一
二十三歳のとき、細野聡志(さとし)、つまり僕は大学を中退した。
単位を取ることについて無力感に陥り、必修科目の教師に相談に行くでもなく、ただ無気力をこじらせていったのだった。
二十一歳の時に不潔恐怖症になった。不潔恐怖症は二年間経つとほぼ治ったに等しい水準にまで回復したが、その後は仕事に対する無気力が僕を支配した。まともに勤務しおおせたのは郵便局の年末アルバイトだけだった。他は全部やめてしまった。
人間はいかに生きるべきか。
僕は親が一日あたり五千円支給してくれることに甘え、神経症的放浪をした。行ったことのなかった埼玉に電車で行ったこともあった。下車した駅の周辺は見知らぬ風景が美しく、僕の胸を締めつけた。でも駅から出ることはしなかった。
そして今はこの黄金区(こがね区)に住んでいる。住んでいるといっても、そこここのトイレやベンチで夜を明かし、一週間過ごして日曜が来ると、生活費三万五千円をもらいに家に帰るのだ。
僕はこの生活がすっかり身になじみ、世間の常識から外れた余計者になってしまった。
不潔恐怖症が治ってから、僕は二年ほど家事手伝いをしていた。小さい頃から時々母の料理を手伝うことがあり、鯛のスープやカワハギのスープなどが作れるようになった。でもそれは就職にプラスになるわけではない。
将来が見えない。何の職業につけばいいのかわからない。だから、ねだった金で飴のように時間を引き延ばしていった。そのようにして訪れるのは「青春の全喪失」であることにも気づかないまま。
僕は仕事より何より恋をすべきだった。
僕は黄金区が好きだから、黄金区でばかり夜を明かした。黄金区は僕の実家がある区から七駅の距離にある。隣の隣の区だ。
トイレの中などで、アルコール入りのウェットティシューを使って体を拭くので、体臭は防ぐことができた。ちなみに、日曜にお金をもらいに家に帰ったときに、ついでに風呂に入っている。
僕はそうした浮浪者に近い生活の方法を次々獲得していくことに、自虐的な達成感を感じていた。
恋は縁遠かった。僕は高校は男子校だったし、貧乏神が取り付いて文通を何度も失敗させられたので、恋が実ることは一度もなかった。
昼に公園のベンチで惣菜パンと菓子パンを食べていると、そこに散歩に来た若い女を見つけることもあったが、処女を捨てた女には特別興味はわかなかった。でも僕は社会の底辺(家にお金があるので底辺とは言えないかもしれない)にいることに引け目を感じた。僕は働かないまでも、社会に容認される生き方をしなければならない。いつまでも浮浪者もどきではいけないのだ。
でも僕は、そんな甘えた生き方にとどまっていることもまたそれなりの幸せなのではないかとも思った。
自分に合った仕事がどこにもない。企業化された仕事にやりがいはない。
多分それは僕が内向型の性格であることに起因している。
心が失われた現代では、労働の疎外という言葉もあるように、人が心を痛めずに働ける職場は少ない――外向型の人にとっても現代は生きにくいのだろうか?
僕は一人で農業をしたいのだ。でも現代の農業は大量生産であり、会社的農業であり――中学時代など、僕は電車の中からきれい過ぎる農地を見ていると悲しい気分になったものだった。
じゃがいもや玉ねぎを育てて、大半は自分の食料にして、一部を売りに出し、その現金収入でトイレットペーパーや塩、バターなどを買うのではだめなのか。
何より、現代の日本は物価が安すぎる。物のありがたみを取り戻すと同時に、労働者の仕事の苦痛を減らすには大量生産の廃止しかない。それが政治家にはわからない。
物価を安くして物がたくさんある生活をする。そのことがかえって生活を貧しくしていることに気づかないのか。
工場の機械を運転するにしても、布など、たくさん作れば労働者が疲れるのはわかりきったことだ。労働の疎外はそこからなくしていかなければならない。消費者は商品に敬意を払うべきだ。
今日の僕は河原にいる。夜だ。眠いのでリュックから取り出したタオルケットをかけて寝ている。目覚まし時計もある。朝五時にセットしている。
でも今は夏の終わり。これからは寒くなるから公園のトイレで寝るしかない。もしかしたら、浮浪者とトイレの取り合いになるかもしれない。
僕は虫の音を聞きながら、リュックから取り出したカロリーメイトを食べた。飽食の時代。食べ物がいくらたくさんあっても心は豊かにならない。労働の負荷を軽減しなくては駄目だ。
