ピカチュウの人生  保管 兼 まとめ

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制作開始 2006年 11月12日
制作 2ch小説リレー

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<シンオウ編>



第一章                 
第二章                 
第三章                 
第四章                 
第五章                 
第六章                 
第七章                 
第八章                 
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第13章                 
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第15章                 
第16章                 
第17章                 
第18章                 
第19章                 
第20章                 
第21章                 
第22章                 
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ピカチュウ
  ミミロップ
  ロゼリア
  ムウマージ

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第26章                 
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第28章                 
第29章                 
第30章                 
第31章                 
第32章                 
第33章                 
第34章                 
第35章                 
第36章                 
第37章                 
第38章                 
第39章                 
第40章                 
第41章                 
第42章                 
第43章                 
第44章                 
第45章                 
第46章                 
第47章                 
第48章                 
第49章                 
第50章                 

主要人物まとめ
ピカチュウ
  ミミロップ
  ロゼリア
  ムウマージ
  アブソル

その他人物まとめ


>>ポケソ


第36章





 影に飲み込まれ視界が覆われたと思った次の瞬間には、まったく異なる場所に俺は佇んでいた。
墓の内部のようだったギラティナの棲み処とは打って変わり、静謐で澱み気の無い空気や磨き上げられた
乳白色の壁面と床板は神殿を思わせる。だが、その過ぎた潔癖さは、また違った気味の悪さがあった。

『意識はあるか』
 頭の中に直接ギラティナの声が語り掛けてくる。俺は心の中で頷いて返した。
『問題ないようだな。では早急に封印の解呪に向かってもらう』
 有無を言わせずギラティナは促す。だが、それに取り掛かる前に解消しておきたい疑問が幾つかあった。
ここがどういった場所なのか。ギラティナが支配する領域ではないということは容易く想像できる。
そして、懸念する強大な障害とは何なのか――ギラティナへ尋ねた。

『時が来れば話そう。だが、その前にお前にはやるべき事があるはず。そこから出口は見えるな?』
 はぐらかされたようで腑に落ちない思いはしながらも、光が差し込む出口らしきものを見つけ答える。
『外に出るとすぐに巨大な建造物が遥か遠方に臨めるはず。目指すべき地はそこだ。
道中、危険が迫った時、すぐに影に身を隠せ。影は我が力。お前の存在を完全に覆い隠すだろう』
 ギラティナに対し言い様のない疑念を少しずつ抱き始めつつも、今は従うしかなかった。




『剣はあくまで最終手段と思え。できうる限り他の方法で切り抜けよ。
失敗したその時は死以上の苦痛がもたらされることだろう。ゆめゆめ忘れることなかれ』
 暗闇に慣れた目を光から守りながら門をくぐり、外へと歩み出る。眩しさに顔を歪めながらゆっくりと手をどけ、
徐々に目を慣らしていった。そこに広がる景色は、自分達の世界とあまり変わりが無い。
高原のようで、大地には短い草が生い茂り、先程の建物内と同じ乳白色をした柱や石で組まれた簡素な
ゲートのようなものがあちらこちらに点在している。
それは想像していたものより随分と平和的な光景に俺の目には映った。どこに恐れるような危険があるというのだろうか。
 話に聞いた通りに遥か遠くの切り立った高台の上にに霞む巨大な神殿らしきものを見つけ、
目的地と進路を見定める。長い旅路となりそうだ。
 ちらちらと青空の向こうで反射するように輝く無数の光達が目に入り、見上げる。
時折、魚が泳ぐかのように移動しているようにも見えるが、一体何だろうか――。
『相も変わらず……。趣味の悪い世界だとは思わぬか?』
 ギラティナの領域も、他のことをとやかく言えるような世界では無いだろうと思ったが、伝わってしまわぬように努めた。
『直に真の姿が分かる。さあ、行け』
 急き立てられ、俺は再び歩を進め始めた。その時、空の光の一つがこちらの動きに僅かに反応を見せた気がし、
注意深く見なおすが、何も変化はないように思える。気のせいだったのだろうか。





 ・

 歩けど歩けど、一向に神殿にたどり着ける気配はない。もう数時間は歩き続けただろうか。
目に見える神殿の全体像は徐々に大きくなっているため、着実に近づいて行っているのは間違いないのだろうが……。
幸い、不思議と腹は減らないため食料の心配は今のところ無いが、疲れは精神的なものを含めて否めない。
少し休憩しようとそびえ立つ柱の一本の傍に座り、一息をついた。ギラティナも黙認しているのか何も言わない。
 それにしても、不思議な材質の美しい柱だ。道中でも同じものを何度も見て気になってはいたが、まじまじと眺め新たな特異性に気付く。
乳白色だけでなく、時に極淡い桃色も帯びた奥行きがある輝きはまるで真珠――。魅入られたようになり、ふらふらと柱に手を触れた。
『たわけが! それに触れるでない!』
 ギラティナの声が頭の中で大きく響き、俺はびくりとして手を柱から離した。
柱はびりびりと振動し、周りの柱が音叉のように反響しだす。
『遅かったようだ。何度も、近寄るたびに柱には決して触れぬように忠告はしていたはずだが、
届いていなかったとは既に心が捕われていたか。奴らが来る。すぐにその場を離れて物影に身を隠せ』
 振動の波は空気を伝わって広がっていく。上空で点のごとく輝いていた光達が散らばり、その一つがぐんぐんとこちらに迫ってくる。
その正体は桃色の鱗をした細長い体系の巨大な魚だ。口先はダーツの矢のように鋭く尖っている。
 ――魚? 魚が、魚が宙を泳いでいる!
『決して手は出すな、奴らからは逃げることに徹しろ! 下手に危害を加えれば、さらなる“大物”を呼ばれかねん』




 異様な状況ではあるが、驚き竦んでばかりはいられない。言われた通りに物影を探し周辺を見渡す。
『サクラビスか。あまり目も頭も良い方ではないが、油断はするな。
そうさな、あの場所に丁度良い場所があるではないか。行け』
 言葉と共に即座に頭の中に暗い祠のようなもののイメージとその位置が浮かび、そこに向かって俺は一目散に駆け出した。
柱の間を縫うようにして走りぬけ、少し開けた所に出る。祠まで後もう少しと言うところで、
背後から少し籠もったような甲高い泣き声が発せられる。
駆けながら振り向くと、先程のサクラビスが十メートル後方にまで迫り、今にも渦巻く水流をこちらに放とうとしていた。

『あれに捕まるでないぞ。抵抗できなくなった獲物に鋭い口を突き刺し、ゆっくりと生き血を啜るのが奴らの嗜みと聞く』
 他人事のような言い回しに苛立ちを覚えながらも、何とか祠までたどり着き、滑り込むようにして中に入り込む。
その瞬間、竜巻のごとく渦巻く水流が外を過ぎ去った。巻き込まれていれば血を吸われる迄もなく窒息死していたのではないかと、ぞっとする。
 俺の姿を見失ったのかサクラビスは祠の上空辺りをぐるぐると見回り始めた。
そして、とうとう入り口を見つけたのかこちらへと向かってくる。
これはまずいと真っ暗な祠の奥に進もうとするが、すぐに何か固い感触のものにぶつかり、尻餅をついてしまう。
恐る恐る見上げると、幾つもの大きな丸い目がぼんやりと輝いていた。
『ふーむ、先客が居たか。無礼を詫びても、そやつは許しはしまい』




 外からはサクラビスが迫り、中にはさらなる敵――退路は完全に断たれた。光は尚一層輝き、内部を照らす。
奥に潜んでいたものは大きな顎をした蛇のような怪魚だった。幾つもの目だと思っていた光は体の模様だ。

『なあに、案ずるな。そのままじっとしていろ』
 ――何を考えている、このままおとなしく丸呑みにされろというのか? 冗談じゃあない。
 大きな顎を開き、怪魚はこちらを振り向く。こちらに牙を剥いて襲ってきた瞬間に、言い付けなど無視して電撃を見舞ってやろう。
しかし、怪魚は俺の姿などまったく見えていないかのように横を過ぎ去り、外のサクラビスに飛び掛かった。
俺が呆気にとられている中、二匹は激しく争いながら祠から遠退いていく。

『ハンテールの弱々しい光ごときで、我が加護はかき消せんよ』
 気付くと、俺の体にはいつの間にか色濃い影が外套のように纏わりついていた。




 安全を注意深く確認し、ゆっくりと祠から歩み出る。
外の光を浴びると、たちまち影の外套はかさぶたみたいにぼろぼろ体から剥がれ落ちて溶けてしまった。
粘液状になった切れ端達は意思を持っているかのように一つに集うと、そそくさと暗がりへと逃げ帰っていく。
『陽光を逆に侵食する程の力は今は出せん。この先、そうそう都合良く物影が見つかるとも限らん、先程のような失態はおかすなよ』

 平和的な世界などではないということは十分わかった。狂暴な魚が空飛ぶ異形の世界だ。
一体、どうなっているのか。ただの幻覚とも思えない。
『左様、幻覚などではない、あの魚共は確かに存在する。お前にとっては陸であっても、奴らにとっては水の中だ。
この世界は、幾つもの空間を重ねて、無理矢理一つの平面に仕立てているのだよ。一枚捲ればまったく別の環境だ』
 幾つもの空間が一つに? さっぱり意味が分からない。
『……言葉だけでは理解できぬだろうな。興味があるならば、戯れに実際に体験してみるがいい。
幾つか意図的に境界が薄くしてある地点がある。あの門をくぐってみろ』
 石組みのゲートの一つをくぐってみるように促され、怪訝に思いながらも近場にあるものに向かった。

