始原時期は明確ではありませんが、早・前・中・後・晩期の五期に大別されます。それらに共通する事は粘土紐(ひも)の巻き上げ法により成形され、窯を使わない平らな地面あるいは凹地の中で、やや低温(600℃~800℃)の酸化焼成のため、赤褐色系で比較的軟質です。
早期の縄文土器は、底部の先がとがった砲弾形尖底(せんてい)深鉢がその基本形で、中国・朝鮮をはじめ世界のどの地域でも最初期の土器は同様の形態を示しています。
文様については、表面の模様は無文、又は豆粒文(とうりゅうもん=豆粒の様な小さな粘土が表面に斜めに付けられている)が施されています。その後、貝殻を使った貝殻条痕文(じょうこんもん)・爪形紋(つめがたもん)・竹や縄目の押圧文があり、いずれも連続模様や繰り返し模様が特徴です。
早期終末期の東日本では、胎土に植物繊維を混入する方法(繊維土器)が拡がります。乾燥時に収縮割れを防ぐ目的で植物繊維を入れたと思われています。
続く前期では、平底深鉢土器が一般化し、ほかに浅鉢・台付き土器も出現し、前期後半では土器の種類も増え、甕・鉢・壷・椀も作られました。また新たな形の土器に合わせて新しい装飾も生まれました。また東日本では繊維土器が普及しましたが西日本では繊維土器は無くやや薄手のものとなりました。
文様については、東日本では最初は紐を簡単に撚り合せた施文具(模様を付ける為の道具)でしたが、次第に複雑な施文具が考案され百種類程度が確認されています。西日本では,条痕文・ミミズ腫れ貼付文・爪形文が普及し、東日本の様な施文具も無く発達した模様は少ない様です。
前期後半になると、東西の交流も増え、お互いの文様にも影響が出てきました。
中期は、深鉢のほか壷、把手付壷など複雑な器形が作られていました。
関東・中部地方では、縄文式土器を代表する作品群が登場します。口縁部を炎の様に、飾った火焔(かえん)土器(新潟県、馬高遺跡出土)や、水焔土器(長野県、井戸尻遺跡出土)と呼ばれる渦巻き文の大把手(おおとって)深鉢、その他、口縁に鍔(つば)をはめ込んだ様に突き出た有孔鍔付土器等があります。ほかに深鉢形・注口土器なども作製され、渦巻き文など文様が複雑化しています。
中期後半には、東日本の土器が、「加曾利E式土器」(千葉市、加曾利貝塚)に統一されていき、派手な隆起文も曲線化し把手も小型化して行きます。
後期に入ると、文様・形に大きな変化が現れます。厚手の大きな土器は次第に薄くなり、用途に応じた土器が造られていきます。即ち、深鉢・浅鉢・甕・壷・注口・台鉢等が一般的に造られています。又、釣手形土器・蓋付土器・双口土器など非実用的と思われる器も造られ変化に富んでいます。
文様は「ヘラ」状の道具による沈線文のほか、磨消(すりけし)縄文(土器の表面全体に、縄文を付けた上から線描で文様の輪郭を描き、そこからはみ出た縄文を、「ヘラ」等で磨り消して輪郭内の文様を浮き出させる技法です。) の手法が発達します。特に磨消文様は、後期の中頃に盛んに作られ全国に普及しました。同じ技法の文様が、全国に広がり流行したのはこれが始めてです。
この時期には、焼成時に炭素を含ませたあと器表を磨き光沢を出した黒褐色の研磨土器も出現しました。
晩期では、亀ヶ岡式土器(青森県、亀ヶ岡遺跡)が代表的な土器です。東日本を中心に紀元前10世紀~紀元前3・4世紀に栄え、器形を磨いた土器で繊細精緻の造りで豪快な中期の作品とは対称的です。薄手小型の精製土器と大型で粗雑な作りの粗製土器があり、後者は、内面に炭化物が付着し日常的な什器として使用されたと思われます。亀ヶ岡式精製土器の特徴は、一見理解不能な多様で複雑怪奇な文様が描かれ、赤色塗料が塗布されている点であり、器種も複雑に分化し装飾も繁煩を極めています。尚、西日本の地域の晩期は、縄文式土器の衰退が続き次の弥生土器へと移って行きます。
縄文土器と同じく粘土紐を巻き上げて成形し、乾燥ののち、縄文土器が焼成時に器面を露出させた野焼きをするのではなく、藁や土をかぶせる焼成法を用いました。それにより焼成温度が一定に保たれて縄文式土器にくらべて良好な焼き上がりを実現できたと考えられています。その為、縄文土器にくらべると明るく褐色で薄くて堅くなっています。 こういった焼成技法は、土器の焼成前の赤彩(縄文土器は焼成後に赤彩)といっしょに大陸又は朝鮮半島から伝来したと考えられています。
