マイカーで行く 西国三十三ヶ所巡り
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 西国三十三ヶ所巡礼のはじまり
西国三十三所巡礼は奈良時代の718年、大和国長谷寺の開基である徳道上人が62才のとき病気にかかり、生死の境をさまよっていた際、冥土の入口で閻魔大王にであった。閻魔大王が言うには、「最近地獄に落ちるものが多い。娑婆には三十三の観音霊地があるので、これらをすべて巡れば地獄に落ちないことにする。」とのこと。「その証がほしい」と徳道上人が言うと、「ここに三十三個の宝印がある。これを集め、それでもなお地獄に落ちるものがあれば、代わって責め苦を負おう。」と大王は請願したという。このようにして、悩める民衆を救うために、三十三カ所の観音霊場を広めてほしいとの託宣を受けるとともに起請文と三十三の宝印を授かり現世にもどされたという伝説に始まる。人々はこの話を信じなかったため、徳道上人は機が熟すのを待つこととし、授かった宝印を摂津国中山寺にある石の唐に納めた。

それから約270年近く経った平安時代、花山法皇が紀州国那智山で参籠していたとき、熊野権現が姿を現し、徳道上人が定めた三十三観音霊場を再興するよう託宣受ける。そして、中山寺で宝印を探し出し、播磨国書写山圓教寺の性空上人の勧めで河内国石川寺(叡福寺)の仏眼上人を先達として霊場を巡行したことで西国観音霊場が復興された。その後、庶民の煩悩や苦しみを取り除き、救ってくれる観音信仰が広がり、江戸時代には伊勢参り、熊野詣と並ぶ大きな信仰となり、今日に至っている。

札所寺院のうち、善峯寺(二十番札所)は法皇没後の長元2年(1029年)の創建である。また、花山法皇とともに札所を巡ったとされる仏眼上人は、石川寺の聖徳太子廟の前に忽然と現れたとされる伝説的な僧で、実在が疑問視されていることから、三十三所巡礼の始祖を徳道上人、中興を花山法皇とする伝承の全てが文字どおりの史実とは考えがたいが、三十三所の札所寺院はいずれも平安時代以前からの由緒を伝える観音信仰の場であったことは事実であろう。

 
 三十三ヶ所の成立と歴史
前述のように、徳道上人や花山法皇の縁起が伝説であるなら、西国三十三ヶ所の札所はどのようにして決まったのだろうか。
平安時代以前までは、都に近い平地に創建されていた寺院は、平安時代には山中にも建立されにようになり、補陀落山を想像する滝や泉などのある場所を選んで観音が多く祀られるようになった。このようにして、観音が霊験を顕(あらわ)したとされる霊験寺院が誕生することになる。
そして、平安時代には、都の貴族やその妻子たちが霊験寺院に一定期間滞在する「参籠(さんろう)」が流行し、その目的は観光を兼ねた祈願がとなった。この時の参籠寺院は都に近い洛東の清水寺近江の石山寺大和の長谷寺紀伊の粉河寺などで、貴族たちの喜捨(きしゃ)により寺院もうるおい、巨大化していった。
一方、修行に明け暮れ諸国を回遊していた僧(「聖」という)たちは、霊地を求めて山中を歩いた。彼らがしばしば足を留めて滞在する諸国の寺の中に、箕面の勝尾寺と瀧安寺(当時は箕面寺と呼ばれた)があった。後白河法皇が、当時、巷で歌われていた雑芸の歌を執念のように洗いざらい集めて編集した「梁塵秘抄(りょうじんひしょう)」の中に次の2首の今様の歌があり、聖たちの寺としての箕面の勝尾寺播磨の書写山熊野の那智山などが全国的に有名であったことがうかがえる。
 ・聖の住所は何処何処ぞ、箕面よ勝尾よ、播磨なる、書写の山、出雲の鰐渕や日の御崎、 南は熊野の那智とかや
 聖の住所は何処何処ぞ、大峰・葛城・石の槌、箕面よ勝尾よ、播磨の書写の山、南は熊野の那智新宮
そして、このような市中の霊験寺院や山中にある「聖の住所(じゅうそ)」を結んで、初期の巡礼の場所が形成されていったものと考えられる。
ただし、札所は寺の本堂、本尊にこだわらず、観音と縁の深い堂宇が選ばれ、札所となったもの思われる。

