノ丸、三ノ丸を
はじめとして
、多くの建物が焼失しま
した。
復旧に際しては
天守、本丸は再建されず、
二の丸や重臣の屋敷で藩政が行うこととなり
ました。
なお、屋敷を借り上げとなった重臣屋敷は
須古家、
諫早家は比較的早く返還されたよう
ですが、
神代家は北として40年近く、多久家
にいたっては足掛け50年借り上げられていた
そうです。
ちなみに、二ノ丸御門は寛永2年(1790年)に
櫓門に建替えられたそうです。

文化5年(1808年)フェートン号事件が起こり、結局9代藩主:鍋島斉直には100日の閉門が命じられました。なお、文政2年(1819年)には江戸藩邸が焼失し、文政11年(1828年)にはシーボルト台風が襲来し死者1万人の大被害を被り藩の財政は一層苦しくなる一方でした。
10代藩主:鍋島斉正(直正・閑叟)は、天保6年(1835年)、当時藩の中枢であった佐賀城二の丸が大火で全焼したことを切欠として、荒廃していた佐賀城本丸に御殿等の藩の中枢を戻し、財政健全化や人材の東洋、軍備の近代化などの藩政改革を加速させました。
さらに討幕運動には不熱心だったといわれる佐賀藩でしたが、鳥羽・伏見の戦いで薩長(薩摩藩・長州藩)側が勝利してからは新政府軍に加わり薩長土肥の一角を担うこととなりました。
佐賀城本丸御殿はそのまま維新後藩庁舎や県庁舎となりましたが、明治7年(1874年)江藤新平を中心とした佐賀の乱が起こり佐賀城は、この反乱軍に一時占拠され、本丸を除き城の建物の大半を失いました。
地図

佐賀城址には本丸以外に現在の県庁
舎や
博物館、学校などが建設されるこ
ととなりました。
本丸御殿群は学校に転用されるなど
しました。
堀の西南北はほぼ残ったものの、東側
はほぼ消滅してしまいました。昭和32年(1957年)には、
佐賀城鯱の門と続櫓は国重要文化財に指定されました。
平成16年(2004年)には本丸御殿を復元した佐賀県立佐賀城本丸歴史館が完成しました。
天守台・本丸
佐賀城天守閣は、慶長14年(1609年)に完成し五重の大天守と連結櫓
で構成されていたようです。
本丸側に入口がなく北側の帯曲輪から、登閣する構造でした。
享保11年(1726年)の大火で消失し、天守台・櫓台と石垣だけとなり
ました。天保6年(1835年)の大火のあと
本丸御殿などとともに、再建が
検討されたようですが、再建されませんでした。
明治時代以降は天守台の上に気象の測候所や「協和館」が建てられ
いましたが、現在は更地です。

天守台の南
には、本丸の
西口があり、
往時より通路
が広くなって
います。
本丸西側は、外は石垣で内側は土塁と成っています。ただ北端部分の約16mの西口周辺は内側も石積みです。往時は天守閣から西の石垣と堀の間に幅約8〜10mの帯曲輪があります。堀との境は石垣ではなく、板材を用いて土留めをしていたようです。今日本丸の北西から西側の堀は埋まっていますが景観整理されつつあります。
本丸の西南隅櫓台があります。隅櫓自体はたてられなかったようです。現在の石垣の姿は、
平成16年(2004年)には本丸御殿を復元した佐賀県立佐賀城本丸歴史館ともに発掘調査を元に復元されたのですが、寛保年間(1741年〜1744年)に大修理をした記録があり、亀甲乱積みと呼ばれる積み方を踏襲しています。
本丸南側は土塁で守りを
固めていましたが、 水に
接する部分のみ石積へと
改められたそうです。
なお往時も松が植えられ
ていたようです。
北東櫓台にも南西櫓と同様隅櫓は立てられなかったようです。
なお佐賀城の本丸を大まかに説明すると、北と西が石垣で東と南は土塁であったようです。
本丸御殿