でも僕は革命家にはなれなかった。
二
朝。目覚まし時計の音で目を覚ました。河原でタオルケット一枚というのは寝苦しかった。
僕は早速朝食を買いに行った。駅前のスーパーは二十四時間営業なので、こんな早朝でも惣菜や弁当のたぐいを買うことができる。
一日五千円はかなり高額の小遣いだ。まあ、必要最低限の生活費を含んでいるのだが。親としては実家で暮らし、親の作る食事を食べてもらいたいと思っているはずだ。親不孝にもほどがある。
こんなことをしていていいのだろうか。
僕はコロッケ一個と弁当、ガム、そして発泡酒を買った。
店内ですれ違った女は、おそらくビッチ(経験者)だろうが、影がある美人だった。僕のことなど気にもとめていない様子だった。
僕は結構ハンサムとか美男とか言われるが、なかなかそれを信じることができない。多分、太っているせいだろう。以前やせたとき、女から「かっこよくなったねえ!」と言われたことがある。やせるといっそう美男であるらしい。でも僕はそれが信じられない。そしてやせることは困難なことである。
駅前広場の石の段に座って弁当とコロッケを食べた。そして朝から発泡酒を飲んだ。
同じようにしている人もいる。競馬新聞を読みながらワンカップの酒を飲んでいるのだ。社会からのあぶれ者、それが僕らだ。
僕は青春があると思っていたし、大人になれば素敵な未来があると思っていた。でも実際には違っていた。親から心理的虐待を受けながら育ったため、神経質な人間になった。子供時代に人並の幸せはなかったし、大人になっても幸せはなかった。多分、のちに僕が精神障害になったのは、親から虐待されたことが原因だろうと思う。きっと何かが壊れてしまったのだ。
僕はつらい気分で発泡酒を飲む。苦い。最近は酒をあまりおいしいと思わなくなった。
人生はもともとつらいばかりであまり楽しいものではないのかもしれない。
でもそれは海外古典文学に何度も書いてあったことではないか。なぜそれを忘れたんだ?
駅前広場の近くにあるコンビニのくずかごにゴミを捨て、僕は散歩を始めた。健康のためにも、散歩をした方がいい。でも何より、ゲームセンターなどに行ってお金をたくさん使うわけにはいかないのだ。
でも、最近のゲームセンターがどうなっているかは知らない。ここ二年間は行っていない。
コンビニ、銀行、文具店、不動産屋、八百屋、焼き鳥屋、百円ショップ、本屋…… 色々な店がある。
こんなふうに散歩していても恋人なんて見つからない。出会いがない。恋人を探すためのパーティーになど出ても、ビッチしかいないだろう。でもその前に、そういうパーティーは仕事を持っている人しか参加できないようになっているのだった。
僕の心はますます追い詰められていく。
助けて。
僕は心の中でそう思ったが、そんな叫びを聞いている人などどこにもいない。
僕の人生は行き詰まった。人を信用することができない。職場は暗黒だと思っている。男子高に行ったので、恋に自信がない。
駄目だ。胸が張り裂けそうだ。
そんな風な思いをずっと何年も抱えてきた。本屋街を歩きながらいわゆる「逆ナン」をされるのを待っていたこともある。
恋の欠落が悩みのもとなのだろうか。
近所にかわいい子がいる。でも彼女もビッチ。ビッチ、ビッチ、ビッチ……お前ら全員いらねー、と心の中でつぶやいた。
僕は酒屋に入り、カクテル一本と赤ワインを一本買った。酔いで憂うつを振り払おう。
カクテルは甘く、おいしかった。でもこれは深い意味はない。赤ワインに含まれる大量のアルコールのほうに用がある。僕は地図帳で公園を探し、木陰でワインを飲んだ。
ワインを見とがめる誰かがいるわけでもない。
僕は孤独だ。
だけど、悪魔と戦う栄光の道を歩んでいる。
それだけでも結構じゃないか。
そう思い、僕は途中でワインの栓を閉め、リュックに入れて、立ち上がった。
未来は明るいかもしれない。
三
日曜になり、家に帰った。
脚を延ばして入れるゆったりとしたバスタブ。そこに緑の入浴剤を入れて入っている。
まるでこの世の天国みたいだ。
思いわずらいはもはや何もない。
でも、仕事につかないと恋人はできないな。
何の仕事につこうかな。地味なのがいいな…… 漬け物屋の手伝いとか?
雇用者と仲良くやれる仕事がいいな。
網戸まで開けたままの窓にスズメがやってきた。
かわいい!