歴史的な記録に西国三十三ヶ所巡礼の記述が出てくるのは、近江国園城寺(三井寺)の僧の伝記を集成した『寺門高僧記』中の「観音霊場三十三所巡礼記」で、園城寺長吏を務めた僧・行尊(1055年 - 1135年)が、正確な年次は不明ながら(1090年ごろ)、三十三所を巡礼していると記載されているのが最初である。このときの札所は現在の札所と同じであるが、回る順番が異なっており、第一番が長谷寺、第三十三番が三室戸寺であったと記述されている。
西国三十三ヶ所巡礼の仕掛人である徳道上人長谷寺の開基であることからすれば当然のことであろう。また、徳道上人に始まり、平安時代の花山法皇、行尊に至る300年以上の間、伝説の時期も含めて、この順序で巡礼されていたと考えられる。

その後、同じく『寺門高僧記』に記されている、後に園城寺長吏を務めた僧・覚忠(1118年 - 1177年)は応保元年(1161年)に三十三所を巡礼しており、この時の順序は第一番は現在と同じ那智山であり、第三十三番は三室戸寺であったとされている。

また、永長元年(1096年)に出家した白河法皇は12回の熊野詣でを行っているが、そのときに先達を務めたのが園城寺の僧・増誉(ぞうよ)で、西国霊場の選択には園城寺の僧侶が深く関与していると思われ、現在の33ヶ所の札所のうち19ヶ所が天台宗であることもそのことに関係していると思われる。

当初は修行の一環として巡礼も、室町時代には在家の信者が巡礼するようになり、江戸時代には、自由な旅が制限されていた時代にあって、巡礼を名目にすれば比較的容易に往来手形が発行されるということもあり、観音霊場巡礼が庶民の間に広まり、一種の観光旅行の様相を呈してくる。
そして、関東の坂東三十三ヶ所、秩父三十四ヶ所と合わせて、日本百観音といわれるようになり、関東からの巡礼者が多くなり関西の観音巡礼を「西国三十三ヶ所」と言うようになったと云われている。また、伊勢神参拝や熊野詣から巡礼を始める人が多かったこともあり、第一番を紀伊国の青岸渡寺、関東方面への帰路を考えて、第三十三番を美濃国の華厳寺という現在の順序になったと考えられている。
 
 ”三十三”の意味
 観世音菩薩は救う相手に応じて、それにふさわしい姿になって現われることが“すべて”を意味する三十三という数字の変身例をあげて説明される。これを三十三応身(おうじん)と言い、観世音菩薩があらゆる姿に変身することを表わす。また、この三十三という数字は、観世音菩薩のキーナンバーとなり、日本各地にある三十三ヵ所観音霊場や、三十三種類の変化観音をまとめて信仰する三十三観音信仰へと発展して行くことになる。
 
 徳道上人 (656~736(?)年)

徳道上人は、「長谷寺縁起」などによりと斉明天皇2年(656年)、播麿国揖保郡矢田部の里で生まれ、
俗名を辛矢田部米麻呂といったとされている。容姿端麗で、読書を好む聡明な少年であり、成長するに従い神童と噂されるようになったそうである。

11歳で父を亡くし、さらに19歳で母を失い、仏の道を極めることこそ人間に生まれた最高の道であり、 亡き父母の菩提を弔うため、21歳で当時我が国随一の大名僧であった大和初瀬の弘福寺の道明大徳との間に師弟の契りをお結び出家したとされている。
修行の後、天平5年(732年)楠の霊木から三丈三尺六寸の十一面観音を刻み、これを本尊として大和国長谷寺を開創した。その他、鎌倉国長谷寺をはじめ諸国に四十九ヶ所の寺院を建立したと云われている。

