恤兵会(じゅっぺいかい)ー
日清戦争は明治27年(1894)8月1日に宣戦布告された。それにつれて滝田、国府、稲都の三村はそれぞれこの会を創立した。
国府、稲都の詳細は不明であるが、「滝田村」は渡辺栄太郎を会長に8月3日に創立し、滝田村役場に事務所を置いた。
恤兵とは、金銭や品物などを贈って、戦地にいる兵士を慰問することを言う。
滝田村では、直ちに恤兵会の第一回の資金募集にかかり、役500円の寄付を得た。この資金をもって応召者へ餞別を贈り、家庭を訪問
して銃後の生活を慰労激励し、陸海軍それぞれに15円ずつの献金をした。
翌年4月、日清戦争は、日本の勝利で終わることとなった。
明治34年(1901)12月、滝田村では各区に依頼して、第2回の募金をし620円の寄付金を得て活動への準備をした。村民の厚い恤兵
への誠意が示されていた。
明治37,8年(1904-5)の日露戦争は、2月10日に宣戦が布告された。滝田恤兵会は、直ちに応召者の家庭の農業の支援や家族の救護
活動を始めた。
戦争中の活動資金として、村民より約一千円の資金寄付を受けた。
この戦争では、応召者も多く、会の活動は多忙を極めた。
一年半後、漸く平和を勝ち取り、めでたく応召兵が凱旋するや、三村とも凱旋祝賀式を盛大に挙行した。
大山巌大将の筆の「日露戦争記念碑」を、滝田は千代の「皇神社」境内に、国府は谷向の「高子神社」境内、稲都は小学校の庭に建てて
祝った。
しかし、残念なことに、滝田で3人、国府で7人、稲都で5人の方が戦死された。三村の従軍者はみんなで168人であるので、約1割
の方が戦没されたことになったのである。
大正3年(1914)8月、第一次世界大戦が起こったが、応召者は少なく、恤兵会は直ちに充分な活動をすることができた。
かくして、会は、大正末まで継承され、その事業が続けられた。(明治43年(1910)、中央に在郷軍人会が組織され順次地方にに拡大して
きたため、恤兵会がそれに替わっていったのである。)