スズメは五秒ほどで飛び去ってしまった。
いいことがある。次々いいことが起こる。
そこに父がやってきた。
父は浴室の扉を開け、こう言った。
「お前、ウエイターやらないか」
僕は答える。
「ウエイター?」
「うん。お得意さんの友達が喫茶店をやってるらしいんだ。ウエイターを募集中なんだって」
「そうなの。じゃあ、やろうかな」
「履歴書用意しといたから、書いとけ」
「ありがとう」
「風呂から上がったら冷蔵庫の中にプリンがあるぞ」
「うん」
父は扉を閉めた。
運命がいい方向に向かい出してる……
風呂から上がって冷蔵庫のプリンの封を開けたはずみに、それを落としてしまった。中身は床にぶちまけられ、容器に残った食べられる分はごくわずかだった。僕はそのわずかなプリンを食べ、容器をゴミ箱に捨てた。
悪魔だ。
いつか僕を邪魔することで、包丁で指を切らせたこともあった。何かにつけて動作を失敗させるのだ。
やっぱり、運が上向いたと思ったのは間違いだった。
悪魔と戦わなければならない。
黄金区の喫茶店で行われた面接は好感触のまま終わり、後日「採用」の電話があった。
僕はめでたく「喫茶・白い花」のウエイターとなった。
店に通うようになってから一度コーヒーをこぼし、二度やけどをした。こう何度も何度も悪魔に苦しめられると、気持ちが負けそうになる。でも、負けてはいけない。
店長は川村といった。店にはニューエイジミュージックが流れ、客の心を慰めた。
店長は僕が失敗するごとに「いいよ、いいよ」と優しく応じてくれた。
彼は言った。
「あんまりきびきびやらなくていいから。それじゃ見てるほうも疲れるからね」
僕は答えた。
「いい店だと思います。しかも三十万も出してもらって」
「うちの価値をわかってくれる店員にはそのくらい出してあげないとね」
僕は二時半に軽い休憩を取った。モンブランを食べ、ホットレモンティーを飲んだ。
いい店だ。
モンブランの味も申し分ない。
コーヒーが嫌いだと言ったら紅茶にしてくれたこともありがたい。
来月は給料でウォークマンを買おうかな……
僕は、でも恋人だけはいつまでも現れないような気がした。
午後五時、コーヒーケーキをおみやげにもらって、僕は家に帰った。
もう放浪の必要もない。
家に着くと、僕は、いままで使っていた財布をやめて、机の引き出しにしまった。そして近所のスーパーに新しい財布を買いに行った。それは合皮の財布で、五千九百八十円した。小銭を入れるところと札を入れるところ、そしてカード類を入れるところがあり、ポケットに収まるコンパクトなサイズだった。
僕は神様がいると思い、強迫的な努力や、人間の浅知恵による工夫を、その日からやめることした。神様にすべてお任せするのだ。強迫性は何も生まない。
次の朝起きると、僕はまた絶望した心に戻っていた。
毎日、毎日、絶望的な心で目覚めた。そんな日が続いてもう三年になる。
きのう、幸せになれると思ったのは何かの間違いだ。
そう、大学の学生相談室の人が言っていた。人間が種をまくそばからカラスが突っつく、それが人生だ、って。
僕は起き上がり、ひきわり納豆に刻んだねぎを混ぜたものをご飯にかけて食べた。ひき割り納豆は腐敗寸前の味がした。発酵食品だから仕方がない。腐敗臭のようなものがいやなら、買ってきてすぐ食べればよかったのだ。
あまりにもシンプルな食事を終えたら、歯を磨いて電車に乗り、黄金区の喫茶店に行った。喫茶・白い花。いったいどういう理由でそんな名前を付けたのだろう。
ドアを開けるとカランカランとベルが鳴る。九時四十分。川村店長は一番奥のテーブルでコーヒーらしきものを飲んでいた。
「ああ、細野君。おはよう」
僕はその声に応じた。
「おはようございます」
「細野君も何か飲む?」
「はい、ホットレモンティーが飲みたいです」
「待っててね」
そう言って川村店長は奥に引っ込み、三分ほどでホットレモンティーを作ってきた。そして「飲みな」と言って、椅子に座っていた僕の前にティーカップを置いた。
何だろう。暖かい感じがする。
この人は今までに出会ってきた男たちとは違う。
僕は店長が本物の男だと思った。
紅茶は砂糖を入れない主義だったのだが、僕はその戒めを破って、テーブルの上の角砂糖を四個、ティーカップに入れてかき混ぜた。
僕の人生も甘みのある、苦しみばかりでない人生に変わればいいけど。
ティーカップを片付けた後、客がやってきた。さて、仕事、仕事。