養老2年(718年)の春、上人62才のとき病気にかかり、生死の境をさまよっていた際、冥土の入口で閻魔大王に会い、悩める民衆を救うために、三十三カ所の観音霊場を広めてほしいとの託宣を受けるとともに起請文と三十三の宝印を授かり現世にもどされた。上人は三十三ヶ所の霊場を設けたが、人々はこの話を信じなかったため、上人は機が熟すのを待つこととし、授かった宝印を摂津国中山寺に納めたと伝えられている。

晩年は長谷寺門前町の法起院に隠棲し、80歳で松の木の上から法起菩薩と化して去ったと云われ、現在、法起院は西国番外札所になっており、徳道上人を本尊とする本堂、左側には、「上人御廟十三重石塔」があり、上人が松の木にお登りになったときの、「上人沓脱ぎ石」などがある。この石に触れると願い事が叶うと伝えられている。
また、上人が法起菩薩と化して去ったことから「法起院」の名が付いたと云われている。
 
 花山法皇 (968~1008年)
安和元年(968年)、冷泉天皇と藤原懐子(摂政太政大臣藤原伊尹(これまさ)の娘)との第一皇子として生まれ、安和2年(969年)、生後10ヶ月足らずで、叔父円融天皇の即位とともに皇太子となり、永観2年(984年)17歳で円融天皇から帝位を譲られ即位した。
しかし、摂政であった母方の父伊尹は、即位時にはすでに他界しており、内外に有力な人脈を持っていなかったことが、2年足らずの短い在位という結果を招いたと云われている。

寛和2年(989年)19歳で宮中を出て、元慶寺において仏門に入り退位した。この突然の出家については、寵愛した女御藤原忯子(し子)が妊娠中に死亡したことに起因するという説が一般的であるが、書物「大鏡」では、さらに、円融天皇の第一皇子懐人(やすひと)親王(後の一条天皇)を即位させるために、母方の祖父である藤原兼家が、「道兼(兼家の三男)は、悲しみにくれる天皇と一緒に出家する」とそそのかし、元慶寺に連れ出したという陰謀説をも伝えている。

その後、書写山の性空上人と結縁し、比叡山や那智山で修行、徳道上人が修めた三十三ヶ所観音霊場の宝印を摂津国中山寺で探し出し、性空上人、仏眼上人らとともに三十三ヶ所を巡礼、三十三ヶ所観音霊場の巡礼を復興した。各霊場のご詠歌はこの時に法皇が詠んだ和歌である。

晩年、帰京するまでの十数年間は、巡礼の途中に気に入った摂津国花山院で隠棲し、寛弘5年(1008年)2月8日、41歳の生涯を終えた。

花山法皇が出家した元慶寺そして廟所がある花山院菩提寺は、ともに西国三十三ヶ所巡礼の番外霊場となっている。

現在の京都市北区衣笠北高橋町の「紙屋上陵」に葬られている。
 
 札所
西国霊場のことを札所という。もともとは巡礼者が寺院を参拝したときに、祈願、名前、生地などを記した金属製や木製の「納札」を、本尊を安置する堂宇の柱などに打ち付けたことから札所と言われるようになったようである。そのため、札所寺院を参拝することを「打つ」と表現している。現在ではこのように札を打つことはなく、「紙の納札」を納札箱に納めるので実際に打つことはないが。その札所を打った証として、朱印帳・納経軸・色紙などに朱印を受けるようになった。
 
