「亀鳴く」の語源短歌における調査報告 by
カメリン3
以前からインターネットで検索していて、不思議に思っていたのですが、季語の「亀鳴く」の解説に
引用される“藤原為家氏”の和歌は一部言い回しが違って、二通りの説があります。 (A→参考・万葉集)
A
河こしの みちのながちの夕闇に 何ぞときけば 亀ぞ鳴くなる 藤原為家
(ながちは古語で長い道です
。「道の長道(ながち)」は万葉集でも使われており、遠い道のりの意味と思われます。) |
B 河越しの をちの田中の夕闇に 何ぞと聞けば 亀ぞ鳴くなる 藤原為家
(をちは古語で遠方と言う意味です。
をちこちは遠い近いの意味で、現在も使う地域があります。 ) |
他にも漢字表記の差など違いがあって、いったい本当は何なのか調べたいと思い、図書館に
出向きました。いつも行く職場のそばの市立図書館で季語辞典や歳時記などを調べたところ、
出典は鎌倉時代の「夫木和歌抄(フボクワカショウ)」と判明しました。ところがそこにはその本がなく、
更に大きい図書館に出向いて、バッグ類持込禁止の閲覧室で明治39年10月発行の「夫木和歌抄」
(石島謙吉編)に対面してきました。(鎌倉時代 寛文5年発行「夫木和歌抄」の復刻書です。
初版は1310年に発行された
古文書ですが、今回、閲覧した明治期1906年発行の復刻書もかなり年代の重みがありました。歌は17,350首が掲載されています。)
そこで「原文」を確認してまいりました。
夫木和歌抄 930ページ 巻第二十七 動物部 亀
河こしの みちのなかちの 夕やみになにそときけは 亀のなくなる
|
川向こうの遠い道の方で夕方に何か鳴いている。何が鳴いているのか聞くと、なんと亀が鳴いているのだよ。
ということはAが正解? ところが、その和歌の右側にはBの説の「をちのたなかの」(新六三)と
記されているのです。更に作者は「同」で、右の作品の作者は「為兼卿」ですから、同ということは
「為兼卿(藤原為兼)」? あれ?為家氏(本文中で「氏」はMr.の敬称として使用しています。)ではないの?
某有名新聞社や出版社発行の歳時記にも為家氏の作となっているのに、どうしてなのか・・・
更に謎を解くため同図書館で調査したところ、昭和42年発行の「
改訂版 夫木和歌抄」を発見!!
そこで作者の修正があり、おそらく後年の研究の結果、為家氏の作と確定できたようです。
「をちのたなか」は「をちの田中」になって、原文の右側に書かれています。また、「亀の」は横に
「そ」と修正されています。現在に伝わる「亀そ鳴くなる。」の元となるようです。研究を重ねて校正され
たように思われます。おそらく、現在の文献の多くは、この昭和42年発行の「改訂版 夫木和歌抄
」
(著者 山田清市・小鹿野茂次)で校本された内容を参照されたと思います。
改訂版 夫木和歌抄 (書籍内での表記は「をちの田中」は横に記されていますが、主として表記してみました。)
河こしの をちの田中の ゆふやみになにそときけは かめそなくなる
|
川向こうの遠い田の中で夕方に何か鳴いている。何が鳴いているのか聞くと、なんと亀が鳴いているのだよ。
新聞社や出版社発行の季語に関する書籍では上記(B)が採用されていることが多いですが、それは
なぜでしょう。謎を解くには、本が難し過ぎて、特に明治発行の本は文字を読むのも一苦労・・。やっと
の思いで解明した(つもりの)ことですが、夫木和歌抄というのは、藤原長清氏の編集で、広く万葉集
から古今集・五撰集・歌集・歌合わせなどから秀歌を選んだと書かれています。
つまり、未発表作品ではなく、既に世に出ている歌集からの選択であり、新六三というのは新撰和歌
六帖題の略で、この歌が元々はそこに記されていたということなのだと思われます。新撰和歌六帖題は
新撰六帖題とか新和歌六帖とも呼ばれていますが、推定1243年の発行とのこと。
藤原為家氏は1198〜1275年の生涯と記録されているので、新和歌六帖に和歌を出された時は
ご自分の目で確認されても、後の、1310年発行「夫木和歌抄」編集時には存命ではなかったと
言えます。それで、本来の先の出典である「をちの田中」の方を正式な「原文」と見なしたのでしょう。
ただ、「改訂版 夫木和歌抄」は明治期発行の「夫木和歌抄」を底本にして(作者別に歌を紹介した
形で、元の位置として明治に発行の夫木和歌抄でのページを表記しています。)、多くの古文書と照合し、
研究の上、改訂されたのだと推測されますが、作者の誤りは訂正しているのに、歌については漢字表記
等に違いがあるだけで、ほぼ同じです。「みちのながち」を誤りとか、「をちの田中」が正しいとかの表示も
なく、底本の書き方はそのまま尊重しているようです。横に出典元の歌として参考表示しているとはいえ、
「みちのながち」も実際に存在していたということであり、両方の歌が認められていたと推測されます。
歌い継がれて変わったとも言えますし、77歳と長寿であった為家氏が当初45歳頃迄に詠まれた歌を、
途中で手直しして「歌合わせ」で披露した可能性も0とは言い切れないと思うので、「をちの田中」が
正しい歌としても、 両方とも書かれているのですから、夫木和歌抄を出典として記すのであれば、
どちらも間違いと言えないと思いました。また、当時はひらがなに濁点を付けないので、わかり
やすく現代表記の濁点に直し、漢字を交えた表記にするのは、古典の紹介によく使われること
なので、一般的なAやBの表記も元の歌の内容を逸脱しておらず、問題はないと思いました。