 ゲートを潜り抜けた瞬間、砂塵が顔を吹き付け、足裏にサラサラとした砂の感覚が伝わる。
驚愕して辺りを見回すと、緑溢れる高原は、乾いた砂が吹き荒れる不毛の地に一変していた。
だが、神殿や柱等の建造物の位置関係は変わってはいない。
衣装を変えるかのように、景色だけが全くの別物と化している。
『垣間見て、少しは理解したか? ろくな世界ではない。一見して、どのような種族とも同じ地に住める理想郷に見えるかもしれん。
だが、実際は明確な住み分けができず、小競り合いが絶えないのだ。魚と鳥が空で争うなど何とも悪趣味だろう』





 ※

 平たい石の上で座禅を組み、ミミロップは深く目を閉じる。
だが、その集中力はすぐに途切れて煩悩まみれの妄想に耽り、つい口元が緩む。
「喝ッ!」
 その一声と共にビー玉程の気弾が放たれ、ミミロップの額でバチンと音を立てて弾けた。
「いたーッ!?」
 いささか大げさな声を上げてミミロップは額を押さえ、恨めしげに低く唸ってルカリオを見やる。
「ええい、そこまで痛がる程に強くやってはいないわ!
 まったく成長がみられない。本当にやる気はあるのか、やる気は! ……うう、頭が痛い」
 ルカリオの指導を受け始めてから数日経った。しかし、ミミロップに進歩は見られず、
寧ろ昔教えていた頃に比べて更に退化した腑抜けた態度にルカリオは随分と頭と胃を痛めていた。
 手合せの後もルカリオの希望でミミロップの監視役として残ったチャーレムも、呆れた顔でその様子を見守っている。

「ありますってー! それに、昔はできなかったこんなこともできるようになったじゃないですか。ほら、ぴゅー」
 頭を抱えるルカリオに、ミミロップは指先から水鉄砲のように弱々しい青い波動を出してみせる。
ルカリオは苛立たしげに片手でそれを振り払った。
「そんな小火も消せないような水の波動でなんになる!」
 再び喝を入れられ、ミミロップは大きく仰け反って倒れた。
そして泣きじゃくりながら――当然ながら泣き真似だが――起き上がる。
「だってこれ昔から退屈で苦手なんですもん。もっとズババーッと派手で楽に強くなる方法ないんですかー」
「無い。そんな方法があれば自分でやっているわ、愚か者めが。鈍りきって基礎の基礎まで満足に出来なくなっているお前が悪い。
波導は言わば気、心の力。清流のごとく心身を澄ませ、地道に鍛練を積むものだと何度も言っているだろう。
さあ、やり直せ! お前のような不肖の弟子を世に出しては、自分だけにでなく先祖の顔にまで泥を塗ることになる」
「ひーん……」
 ピカチュウの道のりと同じように、こちらも長く険しい――。






 これが砂漠というものか。今まで生きてきて話には聞いたことがあっても直接経験した事の無い景色に感嘆を覚え、
半ば呆然となりながら暫し海岸とはまた違った砂の感触を楽しみながら歩んだ。
 アブソルもこのような気持ちで旅をしていたはず――早く助けてやらねばな。
 我に返り、気を引き締めなおす。とにかく、こんななれない環境を長距離歩くのは難儀すぎる。
早々に高原に戻りたいところだ。元来た方向へ向かおうと踵を返すと、
ゲートを挟んで遠方から数匹の魚がこちらへ迫っていることに気付く。
幸い、まだこちらには気付いていないようだ。だがゲートまで戻っていては見つかってしまうだろう。
しばらくはこのまま進むしかない。余計な好奇心が仇となってしまった。

 乾ききった細かい砂地を歩き続けるのは想像以上に体力を奪っていく。
そして定期的に風に乗って目と口に襲い来る砂が集中力を鈍らせ、気力を奪った。
 何度目かも分からない砂嵐の襲撃から目を守りながら進んでいると、急に片足が砂に沈み込んだ。
そのまま両足を取られてしまい、ずるずると下へと体が滑っていく。
見れば俺はすり鉢状となった深い窪みに滑り落ちていっている様で、止まろうと藻掻いても掴む所が無く、
むしろ藻掻けば藻掻く程に砂は流れ落ちて底へ底へと運ばれていく。
 ――これは、非常に嫌な予感がする。アリアドスというポケモンが獲物を捕らえる際に張る糸の罠は、
かかったが最期、獲物が抵抗すればする程にその身に糸が絡まり、窮地に陥れるのだと聞いたことがある。これもその類ではなかろうか。
 その時、底の砂が蠢き、何かが姿を現した。それはギザギザの亀裂が入った、大きな卵のような丸い物体だ。
その物体は表面に開いた目らしき黒い穴の奥で光る十字の瞳で滑り落ちてくる俺を確認すると、
嬉しそうに大きく亀裂を開き、ガチガチと噛み鳴らし始めた。
嫌な予感は的中していた――!





 ※

 逃れようとする足に巨大な口に並ぶ鋭い牙が食い込む。
苦痛の悲鳴を上げる間もなく、そのまま瞬く間に体は下へと引きずり込まれていった。
「たべられたー! キャハハ」
 テレビだけが灯る暗い部屋で一匹、ムウマージは無邪気に笑う。
 ドンカラスはヤミカラス達を連れ立って夜の見回りに出掛け、エンペルトは自室へと帰ってしまったが、
ムウマージは飽きる事なく映画を見続けていた。傍らには山のように見終わったビデオが積まれている。
 映画も終盤、主人公らしき人間が巨大鮫の口内にボンベを押し込み、ライフルで狙いを定めた。
銃口が火を吹いた次の瞬間、ボンベが爆発し、鮫は木っ端微塵に吹き飛ぶ。
「あーあ、やられちゃった」
 退屈そうにムウマージはビデオを止め、次のビデオを探すが、好みに合うものが見つからない。
もう既に洋館にあるすべてのホラー映画は見終わってしまい、
残るのは任侠物や録画されたロボットアニメなどあまり興味の無いものばかりだった。
 ちぇ、と舌打ちしてムウマージはテレビの電源を落とす。しかし、スイッチは切れているにもかかわらず、
画面にはぼんやりと顔のようなものが映りこんで消えなかった。
ムウマージは首を傾げて電源のONとOFFを繰り返すが、いつまでもそれは消えようとしない。
 そこでムウマージは前にも感じていた違和感を思い出した。――やっぱりテレビの中に何かいる。
 波長を霊のそれに合わせ、ムウマージはテレビに顔を突っ込むと、狭い空間の隅でうとうとと眠る、
橙色をした小さなゴーストポケモンの姿を見つけた。
「きみ……だーれ?」

 この時、用をたしに目覚めたついでに様子を見に来たエンペルトは開けかけたドアの隙間からその一部始終を見ていたが、
部屋に入ることなくエンペルトはそのままそっとドアを閉めた。きっと自分は寝呆けているのだろう。
目をこすりながらエンペルトは自室へと帰った。
 これから洋館で巻き起こる数々の騒動の前触れとも知らず――。





 藻掻くのをやめたところで少しずつ滑り落ちていくことには変わらず、
あのトラバサミのような顎に挟まれるまでの間が少し引き伸ばされるだけにすぎない。
『ナックラーの熱烈な歓迎を受けているようだな。親愛なる友としてでは無いのは言わずもがな、か』
「言っている場合か! この状況をどう切り抜ければいい!?」
『騒ぐな。砂の流れが早まるぞ。まだ奴に察知されたくはないが……こうなっては止むをえん。攻撃を許可する』
 今更な攻撃の許可がおりたはいいが、ろくに身動きも取れず圧倒的に不利な状況ということには変わらない。
底は徐々に、確実に迫っている。
 覚悟を決め、俺はナックラーへと電撃を放った。しかし、確実に直撃していたにも関わらず、
ナックラーは少し驚いたような素振りを見せただけで、ほとんど効いた様子は無い。
電流のほとんどは奴には伝わらず、地面へと散ってしまったようだ。
 中々滑り落ちてこない上に獲物の思わぬ反撃を受けて腹を立てたのか、
ナックラーは短い前足で砂を叩いて揺らしはじめ、流れ落ちる速度が早まってしまった。
 更に追い打ちをかけるように状況は悪化していく。聞き覚えのある甲高い声――
ここで足止めをされているうちに追い付いてきた、サクラビスの一匹が、上空からすぐそこにまで迫ってきていた。
 絶体絶命だ。サクラビスを電撃で撃退できたとしても、ナックラーには為す術がない。
『好機が来たというのに何を遊んでいる。お前の腕輪は何の為に付いているのだ』
 俺が引き出せる腕輪の力でどうにかできる状況とは思えない。奴らの頭に間抜けな花でも咲かせろとでもいうのか。
『我が力で補助をする。簡単なイメージでいい。草、蔓だ。魚に向けて放て』
 ええい、ままよと俺は腕輪に意識を集中させ、言われた通りに蔓をイメージしながら大きな力へ心の手を伸ばした。
腕輪は透き通った高い音を立て緑色に輝き、光から数本の太い蔓が伸びてサクラビスの胴へと巻き付く。
『蔓を引け! 決して離すなよ』
 ぐい、と力を込めて蔓を引いてやると、サクラビスはそれに条件反射的に抵抗して逃れようと逆方向へ泳ぎだす。
蔓を掴んだまま砂地を滑るように俺の体は引っ張られ、
逃すまいと食らい付いてきたナックラーの顎を寸での所でかわし、とうとう砂地獄から脱することができた。




 ナックラーから逃れた後もサクラビスは絡んだ蔓を振り払おうと暴れるように泳ぎ続ける。
砂地を乱暴に引きずられ、時に叩きつけられながらも俺は蔓を離さなかった。
 この好機を逃すわけにはいかない。何とか動きを捕らえられている内に仕留めなければ。
身を隠せる場所が見当たらない今、逃してしまえば鳥以上に縦横無尽に宙を泳ぐ敵から逃げ切るのは難しく、
真っ向から相手にせざるを得ない。そうなれば苦戦は必至だ。
もたもた戦っている間に他の魚達も集まってきて袋叩きにされかねない。