昼時になり、僕は店長と交替で昼ごはんを食べた。食べたのはたぬきうどんだった。
調理場に置いてあったメニューを僕は読んだ。
コーヒー、アイスコーヒー、ホットレモンティー、アイスレモンティー、トースト、シナモントースト、鶏ムネ肉のソテー・ナツメグ風味、バジルステーキ、ライス、そばの実の雑炊、三つ葉うどん、コーヒーケーキ、ゆでピーナツ、ミックスナッツ……
メニューを見ていると、店長がオーダーを取りに行くように言った。僕は仕事をこなした。
午後四時ごろ、調理場で、店長がタバコを吸いながらぼそっと言った。
「どうしてあまり客が来ないのにこんな店がつぶれないか、おかしいと思うでしょ」
僕は答えた。
「はい……確かにお客さん、少ないですね」
「大金持ちが一人でも網にかかれば、もうしめたものなんだ。そのためにうちのメニューは個性的なものにしたんだよ。そういう大金持ちが二人、この店にお金をくれてるんだ。友達でいてくれ、って言うんだよ」
「友達?」
「うん。愛がすべてだ、っていう僕の考えが正解だったわけだね」
「打算的ですね」
「そんなことないよ。双方が満足してるんだから」
「そうですか」
「パトロンみたいなものかな」
「ああ、パトロン」
「個性のある者にしかできないのが、こういう形態の喫茶店だよ。……細野君、きょう、そばの実の雑炊食べてく?」
「そばの実の雑炊?」
「うん。母から教わったメニューなんだ。おいしいよ」
「じゃあ、頂いていきます」
僕は無職からウエイターに昇格した。
次は、恋人が欲しい。
恋人がいないことで、僕は何年もの間胸を痛めてきた。
人は一定の年齢になると、恋人がいるのが当たり前で、そうでない場合、片割れのいない苦痛を覚えるものなのだろう。
つまり、それが当たり前なのだ。
当たり前だとわかっていても見つからないのが恋人。
胸が痛い。
店長は言った。
「どうしたの」
「いや、ちょっと考え事をしていました」
「タバコでも吸う?」
「はい、頂きます」
店長は灰皿を僕のほうに寄せ、セブンスターの箱を差し出した。僕は一本抜き取って、ライターで火をつけた。肺に入れたことはない。ただ口に煙を入れては吐き出すだけだ。
店長は言った。
「細野君、タバコ吸うの?」
「いいえ。ときどき付き合いで吸うだけです」
「ふかしてるだけか」
「そうです。……僕はこの世の果てのような場所に半年いたことがあるんですが、そこではタバコを吸ってる人ばかりなんです。そこはすることがないので、僕もタバコをふかすようになりました。でも、監禁が解かれたらもう吸わなくなりましたね」
「ふうん。君にも色々な物語があるわけだ」
「はい」
「これからも物語があるよ。細野君は付き合ってる人いないんだろう?」
「はい」
「見つかるといいね」
「はい」
その日はそれ以降、午後八時の閉店間際まで客が来なかった。
そばの実の雑炊は絶品だった。
七時五〇分になって一人の西洋人の男がやってきた。彼は金髪で背が高かった。日本語はそれなりに話せるようである。
彼は言った。
「今月分ノオ金、持ッテキタヨ」
店長はうやうやしく応じた。
「ありがとう、フィリップ。……はい、きっちり五百万円いただきました。領収書を出しますね」
フィリップと呼ばれた男は店長の書いた領収書を受け取った。
そして彼は僕のほうを向いた。
「アナタ、ウエイター?」
僕は答える。
「そうです。ここで働かせてもらっている細野と申します」
「ホソノ、ナニ?」
「細野聡志です」
「ソウ。ヨロシクネ」
「はい、よろしくお願いします」
フィリップは忙しいと言ってすぐに店を出て行った。そして今日の営業は終了となった。最後に店の掃除をして、僕は帰った。
喫茶店から家に帰ってくると、僕は風呂に入る。
緑の入浴剤はよい香りだ。お湯の中に潜り、目を開けて、澄んだ緑色のお湯と、ゆらめく天井や壁を見た。
目にしみる。僕はお湯の外に出た。
これからはあのいい店での安泰な勤務が続くんだ。もう悪魔のことは言うまい。そいつは無視しておくのが一番だ。
そして寝る前のアイスクリームを食べてから寝る。そのアイスクリームは高級な製品で、イチゴの果汁と果肉が四十パーセントも入っていた。
しかしいい品は消えていくことが多いものだ。竹エキス入りの、洗濯物の生乾きの匂いを防ぐ防臭剤も、百円ショップの、せっけん成分百パーセントの釜炊きせっけんも消えていった。
悪魔は無視だ。
絶望を叩き壊せ!