また強度を増すためにつなぎ(混和材)として砂を用いたために、器面に大粒の砂が露出しているものがみられることがあります。
形状は、底が縄文土器よりは丸く安定感があり、壷・甕(かめ)・鉢、中期から皿を台上の上に載せた形状の高坏(たかつき)などの簡素な形をしたものが多く、穀物の調理や保存用の容器が中心に作られていたと考えられます。また、壺や鉢にも台を取り付けたものも登場し、台を独立させた器種として器台が登場します。
文様については、縄文土器の様な彫刻文や華麗な装飾は無く、縄目(なわめ)・刻(きざみ)目・櫛で描いたような描(くしがき)文などが施されていました。
素地の表面に酸化鉄の多い赤土を塗って焼き、赤色の丹塗(にぬり)土器も作られていました。
弥生土器は大きく前・中・後期の3期に分類され、器形と文様については、時期による差と地域による差が見られます。
初期の弥生土器(板付(いたづけ)式土器)は玄界灘に面した北部九州一帯に分布しています。九州から瀬戸内・畿内(きない)を経て東海地方にまで急速に広まっていきました。
九州より伝わった後、畿内では木葉文で飾った壷や彩文土器が作られていきました。
中期に入ると、九州地方の土器は文様が無くなっていきました。中期中頃になると、須玖式と呼ばれる土器群が登場します。これらは全体を赤く塗り磨きあげた丹塗り研磨土器が多く、直線的な凸帯文と共に特徴となっています。近畿地方では櫛描文が最盛期を迎えました。
弥生土器が愛知県東部以東、東北地方まで拡大していくのは中期の初め頃にになってからです。しかし同地が急に弥生土器に変化したわけではなく、磨消縄文や工字文をもつ縄文的な弥生土器が作られていました。
近畿地方の後期土器でもっとも特色のある技法は、叩き板による成形法になります。
東海地方から南関東に至る地域の土器は、口の周辺部を幅広く作って、粘土紐を縦に貼り付けたり、施文部以外の器面を赤く塗った点が共通していました。
弥生町式に続く前野町式の段階になると、土器作りは粗略化の方向へ向かい、文様をつけることもまれになっていきました。一方、東北地方では後期に至っても土器の文様にはまだ縄文文化の伝統が部分的に生き続けていました。
5世紀には、朝鮮の新羅や百済で生産されていた物に良く似た焼き物が作られ始めます。新しく渡来して来た人と共に、その技術が輸入された物と思われます。朝鮮式土器、祝部(いわいべ)土器などと呼ばれていましたが、現在では須恵器(すえき)と呼ばれています。
縄文土器から弥生土器へと展開した露天焼きの赤焼土器は、その後の古墳時代の4世紀以降も続き、「土師器(はじき)」とよばれる焼きの良い強度の有る焼き物に変化して行きます。
長石を多く含む耐火度の高い粘土を用いて、ろくろあるいは単純な回転台にのせて成形され、燃料が豊富に得られる丘陵地帯の傾斜地に穴窯を築き、窯を使う事で、焼成温度も上がり、1,000℃以上の還元焼成で焼きました。還元は、焼成直後に松葉などを焚口に充填し焼成したものと思われ、肌は灰黒色を呈しています。
製品はそれまでの弥生式土器や土師器とは異なって、壺・甕(かめ)、瓶・杯(さかずき)、高坏(たかつき)・盌(わん)・碗(わん)・皿・甑(こしき)・鉢・硯(すずり)・水滴・装飾付器など多種多様な器皿のほか、馬・塔などの彫塑物なども作られていました。
7世紀になると、大量需要に応じる為、北陸・関東地方にも生産地が拡大していきます。7世紀~9世紀に成ると、技術の進歩と、製品の多様化により、良い土を産出する美濃や尾張方面が主要な産地になって行きます。
平安末期に成ると、須恵器は衰退して行き、焼締め陶器が盛んに成ります。焼締めは、知多半島、渥美半島で、常滑焼や渥美焼として発展して行きます。
日本における陶器の始まりは、7世紀後半に出現した三彩や緑釉を施した低火度鉛釉陶器でした。それらは、中国の唐三彩や朝鮮半島の緑釉陶器の影響下に生まれたもので、正倉院三彩に代表される奈良三彩や緑釉陶器という彩釉の施された陶器で、当時「瓷」、「瓷器」、あるいは「青瓷(あおし)」と呼ばれていました。