 だが、こんな引きずられている状況では中々電撃の狙いは定まらん。もう少し距離を寄せることができれば――。
その時、俺の思いに呼応するように蔓が縮まり、引きずられていた体が少しだけ浮いたことに気付く。
蔓の伸縮程度なら今の俺でも操れるようだ。そうと分かればやることは一つ。
 思い切り縮め、と心の中で命じた途端、俺の体は勢い良く浮き上がり、サクラビスへと引き寄せられていく。
しかし、あまりに念じが強すぎたのか勢いがつきすぎ、蔓はゴム紐のようにしなって俺はサクラビスより高く跳ね上がる。
 叫び声を上げてしまいそうになるのを堪え、放り出されてしまわぬよう躍起になっている内に、
遂にサクラビスの背に取り付くことができた。サクラビスは振り落とそうと金切り声を上げて暴れるが、
奴の胴に巻き付いている蔓にしっかりと俺は身を固定し、
うるさくがなり立てる細長い口を轡のように縛り付けてそれを手綱代わりに掴んだ。
 もはやどんなに暴れられようとも振り落とされる気はしない。後は煮るなり焼くなりだ。





 ※

 身を包む冷たい空気に震えながら、ロゼリアは洞窟の一室の隅に縮こまっていた。
スボミーであった時と比べて寒さに多少は強くなったとはいえ、
キッサキの外気よりは幾らかましだという程度のニューラ達の巣窟で寝起きをするには辛いものがある。
 強情を張らず、もう少し後先を考えればよかった。ふつふつと後悔の念がロゼリアの心に浮かぶ。
 体の芯まで凍えきりそうになっていた時、どさりと部屋の入り口の方で何か重い物を雑に落とす音が響く。
ロゼリアが見上げてみると、一匹の雄ニューラがしかめ面をして立っていた。
巣穴に来た時ロゼリアに一番ちょっかいを出してきたニューラだ。
 用件を尋ねる前に、ニューラは引き摺ってきた袋をぶつけるようにニューラはロゼリアに渡す。
「お荷物の荷物だってよ。木の実取りに行ったらついでに持たされて余計重かったっつの。あの糞カラスめ」
 やっとの思いで袋の下から這い出し、ロゼリアは袋を確認した。
中身は数冊の本とヤチェの実、そしてまだスボミーだった時にキッサキに行く際、
使っていたカプセル温室が入っている。少し小さいが、まだ何とか使うことができそうだ。
ドンカラスの気遣いにロゼリアは深く感激するばかりだった。
 部屋を出ていこうとするニューラに礼を言おうとロゼリアは顔を上げると、
ニューラが小脇に輝く石を抱えていることに気付く。それは前にロゼリアがミミロップから貰った石にとてもよく似ていた。
「それ、僕のものじゃあないですか……?」
 恐る恐るロゼリアは尋ねる。
「あん? これはそこらで拾ったんだっつーの。欲しけりゃ力付くで取ってみやがれ」
 ニューラは爪を長く伸ばして振り返り、声を荒げて凄む。その態度であれは自分の物だった石だとロゼリアは確信した。
しかし、ニューラの鋭い目付きと爪に体は竦み、動くことも言い返す事すらもできない。
そんなロゼリアの様子を見てニューラは小馬鹿にするように鼻を鳴らし、悠々と部屋を後にする。
 一匹になると、ロゼリアはふらふらと隅に寄り掛かり、しゃがみこんだ。
堪えようと幾ら口を噛み締めても、自分の腑甲斐なさ、悔しさに頬を伝うものが止まらなかった。



 それから数時間が経った後、ロゼリアの様子を見にマニューラが部屋を訪れた。
入り口の脇の岩をコンコンとノックし、返事もない内にマニューラは普段どおりの陽気さで中へと入る。
「よぉー、元気にしてるか?」
「はい……大丈夫です」
 返事も弱く、うつむいたままでいるロゼリアを訝り、マニューラは近寄って顔を覗き込む。
「どーした? ホームシックにはまだ早いぜ、ヒャハハ」
 ロゼリアは慌てて顔を拭う。そして、勇気を振り絞って、マニューラに話すことにした。
「――あの野郎、新入りいびりなんてダッセーことやってやがんのか」
 経緯を聞き、マニューラは苛立たしげに低く唸る。
「うちの馬鹿が悪かったな。オメーの石は取り返してきてやる。ただこういうのは問題があってなー……」
 何かを言い掛けたがそれを止め、マニューラは誤魔化すように自分の後ろ頭を軽く掻く。
「何ですか?」
「んー、オレが取り返してキツく言ってやっても、オメーがなめられたまんまなのは変わんねー。
またオレが見てねぇ所で同じような事をされちまうんじゃねーかってな」
 確かに馬鹿にされたままでは、マニューラの言う通りまた同じ事が繰り返されるだろう。
 ――自分は強くなるためにここに来たのだ。あんな下っぱのニューラに負けていてはとても強くなんてなれない。
「……わかりました、自分の手で石は必ず取り返してみせます」
 ロゼリアは真っ向から戦う決意をする。自らの手で石を取り返し、あのニューラを見返してやるのだ、と。
「本気か? ……へー、頑張りなよ。ま、今日の所はゆっくり休むといいぜ、じゃーな」
 そっけない素振りでマニューラは部屋を出ていく。だが、心の内ではロゼリアに感心を覚えていた。
 ――少しは根性がある。適当にあしらってその内に帰すつもりだったが、少しくらいなら真面目に見てやってもいいかもな。






 羽でグラスを器用に摘み、くちばしの端からちびちびとドンカラスはどこからかくすねた安ワインを流し入れる。
だが自室で一羽、それも心配の種だけが肴では酒も不味く感じられ、あまり進みはしなかった。
 ここ最近、洋館で立て続けに起こる様々な現象が部下達から知らされ、ドンカラスの頭を悩ませている。
 その一つが、洋館に住む者達の大勢が寝るたびにうなされる悪夢。それだけならまだしも、決まって全員が同じ内容の悪夢を見ており、
更には悪夢で見た怪物を現実の洋館でも見たなどという話さえ飛び交っている。
 そして、暴走する電化製品。洋館に元から有るものは人間が置き去りにしたまま長年ろくな手入れもされておらず、
他もゴミ捨て場から拾ってきたものが大半のためいつ壊れたとしても不思議ではないのだが、その壊れ方が明らかに普通ではなかった。
電子レンジを使おうとすれば突然炎を吹き出して料理ごと温められ、冷蔵庫は開けた途端に部屋中を凍り付かせるのだと言う。

 今日何度目かもわからないノックが部屋に響く。うんざりした顔でドンカラスはため息をもらした。
「ったく、鍵をかける暇もありゃしねえ。開いてるってんだ! 今度は何でえ?」
 ソファに座ったまま怒鳴りつけると、ゆっくりと扉は開かれた。
 扉が開かれた先に立っていたのは、全身に葉っぱが毛の代わりに張り付いた雪男のような物体だった。
部屋へと入り込むと、ぺた、ぺた、と水掻きのような湿った足音を立てながら、
腕を前に突き出し藻掻くようにしてふらふらとドンカラスに近寄ってくる。
 その見慣れぬ不気味な風貌に、ドンカラスは息をのみ身構えた。化け物を見たという部下達の話が脳裏をよぎる。
「やいやい、何者でえ! それ以上近付いたらぶっ飛ばしてやらあ!」
「ち、ちょっと待って。僕だポチャ。この葉っぱを取ってほしい」
 聞き覚えのある声で葉っぱの怪物は話す。葉っぱのせいでくぐもってはいるが、それは間違いなくエンペルトだった。
「おめえか……驚かせやがって」





「――ふー、助かったポ……ゴホン、よ」
 剥がし終えた葉っぱの上に座り込み、エンペルトは安堵の息をついた。

「何やってんでえおめえは。ミノムッチにでもなりたかったんですかい」
「そんなわけないだろ。物置で芝刈り機に襲われたんだ。捜し物をしていて邪魔だったからどかそうとしたら、
いきなり芝刈り機が動きだしてすごい勢いで葉っぱを吹き付けられてこのざまだよ」
「今度は芝刈り機だってえ?」
「……ドン、やっぱり最近の洋館は変だ。ヤミカラス達の言う通り何かが住み着いたのかもしれない」

 初めは部下達から聞いていた話も半信半疑だったドンカラスも、
こんな冗談を言うとは思えないエンペルトまで被害にあったことで信じざるをえなかった。
「ううむ……ちょいと調べてみやすかね」




 早速、洋館内の調査に取り掛かろうとドンカラスはヤミカラス達を呼び付ける。
しかし、いくら待っても、何度ドンカラスが呼ぼうとも、一向にヤミカラス達は集まらない。
 結局、ドンカラスの目の前に揃ったのはたったの二羽だけだった。

「……他の奴らはどうしたんでぇ」
「その、怪異が収まるまで――あー、じゃなくて、暖かくなるまでしばらく別の地方に渡る、と」
 ドンカラスに睨まれ、縮こまりながらヤミカラスの片方が答える。
「逃げやがったな、あの野郎共……」
「じゃあ、俺達もここらで失礼をば」
 わなわなと怒りに震えるドンカラスを横目にヤミカラスはそそくさと逃げていく。
 だが、即座に二羽とも首根っ子を掴まれ、捕まえられてしまった。

「あっしらは渡り鳥じゃなくて留鳥だ。面倒な渡りをする必要はねぇよなあ、んん?
 それにワルはくだらない超常現象なんて信じねぇし、恐れねぇ。そうだろう、おい?」
 意地悪く笑いドンカラスはヤミカラスを睨め付ける。二羽はただ乾いた笑みを浮かべるしかなかった。