四
僕がある朝起きると、大きな蛾が壁にとまっていた。僕は「蛾さん」と言って蛾を指にとまらせ、窓を開けて、窓の外の手すりにとまらせてやった。蛾はいつまでもじっとしていた。
多くの命を奪って食べる人間は罪深い。しかし悪魔の誘惑から肉も魚も食べずに、雑食動物たる人間のエネルギーが失われていくことのほうが怖い。
絶望を叩き壊せ!
その日、喫茶・白い花に行くと、店長が店の奥から手招きしていた。僕がそばに行くと彼は言った。
「これ、食べてみる?」
そこにあったのはグラタンだった。とてもいい匂いがする。舞茸が入っているようだ。
「舞茸のグラタンですか」
「他にもう一種類入ってる」
店長からスプーンを受け取ってグラタンをすくうと、ギンナンが顔を出した。
「舞茸にギンナンですか」
食べると、なんとおいしいことか。
「おいしいです!」
「ありがとう。細野君が言ってくれるんだから間違いなくおいしいね。私も味見したんだけど、自分の意見だけじゃ自信が持てなくてね」
「おいしいですよ」
「よかった」
その日も客は少なく、三人くらいしか来なかった。この店はパトロンのためにあるみたいだ。
僕が五時四十分ごろ夕飯のかき揚げ丼を食べ、その後で店長が同じくかき揚げ丼を食べた。
こんなに暇な店ってあるだろうか。
パトロンに心のこもった飲食物を食べてもらい、飲んでもらう店なんだ。そこに来た一般人も、この店の店長の独特のセンスを味わっていく。個性は強みだ。
僕は電車に揺られて帰った。
今年もできない彼女。
何がいけないのだろう。
出会いがない。運命に任せていたら駄目なのだろうか?
でもいい人と知り合うのって、運以外の何ものでもないような……
ナンパをすればいいのかな。
でも僕はナンパなんてできない。
出会いがあればいいんだけど。
家に帰りつき、僕はいつものようにミルクアイスを冷凍室から取り出して食べた。そう、甘ちゃんは甘いものでも食べて、その甘さに甘えていればいいんだ……
風呂に入り、緑色のお湯で自分を癒した。
(あー、ラーメン食べたいなあ。即席ラーメンでも作るか……)
眠くなり、バスタブの中で寝てしまった。
しばらくして目を覚ました。頭をせっけんで洗い(シャンプーの成分を信用できないため)、体を洗ってから、ひげを剃った。
風呂から上がった僕は即席ラーメンを作ることにした。居間では父が新聞を読んでいた。
彼は言った。
「おう、聡志。ラーメンか。野菜を入れたほうがいいぞ」
僕は答えた。
「うん。キャベツをオイスターソースで炒めて麺の上に載せる」
「お前、彼女できないのか」
「きつい一発だね、父さん。僕は女の人と出会えない運命なのかもしれない」
「そんなわけ……」
「まあ、仕事に専念するよ」
「そうか」
ラーメンはとてもおいしかった。僕は歯を磨いて二階の自分の部屋に戻った。
天井を見つめる僕。
恋人のできない運命。
きっと経験者を嫌って処女を求めているから、いつまでたっても恋人ができないんだ。
ある程度妥協は必要か。
僕は悲しい気持ちで目を閉じた。
次の日の夜、自宅の固定電話に、同級生だという女から電話がかかってきた。
母は僕に子機を渡す。
僕は電話に出た。
「はい」
女は言う。
「こんばんは。三谷っていいます」
「三谷さん?」
「そうです」
「覚えてないな……」
「残念です。同じクラスだったんですよ?」
「ちょっと待って。アルバム持ってきます」
「はい」
僕は二階の自分の部屋に行き、中学のアルバムを探し、一階に持っていった。
「もしもし」
「はい」
「三谷さんだよね。……」
僕がアルバムを探すと、三谷さんの写真があった。眼鏡をかけている。かなりかわいい。こんな子に気づかなかったのか?