 巡礼の十徳とは
巡礼に観光の要素が多分に含まれているとはいえ、その本質はやはり信仰の旅であり、三十三の観音を礼拝することによって得ることのできる功徳を期待していることに変わりはない。そして、この巡礼の功徳は10種あるとされており、「巡礼の十徳」と言われている。資料により内容は若干の差はあるが、一例をあげると、下記のようである。
  ①三悪道(さんあくどう)に迷わず
  ②臨終(りんじゅう)正念(しょうねん)なるべし
  ③順礼する人の家には諸仏影向(ようごう)あるべし
  ④六観音の梵字、額にすわるべし
  ⑤福智円満なるべし
  ⑥子孫繁栄すべし
  ⑦一生のあいだ僧供養にあたるなり
  ⑧補陀落世界に生ず
  ⑨必ず浄土に往生す
  ⑩諸願成就するなり
①の三悪道とは、地獄道、餓鬼道、畜生道のことを言う。
閻魔大王は徳道上人に「巡礼した者は地獄に堕ちない」と誓願したことから、観音巡礼の目的の第一は地獄に堕ちないことであり、⑧⑨の補陀落浄土に往生することである。
 
 朱印
御朱印は、もともと「お納経」と呼ばれており、本来は観音経などを写経して寺ごとに納め、その証として朱印を受けていたものである。それが現在では所定の料金を納め朱印をいただけるようになり、誰もが気軽に巡礼できるように変化してきた。
朱印自体は、徳道上人が閻魔大王から授かった三十三ヶ所の宝印が起源と云われ、一般には三つの印で構成されている。
右上に、札所番付の「札所印」、中央に、札所本尊の梵字を刻んだ「本尊印」、左下に、札所名の「寺院印」が押され、中央に本尊名が墨書きされる。
この御朱印は、札所本尊の分身とされている。
 
 御詠歌
 西国三十三ヶ所のご詠歌は、宗派にもよるが、近畿一円で死者を弔うために、葬儀から四十九日までの各法要で、親族により唱えられたり、お盆の仏事で参加者全員で合掌する習慣がある。
この「御詠歌」の起源は花山法皇が西国三十三ヶ所の各札所で詠まれた和歌を後世の巡礼者が節をつけて巡礼歌として歌ったものであるとされている。
 
 お礼参り

西国三十三ヶ所や坂東三十三ヵ所、秩父三十四ヵ所を巡礼し終えて満願となった後、信州信濃の善光寺と北向観音、元善光寺へ、満願成就の報告と結願のお礼に赴くことが、人々の習わしになっている。この風習は、江戸時代に始まったと云われている。
西国三十三ヶ所の場合は様々な風習があり、三十三ヶ所の霊場と番外霊場を含めた36ヶ所を巡礼した後、結願のお礼参りとして、最後に信州の善光寺に参拝し計37ヶ所を巡礼するという風習が一般的である。
また、高野山金剛峯寺の奥の院、比叡山延暦寺の根本中堂、奈良の東大寺の二月堂、大阪の四天王寺を番外霊場に含んでいる場合もあり、お礼参りは善光寺を含めこの5か所の中から一つを選べばよいとする風習もある。

なぜ、お礼参りは善光寺が一般的なのか?

【宗教的理由】
生涯に一度でも善光寺の本尊 阿弥陀如来にお参りすれば、例外なく極楽往生が約束されると信じられてきたためである。
絶対の秘仏として、その姿を見せることのない本尊は、脇侍として観音・勢至菩薩が控える阿弥陀三尊像と伝えられ、伝説によれば遠くインドで生まれ、朝鮮半島を経て渡ってきた日本最古の仏像と云われている。
巡礼地に祀られている観音は、阿弥陀如来の化身であることから、巡礼の最後に本体の阿弥陀如来にお参りすることで、帰結としたと考えられる。

【地理的理由】
そもそも「西国」とは、江戸から見て西ということで、伊勢、那智権現、熊野三山への参拝がその前提として存在していた。
こうした流れの中で、第一番が那智山の青岸渡寺からはじまる西国巡礼が定着したと考えられ、以降、紀州、畿内を経て第三十三番が岐阜の華厳寺で満願となるが、そこから江戸まではまだかなりの距離がある。そのまま中仙道を東へ行き、少し足を伸ばせば信濃の善光寺に立ち寄ることも可能であり、結願後、海沿いの東海道を行くより、少し遠回りをしてでも人気のある聖地を訪ね、お礼参りをしたいと考えたのであろう。