「さぁさ、お供も増えたことだし、行きやすぜ。エンペルト」
「でも、正体のわからないものを相手にどうするんだ?」
「この世にただ不可思議なものなんてありゃしねえ。必ず種はあるし元凶はいるもんでさあ。
それを虱潰しに捜し出してとっちめりゃあっという間に解決だ」
 廊下を進みながら、ドンカラスは話し続ける。
「こんな悪質な嫌がらせをする奴で考えられるのは、一番に浮かぶのはマニューラでぇ。
奴なら忍者みてぇな身のこなしで消えるように物陰に潜めるし、手先が器用で小ずるい細工も大の得意だ」
 部屋の一つの前に辿り着くとドンカラスは立ち止まり、勢い良く扉を開ける。
そこはエンペルトが芝刈り機に襲われたという倉庫だ。
四羽がかりで部屋中を探してみても既にそれらしきものは無く、めぼしいものは見つかりはしなかった。

「何も居ないな。芝刈り機も見つからない。ドン、犯人はマニューラとは違うんじゃあないかな。
芝刈り機は結構大きくて重そうだったし、すぐにここから運びだして隠すのはいくらマニューラでも難しいと思う。
それに今はロゼリアの面倒を見てるんだろう?」



「うむむ、かもしれねぇな。――そういや、おめえ、芝刈り機に襲われた時はここに何を探しに来てたんでぇ」
「新しいビデオがないか探しに来てたんだ。マージが退屈そうにしていたからさ」
「ん? そうだ、マージさんは今どこで何してる」
「そういえばここの所見かけないね」
 それを聞き、ドンカラスの顔が見る見る青ざめていく。
「不味いぞ。洋館はこんな状態で、しかもマージさんまで行方知らずなんて
ボスが帰ってきたら何を言われるか……一刻も早く見つけねえと!」

 その時、部屋の外でドスン、と大きな物音が響く。ドンカラス達は身動きを止め、口を閉ざした。
「……おい、おめぇちょっと様子見て来い」
 数時間にも感じるような数分の不気味な程の静寂の後、ドンカラスはヤミカラスの一羽に命じる。
当然、ヤミカラスは嫌がったが、無言の圧力を受けてしぶしぶ様子を見に部屋を出ていった。
 直後、悲鳴とそれを掻き消すように大量の水を吹き出すような音が廊下から響く。
 聞き付けたドンカラス達が一斉に部屋を飛び出すと、廊下は天井までびしょ濡れになっており、
ヤミカラスは壁ぎわでぐったりとして倒れていた。
駆け寄ってみるとヤミカラスにまだ息はあり、うわごとのように“洗濯機が”と繰り返し呟いている。

「ちぃっ、のびちまってるな。洗濯機がどうしたってんでぇ」
「ドン様……あ、あれ」
 ヤミカラスのもう一羽が廊下の向こう側を羽で指し示し、顔面蒼白でガクガクと震えだす。



ドンカラスとエンペルトは指された方を見てみるが、その先には既に何も居ない。
「何だ? 誰もいないじゃねぇですかい」
「嘘なんかじゃない、確かにいたんだ! 夢でも見た、皮のマスクを被って刃物を持った怪人だ!
俺もうこんな館嫌だ! 一足先にさいなら、ドン様、どうかご無事でー!」
 ドンカラスの脇を擦り抜け、止める暇もなくあっという間にヤミカラスは逃げていってしまった。
「あ、おい! ……クソッタレ」

 そんなやり取りを面白可笑しく覗き見る二つの影があった。
片方は濃い紫色の影で、もう片方は橙色をした小さな影だ。
「きゃはは、こわがってるこわがってるー。さすがだねー、きみのちからー」
「いやいや、あんたの悪夢と変装もなかなかのもんだよ。ホントあんたには感謝してもしきれないや。
うぷぷ、あの前々からいけすかなかったカラスが困ってる姿……歌でも歌いたいような実にスガスガしい気分!」

 ドンカラス達の知らないところで更なる危機が洋館へと迫る。
 人間の少女二人組が、恐る恐ると言った様子で洋館へとやって来ようとしていた。
「そんな後ろに隠れないでくださいよ、ナタネさん」
「あ、あたしはヒカリちゃんの背後を守ってあげてるの! 別に隠れてるってわけじゃないわ」
「もう……」



「腰抜けのヤミカラス共め、帰ってきたらタダじゃおかねえ」
 苛々とした様子でドンカラスは壁を蹴りつけ舌を打つ。
その横でエンペルトは何か心に引っ掛かるものを感じ、頭をめぐらせていた。
「なあ、ドン。さっき、ヤミカラスは皮のマスクを被った怪人がどうとか言っていたよな?」
「それがどうかしたってのか? そんなもん出任せの逃げ出す口実に決まってまさあ」
「そんな怪物を何か他でも見たような気がするんだ。夢の中でじゃあない。
他のヤミカラス達が見たという怪物の話も、よくよく思い出せばそうだ」
「おいおい、おめえさんまで何言ってやがんでえ。
洋館でまともに動けるのはもうあっしらだけなんだ。もっとしっかりしてくだせえよ、ったく」
「だけど――」
「まだ近くに廊下中をずぶ濡れにしやがったド阿呆がいるはずだ。早くこてんぱんにのしてやらねえと気がすみませんや」
 エンペルトの話をろくに聞く態度も見せず、ドンカラスはさっさと先に行ってしまう。
腑に落ちない思いをしながらも、エンペルトはその後に続いていった。

 次に二羽が調べに向かったのは、ビデオを見るのに使っていたテレビが置かれている部屋だ。
 大量のビデオとそのパッケージが散らかっている以外には特に何も無く、
灰色の砂嵐を映すテレビがむなしくザーザーと音を立てていた。



「やっぱりマージはいないね」
 部屋を見渡してエンペルトは言う。そして何となく足元に転がるパッケージの一つを拾い上げ、表紙を眺めた。
その瞬間、エンペルトは抱いていた疑問が解けたかのような短い声を上げる。
 ドンカラスの怪訝そうな顔に気付き、エンペルトはパッケージをドンカラスに手渡した。
「それを見てくれ」
 表紙には、不気味な皮マスクを被った男が血みどろのナイフを持っている姿が描かれている。
「ヤミカラス達が見たと言っていた怪物はみんな、僕達がマージと一緒にここで見たホラー映画に出てくる奴らに似ているんだよ」
「ビデオから化けもんが抜け出てきたとでも言いたいんですかい? くっだらねえ」
「そこまでは言っていない。だけど、ヤミカラス達はビデオを見てはいないはずなのに、
話に出る怪物の姿はここにあるホラー映画のどれかと必ず共通点がある。そんな偶然があるだろうか?
――ドン、次に怪物が出てきたらちょっと僕に考えがある。その前に食料庫に行こう。怪物はきっとシーヤの実が好きなはずさ」



 薄暗い森に聳える洋館へと向かう二人の少女の頭上を、不意に黒い影が羽音を立てて過ぎ去った。
「きゃあ!」
 少女の一人が大げさな悲鳴を上げ、その場に頭を抱えて蹲る。その姿をもう一人は呆れたように見つめた。

「大丈夫、ただのヤミカラスですよ。ナタネさん」
 ナタネと呼ばれた少女は恐る恐る顔を上げ辺りを確認すると、取り繕うように威勢よく立ち上がった。
「わかってる、わかってる。今のは、ただちょっと転びそうになっただけだから平気よ!
さーさー、あたしはヒカリちゃんの背中を守ってるから安心して進んでー」
 そう言うとナタネは、もう一人の少女――ヒカリの背中へ回り込んで洋館の方に体を向けさせた。
 心の中でため息をつき、ヒカリは再び歩き始める。そして、その背にナタネは背後霊のようにしがみ付いて付いて行く。
ずっとこのような調子で、二人は進んでいた。

 発端は、ハクタイの森に生息するポケモンの調査に訪れたヒカリが、
何やら困った様子で森の奥を眺めているナタネの姿を偶然見つけたことだった。
ヒカリが事情を尋ねてみると、彼女はハクタイシティの住人の要請で、森に建つ捨てられた洋館の探索に訪れたのだと語った。



 元々、幽霊が出るといわくつきの館ではあったが、最近になって館からの騒音や、
館から飛び出していく沢山のヤミカラス達を見たなどの不可解な情報が相次ぎ、
ハクタイシティのジムリーダーであるナタネが派遣されたという次第だ。
 ここで会ったのも何かの縁だとナタネに協力を頼まれ、ヒカリは快く承諾した。
外見からして不気味な洋館へ行くことに抵抗はあったものの、
ジムリーダーを務める程の手練のトレーナーであるナタネと一緒であれば大丈夫だろうと踏んだのだ。

 しかし、実際はこの体たらく。ヒカリは困った人を放っては置けない自分の質を恨んだ。
確かにナタネは凄腕のトレーナーに間違いない。ただ、洋館を探索するにあたって彼女は大きな弱点を抱えていたのだ。それは――。
 二人の横で今度は草むらが、がさりと音を立てて揺れる。
「いやー! お化けー!?」
 ――大のお化け嫌い。

「ケムッソですってば……ほら。大丈夫だから行きましょ、ね」
 初めは多少の恐れがあったヒカリも、自分がしっかりしなければという責任感が
いつのまにか恐怖に打ち勝ち、ほとんど怖くは無くなっていた。



「こんなので本当にうまくいくんですかい?」
 食堂の机にシーヤの実を盛り付けるエンペルトに、ドンカラスは疑った目を向けた。
「たぶんね。それよりそれ、ちゃんと持っててくれよ」
 エンペルトに指示され、不服げにドンカラスは足元の投網を拾い上げる。
「よし、後は少しの間、物陰に隠れていよう。先客がいないことを一応しっかり確認してからね」