有名な正倉院三彩も、本来は東大寺の儀式用調度品であり、天平勝宝4年(752年)の大仏開眼会などで使用された記録が残っています。また、火葬蔵骨器としての出土例も多く、薬壺(やっこ)といわれる独特の器形が特徴となっています。
これらの奈良三彩は、官営工房で製作されたものと考えられています。
奈良三彩の釉は、鉛釉を基礎に、銅・鉄・白石などを呈色剤にして緑・黄・白色などを発色させたもので、約800度程度で焼成したと思われます。
奈良三彩の手本となった中国の唐三彩は、寺院遺跡を中心とした日本各地の遺跡から出土しており、中国では主として副葬品だったものが日本では主に仏器として使用されたことが分かります。
奈良時代の三彩は量的に非常に少なく、特に仏具など特殊な用途で用いられたため、一般には土師器や須恵器が用いられました。
奈良三彩は8世紀後半になると姿を消して代わって二彩や緑釉の陶器が中心となりましたが、質的には粗悪化していきました。
奈良時代末期頃、唐文化の影響のもと、鉛釉陶器に単彩化等の変化が生じ、緑釉陶器が生産されるようになりました。しかし、8世紀末~9世紀初めには、奈良三彩の生産が少量ながら継続されており、奈良三彩と平安緑釉陶器の中間となる移行段階の鉛釉陶器も生産されていました。
緑釉陶器の生産量はまだ少なく、生産地はほぼ畿内のみでありました。供給先も、宮都を中心とした地域がほとんどでした。また、この頃の緑釉陶器の器種構成は、竈・羽釜・甑など、この段階に生産がほぼ限られ断絶する、特殊な器種を主体とするものでありました。
9世紀初頭になると、緑釉のみの単彩釉陶器が盛行しました。また新たに、高い温度で焼かれた緑白色の釉をかけた灰釉陶器(かいゆうとうき)も、この平安時代から作られることになります。
緑釉陶の窯址は京都を中心として、畿内の滋賀・大阪・奈良・和歌山に16ヶ所発見されているほか、愛知県と岐阜県にも14窯確認されていますが、後者は畿内よりも遅れていて10世紀以降であり、9世紀にはありませんでした。
器種は碗、皿を中心に水注(すいちゅう)、瓶、壺、唾壺(だこ)、灯盞(とうさん)、香炉などで、金属器を模したものが多く、当時輸入され始めた中国の越州窯系青磁を写したものもみられました。
高火度焼成の灰釉陶器は、八世紀後半から愛知県の猿投窯で本格的にその生産が始まり、当時「白瓷(しらし)」と呼ばれていました。これらが人工的な釉薬を施した日本で最初のやきものです。
灰釉陶器は、植物の灰を原料とした釉薬を用いた高火度焼成による硬質の施釉陶器です。須恵器においてすでに自然釉の出現を見ていましたが、これは窯内で灰がかかり、それが結果的に釉薬をかけたようになったいわば偶然の産物でした。しかし、経験的知識によって次第に自然釉を意識した窯内配置が行われるようになりました。こうした段階の自然釉を原始灰釉と呼び、自然釉と灰釉の中間に位置付けられています。
灰釉陶器は猿投窯を中心とする愛知県西北部から岐阜県南部にかけての尾張・美濃地域から、さらには東海地方へと広がっていきました。当初は須恵器を写したものが多く、長頸瓶・水瓶・短頸壺などが知られています。また、中国の越州窯系青磁などの形も写されました。
平安時代の須恵器の技術を基盤とし生まれた中世陶器には、須恵器と同様の還元焔焼成による灰黒色の陶器と、酸化焔焼成に転じた赤褐色の陶器の二種類がありました。前者は珠洲窯(石川県)を筆頭に、魚住窯(兵庫県)や亀山窯(岡山県)などが知られ、一方、後者の代表は備前焼(岡山県)でした。いずれも壺・甕・擂鉢(すりばち)を中心とした器種構成であり、土師器系土器とともに日常什器の基本となりました。
その後、鎌倉時代前期に還元焔焼成から酸化焔焼成による焼締陶器の生産へと転換した備前が、近世へと継承されていくのに対して、還元焔焼成の珠洲窯は越前に押されその姿を消していきました。これら須恵器系陶器は、高火度で焼き締められたもので、須恵器同様、炻器(せっき)の範疇に分類される場合があります。
<山茶碗窯系陶器>