「写真見ました。かわいいですね」
「ありがとう。細野さん、勉強できるから、私みたいな普通の成績の生徒が声をかけちゃいけない気がしてたの」
「そうなんだ。……それで用件は」
「私と付き合ってもらえませんか」
「え?」
「付き合ってください」
「いいけど」
「ありがとう」
「……僕、黄金区の『白い花』っていう喫茶店で働いてるんだ。その店をぜひ見せてあげたい。そばの実の雑炊とか、いろいろおいしいメニューがあるんだ。今度店に遊びに来てよ。おごるから」
「ほんとですか? じゃあ今度行きます。いつがいいかな」
「月曜から土曜までは僕がいるよ」
「わかりました。じゃあそのうちお伺いします」
僕は三谷さんに「白い花」の住所を教えた。
「会える日を楽しみにしてます」
「はい。私もです」
「じゃあね」
「はい。また今度」
働いていてよかった。というより、白い花で働いていてよかった。給料もいいし、何より、三谷さんを楽しませることのできる喫茶店だ。
僕はあらためてアルバムを見た。三谷という苗字の後ろは「知子」だった。そんな子、いたっけ……
中学時代は僕はまだ恋をすることができるとは思っていなかった。一部不良だけがディープな行為をしているらしかった。ディープな行為でなくとも、恋はやはりまだ早いという意識が僕の中にあった。でも、恋人ができてその子をもみくちゃにする想像はした。僕は男子高に入れられ、そのまま恋を知らずに成長していくのだが、その、失われた思春期と青年期を取り戻すすべは何もない。
僕はせめて新しい希望である三谷知子に期待した。僕は一時期文通をしたが、恋は一切実らなかった。そして二十五歳の今。今度こそ恋が実るように。
話し方からすると三谷はきっと処女だろう。多分、多分処女だろう……
僕は風呂にも入らず、パジャマにも着替えずベッドに横になって寝た。
もうこれ以上僕に苦しみが襲ってこないように。処女だと思った子が処女でない、そんなささいな不幸でさえも、二度と襲ってこないように。
何日かあと、三谷さんが白い花に遊びに来た。
僕は店に入ってきたのが彼女だとわかったが、当然ながらもう大人の顔になっている。僕も二十五歳。もしかしたら三谷さんも二十五歳。
とにかく僕は「三谷さんですか?」と確認を取ってから、適当な席に彼女を導き「座って」と言った。
言葉がくだけていたせいか、店長は厨房に戻った僕に「知り合いなの?」と聞いた。僕はそうですと答えた。
三谷さんはコーヒーケーキ(このケーキは良く売れるのだ)とそばの実の雑炊、そしてアイスレモンティーを頼んだ。
三谷さんは言った。
「きっと相当な額ですよね。おごってもらってありがとう」
僕は答えた。
「いいんですよ。僕も社会人になって結構お金に余裕があるから」
「そうなんだ。私なんかひきこもりで」
「人間は働かなくたっていいんですよ。自殺せずに生きているだけでいいんです」
「細野さん……」
「僕も親に金をもらってふらふらしているダメな大人だったんです」
「そうなんですか」
「まあ、すぐお茶とケーキ出しますよ」
そう言って僕は厨房に引っ込んだ。
まず簡単に作れるアイスレモンティーと、ケーキ屋から買っているコーヒーケーキをテーブルに持っていった。(もともとコーヒーケーキは店長が自分で焼いていたのだが、手間がかかるのでケーキ屋に「作ってくれ」と頼んだのだという)
そばの実の雑炊は店長が作った。これは時間がかかるので、三谷さんのところに持っていくのは遅くなった。
店長が言った。
「細野君、わかる?」
僕は答えた。
「何がです」
「あの子が君に惚れてるってこと」
「ほんとですか?」
「鈍感なんだなあ」
僕はそばの実の雑炊を食べている三谷さんのところに行った。
彼女は言った。
「本当においしいです。珍しいですよね、そばの実なんて」
「うちのおすすめメニューなんだ」
三谷さんは僕の手を取った。
「これから、色々な楽しいことがあるね。だって、私たち付き合い始めてるんだもの」
僕は戦慄した。三谷さんの手の白さとその動きが、すでにその手で男を抱いた手に見えたからだ。
僕は「処女ですか?」などとも聞けず、ただその場に立ち尽くした。三谷さんはそばの実の雑炊を食べ、僕に声をかけなかった。
僕は厨房に戻った。
店長は言った。
「どうした」
僕は答える。
「あの子、処女じゃないような気がして」
「いまどき二十五歳で処女なんていうほうが珍しいだろ」
「はい……」
「君は処女のほうがいいのか」
「はい」
「それならあの子はあきらめることだな。お互いに傷つく。君の処女がいいっていう気持ちはゆずれないものなんだろう?」
「はい」
僕は今日だけは三谷さんと仲良くすることにした。
今回も失望の恋だとは。
五
僕は幼少時から願いの叶わない子で、家で父から心理的虐待を受けた。
