芭蕉年譜

・正保元年(1644)1才

    伊賀国阿拝郡小田郷上野赤坂(現在の三重県上野市赤坂町)に松尾与左衛門の二男として生まれる。幼名金作、長じて忠右衛門宗房。

●伊賀国上野赤坂町に出生。幼名金作、長じて忠右衛門宗房。父は松尾与左衛門。母は伊予国から名張に来た人の娘。姓氏不詳。兄は半左衛門命清。他に一姉三妹。

 

・明暦2年(1656)13才

●2月18日、父没す。享年未詳。

 

・寛文2年(1662)19才

    この頃、藤堂新七郎家へ出仕。嗣子良忠(俳号蝉吟)、当時21歳に仕える。

(藤堂藩伊賀付侍大将、藤堂新七郎家(食禄五千石)に召しかかえられる。その時期については未詳。台所方の奉公人、たぶん料理人であったか。当主良精の息主計良忠(蝉吟)の縁によるものと思われる。

現在「作句年次」の知られている最も古い発句

    春やこし年や行けん小晦日 宗房

が成ったのは、この年。

 

・寛文4年(1644)21才

●松江重頼編『佐夜中山』に「松尾宗房」の名で二句入集。俳書への初入集。○元政「扶桑隠逸伝」を刊行する。(かれは母を連れ身延山詣でに甲斐に来ている)

 

・寛文5年(1645)22才

●11月13日、蝉吟主催の「貞徳翁士二回忌追善百韻」に一座する。連衆は、蝉吟・季吟・正好・一笑・一以・宗房、(ただし季吟は脇句を贈ったのみ。

○大坂天満宮連歌所宗匠西山宗因、初めて俳諧に加点。

 

・寛文6年(1646)23才

●4月25日、蝉吟没する(25才)。内藤風虎編『夜の錦』に発句四句以上入集(『詞林金玉集』による)。

○西鶴、鶴永の初号で『遠近集』に発句三句入集。

 

・寛文7年(1667)24才

北村湖春編『続山井』に発句二八句、付句三句入集。

 

・寛文9年(1559)26才

    荻野安静編『如意宝珠』に発旬六句入集。

 

・寛文10年(1560)27才

●岡村正辰編『大和順礼』に発旬二句入集。

 

・寛文11年(1561)28才

●吉田友次編『籔番物』に発句一句入集。

 

・寛文12年(1562)29才

●宗房判の三十番発句合『貝おほひ』成る。自序に「伊賀上野松尾氏宗房釣月軒にしてみずから序す」と見える。伊賀上野の菅原社に奉納、後に江戸の中野半兵衛方から板行された。

●松江重頼編『誹諸時勢粧』に発句一句入集。高瀬梅盛編『山下水』に発旬一句入集。この年、江戸に下るか。(?)

 

・延宝2年(1674)31才

    3月17日、京都で北村季吟より『埋木』の伝授を受ける。

 

・延宝3年(1675)32才

    5月、東下申の西山宗因歓迎の百韻に桃青号で一座。連衆は、宗因・磁(じし)画・幽山・桃青・信章・木也・吟市・少才・似春・又吟。

    広岡宗信編『千宜理記』に「伊州上野宗房」として発句六旬入

    内藤露沽判『五十番句合』に発句二句以上入集(『芭蕉翁句解参考』による一。

 

・延宝4年(1676)33才

    山口信章(素堂)と両吟で「天満宮奉納二百韻」を興行し、三月『江戸両吟集』として板行。

  この年、夏、帰郷、猶子桃印を連れて江戸に下る。北村季吟編『続連珠』に発句六句、付句四句入集。巻末句引の「武蔵国」の部に「松尾氏、本住伊賀、号宗房桃青」と見える

 

・延宝5年(1677)34才

●この年より四年間、江戸小石川の水道工事関係の仕事に携わる。●内藤風虎主催の『六百番誹諮発句合』に二〇句入集。

●冬、東下中の伊藤信徳を迎え、山口信章との三吟百韻を興行。

 

・延宝6年(1678)35才

    一月、歳旦帳を上梓。旧冬来の信徳・信章との三吟三百韻を『江戸三吟』と題して、京の寺田重徳から板行。

    一〇月、調和系俳人の『十八番発句合』の判者をつとめる。

    『江戸通り町』

    『江戸新道』

    『江戸広小路』

    『江戸十歌仙』等の俳書に入集。

 