11世紀末までに姿を消した灰釉陶器に代わって登場したのが、山茶碗窯の無釉粗製陶器(白瓷系陶器)であり、その生産は東海地方一帯に広がりました。山茶碗は、俗に行基焼・藤四郎焼ともよばれる大量生産による無釉の日常雑器です。当初、灰釉陶器系の碗・皿類が中心に量産されましたが、しだいに中国製白磁を写したものが増え、四耳壺などの器種も登場しました。愛知県をはじめ岐阜・三重・静岡など、現在までに2,000基以上の窯跡が知られています。15世紀中頃までその生産が続きました。
<焼締陶器>
11世紀末から12世紀にかけての平安時代末より、壺・甕・擂鉢を中心とした「無釉」の焼締陶器の量産が常滑・渥美(愛知県)をはじめ、越前(福井県)・信楽(滋賀県)・丹波(兵庫県)・加賀(石川県)など、東海地方から北陸・東北地方、さらには西日本各地で始まりました。そこでは古代の灰釉陶器の製作技術を踏襲しながら、酸化焔焼成による器質の硬質陶器が作られていた一方で、刻文壺と呼ばれる大和絵を反映した各種文様が描かれた壺も数多く焼かれていました。また、経筒外容器として、あるいは火葬骨を納入する蔵骨器として使用された出土例も多く見られます。
<施釉陶器>
瀬戸における陶器生産の始まりについては、猿投窯や山茶碗窯を基礎にして12世紀に確立したと考えられています。瀬戸ではそれまでの灰釉に加え、鉄釉や褐釉を用い、印花文・劃花文・貼花文などの装飾技法を駆使しながら、北宋から元・明にかけての青磁(龍泉窯系)と白磁・青白磁(景徳鎮窯系)を中心とした中国陶磁の写しを盛んに行いました。
瀬戸窯の製品は、日常生活用具から仏器まで多彩であり、四耳壺・瓶子・水注などの高級器皿も13世紀以降焼かれました。また、鎌倉時代後期から室町時代にかけての「茶の湯」の勃興とその唐物趣味を背景に、14世紀からは中国陶磁写しの天目茶碗や茶入などの茶陶もつくられる様になりました。15世紀になると、瀬戸系施釉陶器の生産の中心は岐阜県の東美濃に移りました。
茶の湯は、村田珠光によって茶の湯の道を整えられ、武野紹鷗により一段と発展していき、その後茶道の本流は、千利休、古田織部、小堀遠州と続きます。利休好み、織部好み、遠州好みと、各茶人には独特の美意識があり、その美意識を実現させる為、各地に窯が開かれていきました。
瀬戸や美濃地方では、志野・黄瀬戸・瀬戸黒・織部などの釉薬を施した茶碗・水指・香合などの茶陶の製作が盛んに行われ、京都では楽焼が始まります。
九州附近については、文禄・慶長の役により朝鮮から連れ帰った陶工の新技術や陶磁器製法を使い、各地の領主が殖産政策によって窯を開きました。唐津焼が佐賀県で天正年間(1573~92)頃に始まり、高取焼が福岡県に、上野(あがの)焼が福岡県に、薩摩焼が鹿児島県に、萩焼が山口県に始まったのは慶長年間(1596~1614)かその直後とされています。
<瀬戸・美濃>
室町時代後期から従来の中国陶磁写しとは全く異なる製品が美濃で作られ始めました。瀬戸黒と黄瀬戸です。前者は半筒形の茶碗で引出黒と呼ばれる漆黒の釉色を特徴とするもので、後者は黄釉と胆礬(たんぱん)と呼ばれる緑釉を特徴とした独特の肌合いと端正な造形を持つものです。
また瀬戸・美濃では従来の半地下式の窖窯から、高火度焼成と大量生産の可能な半地上式の窖窯である大窯(おおがま)への転換が室町時代後期から行われました。それにより、美濃では天正年間(1573〜92)から文禄・慶長年間(1592〜1600)にかけて、瀬戸黒・黄瀬戸に加えて長石釉(白釉)による志野も登場し、茶陶を中心にさらに各種食器に至るまでその生産はひろがっていきました。
その後、美濃で慶長年間(1596〜1614)中頃に唐津から熱効率の良い連房式登窯を導入した元屋敷窯(岐阜県土岐市)が築かれました。熱効率の改善によって、それに適した織部焼の生産が以後増大していきました。織部焼の名は武将茶人・古田織部に由来しており、鮮やかな緑釉と鉄絵を併用し、また歪みの美を強調した奇抜な造形を特徴としています。
<楽焼>
京都では千利休の指導の下、初代長次郎によって楽茶碗がつくられました。