暴君たる父の、母に対するいたぶりのせいで、母は泣きながら酒を飲み、僕に甘えた。そうした事々のため、僕は壊れた。
高校に行くときにも、両親と担任が結託して、男子高に行かせた。僕の成績よりふた周りほど偏差値の低い高校だった。
そして三年前。不潔恐怖症のためポリエチレン手袋をして歩いていた僕を、だんだん人々が責めるようになった。ひそひそ話をしたり、すれ違いざまに悪口を言う。また、携帯電話を片手に悪口を言う。これを妄想だと言う人は、こうしたいやがらせが本当にいやがらせではなく気のせいだということを証明しなければならない。
僕はただ戦う運命に落ちた。
僕の心は戻ってこない。
この世の果てで苦しんだ傷は癒えない。
僕は犯罪被害者となったのだ。
そうだ。思い出した。僕は……
今日は日曜日。まだ食事をとっていない。
即席のコーンスープでポタージュライスを作って食べた。
僕には人並の幸せが手に入らなかった。
だから、命を絶とうと思ったこともある。でも自殺する方法のすべてが苦しいものであることを僕は知っていた。
苦しみながら、戦いながらでも生きていくしかない。
僕はその日、三谷に電話を入れ、「処女でない人とは付き合えない」と伝えた。三谷は泣いてしまった。
僕の周りで次々悲しみのドラマが展開されていく。三谷に関しては、僕が悪いのだが。
僕はたった一人になっても戦い続けなくてはならない。
店長がいつまでも健康とは限らない。
僕は周りの人物から「細野君ってハンサムね」などと言われるようになって、ようやく自分が「イケメン」だということに気づいた。
僕の「本来そうであったはずの人生」は、イケメンの僕が女を次々抱いていく、そういう人生だったはずだ。
現実には、ただ自分が冴えない男だと錯覚していたのであり、長い年月が過ぎてしまった今では、時間を取り戻すことはできない。
ポタージュライスはおいしかった。
僕は犯罪者から被害を受けたのだったが、弁護士に相談しても「無理です」と言われそうな気がして、相談に行かなかった。
胸が痛んだ。それを鎮めるためにスーパーでスパークリングワインを買い、黄金区の臨海公園に行った。
臨海公園の空気は素晴らしい匂いがする。木々から出る匂いと潮風が混ざり合っている。
僕は護岸に行き、モーターボートや、対岸の灯台などを眺めながら、スパークリングワインの栓を開けた。
しかし僕の苦痛は臨界点である。酒でも苦痛を癒すことはできなかった。
これは戦争なのだ。
僕の神経に苦痛を与えてくるのは敵国だろうか。
そこを女が通りかかったが、どうでもよかった。ビッチは僕の運命には何の関係もない。
……でも、イケメンなら次々女を乗り換えることも許されるのではないか。英語の「ハンサム」とは、簡単に女を引っかけることができるというような意味だそうだ。
ビッチを恐れてはならない。
そう思っていると、案の定、三谷はまた電話をよこした。遊びでいいから付き合って、と言ってきた。
そうか。僕はやっぱりイケメンなんだ。
そんな自信が中学時代に身につかなかったことが悔やまれる。
三谷が「ラブホテルじゃないホテルでやりたい」と言ったので、そのようにした。何年も前に通っていたM大学のそばにそのホテルはあった。僕らは夫婦のように見えただろうか。ホテルでの食事は格別だった。
夕方からシャワーを浴び、僕らは僕らの心と体の中の熱いものをたぎらせ、ふざけあった。僕が執着するものは体液だった。お互いにべとべとになりながら、愛を営んだ。
僕は童貞だったので、その日、つまり十一月二日が記念日となった。僕は律儀にも、スケジュール帳に「喪失した記念日 十一月二日」と書き入れた。
喫茶・白い花での夕食の前に、聖書の「主の祈り」を唱えて祈った。
店長は言った。
「君、クリスチャンなの?」
「クリスチャンになったりやめたりしていますけどね」
「どう? 神様助けてくれる?」
「はい。必要なときにはちゃんと助けてくださいます」
「そうなんだ。俺は信仰心はないからなあ」
「面白いですよ。読むんなら新約聖書から読むといいです」
「そうか」
僕が食事(キノコ丼)を食べ終わると、店長の食事の時間になった。午後六時ごろは少しだけ客の入る時間帯だ。少しだけ忙しくなる。
でも、僕は堕ちてしまったのだろうか。
神様のことを思わなかった。
だから、処女でない人が僕の初体験の相手になった。
神様のお力なら、僕に処女の恋人を出会わせることはたやすかったかもしれない。
でも、もう遅いのだ。一時期信仰を失っていた。その時期に起こったことだ。仕方がない。あきらめるしかない。
今後三谷さんと付き合っていく自信もない。かといって、もう童貞ではない僕が新しく出会った処女に「童貞じゃないんですか?」と嫌がられる可能性もある。
失敗してしまった。