・延宝7年(1679)36才

    望月千春編『かり舞台』に「松尾宗房入道」と見え、すでに剃髪していた。

    西村未達編『俳諮関相撲』に、三都の点者18人の中の一人としてあげられている。

 

・延宝8年(1680)37才

    4月、『桃青門弟二十歌仙』を刊行し、桃青門の存在を世に問。

    8月に其角の「田舎旬合」

    9月に杉風の「常盤屋句合」の判詞を書き、『俳諸合』と題して刊行。栩々斎・華桃園と署名し、『荘子』への傾倒ぶりを示す。

    冬、江戸市申より深川に居を移し、泊船堂と号する。深川大工町臨川庵滞在中の仏頂禅師との交渉が始まったのも、この頃であろう。

 

・延宝9年・天和元年(1681)38才

    春、門人李下より芭蕉の株を贈られ、これが繁茂したので芭蕉庵と号するようになる。

    7月、京の伊藤信徳らの『七百五十韻』を次ぎ其角・揚水・才丸との四吟二百五十韻の『俳諧次韻』を刊行。

    7月25日付木因宛書簡が現存する最も古い芭蕉書簡。「はせを」と署名。

 

・天和2年(1682)39才

●3月、望月千春編『武蔵曲』に発句六旬、一座百韻一巻入集。この俳書によって「芭蕉号」が公となる。

●12月28日、江戸駒込大円寺を火元とする大火のため芭蕉庵類焼。高山ビジを頼って甲斐国都留郡谷村(現在の山梨県都留市)に赴く。(この時期については一考を要する。別記)

 

・天和3年(1683)40才

    5月、甲斐国より江戸に帰る。

    其角編『虚栗』(六月刊)に「芭蕉洞桃青鼓舞書」として跋文を書き与え、当時の俳諧観を吐露する。

    6月20日、母没す。享年未詳。

    9月、素堂筆の「芭蕉庵再建勧化簿」成り、寄進者五二名に及ぶ。

    冬、新築の芭蕉庵に入る。

 

・貞享元年(1684)41才

    8月、門人千里と『野ざらし紀行』の旅に立つ。

    東海道を経て、9月8日帰郷、4、5日間逗留。

    前年没した母の墓参をはたす。

    大和、吉野、山城を経て9月末、大垣の木因を訪ねる。

    冬、熱田から名古屋に入り、野水・荷号・重五・杜国・正平・羽笠と五歌仙、付加表六句を巻き、『冬の日尾張五歌仙』と題して刊行(荷兮編)。12月25日帰郷。

・貞享2年(1685)42才

●2月、奈良に出て、京、近江、尾張、木曽、甲斐を経て、4月末、江戸帰庵。9月間の『野ざらし紀行』の旅を終える。帰庵後しばらくして、『野ざらし紀行』初稿成る。

 

・貞享3年(1686)43才

    春、芭蕉庵で衆議判による「蛙」題の二十番句合を興行。芭蕉の、〈古池や蛙飛び込む水のおと〉の吟が見える。仙化の編で『蛙合』と題して刊行。

  八月、荷号編『春の日』刊行。発句三句入集。

 

・貞享4年(1687)44才

    8月14日、曽良、宗波を伴い、常陸国鹿島の月見に赴く。

    8月15日夜、鹿島根本寺の前住職、仏頂和尚を訪ねて一宿するが、雨。

    8月25日、『鹿島紀行』成る。この頃『あつめ旬』成る。

    10月25日、江戸を立ち『笈の小文』の旅に出る。

    12月末、帰郷。伊賀上野で越年。

 

・貞享5年(1688)45才

    2月4日、伊勢神宮参拝。

    2月18八日、亡父三土二回忌の法要に列席。

    3月19日、万菊丸(杜国)を伴って吉野の花見に出立、高野山、和歌浦、奈良、大坂を経て、

    4月20日、須磨、明石を巡遊、須磨に一宿。去冬江戸出立以来、本日までの紀行文が『笈の小文』である。

    4月23日、入京、

    5月10日頃、京を出る。

    8月11日、越人と信濃国更科へ名月を見に行き、長野、碓氷峠を経て江戸に帰る。この旅の紀行が『更科紀行』である。

    9月13日、芭蕉庵で十三夜の月見。素堂、杉風、越人、友五、岱水、路通、宗波、夕勢、蚊足ら参会。

 

