第三十二番観音正寺の坂をマイカーで下り、名神「八日市IC」を経て一気に80kmほど北東に走ることになる。岐阜県に入り、「大垣IC」で高速道路を降りる。名神「大垣IC」から賑やかな大垣市の中心街を抜け、揖斐川沿いに郊外に出ると周辺は「富有柿」で有名な柿の産地で、周囲には柿畑が広がる。
西国三十三ヶ所最後の寺にふさわしい少し長い旅路がここまでの三十三ヶ所の寺々を思い起こさせてくれる。駐車場に車を停め参道に出ると、一直線の桜並木の参道が長い巡礼の旅を祝うように迎えてくれ、満願成就の喜びがこみ上げてくる。
駐車場から仁王門を過ぎ約800mほどの石段の奥に本堂が姿を現す。
798年奥州会津の大口大領という熱心な観音信者が京を訪れ仏師に観音像を彫ってもらい、その帰り道、像を背中にかついで東へ向かおうとすると、観音像は自ら歩き始め、美濃の国赤坂まで来たとき像はにわかに立ち止まり、「自分は奥州に行かず、ここから北へ5里の山中に良いところがあるから、そこで衆生を済度したい」と観音は北へと向きを変え歩き出し、この谷汲に差し掛かったとき歩みをとめ、動かなくなった。そこで大領が堂を建て、観音像を祀ったのが寺の興りとされている。それ以後、谷間から油が湧き出るようになり、仏前の灯明の油には不自由しなかったという。このように油を汲んだことから「谷汲山」、観音像に華厳経が写経されていたことから「華厳寺」と917年醍醐天皇が名を授けられた。
その後944年朱雀天皇の勅願寺となり、西国巡礼を再興した
花山院が巡錫(
じゅんしゃく)、花山院の足跡を慕って後白川院もここを訪れて栄えた。
本尊は、
十一面観音菩薩像で、今回のご開帳は前回の昭和30年(1955年)のご開帳から
52年ぶりのご開帳となるが、内陣からの拝観はできず、残念ながら観音様のお顔を拝見することは叶わなかった。