 二羽は食堂のキッチンに身を隠し、注意深く机と入り口の方を見張った。
数分後、大きな影がのっそりと入り口をくぐり、食堂に姿を現す。
それはヤミカラスが言っていた通りの姿をした、皮マスクとぼろぼろの小汚い衣服を纏った怪人だった。
化け物を信じていなかったドンカラスも、思わず息を呑んでその姿を見つめる。
 体重を感じさせないまるで滑るような動きで怪人はシーヤの実が置かれた机へと近寄っていく。
実の一つへと怪人がそっと手を伸ばした瞬間、「今だ!」とエンペルトはドンカラスに声をかける。
二羽により素早く網が投げ掛けられ、逃げる暇もなく怪人は網に捕われた。

「こいつめ! 散々、あっしの館を荒らしてくれやがって!」
「ドン、ちょっと待って!」
 エンペルトが止めるのを押し退け、ドンカラスは藻掻く怪人に飛び掛かり押さえ込みにかかる。が、
飛び乗った途端に怪人は綿の抜かれたぬいぐるみのように潰れてしまった。
ドンカラスが呆気にとられている内に、網の間から濃い紫色をした布のようなものが擦り抜け、
こっそりと逃げていこうとするのをエンペルトは見逃さなかった。
「やれやれ。マージ、お腹すいてるんだろ? イタズラは休んで、食べていきなよ」
 ぴくり、と紫色の布はエンペルトの言葉に反応を見せ、動きを止める。
「ちぇ、ばれちゃってたかー」
 諦めたように呟いて布は宙でぐるりとまとまり、一瞬の内にムウマージへと姿を変えた。
「へ……犯人はマージさん?」
 素っ頓狂な調子でドンカラスは声を漏らした。



「――まったく、マージさんだからあまり強くは怒らねえが、今後はこういうイタズラは無しで頼みやすぜ」
「はいはーい」
 美味しそうに木の実を頬張るムウマージを見ながら、ドンカラスは苛立ちを極力抑えて言う。
行き場を無くしたこの怒りをどこでどう晴らそうか頭を巡らせ、苛々とした様子で食堂を出ていった。

「後、電化製品へのイタズラもだめだよ。危ないし、みんな困ってるから」
「それはマージだけじゃできないイタズラだよー」
「ん、どういことだい?」
「えーっとねー……あたらしいおともだち」
 エンペルトは首を捻る。洋館で起きた異変は、すべてムウマージの仕業だとエンペルトは思い込んでいたのだ。
 ――まだばらばらに行動をとるのは不味い!
 瞬時に判断し、エンペルトはドンカラスを呼び止めに向かった。

「んぎゃあーッ!?」
 食堂のすぐ外からドンカラスの叫び声と、屋内にもかかわらず強い風が食堂に吹き込んできた。
「遅かったポチャ……」
 息をきらせた様子でドンカラスが食堂へと駆け込んでくる。
「畜生、暴れ扇風機だ! マージぃ! あれを止めやがりなせえ!」
 その頭は、帽子型の羽毛のてっぺんだけが刈りとられ、河童のようになっていた。
「きゃはは、へんなあたまー」
 それを見てムウマージはけらけらと笑い、エンペルトも思わず吹き出しそうになるのを口を押さえて堪える。
 二匹の様子を怪訝に思ったドンカラスは、恐る恐る自分の頭を触ってみた。
そしてその意味に気付き、先程より大きな叫び声が洋館を揺るがした。



「さあて、どう料理してやりやしょうかねぇ」
 古ぼけた扇風機を足で乱暴に掴み、ドンカラスは勝ち誇ったように見下ろしながら言い放つ。
はたから見れば気が触れて物に当たっているようにしか見えないが、ドンカラスの頭は怒りに満ちてはいてもまだ正常だった。
 爪で絞めあげられ、扇風機のモーターが唸る。
スイッチが入っていないどころか、電源コードが繋がれてさえいないというのにだ。
見るとモーターには不思議な文様が描かれた白い札が張り付けられている。
それは『清めの札』と呼ばれる、ポケモン達――特にゴーストポケモン――が嫌う札だった。
「てめぇらがこれを嫌いなのはよぉく知ってるからなぁ。
一時期ゴースト共を住まわせてやっていた時に、この辛気臭え紙っぺらにびびってるのを見たんでぇ」
 扇風機を踏み付けたまま、ドンカラスはまだ数枚ある札をちらつかせて見せる。
「んで、あのデブゴーストはあっしらを追い出して、またここに住み着くことを狙ってやがるんだろうな。
おめぇはその尖兵ってわけだ? 本隊はいつ来やがる? 規模は?」
「そんなの知らねーやい! あのデブには置いてけぼり食らって頭きてんだ。もうあんなのとは何の関係もねーや!」
 悔しげに唸るだけだったモーターが、今度は確かに声と聞き取れる音を発してみせた。
扇風機はただの扇風機ではなく、ゴーストポケモンがとり憑いているのだ。
その名はロトム。電化製品に入り込み自在に操る特殊な能力で、洋館の電化製品を暴走させた犯人である。

 ドンカラスが食堂へと逃げ込んできた後、すぐにそれを追って来たロトムであったが、
ドンカラスとエンペルトの二羽がかりで捕らえられてしまった。
逃げだそうにも中々隙はなく、そして既に捕まっている様子の共犯者であるムウマージを見捨てる事も心情的にできず、
そうこうしている内に、どこからかドンカラスが持ってきた清めの札を張られてしまい、完全に逃げ道を断たれたのだ。




「……あんまりマージのおともだちをいじめないで」
 しょげた様子でムウマージは呟く。ドンカラスはすぐさまムウマージを睨み付け、
頭に巻いたスカーフを取って、平たくなってしまった帽子のてっぺんを見せ付けた。
「いじめてんじゃあねぇ、お仕置きしてんだ! あっしの自慢の頭をハスボーみてぇにしてくれた名美容師にな。
くそっ、また生え揃うのにどのくれぇかかることやら……。特にマニューラには絶対知られちゃならねぇ。
あの糞ネコに見られたが最後、死ぬまで……いや、末代まで語り継いで笑い種にしやがるにちげえねぇぜ」
 足元から微かに漏れる笑い声に気付き、ドンカラスは叩き付けるように札を更に一枚、扇風機に張りつける。
「笑っていられる立場じゃあねぇだろ」
「うわあああ、む、むず痒さが増して体中がちくちくしてきた!
もう謝るから勘弁してくれよ! 本当にゲンガーのデブとは関係ないんだ! 今回のイタズラは自分で考えたことさ」
「マージがやったこともか?」
「ああ、オイラがマージさんにやらせたんだよ!」
 はっとした顔をしてムウマージはロトムを見る。そしてムウマージはドンカラスに何かを言おうとしたが、
扇風機の首がそれを思い止まらせるように僅かに横に揺れた。
 ロトムはムウマージに恩義を感じていた。忘れさられ置き去りにされたことに気付かず、
ロトムは狭いテレビの中で仲間を待ち続けていた。しかし、いくら待っても仲間達は現れず、
それどころか洋館には見知らぬポケモン達がどんどんやってきて住み着いていく。
出るに出られない軟禁状態に陥ってしまい、不安に押し潰されてしまいそうな所で、ムウマージが現れて外へ連れ出してくれたのだ。
 今回のイタズラをはじめに思いついたのはムウマージだったが、ロトムはそれを庇っていた。
 ――ほんとうだったらマージももっとおこられなきゃいけないのに。あとでロトムにあやまらなきゃ……。
 その時、玄関から扉がゆっくり開かれる音と、どこかおどおどした声が響いてくる。
「ご、ごめんくださーい! 誰か居ますかー?」
 年若い人間の少女の声だった。




 ドンカラス達は示し合わせたかのように息を潜め、ドンカラスが玄関の方をこっそりと覗き込んだ。
そこには確かに人間の少女二人の姿があった。二人とも腰のホルダーに幾つかのモンスターボールが取り付けられており、
少女達がポケモントレーナーであるということが容易に知れる。

 ドンカラスは戦慄した。それは怒り狂うケンタロスの群れよりも、
下手をすれば更に質が悪いかもしれない外敵の訪れだった。

 ドンカラスが住み着いてから今まで、洋館に人間の侵入を許した事はほとんど無かった。
捨てられた薄汚い不気味な洋館に用がある者などいないし、極稀に物好きな人間がやってこようとしても、
大抵は洋館までたどり着く前にヤミカラス達が威嚇して追い払ってしまう。
ゲンガー達がまだ住んでいた頃に一度入り込まれたが、ゴースト達の手厚いもてなしに怯えてすぐに逃げ帰っていった。
あまり平和的ではないが、一応は双方に血の流れない方法で洋館の平穏は守られてきた。
もしも一線を越えて人間に大怪我をさせたりしてしまえば洋館は危険視され、
瞬く間に他の人間達が押し寄せてきて潰されてしまうであろうことをポケモン達は知っている。

 今、洋館にはヤミカラス達もゲンガー達もいない上、相手はポケモントレーナーだ。
幾ら少女とはいえ決して侮れない存在が、それも二人。自分とエンペルトだけでどう追い払えばいいのか――。
「なー、手伝ってやってもいいぞ」
 ドンカラスの心を見透かしたように、ロトムは潜めた声で言う。
「オイラだってゴースト、驚かせるプロだ。現にカラス共も逃げてっただろー」
 疑った目を向けるドンカラスにロトムはそう言葉を続けた。
「……本当だな?」
「信じろよー。四の五の言っていられる場合じゃないだろ」
 完全に信用することはできなかったが、今のドンカラスはわらにも縋り、猫の手でも借りたい思いだった。
扇風機に貼られた札をドンカラスが剥がすと、モーターから球根のような形をした橙色の小さなゴーストが飛び出す。
「ふー、助かった。さー、あの人間共をどうやって恐がらせてやろっかなー、ぷぷ」



