ヒガンバナ(ヒガンバナ科ヒガンバナ属) 彼岸花
ヒガンバナ(ヒガンバナ科ヒガンバナ属)彼岸花 別名 マンジュシャゲ(曼珠沙華) マンジュー
シャカ他多数 英名 リコリス
人里近くの土手、あぜ道などに群生する多年草。花期は9月で地中の鱗茎から50cm〜70cmの花茎
を立て真っ赤な4〜7個の花を輪状ににつける。花被片は約4cmの披針形で6個、雄しべ6個雌しべ
1個は、花外に長く出る。花の後線形の葉を広げる。日本にあるヒガンバナはすべて3倍体であり、
種子が出来ず球根にて増殖する。シロバナマンジュシャゲは、九州に自生があると言われ、ショウキ
ズイセンとヒガンバナの雑種であるとされる。
ヒガンバナは、中国より稲作が伝わった頃持ち込まれたとも言われ、大陸と陸続きの時代の自然分布
説、海流漂着説、史前帰化植物説など数多くの説があります。来歴については謎の多い植物ですが、
最も有力な説が、江戸時代に中国より伝えられたものが急速に広まったとする説です。三倍体である
為、種子は出来ず、シャガと同様、総て人の手を介し、球根によって広まっています。秋の彼岸のこ
ろ花が咲く事から彼岸花と言われるようになったのは、江戸時代の頃でした。この頃持ち込まれたと
するのが通説ですが、それより遡る事、足利時代の続群書類従の中にそれらしき記述があります。禅
宗の高僧心田が「曼珠沙花を奉じて定林和尚に寄す」との漢詩を残しています。「曼殊沙はインド原
産で花々は次々に咲き、紅に茂って光り輝く」さらに「曼殊は世に稀で珍しく、他に類を見ないあで
やかさ」の詩句からこの花がヒガンバナであることを表わしています。同じ時代の僧侶が著した「木
蛇詩」にも「人の曼珠沙華を恵まれ謝す」とあり、さらに室町時代の「節葉集」1547年の「運歩
色葉集」にも曼珠沙華がありこの時代にはすでにあったのではと思われます。将軍足利義政は茶会の
席に曼珠沙華を立花したとされ、「山科家礼記」に記録されています。別名の曼珠沙華の名前はこの
頃つけられたものではないでしょうか。(参考:ヒガンバナの民俗・文化史)曼珠沙華の名は、仏典
に由来していますが、但し、仏典にある曼珠沙華は、「白く柔らかい花」です。方言名に見られるシ
ビトバナ・ユウレイバナ・ジゴクバナなどの呼び名は、宗教と結びつき僧侶によって墓の周囲に植え
られそれが繁殖して墓地にある花として一般化したのではないでしょうか。方言名は、非常に多く1
000通り以上もの方言名を持っています。一部を紹介すると、
シビトバナ・ユウレイバナ・ジゴクバナ・カミソリバナ・キツネバナ・ステゴバナ・ハッカケババア
・テンガイバナ・キツネノイモ・カラスノマクラ・ケナシイモ・サンマイバナ・ヘソビ・ホソビ・シ
タカリバナ・キツネノタイマツ・シタマガリ・ウシノニンニク・シタコジケ・ヒガングサ・ワスレグ
サ・ノダイマツ・テクサリバナ・テクサリグサ・シビレバナ・ドクスミラ・キツネノヨメゴ・スズカ
ケ・ウシモメラ・ハヌケグサ・ジュズバナ・ホドズラ・テアキバナ・ウシオビイツトキバナ・ヤクビ
ョウバナなどなどです。
人と深く関わってきた由縁の植物であると思われ、有毒植物であることを教える方言名が多いのも特
徴です。以上の事からヒガンバナが日本に渡来した時期については、二通りあったのではないかと推
測されます。一つは室町期にあり、学識のある僧侶が「世にも稀で珍しく」と初めて目にする花とし
て表現されている事が伺われます。つまり、その時代以前には、日本に存在しなかった花と言えます
。その際、主に墓地に植えられた事で、シビトバナ・ユウレイバナ・ジゴクバナなどの呼び名が生ま
れた背景があったと思われます。もう一つは、江戸期に飢饉の際の救荒植物として食用にする為、持
ち込まれ、あぜ道などにせっせと植える事により爆発的に広まったと考えられます。球根そのままで
は、毒性があることから、水に晒す事で毒を抜き、貴重なデンプン質として飢饉の際の非常食とした
わけです。ヒガンバナの球根が毎年一回分裂するとすれば、年を追うごとに、1・2・4・8・16
個・・・とバイナリーに増え続け10年で1024個、20年で100万個と爆発的に増える事にな
ります。これは、江戸時代から全国に分布が広まるには、十分な期間であると考えられます。この時
に、有毒植物としての注意を呼びかけるドククサ・シビレバナなどの呼び名が各地の方言として生ま
れたのではないでしょうか。
農村部のあぜ道