茶会記には「宗易形ノ茶ワン」、「今ヤキ茶ワン」が天正十四年(1586)に登場したことが記載されてあり、これらが長次郎のつくった楽茶碗であるという考えが現在定着しています。
長次郎が「楽家の初代」になり、二代常慶(じょうけい)、三代道入(どうにゅう、のんこう)、四代一入、五代宗入と、連綿と現代まで繋がっていき、楽家以外にも、書画・工芸など多彩な才能を見せた本阿弥光悦の手によるものも残されています。また、京都の玉水焼や金沢の大樋焼も楽焼の系譜となります。
楽焼の特徴は轆轤を使わず手づくねで成形され、低火度焼成の軟質鉛釉陶器に属し、主体となるのは黒楽・赤楽と呼ばれる2種類の茶碗になります。
<備前・信楽・伊賀>
壺・甕・擂鉢の三器種を中心として生産された中世以来の焼締陶器は、茶の湯における侘び茶への関心とともに脚光を浴びるようになりました。中でも信楽と備前は、和物陶器としては早くから茶の湯において取り上げられ、茶会記にも「信楽水指」や「水指ひせん物」といった記載が見られています。当初は日常雑器として使用されていたものが見出されて茶の湯に使われた場合が多く、信楽では鬼桶とよばれる民具が水指として用いられました。
備前は水指や花生に優品が多く、赤みを特色とする焼き上がりの土味と重厚感あふれる豪快な造形が特徴です。又、三重県上野市及び阿山町一帯の伊賀は、主として水指や花生において特に注目され、均一性とは正反対のその豪放な作風は当時大変好まれて、いわゆる「破格の美」を代表するものの一つとなりました。特にビードロ釉と呼ばれる自然釉や赤黒く焦げた土味が特徴です。
< 唐津焼>(佐賀県、唐津市)
唐津焼は、天正年間(1573〜92)に始まったと推定されています。
文禄・慶長年間(1592〜1614)頃に朝鮮半島から佐賀県・長崎県一帯の肥前地方に移住させられた陶工によってその活動が本格化しました。岸岳(鬼子岳)山麓の諸窯が初期の窯であり、そこでは登窯(のぼりがま)という大規模な焼成窯が導入されていきました。慶長年間(1596〜1614)中頃になると、熱効率の良い朝鮮系連房式登窯を導入することにより大量生産が可能になりました。従来日本には無かったこの新たな窯構造は美濃をはじめ全国に広がっていくことになります。
叩きの技法、蹴り轆轤の使用、象嵌技法など、朝鮮半島から伝わった技術を駆使し、長石質の透明釉のほか、藁灰(わらばい)質の白濁(はくだく)釉、木灰質の黄緑色釉、鉄呈色の黒褐釉を基礎釉とし、下絵付には鉄絵の技法を加え、更に江戸時代になると、銅呈色の緑釉を登場させています。そして無地唐津、黒唐津、黄唐津、絵唐津、奥高麗(おくこうらい)、朝鮮唐津、三島唐津、三彩唐津など多様な様式を作り上げました。
多彩な製品を生産して全国へ流通したことにより、唐津は新たな施釉陶器の生産地として一躍有名になり、西日本では後に「唐津物」がやきものの代名詞にまでになりました。
<萩焼>(山口県)
朝鮮より連れ帰った陶工、李勺光(り しゃくこう)とその弟の李敬(り けい)の兄弟が萩焼の祖といわれています。
関が原の戦いに敗れた毛利輝元は、慶長九年(1604)、居城を安芸(広島)から、長州の萩に移されます。李兄弟もこれに従い城下に窯が築かれます。これが、藩の御用窯としての始まりで現在に至っています。
萩の川辺には、質の良い陶土にも恵まれ、弥生式土器や須恵器などが数多く発掘されています。輝元をはじめ、代々、毛利氏の一族はすぐれた茶人でもあり、焼き物の育成に力を入れたものと考えられます。
<薩摩焼>(鹿児島県)
藩主島津義弘が、朝鮮より陶工を連れ帰り、鹿児島に最初の窯を作ります。義弘は陶工の持ってきた白土と釉薬で藩主専用の陶器を作らせました。これが薩摩焼きの起源です。やがて領内の霧島・指宿辺りで白土が発見され「白もん」の製作は飛躍的に進歩します。尚、白薩摩は藩主など上流階級用で黒薩摩は一般庶民用に区別されて製作されました。
<高取焼>(福岡県)
黒田如水・小堀遠州らが九州の地で開いた茶陶窯で、筑前黒田藩の御用窯であり、遠州七窯としても知られています。開窯は、黒田長政が慶長五年(1600)に筑前の国主となって以後のことで、長政に従って朝鮮の地より渡来した名工、八山(和名=八蔵重貞)が開祖です。