photo by kazuwanco from OCNフォトフレンド
今日の本丸御殿は、佐賀県立佐賀城
本丸歴史館として平成16年(2004年)に
復元されました。
維新・幕末を中心とした佐賀藩の歴史
や伝等工法による復元の紹介、企画展
などが体験できます。
天保6年(1835年)の大火のあと、天保
9年(1838年) より藩の中枢に戻った姿を
元に復元されています。
御玄関、御式台。外氏御書院、御三家
座、御小書院、御座間、御料理間などが
復元されていますが、北側の大部分など
復元されなかった部分もあります。
また展示や空調などの為の装備が備
えられています。
▲御小書院(三家・側近との会議所)
現在は、企画展示室
▲御小書院と御座間・堪忍所 ▲御座間・堪忍所▲
復元された御殿群の南端となる御座間・堪忍所は佐賀市の
重要文化財で天保期の現存建物です。
赤松小学校が明治42年(1909)佐賀城本丸跡に開校し、鍋島
家から佐賀市へ寄贈された既存建物を校舎として利用してい
ましたが、他の建物が解体されていく中、残されてきました。
昭和14年(1939年)には「郷土館」として利用。昭和32年
(1957年)には大木公園に移され南水会館なりました。
平成13年(2001年)に解体され、現在、佐賀城本丸歴史館とし
て本来の位置に御座間・堪忍所として移築・復原されました。
鯱の門と続櫓