 洋館の目前まで辿り着いた時、さしものヒカリもその恐ろしげな外観に思わず息をのんだ。
朽ちかけた外壁はまるで魚の鱗のように爛れ、ぼんやりと光を反射する曇った窓ガラスが濁った大きな目みたいに見えた。
不用意に近づけば、あのささくれだったドアが大口を開けて、
自分達をぺろりと飲み込んでしまうんじゃあないか――そんな嫌な想像をしてしまう。
 だがヒカリは背にのしかかる頼りない重さを思い出す。
数分程前に洋館の方から響いてきた大きな鳴き声に驚いてナタネはますます竦み上がり、
もはやヒカリの背に半ば負ぶさるような形となっていた。
ここで自分まで恐がってしまったらだめだ。ヒカリは嫌な想像を振り払い、心を奮い立たせた。

「ナタネさん、着きましたよ。くっついたままだと、もしもの時にポケモンを出しにくいからもう少し離れましょ」
「う……つ、着いちゃった? じゃなかった、やっと着いたのね! 周りには何もいないよね? 例えば……お化けとか」
「大丈夫ですよ」
「そ! あ、いや、ただちょっと聞いてみただけだからね。お化けが怖いとかじゃないわ」
「はいはい、わかってます」
 ナタネはヒカリの背から顔を上げ、数歩離れる。
「さー! さっそく洋館の調査を開……開始……」
 胸を張って元気よく宣言するつもりだったナタネだが、
間近で見る洋館の姿が目に入った途端に笑顔が引きつり、言葉は尻すぼみになってしまう。
「……じゃあ、わたしが先頭で行きますね」
 ヒカリは気付かない振りをするのが優しさだと思い、そっと先んじてドアノブに手をかけた。
慎重に力を込めて押すと、ドアは軋みながらゆっくりと開いていく。
 玄関をくぐるとそこは二階への吹き抜けがある広いエントランスホールとなっていた。
薄暗い内部は確かに所々が痛んで汚れているが、何年も誰も住んでいない廃墟の割りには、
思っていたほどひどい状態では無いとヒカリは感じた。
「ご、ごめんくださーい! 誰か居ますかー?」
 もしかしたらまだ誰かがこっそり住んでいるのかもしれない。そう考え、ヒカリは念のため呼び掛けてみることにした。
しかし、洋館は不気味に静まり返るばかりで返事はない。
 諦めかけたその時、微かな物音が正面奥の部屋から聞こえた。



「そこに誰か居るの……?」
 正面奥の部屋に向かってヒカリは声をかけてみる。
すると、返事の代わりとばかりに再び小さな物音が立ったのをヒカリの耳が捉えた。
 何かが隠れているんだろうか。それが人間であれば、廃墟に勝手に住み着いてはいけないと注意しなければならない。
ポケモンだったならば、おとなしい子ならそっとしておいてあげればいい。
危害を加えてくるような凶暴な奴や、本当に噂どおりの化け物や幽霊だった場合は――
もしもの時を考え、ヒカリは予め自分のポケモンを護衛に出しておくことにした。
 腰のホルダーからモンスターボールを一つ取り外すと、彼女はそれを軽く放り投げる。
宙でボールは開き、その中から光と共に飛び出したのは、エンペルトを一回り小さくしたようなポケモンだった。
「危なくなったら守ってね、ポッタイシ」
 ポッタイシと呼ばれたそのポケモンは、ヒカリの呼び掛けに一鳴きして応えた。
 横でナタネも同じようにしてポケモンを繰り出す。藍色の丸い体をしていて、
両手と頭の上にボンボンのように白い綿毛を生やした、ワタッコというポケモンだ。

 とりあえずは物音がした奥の部屋を調べてみようと、ヒカリ達は向かった。
部屋の入り口脇に置かれた見知らぬモンスターをかたどった石像が、
何だか睨んでいるようで今にも動きだしそうな気がしてきて、少し怯えながらその横を通り抜けた。




 そこは人が住んでいた頃は食堂として使われていた部屋のようだった。
中央には大きくて長いテーブルが鎮座し、幾つもの椅子がそれに沿って並んでいる。
テーブルの上に敷かれた、元々は純白であったろう黄ばんだテーブルクロスには、
何の物ともわからない沢山の染みが不気味な模様を描いていた。
 その染みの一つに、付いたばかりのような真新しいものがあった。
そしてそのすぐ下に木の実の食いカスが散らばっていることに気付き、
ヒカリはハンカチ越しに恐る恐る欠片の一つを拾い上げてみる。
皮の色と独特の渋い匂いから、それはシーヤの実ではないかとナタネは推測した。
 これはつい先程までここで誰かがここでシーヤの実を食べていたということになる。
何かがこの洋館に潜んでいる。それは確信へと変わった。
 ミシリ――その時、かすかに部屋の天井が軋むような音を立て、ヒカリ達は息をのんで見上げる。
そこには何も居ないはずなのに、コンッ、コンッと今度は今度は天井を直にノックするような音が続けて鳴りはじめる。
ラップ音はその後も激しさを増して部屋中を駆け巡り、ヒカリ達は恐怖のあまり目を瞑り、耳を塞いでしゃがみこむ。
 その隙に、いくつかの影が食堂を抜け出していったことにヒカリ達は気付くべきだった。




 館と自分の頭を散々にされた欝憤は、あの人間共をこっぴどく驚かすことで晴らしてやろうとドンカラスは思い立つ。
それにはまずは色々と仕掛けの準備をしなければと、ロトムと一緒になって作戦を練り始めた。
 悪巧みするドンカラス達の横で、エンペルトはどんな人間がやって来たのか興味を持ち、玄関の方を覗き見る。
先程の人間の声がどこかで聞いたことがあるような気がしたのだ。
 一人は薄着に短い緑色のマントを羽織った、短髪の見知らぬ少女だった。
そしてもう一人の白いニット帽を被った赤いコートの少女を見た時、エンペルトは思わず声を漏らす。
「ヒカリ……ちゃん?」
 エンペルトはその顔に確かに見覚えがあった。
 まだナナカマド博士の研究所にいた頃、たまに手伝いに来ていた子だ。それなら、連れているポケモンは恐らく――。
「何やってやがんでえ。見つかるだろうが」
 ドンカラスは入り口を覗き込んだまま固まっているエンペルトに気付き、慌てて奥に引っ張り込んだ。
「あ……ああ、ごめん」
「緊急時なんだからしっかりしてくだせえよ」
 いつもと何か違った様子のエンペルトを怪訝に思いながらも、ドンカラスはロトムとの話し合いに戻る。
何を仕掛けるにもとりあえずは食堂から抜け出さなければならなかった。
気配を感付かれたのか、人間達はポッタイシとワタッコを繰り出してこちらへ向かってきている。
食堂の出入口は一つしかなく、部屋の小さな窓はドンカラスとエンペルトが通るには狭すぎた。
「オイラとマージさんで奴らの隙を作るから、その間にあんたらはここから抜け出しな」
「わかった。バレねえようにうまくやりやがりなせえよ」
 ロトムにその場を任せ、ドンカラスはエンペルトと食堂の調理場に身を潜めた。
ロトムとムウマージは空気に溶け込むように姿を消して人間達を待ち構える。

 すぐに人間達は食堂に姿を現し、回りを窺い始めた。ドンカラスにも若干の緊張が走る。
ふと横を見ると、エンペルトがどこか複雑な表情をして人間達の方、
特に赤いコートの少女が連れたポッタイシを見つめていることに気が付く。



「なんだ、一目惚れでもしやしたか? 真面目な面しておめえさんも隅に置けねえな」
「ち、違うポチャ。なあ、ドン。ヒカ――いや、あの人間達のポケモン、何とかうまく連れ出せないかな?
戦力を少しでも奪うのは僕達の危険も減るし、うまく説得できれば主人達に帰ってもらえるよう仕向けられるかもしれない」
 エンペルトの話にはどこか他意があるようにも感じたが、ドンカラスは提案に乗ることにした。
「そうだな。うまく隙ができたらやってみやしょ」
 間も無くして、ロトムは体の電気を少しスパークさせて合図を出す。
透明になったままムウマージと共に壁と天井を叩き、燭台や皿を投げ飛ばし、部屋中を暴れ回りだした。
人間達はそれにひどく怯えた様子で頭を抱えてしゃがみ込む。
「行きやすぜ!」
 絶好のチャンスとみてドンカラスとエンペルトは調理場から飛び出して駆け出す。
ポッタイシとワタッコに気付かれるも、主人に知らされる前に二匹の口を塞ぎ、そのまま食堂からさらいだした。

 ドンカラスとエンペルトは二階の一室へと二匹を連れ込んだ。
「無礼な! 私を何と心得る! 離せッ!」
 エンペルトに後ろから羽交い絞めにされながら、ポッタイシはがなりたてて暴れる。
ワタッコはドンカラスに抱えられたまま、怯えて震えていた。
「危害は加えねえよ、お嬢さん方。おとなしくあっしらの話を聞いてくれりゃあな。なあ、エンペルト」
「うん、だから安心してほしいポチャ」
 エンペルトの声を聞いた途端、ポッタイシは動きをピタリと止めた。
「! お前はまさか……!」
 ポッタイシを離し、エンペルトは決まりが悪そうに口を開く。
「……久しぶりポチャ」



