私の生まれた松山市は、瀬戸内海をはさんで、広島県とお向かいになる愛媛県にあります。私の父は広島県の出身です。
松山港からは、高速フェリーで2時間ほどで広島港に着きます。小さい頃から広島に行って、原爆資料館に何度も行きました。あそこに行くと、一瞬にして十何万という命が奪われ、人間の尊厳を何から何まで否定する原爆の惨たらしさを目の当たりにします。命をかろうじてとりためた方でも、死ぬまで病と差別で苦しい思いをしてきた被爆者の体験を、小さい頃から見聞きしてきました。
私の母は沖縄本島の出身です。本当に何もない戦争直後の厳しい時代に生まれ、大家族のなかで育ちました。母の祖父、つまり私の曽祖父は、天皇が絶対の時代のなか、天皇の写真である「御真影」を守る責任をしていました。しかし、天皇の写真が傷ついてしまったため、離島で自殺に追いやられました。だから、私の曾祖母は、女手ひとつで、沖縄戦の真っ只中、大家族を育てたのです。
戦後、波打ち際の洞窟のなかで遺骨が見つかったそうです。たった一枚の写真のために、曽祖父は冷たい水に浸かって命を落したのです。
私の祖父(故人)は戦後、家と田畑を軍用地に強制収用されたため、反戦地主のひとりとして、沖縄の平和、きれいな海と島、住む土地を取り戻そうと、一生懸命に運動した人でした。
絵本画家・いわさきちひろが大好きだった私の両親 いわさきちひろの絵が好きだった両親は、私を“ちひろ”と名づけました。
小さい頃から、いわさきちひろの絵や絵本に囲まれて育ちました。いわさきちひろさんの優しい絵は、私も大好きです。
生地の松山大学に入学してから、高齢者・障害者・子どもの福祉に関心が高まり、社会福祉と幼児教育が専門の短大に転学しました。
95年、沖縄で米兵による少女暴行事件が起こったとき、「こんなことを許さないためにどう生きるか」を真剣に考え、平和運動に飛び込みました。そして、原水爆禁止運動など日本と世界の平和を求める大きな運動のうねりのなかで、日本共産党と夫に出会うことになりました。
結婚後、松山から上京。建設業の労働組合である東京土建の書記局に勤め、社会保障の分野を担当することになりました。
組合員とご家族のくらし、健康を守る運動にとてもやりがいを感じ、また、すばらしい仲間にもめぐまれて、情熱をもって、仕事にまい進することができました。
いま子育て真っ最中です。超多忙な日常ですが、私のよき理解者であり最良の相談相手でもある夫と家事・育児を分担しあって、家族3人〔※〕元気いっぱいで生活しています。
(2007年1月 米沢ちひろ)