
何故、活性化などと論じ活動しなければならないのか
1) どんな過疎地などと条件があろうと、人は一生懸命生きたいと思うのが当たり前と思う
2) どんな条件であろうと、人は人間的に生きる権利があるし、それに向けて実践する義務があると思う
3) 人は前に進みたいのだ、病気には立ち向かいたいのだ、心も良くありたいと思うものだ
4) 当たり前の事をしないのは寂しいのだ、地域の問題も、社会問題も、すべてにおいて
5) 一人でもその課題に挑戦する事は出来る、しかし皆で挑戦すれば成果は大きい
6) 「俺のが出来る」とか「俺のが偉い」とか「あの人は嫌い」とかと、周りの人を批判しても、
地域が良くならなければどうしようもないのだ。良い所に住みたいのだ
山麓中山間地の意味を考える、見捨てるのみでよいのか
大型農業が平野部の救いの形と解釈されたとしたら、その隅っこの中山間地はどう理解したらよいのであろうか、
利益を生まないから捨て去られるのみでよいのか、しかし自然環境的にはその一層の重要性を捨て去る事はできない。
創意工夫と人間の知恵で、中山間地の新たな形の創造を勝ち取る事は自然環境的に忘れる事は出来ない。
私どもは、宇都宮、つくば、水戸などの1時間交通圏の日帰り遊び===里山観光&里山の癒し場所運動を提起している。
観光的に、農業的にも、文化的にも新たな概念の提案に思い、それだけに理解されるのには時間を要するだろう、
今までですと箱物を求める発想のみでしたが、ここではこれからは心と癒しを売りとする観光地を求めた運動と解釈している。
地域を良くしようとする地域力がない地域は良くならない
住みよい地域社会を作ろうとする「地域力」のない地域社会は良くなることはないのはあたりまいと思う、
皆で自分の地域を良くしようとする事から基本は始まると思うがそれがままならないのが昨今だ、
グローバル社会は人を踏みつぶしてでも生きるのを原則とする社会であるから地域力は求めないのが当然であろうと思うが、
だからだから、地域連帯は生まれないのも当然である、諸々の理由を付けて連帯を避ける事となるのであろう、
なんとかその状況を卒業したいものである。
基本は地域の特徴に合った活性化策を模索する事、地域の個性を伸ばす事であるろう
1) 地域の特徴とは何だろうか、素直に過去の因縁に囚われず模索する
2) いわゆる村お越し活動など他地域の経験、取組、作業に触れる機会を作る
3) 住民と行政と外部の知恵の連携した力が、特徴を見つけ出す力となる
4) 10年経った時に「あの時にこうすれば」との禍根を残さない様に心がける心
お茶飲み話を文章化、「地域に活性化しようとする運動がある事だな、里山には里山運動が」
話 9) 里山運動主義は福祉であり、人間生活の全てである
里山運動主義の思想が無ければ、高齢化人口減少過疎化による山間地の福祉問題等を論ずる力、提言、
行動する創造性も生まれてくるとは思えない。以前の東北地震の時に一人暮らしの高齢者について何の
手助けも集落としてされていない事は寂しいものと感じた、それ位だから、以降も支援の姿や絆も見ることは
無い。人は心では絆を感じているのであろうが、周りがやらないとやらない、人がやらないことは自分から
するのは勇気がいるものと感じます。余談になるが、「馬鹿者、よそ者、変り者」三変人の居ない所には
絆も創造性も生まれないものと感じています
話 10) 人間性と社会性で連帯しよう
周りの村おこし等の活動には関心を持ち見つめたいと思うし、出来る限り協力応援支援をしたいものです。
それが、巡り巡って自分の所に来ると思うし、人間性、社会性とはその様なものと感じています。
地域に愛情を持ち、地域に活動的雰囲気を作り出し、そこに外部の力を組み込む事こそ最大の課題だ。
里山運動主義のない、箱物要求主義の過去の経過が問題を求める知恵を失わせたのだ。
話 11) グローバリズムの落とし穴、「生き残り」との言葉
活性化策として語られる行動には、自分にとって即 金になる事とのみ解釈されている様に感じています。
金持ちが語る活性化策、年金生活者が語る活性化策、貧乏人の語る活性化策、女性の語る活性化策、
経営者の語る活性化策などと意見はされる様ですが集約されませんね。自分にとって今、金になる事が
すべて、ならないものは関係ない、この落とし穴に落ちては人間性の分散があるのみ。
自分が生き残る事が全てであり、皆で生き残る事などを考えるのは邪道であるとの社会の雰囲気を強く
感じます。この落とし穴に対して「里山運動主義」を提起しているのです、グローバリズムを超えた
ダイナミックな人間性を求めて。
話 12) 里山運動主義に地域の境はない
里山運動主義は、里山のみの過疎地の運動として提起しているのではありません。
地域的特徴はありますので、課題は異なるとは思いますが、心は同じく地域の運動です。
過疎化は、団地に、駅前に、里海に、中心市街地に、地方都市すべてにと拡散しています、歴史的な現象
と感じています。そこに住む全ての人々の運動として提起していると申し上げると「どうかしたの」と
言われるであろうが。でも、否定は出来ないように思うものです。逸れて通る事は出来ませんね。
話 13) 国は地方再生を唱えるが、期待できますか、いや期待ではなく勝ち取るものに思う
色々と提案はされているかに感じるが、もう一つ我々の心に響かないように感じませんか、
それは、末端の一人一人が真から求めるものを追及する心が無いからではないかと感じます。
どうしても、箱物の要求に行きつき、国においてもそれに答えることに落ち着く社会状況ではと思う。
末端の個人においても、国においても再生の意味が論じられないことにあると思います。
様は、末端の個人が勝ち取るべきものと感じます。
話 14) 隣の集落では、数年前から行政の資金で村おこし的活動がされていた。
地元の土地を借り、直売所をつくり、それなりの目的に向けて動いていた。
でも、里山運動主義とでも申そうか地元の運動が無いので、行政の補助が無くなると、
地元では廃止しようとの声が大きくなりつつあるらしい、予想される動きである。
しかも、先導したであろう地元議員も議員引退とともに、直売所の会員も辞めるらしい。
悲しい負のサイクルが動き出したらしい。無責任の時代はいたる所に現れる
昨今は農協の直売所も廃止された。直売所前での江戸端会議より文章にする。