神様、僕のダメになった人生を良くする方法をお教えください。というより神様、その方法は神様しかご存じないかもしれませんね……
六
ある日僕が家に帰ると、懐かしい人から手紙が来ていた。封筒に書いてある名前は古い文通友達の名前だった。ああ、もうこいつビッチになってるんだ、いらねーよこんな手紙、と思いかけたが、神様のとりなしで届いた手紙かもしれないと思い、封を開けてみた。
便箋にはこう書かれていた。
「前略 細野さん、こんにちは。私は結婚して一児(女の子)をもうけました。もう、私と細野さんのあの頃の恋愛は遠い昔ですね。何より、細野さんが神経症から立ち直られたのかどうかが気がかりです。
私は家事に明け暮れる毎日です。……夫のことはあまり聞きたくないでしょう? 書かないでおきます。
もしよければお返事ください。今度はかけがえのない友達として、細野さんと文通をしたいと思っています。よろしくお願いします。 草々」
あきれた人だな、これ浮気じゃないか、と思いながらも、今までの短い人生の中で一番好きだった人からの手紙だ。僕は手紙を胸に抱いて、階段を上り、二階の自分の部屋の机の引き出しにそれをしまった。
神(キリスト教の神ではない)と直接対話できるようになった者はシャーマン(特殊能力者)であるという。沖縄ではそれをウマレユタと呼ぶらしい。生まれついてのユタは珍しいので、特別視されるのだという。
多分、そうなのだろう。
僕がシャーマンと同等のものだというのなら、僕には何ができる? 何もないではないか。
でも、五木寛之氏が言っていた。作家はシャーマンであると。
小説は前に何度か書いたことがある。でもどれも入選しなかった。
また小説を書いてみようか。
僕は翌日、喫茶店からの帰りにワープロソフトの一太郎を買ってきて、パソコンにインストールした。覚えるとなかなか使い勝手がよかった。
書いたのは、青白い太陽のそばの惑星から訪れた女と、地球の男との恋の話。五十五枚のその原稿を、一ヵ月後に新人賞に応募して待っていたら、編集部から電話がかかってきて、細野さんの短編が受賞しました、おめでとうございます、と電話の主は言った。
その後も短編二つ、長編一つほど書いていたら、出版社のパーティーに招待された。
パーティーには、雑誌やホームページなどでしか顔が見られない何人もの有名な作家が来ていて、驚いた。僕は彼らに声をかけることなどできなかった。(反抗期を封印された人間は自由に、したいようにふるまうことができないものなのだろう)
だから僕は茶碗蒸しやロブスター、クリームチーズなどをぱくぱく食べ、そしてビールやブランデーを何杯も飲んだ。僕のそばには僕についてくれた編集者の永野さんがいて、僕の社交性の欠如を見守ってくれていた。
僕には誰も声をかけてくれなかった。僕は失望しながら電車で家に帰り、風呂にも入らずに布団にもぐった。
そう。神が僕に憑いているといっても、それは他人のために立ちはたらくことが目的だ。自分が楽しむためじゃない。
他人のために立ちはたらく。
何かが憑いたようになって小説を書いていく。
いつか希望の見える日が来るのだろうか。
恋人もできない。
暗黒だ。僕の運命は暗黒だ。
そしていつしか眠りに落ちていた。
次の日、喫茶店からの帰り、僕は1.5リットルのゼロのコーラを二本買ってきて、それを飲みながら原稿を書いた。使える時間は午後十時から十二時までの二時間くらいだ。
たしかに、何かが憑いているかのようにすらすら書ける。これは僕の力ではないのかもしれない。
僕は「僕の使命は何だろうか」などと考える真面目さを、捨てないまでも、脇へやっておこうと思った。世の中、あまり真面目でない人の方が多いのである。それに、真面目で得することなんて何もない。
僕は毎日モニターに向かった。そして次の百五十枚の小説を書き終えた。
実際にプリンターで印刷してチェックする。変更する箇所があったら、変更内容をペンで書いておく。そして今度はワープロソフトの原稿を直すのだ。その次に印刷したものが完成原稿となる。
……そういえば、三谷さんから電話が来ないな。こちらからも電話していないのだから、心は離れていくかもしれないけど。
一日限りのアバンチュールだったと考えれば。
でも、処女にとっては僕はもう汚れた経験者である。人生、完全な運びにはならないってことかな……
終章
僕はその後二度ほど賞を受け、だんだん知名度が上がっていった。僕のある長編がベストセラーになり、たくさんの金を手に入れた。その金で庭付き・屋上つきの三階建ての家を建てた。その頃ちょうど二十八歳の処女の女性と知り合い、結婚するに至った。
そして子供も生まれた。
僕はそういう流れの中で、人間は平凡に生きるのが一番幸せなのだと気づいた。
本当に非凡な人はごく一部だ。僕もまた平凡な人々のうちの一人だということが、僕にはわかった。
(終)