 エンペルトの姿を見て、ポッタイシの顔に驚きと喜びが入り混じった表情がうっすらと浮かぶ。
だがすぐに我に返ったようにエンペルトをきっと睨み付け、その頬をしたたかに羽で打った。
「……効いたポチャ」
「こんな所で何をしている! 勝手にいなくなって……どれだけ私が、どれだけ皆が心配して探し回ったと思っているのだ!」
 痛そうに頬をさするエンペルトに、さらに胸倉を掴む勢いでポッタイシは詰め寄る。
「まあま、その辺で。気の強えお嬢さんだ。あっしの所のエンペルトとどういう関係で?」
 状況を飲み込めずしばらく黙って見ていたドンカラスだったが、ここで仲裁に入り二羽を引き離す。
「おい、このおっさんはなんだ」
 ポッタイシは欝陶しげにドンカラスの羽を払い除けて言い放った。
「お、おっさん……?」
 その言葉にドンカラスはぴしりと凍り付く。何気ない一言であったが、
それは年相応以上に老けて見られることを気にしているドンカラスにとって禁句の一つだった。
「ごめん、ドン。それは僕から話すよ」

    ・

「ほーぉ、研究所で飼われてたポッチャマの群れの幼なじみねぇ」
 ポッタイシをじろりと不機嫌そうに見やってドンカラスは言う。
「なあ、くだらない事はやめて、私とヒカリとともにナナカマド殿の研究所へ帰ろう。皆、きっと暖かく迎えてくれる。
もうトレーナーに貰われていく時期は逃してしまったかもしれないが、また群れに戻ればいい。
群れの頭の固い連中は何か言ってくるかもしれないが、昔みたいに私が説得する。
こんな賊まがいの輩共にいつまでも世話になる必要はないだろう」
「悪いけど僕は帰れないポチャ」




「なぜ? お前の三本角の立派さは惚れ惚れする程だ。行く行くは群れで長にだってなれるかもしれない。
何か弱みでも握られているのか?」
 ポッチャマ族には、くちばしから伸びる三本の角が最も立派な者が群れを率いるという習性がある。
ポッタイシの言う通りエンペルトの角は見事なもので、これからのさらなる成長を踏まえれば王たる風格が確かにあった。
 しかし、エンペルトはそっと首を横に振る。
「そうじゃないポチャ。僕は自分の意思でここに残りたいんだ。
群れに戻るのも一つの幸せかもしれない。けど、それは極狭い範囲のものポチャ。
ボス――ピカチュウは僕に広い世界の夢を見させてくれたポチャ。僕は狭い幸せより、広い世界を選ぶ」
 エンペルトは真っすぐに目を向け、ポッタイシに告げる。
「……ふん。馬鹿だな、お前は」
 ポッタイシは素っ気なくそう言い、そっぽを向いてみせる。そして目の辺りを分からないようにそっと拭った。
「ごめん」
「何を謝っている。お前が決めたことだ。私に謝る必要なんてないだろう馬鹿め。
分かった。お前達に一時的に協力する。ワタッコ殿もそれでいいかな?」
 部屋の隅でワタッコは静かに頷く。
「ありがとう。で、具体的に何をすればいい? ヒカリ達に怪我をさせるようなことなら許さないからな」



 食堂を騒がせていた怪音は急にぴたりと止み、ヒカリとナタネはゆっくりと顔を上げた。
嵐が通り過ぎた後のように室内は静まり返っているが、
床に散らばっている割れた皿や倒れた燭台が先程の怪奇な現象が確かなものであったと物語っている。
 本当に幽霊なんだろうか。ヒカリの脳裏に不安がよぎる。
でも掃除したり、木の実を食べたりする幽霊なんて聞いたことがない。
 ふと、ヒカリは自分の横にポッタイシがいない事に気付く。ナタネのワタッコも姿が見えない。
二人はボールを確認するが、二匹が戻った形跡はなかった。
まさかさらわれてしまったのだろうか。心細さと心配にかられ、二人は自分のポケモンの名を呼ぶ。
するとすぐに返事代わりの鳴き声とともにぺたぺたと足音を立て、
ポッタイシとワタッコは少し慌てた様子で食堂へと駆け付けて来た。
 二人はホッと胸を撫で下ろす。
「もう、何をしてたの?」
 ヒカリの呼び掛けに、ポッタイシは申し訳なさそうに「くわ」と一鳴きした。 音に驚いて部屋の外に逃げていたのかな。そんなに臆病な子でも無いはずなんだけれど。ヒカリは不思議に思ったが、
何が有ったのか詳しく聞く手段も無いし、二匹とも無事に戻ってきたのだからあまり深くは気にしないことにした。
 かくして再び調査を開始しようとする二人を、ポッタイシとワタッコが呼び止める。
二匹は身振り手振りを使い、何かを訴えようとしていた。どうやら『自分達が先を行く』と言いたいようだった。
勝手にいなくなった事へのお詫びのつもりなのだろうか。何だかほほえましくなってヒカリとナタネはクス、と笑った。
「わかったわかった。先頭は任せるわ、お二人さん。今度はしっかりあたし達を守ってよー?」
 そう微笑みかけるナタネに二匹は力強く頷いた。二匹は並んで食堂を出で、二階へ続く階段の方へ歩いていく。
何の疑いも無くついてくる主人達にポッタイシとワタッコは心の中で密かに謝った。




 二匹の後に続いてヒカリとナタネは階段を上っていく。
一段一段を踏み締める度に古い木の板はぎいぎいと嫌な音で軋んだ。
 エントランスホールの二階部分はコの字型になっていて、
ヒカリ達が上って来た側と一階への吹き抜けを挟んだ向かい側に部屋と階段が左右対称に一つずつ、
そして中央奥にもう一つ入り口がある。
 まずは順当に手近な部屋から探ってみようとしていたその時、
急にポッタイシが何かに驚いたような鳴き声を上げ、歩みを止めた。
「どうしたの?」
 ヒカリに尋ねられ、ポッタイシは怯えた様子で吹き抜けを挟んだ向こう側の部屋を指し示す。
ポッタイシの素振りはどこか大げさで芝居掛かったものであったが、その違和感に気付かれることはなかった。
それ以上に異様なものが指し示された先には佇んでいたのだ。
 それは人間の老人の姿をしていた。だが生気は感じられず、存在がおぼろげで体が半透明に見えるような気さえした。
 きっと洋館内が薄暗いせいでそんな風に見えてしまっているんだろう。
ヒカリは必死に自分にそう言い聞かせ老人に声をかけてみようと試みるが、
喉が凍り付いたように言う事を聞かない。本能があの老人と関わる事を拒んでいるようだった。
 やがて老人は彼女達の存在などまったく気付いていないかのように無視して階段を音も無く下りると、
そのまま一階の食堂へと入っていってしまった。
 ぞくりとするような冷たい空気と沈黙がヒカリ達を包んだ。
「今のお爺さん……人間ですよね?」
 恐る恐るヒカリは言う。
「あ、当たり前でしょ! そうじゃなかったら何だって言うのよ」
 強がるナタネだがその顔は少し血の気が引いていた。

「……何とかうまい具合に恐がらせたようだけど、あんなの予定にあったかな?」
 主人達に悟られないように声を潜めてポッタイシはワタッコに話し掛ける。
「アドリブかなあ。化けたのはマージさんかロトムさんかわからないけれど、さすがゴーストポケモンさんですねー」
 特に疑問に思う様子は無く、朗らかにワタッコは答えた。
「ううーん……」
 ――ドンカラスの話では、最初に仕掛けてくるのはそこの部屋に入ってからのはずだけど。
 ポッタイシは妙に思いながらも、ヒカリ達の誘導を続けるほかなかった。



 ヒカリとナタネは老人を追って食堂へと向かった。先程の老人は浮浪者だろうか。
だがそれにしては身なりが整っていたように思った。 いくら食堂の中を探してみても老人の姿は見つからなかった。
窓は大人一人がくぐることができる大きさでは無いし、出入口は一つしかない。
確かに食堂に入っていくのを見たはずなのに。何だかますます背筋の辺りが薄ら寒くなってきて、二人は思わず身震いをする。
 食堂を出た時、二階に人影がちらついた気がした。老人はうまく自分達の隙をついて既に食堂から抜け出していたのだろうか。
老人にそんな機敏な動きができるのかは少し疑問だったが、幽霊だなんて考えたくはなかった。
再びポケモン達に先導させ、ヒカリ達は二階に向かう。

 その後も行く先々でまるで誘い込まれるようにヒカリ達を奇怪な出来事が次々と襲った。
まず最初に訪れた部屋では生きたように動く不気味で凶悪な顔をした人形だった。
凶器を振り上げ襲い掛かってくる人形から命からがら逃げおおせた先の部屋では、
触れてもいない洗濯機が勝手に動きだして大量に水をぶちまける。
それに堪らず部屋を飛び出せば、待ち構えていたホッケーマスクの大男に追われ、
逃げ込んだ別の部屋では今度は扇風機が強風を巻き起こした。
右手に鉄の爪をはめた怪人、火を吹く電子レンジ、叫び声を上げているようなマスクと黒いローブを被った死神――
手を変え品を変え、様々な怪物と現象がヒカリ達を休む暇も無く襲う。
怪物達はどれも映画か何かで見たような、それもよく見てみれば作り物とわかるようなどこか安っぽい作りの物ばかりであったが、
洋館の雰囲気と恐怖に飲まれ判断力が鈍ったヒカリ達には見破ることはできず、
半ばパニック状態になりながら逃げ惑うしかなかった。

「クハハ、ビビリ過ぎて奴らそろそろぶっ倒れるんじゃあねえですかい?」
 廊下を逃げていく少女達の背を見送りながら、全身に包帯を巻いたミイラ鳥が死神に話し掛ける。
「ちょっと悪乗りが過ぎた気もするが。もう十分に恐がらせたんじゃあないか?」
「そうだな。ハロウィンパーティもフィナーレといきやすか。締めはロトムの奴に任せやしょ」




