概要

「鶴丸」の語源は、島津家の家紋の一つに「鶴丸の紋」であったことから呼ばれています。
ちなみに有名な「丸に十字紋」は、元来は「十字」紋で平家追討の褒美として源頼朝から初代
島津忠久が拝領したものとされます。

島津家といえば鎌倉以来、薩摩・大隅・日向諸県郡を中心に一時期は九州のほとんどを支配した名家です。現在の鹿児島駅(新幹線は南の鹿児島中央駅)近くの東福寺城を「後詰めの城」つまり戦時の城、平時の居館として清水城、天文19年(1550年)より島津貴久が居館機能を、内城に移していました。

1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いで島津忠恒(家久)の実父 島津義弘が西軍につき敗北。
島津義弘の兄で叔父にあたる島津義久の婿養子となっていた島津忠恒(家久)が当主となり1601年(慶長6年)築城が開始されました。

なお慶長7年(1602年)、関ヶ原の戦いの講和交渉をしていた島津義久に代わり、島津忠恒
(家久)が徳川家康に謝罪のために上洛し、本領を安堵されています。

1604年(慶長9年)に鹿児島城は完成し、内城から変わり島津宗家の居城となりましたが、 島津義弘は海岸に近いこの地は防御に問題があり城を築くのに適さないとし、最後まで築城に反対したともいわれています。

なお、上之山城(上山城)・城山を「後詰めの城」としており、鹿児島城も清水城や内城を踏襲して居館としての役割が濃かったようです。

事実、56万石、1609年(慶長14年)琉球に出兵して琉球王国を服属させ、琉球の石高12万石
を加え、さらに加増され72万石、結局は表高77万石を標榜していた藩の居城のわりに、天守はおろか天守台すらありませんでした。御楼門という東側・大手の口の櫓門と1重2階の兵具所多門櫓、南東の角櫓(隅櫓)、書院造の御殿・政庁群と北御門で本丸が構成されていました。

ちなみにシラス台地で土地がやせていたこともあり、実高は35万石程度だったのではないかといわれています。


地図

現在の鶴丸城

城内の建物は、自然災害やシロアリなどの
被害 が多く、焼失や倒壊を繰り返しました。

文久2年 (1862年)の 生麦事件に端を発した
文久3年 (1863年)の薩英戦争
(Anglo-Satsuma War,Bombardment of Kagoshima)
では英国艦隊の砲撃による被害もでました。

そのたびに修復が行われてきましたが、
明治7年(1874年)に焼失した後は再建される
ことはありませんでした。


上之山城(上山城)・城山

初代の城代として島津一門日置家の島津常久が任命されて居住していたが、慶長19年
(1614年)に早世した後は次の城代は任命されず、城山自体が聖域として立入禁止区域となっしまいました。

また明治10年(1877年)に私学校生徒の暴動から起こった西南戦争の指導者と担ぎださ
れた、西郷隆盛(隆永)が敗れて城山で自刃した地でもあります。


本丸・二ノ丸

現在本丸には、鹿児島県歴史資料センター黎明館があります。
御楼門と呼ばれた大手門跡は枡形虎口の姿が残り、北東の隅の石垣は魔除のため窪まし ています。要するに石垣の隅が二重になっています。 古写真では鯱を冠した御楼門と兵具所多門櫓などの姿が残っています。

二ノ丸は本丸の南に続き、世継ぎや側室などの居住空間だったようです。 現在は県立図書館や市立美術館などがあります。


私学校

私学校跡 明治6年政変(1873年)征韓論・韓国訪問が退けられ西郷隆盛が下野して、明治7(1874)年 に私学校がかつての出丸・旧厩跡に設けられました。

軍事教育中心につくられた教育機関 で鹿児島県内にいくつもの分校・下部組織がつくられました。結局当時県下最大の政治的な組織に成長してしまい、西南戦争を引き起こす一因になりました。

現在は、鹿児島医療センターとなっています。


外城制

外城制とは薩摩藩が行った地方支配の制度。天明4年(1784年)呼称を郷と改められました。
領内を砦などを拠点に行政単位として区分し武士を分散定住させることで、軍事ネットワーク
の一端とし、また農山漁村や町場の統制・支配しました。外城は113区画が設けられたといわ
れます。かつて島津家当主の居城は内城であり、それに対して外城と呼称したようです。
そもそもは半農半士の武士の集団が駐屯・居住し、時に地頭のもとで軍事行動をとっていた
ことにから発展したようです。

戦国末〜織豊期に、複数の村・集落の複数の城・砦に拠っていたものが地頭のいた中心的
城砦の山麓の「麓」集落と呼ばれる城下町へのちに外城士、さらに下っれば郷士とよばれる
武士などが集住するようになったようです。

地頭は寛永以降は鹿児島城下へ定住するようになり、ただし要所では地頭が残り、準ずる
藩境などは地頭代などが置かれましたが、次第に軍事的意義も薄れ、やがて麓三役とよば
れた上級郷士が実質的な地方支配にあたるようになりました。
ちなみに麓三役とは 郷士年寄、組頭、横目(警察)です。