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佐賀城といえば、本丸の正門である
鯱の門がシンボルですが、元々は現在
の様な立派な門ではなかったようです。
享保11年(1726年)の大火でしばらくの
間、藩の中心が本丸の北東に位置し、
再建された二ノ丸に移りその関係で
二ノ丸御門は寛永2年(1790年)に櫓門に
建替えられたそうです。その門が今日
の鯱の門
のモデルのようです。
天保6年(1835年)の大火により二ノ丸
から本丸に藩の中枢が移ることになりま
した。鯱の門は、
天保9年(1838年)に
完成、藩の御用鋳物:
谷口清左衛門に
よる青銅の鯱を冠し 、続櫓と番所を従え
ています。
参考] 佐賀城・攻 by 発つ犬、足跡がわかる・・・
佐賀城の前身:村中城
村中城は、佐賀城の西ノ丸・西の御門付近、現在の佐賀西高から県立博物館の一帯にあったとされ、平成22年(2010年)には該当地域で16世紀中・後期の陶磁器や高麗青磁などが見つかり、ともに検出された大型の建物跡は村中城城の遺構と判断されています。
中世から龍造寺氏が居城とし天正年間(16世紀中・後期)の勢力拡大とともに拡張、整備されたようです。
ちなみに天正13年(1585年)には当時、蓮池城主を居城としていた鍋島直茂が、主人であった
龍造寺政家の居城の村中城の改修を計画していたともいわれます。
分家や重臣
佐賀藩は、35万7千石の大封でありながら、三支藩や親類:鍋島4庶流家(白石、川久保、村田、久保田)さらには、親類同格:龍造寺4分家(多久、武雄、諫早、須古)などの各自治領を認めていました。結果として佐賀藩主の実質の知行高は6万石程度となったといわれます。
背景には、縁戚関係にあったとはいえ、龍造寺氏から御家乗取ともいえる格好で鍋島氏が藩主に就いたため柔懐策や藩主一門の強化の結果とも言われています。
| 鹿島藩 | 小城藩 | 蓮池藩 | |
|---|---|---|---|
| 当初石高 | 2万5千石 常広城-文化4年(1807年)→鹿島城 |
約7万石 | 約5万石 |
| 初代藩主 | 鍋島忠茂 | 鍋島元茂 | 鍋島直澄 |
| 初代藩主の 佐賀藩主初代藩主: 鍋島勝茂との関係 |
弟 | 元嫡子 | 五男 |
| 佐賀藩との 主な軋轢 |
2代藩主:鍋島正茂が 下総国(千葉県)矢作 5千石の旗本となり、 鍋島勝茂の九男: 鍋島直朝が 3代目となり2万石 |
延宝5年(1677年)に 2代藩主:鍋島直能が 藩祖:鍋島直茂が称した 加賀守を名乗る |
延宝6年(1678年) 2代藩主:鍋島直之が、 独断で八朔の祝いに 4代将軍:徳川家綱に 太刀と馬代を献上 |
| 天和3年(1683年)佐賀藩により「三家格式」が公布される。 | |||
| 佐賀藩主9代目: 鍋島斉直が 鹿島藩の廃藩・吸収 を画策するも失敗 |
第9代藩主:鍋島直堯が、 文化13年(1816年)独立 を画策し失敗 |
天保15年(1730年) 参勤交代の免除 を画策し失敗 | |
三支藩は寛永年間より参勤交代し、幕府公役も負担していたものの本藩の内分与でした。
佐賀藩が意向を押し付ける一方で、三支藩側も財政支援や、独立や処遇改善を狙った動きありました。
また、鹿島藩主から旗本(交代寄合)になった鍋島正茂の系統は餅ノ木鍋島といわれ、元和8年(1622年)から元禄12年(1699年)までを下総国(千葉県)矢作、後に三河国(静岡県)に転封在所の陣屋を換えながらも石高5千石をそのままに維新後まで続きました。
ちなみに、龍造寺高房の子:龍造寺季明(伯庵)などが、寛永11年(1634年)か8年間幕府に御家再興を願い出たものの認められず、会津藩などに預かりとなったそうです。
フェートン号事件
佐賀藩が長崎港警備役の当番年であった文化5年(1808年)にイギリス海軍が、オランダ船を偽装し長崎出島に侵入し、一時人質をとり食料を奪取した事件です。当時、オランダはフランスのナポレオン侵攻の結果の傘下だったのが背景です。
兵員不足から強攻策にでれず、ただ脅迫に屈した国辱の責任を取り、長崎奉行の松平康英は切腹してしまいました。
さらに勝手に兵力を減らしていた鍋島藩家老等数人も責任を取って切腹、9代佐賀藩主:鍋島斉直に100日の閉門が命じられました。
そもそも鍋島斉直は財政負担の大きい、長崎警備の任務の返上を年寄役の有田権之允に密命を与えて、長崎警備の任務を幕府に内密で熊本藩に引き継いでもらおうと画策した。
しかし露呈し、有田権之允は切腹しました。そこで長崎警備の兵員を密かに大きく減らすこととしたそうです。
その後、出島では外国船の入国手続きが秘密信号旗を用いるなど強化されたそうです。
10代藩主:鍋島斉正の改革
10代藩主:鍋島斉正(直正・閑叟)は、父である9代藩主・鍋島斉直と保守勢力に遠慮しながら倹約令を出し藩政改革に取り組みました。
しかし天保6年(1835年)、当時藩の中枢であった佐賀城二の丸が大火で全焼したことを切欠として、荒廃していた佐賀城本丸に御殿等の藩の中枢を戻し、西洋技術の摂取に努める一方で、役人を五分の一に削減する一方で優秀な人材を登用し、農民の保護育成、陶器・茶・石炭などの産業育成・交易に力を注ぎ藩財政は活性化させました。
また独自に西洋の軍事技術の導入をはかり、精錬方を設置し、反射炉ひいてはにアームストロング砲など最新式の西洋式大砲や鉄砲の自藩製造に成功し、蒸気機関・蒸気船も製造することになりました。
嘉永6年(1853年)、マシュー・ペリー提督が来航し、江戸幕府老中の阿部正弘が各大名に意見を募った時、鍋島斉正はアメリカの武力を背景とした強硬外交に対して強く攘夷論を唱え、品川台場建設に佐賀藩の技術を提供したものの、イギリスの親善外交に対して開国論を主張していたそうです。文久元年(1861年)、48歳で隠居。家督を次男:鍋島直大に譲って閑叟と号しました。
廃藩置県と佐賀県
佐賀県は、旧国で言えば肥前国の北東半分です。
明治4年(1871年) 廃藩置県により当時の藩と佐賀の三支藩がそのまま県となり、佐賀県・蓮池県・小城県・鹿島県が誕生。
しばらくして厳原県(対馬藩)が佐賀県と合併し、伊万里県となる。さらに 蓮池県・小城県・鹿島県と唐津県が伊万里県に合併する。
明治5年(1872年)伊万里県のうち、旧佐賀藩の諫早・神代・伊古・西郷・深堀の各地方が長崎県に編入されました。
伊万里県が佐賀県に改称(県庁が佐賀に移転)。
伊万里県のうち対馬(旧厳原県)が長崎県に編入されました。
明治9年(1876年)三潴県(旧筑後国:福岡県の南部)に合併されたものの、三潴県の杵島郡・松浦郡の区域が長崎県に編入。
さらに、三潴県の藤津郡の区域が長崎県に編入。
三潴県が廃止され、旧佐賀県の区域は長崎県に合併されました。
明治16年(1883年)長崎県の10郡(佐賀郡・小城郡・神埼郡・基肄郡・養父郡・三根郡・杵島郡・藤津郡・東松浦郡・西松浦郡)が分離独立し、現在の佐賀県が成立したそうです。