「亀が鳴く」という歌はかなり、当時でもインパクトがあり、また楽しい気持ちにさせてくれたことから、
多くの人々に称えられ、春の歌に季語として詠まれ、現代に受け継がれて来たと思われます。
「亀鳴く」が季語になったことは喜ばしいことですね。
(参考.亀には声帯がありませんが、稀に外来種のミシシッピアカミミガメ等が威嚇や要求で、または肺の病気等で、気管等を使い
音を立てるケースの報告があります。)
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さて、せっかく、古典の夫木和歌抄に接してきたので、月の部で特に気に入った歌をご紹介します。
いへいへの おもひや人はかはるらん いつくも秋の月は見るとも 順徳院(順徳天皇)
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家々の思いや人は変わるらん いづこも秋の月は見るとも
家々のそれぞれの思いとか人の心は変わって行くのだろうなぁ。何処に住む人も同じ秋の月をこうして見あげているのに。
(
“いつくも”はいづこも=何処もの意味で、小倉百人一首でも有名な36番「夏の夜はまだ宵ながらあけぬるを雲のいづこに
月宿るらむ」清原深養父 の原文は「夏の夜はまたよひなからあけぬるを くものいつくに月やとるらむ」(古今和歌集)です。)
(訳.夏の夜はまだ夜が更けていないと思う内に明けてしまって、これでは月は西の山までたどりつけないだろう。いったい雲の
どこを宿にして(かくれて)いるのだろう。清原深養父(きよはらのふかやぶ)は清少納言の曾祖父です。)
「家々の」の訳は素人の私がしたものですが、そう歌っているように思いました。鎌倉時代から
今日まで約800年の月日が流れています。確かに時代は変わり、人々の生活様式も考え方も
変わった部分も多いと思いますが、文化は変わっても、考え方や方針に変わる部分があったと
しても、根底にある思い・・人を慕う喜びや切なさ、失うことの悲しみや苦しみ、人と関わる時の
楽しみや怒り、気遣い等・・きっと当時の方々と思いは一緒と思います。源平合戦から後の鎌倉
時代の激動の中にあって、今後どうなってしまうのか・・と思い馳せられた深い歌と伝わりますが、
住む人々は変わっても、それぞれの時代に同じ思いが続いていることは感慨深いものです。
「こんなにきれいな秋の月を一緒にどこでも見ているのに・・」という意味合いの後半の表現には、
だから、同じ月を愛でる思いのように美を愛し、心一つに穏やかに暮らしてほしいものだという
願いが含まれているように感じます。「心一つに」は難しい世界の情勢として叶っていないことも
あることは否めませんが、何百年たっても、変わるものはあっても、機械に囲まれインターネットで
事柄を調べる時代にあっても、きっと、多くの人々は美しい月を見上げては物思い、自然の美に
癒され、それを愛でる思いを失っていないことをお伝えしたい思いになりました。
いつの世も家々の人々の思いが明るく、平和であることを望む心は一つであることを願いつつ・・
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えっ?亀のホームページなんだから、亀の歌も紹介しなさいって?(^^;
ありましたよ。「夫木和歌抄 亀の部」 春の亀さんの歌を調査報告のラストにご紹介しましょう!!
水とけて はるはのとけき池水に みきはのかめも日かけまちけり 衣笠内大臣
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水とけて 春はのどけき池水に 水際(みぎわ)の亀も日影待ちけり
寒かった冬には氷っていた水もとけて、春はのどかな池の水際で亀が日光を待っているのだなぁ
(「みきは」は古語で水際。「日かけ」は古語で日陰の意味と日影の意味があり、日影は日光や太陽とのことです。)
衣笠内大臣(衣笠家良)は、前述で紹介の順徳天皇の即位されていた時代に、著名な歌人と
して、天皇の催す内裏歌壇に参加され名歌を披露されたり、内大臣になられてからは為家氏
や
お仲間と共に新撰和歌六帖題(「亀鳴く」の元歌が最初に載った書籍)を策定された方ですが、
こんな親しみある歌を詠まれているのですね。日光を待つ亀さんをほほえみながら見つめる情景が
目に浮かぶようです。(この歌も右に「新六三」と出典が記されておりますが、内容は相違ないようで歌の横書きは
ありませんでした。)為家氏が「亀鳴く」の歌を詠まれ、歌仲間である衣笠内大臣は冬眠明けの亀の
様子を詠まれているのですね。きっとお二人で楽しく亀のことなど語られたこともあったのでしょう。
こんな会話もあったりして・・
(新六帖題に載せる歌を詠み合わせながら・・)
内大臣「おやおや 為家卿よ。池で亀が日にあたるのはよく見るが、亀の鳴いているのなぞ聞いたことはないのだが・・」
為家卿「そうそう だから「をちの田の中」としたのですよ。春には生き物が皆、喜びさえずり、聞いたことのない声も聞くでは
ありませんか。遠い田の広々した中なら、ここで我も鳴いてみようかと亀も思ったかもしれませんぞ。」
内大臣「なんとも・・それは楽しき歌なり!」(二人で笑う) (あくまでも想像の会話です^^)
いつの世も のどかな風景には亀さんがいるのでした。
2007.2.22
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