 もう何度目かもわからない怪物の追跡により、また別の一室にヒカリ達は追い込まれる。
休まる暇も無く襲撃を受け続け、ヒカリとナタネは肉体的にも精神的にも疲れ果てていた。
この部屋では今度はどの家具が襲い掛かってくるのだろうか。怯えた様子で身構えながら室内を見渡す。
 部屋の奥には大きなテレビが置かれ、傍にビデオデッキが備え付けられている。
他は床にむき出しのビデオとそのケースで散らかっているばかりだ。
特に危険そうな物も何物かが潜んでいられるような場所も見当たらない。
 ヒカリは部屋の扉を閉めて急いで鍵を掛けた。少しこの部屋に立て籠もって休もう。
そして落ち着いてみんなが無事に帰れる方法を考えよう。
そんなふうに考えていた矢先、突然消えていたはずのテレビの電源が点き、ざーざーと砂嵐を映し始めた。
 ヒカリとナタネは思わず息だけの悲鳴を上げる。たんなる誤作動ではないであろうということは
今まで散々に電化製品に襲われた事で分かり切っていた。
だけど明確な攻撃方法のある扇風機や洗濯機と違い、たかがテレビに何ができるというのだろうか。
 二人は注意深くテレビを見張る。二、三度、映像がぶれて怪しく光り、テレビ画面自体が一瞬揺れ動いたように錯覚した。
否、それは錯覚などではなく確かに画面は石の投げ込まれた水面のごとく揺れ動いていた。
揺れはどんどんと強くなって波紋の盛り上がりが大きくなっていき、徐々に顔のような形を成していった。
『タチサレ……タチサレ……』
 無機質な砂嵐の音の裏で、微かだが確かにスピーカーからそう声が響いた。
揺れは激しさを増すことを止めず、今度は手のような形が画面に浮かぶ顔の横に形成されていく。
画面の顔と手がもがく度に、ビニールを裏側から押しているかのように画面は伸びていった。
画面の奥から今にも何かが這い出してこようとしている。



 ヒカリ達は悲鳴を上げる事もできずふらりと腰を抜かす。
その拍子にヒカリのショルダーバッグが開き、ごとりと固い音を立てて何かが床に落ちて開いた。
電子手帳のようなそれは、ヒカリのポケモン図鑑。
出会ったポケモンに向けるだけで自動でデータをスキャンして記録していくハイテク品だ。
だが、こんな得体の知れない幽霊が相手の状況では何の役にも立たない代物――のはずだった。
 今にも憑かれて呪い殺されるかもしれないような危機的状況にありながら、
大切なポケモン図鑑を無くして博士達に迷惑をかけるわけにはいかないという一心で、
ヒカリはポケモン図鑑を拾い上げる。ふと目に入った図鑑の画面にはいつの間にか見たことのないポケモンの姿が記録されていた。
 ヒカリは一日の記憶に頭を巡らせる。今日、ポケモン図鑑を取り出して使ったのはナタネさんに会う前に森でアゲハントに一回、
そして洋館へ来る途中でヤミカラスとケムッソを確認した時、そして今この瞬間だけ。
ロトム――こんなポケモンは洋館に来るまで記録されていなかった。
捕まえて詳しい分析にかけるまではタイプはわからないけれど、見た感じで受ける印象は電気、エスパー、またはゴースト。
ゴーストやエスパーポケモンなら、幽霊みたいなイタズラだってできるかもしれない!
 ヒカリはショルダーバッグに手を突っ込み、捕獲用のモンスターボールを探り出す。
自分の直感に一か八か賭けてみることにした。



 ヒカリの手から投げ放たれたモンスターボールは、テレビにぶつかる直前に宙で開き、閃光を放つ。
這い出そうとしていた幽霊は思わぬ反撃にひどく慌てた様子でテレビに引っ込んで逃れようとしたが、
ボールの光にさながら掃除機に吸われる布切れのごとく引き寄せられしまう。
やがて数秒も経たない内に画面から橙色の小さな影が飛び出て、ボールの中に光となって吸いこまれた。
と同時に幽霊の姿は霧が散るように消え去る。
 モンスターボールはポケモンにしか反応しない。やはり今回の一件はこのポケモンの仕業だったんだ、とヒカリは確信を得る。
 ヒカリ達はまだ気を緩めずに床に転がる閉じたボールを見張った。
中で必死に抵抗しているのかまだボールはゆらゆらと揺れ動いている。
揺れが一回目。完全にロックが掛かるまで、ポケモンが抜け出してくることは大いにありうる。
二回目。ロックされるまで後少しだが、まだまだ油断はできない。
そして三回目――。

 ・

 扉に鍵を掛けられてしまい中の様子を窺う事ができずにいたドンカラスだったが、
ようやくエンペルトが倉庫から鍵を取って戻ってくる。
「おお、ご苦労さん」
「マージを呼んで扉をすり抜けて内側から開けさせた方が早かったんじゃあないか?」
「もしもまだ人間がめげやがらなかった時の最後の追撃役として待機させているから、
持ち場を離れさせるわけにゃいきやせんよ」
 ドンカラスは鍵を受け取ると器用に觜で鍵穴へと差し込んで錠を開け、音を立てぬようそっと覗ける程度の隙間を作る。
そして見えた光景は、今まさにロトムがモンスターボールに吸い込まれた瞬間だった。



 苦々しい顔でドンカラスは舌打ちする。後から覗き込んだエンペルトも深刻な表情を見せた。
ロトムの入ったボールが床で揺れる。それでも二匹は決して部屋に飛び込んでロトムを助けにいこうとはしなかった。
正体がポケモンだと気付かれてしまった以上、もう人間達は仮装に怯む事はないだろう。
ポッタイシとワタッコの協力もこれ以上は望めない。
狭い室内にトレーナーが二人もいる中から、ロトムのボールを掠め取ることは不可能に近い。
ボールがロックされ、トレーナー登録をされてしまう前にロトムが抜け出して逃げ延びてくることを祈るしかなかった。
 しかし、揺れが三回目に差し掛かった時、無情にもボールはカチリと音を立てて動きを止める。
そしてすぐに人間の一人が駆け寄り、それを拾い上げた。
 ドンカラスは諦めたように扉を静かに閉めると、帽子の鍔を下げ小さくため息を吐いた。

 ・

「へー、ロトムっていうんだ。まさかこんな小さいポケモンが今回の犯人だったなんてねー」
 玄関へ向かう途中、ポケモン図鑑を見せてもらいながらナタネは感心半分、呆れ半分に呟いた。
「この子、どうしましょう。事件解決の証拠に必要ですか?」
 ロトムの入ったボールを手にヒカリは尋ねた。
「ううん、いいわ。調査に付き合ってくれたお礼として取っといて。捕まえたのはヒカリちゃんだしね。
さあ、早くこんな陰気臭い洋館からは出ましょ!」
「はい!」
 扉を開け放ち、二人とそのポケモン達は夕焼けが木々の間から滲むハクタイの森を帰っていく。
 その背をドンカラス達は洋館の窓からひっそりと見送った。
ロトム一匹の犠牲だけで洋館が救われるようならそれも止む無いと、ドンカラスが苦渋の決断を出したのだ。
「しょうがねえんだ。諦めておくんなせえ」
 後ろでぐすぐすと恨めしく泣くムウマージにドンカラスは言い聞かせる。
「ヒカリちゃんならロトムに対してぞんざいな扱いはしないと思う。だから辛いとは思うけど……ね」
 エンペルトもそう諭すが、ムウマージは泣きながら二階の奥へと飛んでいってしまった。



「どうしようもねえな、こりゃ」
 ばつが悪そうにドンカラスは頭をばさばさと羽でかく。
「しばらく一匹にしておいてあげるしかないよ」
 そう言って、エンペルトは窓の外に目を戻す。その視線の先にはポッタイシ。
ちょうど彼女も洋館を名残惜しそうに振り返ったところだった。
 ――さよならポチャ。そっとエンペルトは心の中で呟いた。
「追いたきゃ追ってもいいんだぜえ、エンペルト?」
 エンペルトの様子に気付き、ドンカラスはにやにやとしながら言い放つ。
「冗談じゃあない。そんなことしても、強烈なビンタが飛んでくるだけだよ」
「クハハ、違えねえ。ま、ようやく面倒臭えことが解決したんだ。
今日はゆっくりと飲みましょうや。たまにゃお前の愚痴を聞きながらでもいいぜ」
 ぽんぽんとドンカラスはエンペルトの背を叩く。
「そうだねえ。いつも聞かされてばかりでうんざりしていた所だからちょうどいいかもな」
「お手柔らかに頼みやすぜ。さあて、まずは食堂から有りったけの酒をとってきやしょ」
 食堂に入る際、ドンカラス達は半透明の体をした老人とすれ違う。
立ち直ったムウマージがまたイタズラをしているのだろうとさして気にも止めず、
酒とツマミを抱えながら階段を上って二階の部屋に向かう途中、今度はまた半透明の幼女と廊下ですれ違った。
 ムウマージの立ち直りの早さに苦笑しつつドンカラスが部屋の扉を開けると、
部屋の隅には肩を揺らして嗚咽しているムウマージの姿があった。とても元気にイタズラをできるような状態ではない。
 ドンカラスとエンペルトは顔を見合わせる。じゃあ、先ほど見た老人と幼女はまさか本物――。
「クハ、クハハ……。なあ、エンペルト。たまにゃあ外に飲みに行くのもいいんじゃあねえかな。
トバリのエレキブルんとこ辺りに泊まり掛けで三日程。終わる頃にはさっき見たものは全部忘れて解決、解決」
「……ああ、そうだね。そうしようか、あははは」
 振り絞ったような乾いた声で二匹は笑いあった。

 霊の力の大部分は怨念や後悔、執念など言わば強い気持ちの力だ。
悲しみから立ち直った時、ムウマージの力は増している……かもしれない。