・元禄2年(1689)46才

    3月上旬、荷号編『蹟野』の序文を書く。3月27日、曽良を伴って『奥の細道』の旅に出立。

    3月27日、曽良と共に奥羽行脚に出立。

    4月20日、白河関(新関)を越し、

    5月9日松島、

    13日平泉を経て6月16日象潟着。やがて北陸道に入る。

    7月15日金沢城下に入る。

    8月5日、山中温泉から小松に向かう折に曽良と別れ、代って北枝が随行。

    8月中旬末ごろ大垣着。

    9月6日、曽良、路通同伴で大垣を出船、伊勢に向かう。

    9月下旬、伊賀上野に帰郷。

    11月奈良に出て、京、大津に遊び、膳所の義中寺無名庵で越年。

    12月24日、落柿舎(または京の去来宅)で鉢加を聞く。膳所で越年。

 

・元禄3年(1690)47才

    1月3日、膳所を去り帰郷、3月まで滞在。

    3月中旬、膳所で珍碩、曲水と〈木の本に汁も膳も桜哉〉を発句に三吟歌仙を試み、珍碩編『ひさご』に収録する(8月刊行)

    4月6日、国分山の幻住庵に入り、7月23日まで滞在する。この間、京都、膳所、大津に遊ぶ。

    8月中に「幻佳庵記」定稿成る。出庵後は、大津義仲寺無名庵を居所とする。

    9月末、帰郷。冬、京都、湖南に出て、大津の乙州宅で越年。

 

・元禄4年(1691)48才

    歳旦吟を休む。

    1月上旬、大津で乙州の江戸下向餞別の

〈梅若菜鞠子の宿のとろろ汁〉

を発句とする俳諧興行。その後、帰郷。

    正月3日、膳所を去り伊賀に帰る。

    4月18日、洛北嵯峨の落柿舎に入り、5月4日まで滞在。この間、『嵯峨日記』を草す。この頃、『笈の小文』成るか。

    7月3日、去来・凡兆編『猿蓑』刊行。不易流行の考え方を具体的に示した撰集であり、「俳諸の古今集」と呼ばれた。

    8月15日、義仲寺無名庵で月見の会を催す。門人の乙州、正秀、酒堂、丈草、支考、木節、惟然、智月参会。

    9月28日、桃隣を伴って帰東の旅に出る。彦根、大垣、熱田などに立ち寄りながら、

    10月29日、江戸帰着。日本橋橘町の借家で越年。

 

・元禄5年(1692)49才

    2月18日、菅沼曲翠宛書簡「風雅三等之文」を書く。

    2月中に「栖去之弁」の文を執筆。

    5月中旬、新築芭蕉庵に入る。

    8月9日、許六入門。桃隣、嵐蘭、浄求法師らが同席。

    8月中に「芭蕉を移す詞」、『芭蕉庵三日月日記』成る。

    9月28日、膳所の診碩一酒堂一東下、翌年1月末まで芭蕉庵に滞在。この間、酒堂編『深川』収録の歌仙成る。

    冬、荒龍が大坂より東下、芭蕉庵を訪ねる。

 

・元禄6年(1693)50才

    3月下旬、猶子桃印が芭蕉庵で没する。享年33歳。

    5月5日、彦根に帰る許六に「許六を送る詞」を書いたか。

    7月中旬、暑さのため体が弱って、盆過ぎから約一カ月病気保養を理由に門戸を閉じて、人々との対面を絶つ。「閉関之説」の文は、この間の作。

    10月20日、深川で野披、孤屋、利牛を連衆として

<振売りの雁あはれ也ゑびす講>の四吟歌仙興行。後、『炭俵』に収録。

 

・元禄7年(1694)51才

    4月、『奥の細道』素龍浄書本成る。

    5月11日、次郎兵衛を伴って江戸を出立、

    5月28日帰郷。子珊編『別座鋪』が帰郷中の芭蕉に届けられる。

    閏5月28日、併賀上野を立って、7月中旬まで大津、京都、嵯峨落柿舎に遊ぶ。乙州宅、曲水宅を宿所とする。

    閨5月21日付猪兵衛宛書簡にて、芭蕉庵で暮す寿貞らの消息を報告するように依頼する。

    6月2日頃、江戸の芭蕉庵留守宅で寿貞が死去。享年未詳。6月8日付猪兵衛宛書簡にて、寿貞死後のまさ・おふう・理兵衛らの後見を依頼する。

    6月15日、京を去り膳所に移る。以後7月5日まで湖南に滞在、義仲寺無名庵を本拠とする。

    6月28日、野妓・利牛・孤屋共編の『炭俵』刊行。発句一三句、一座歌仙四巻入集。

    7月5日、無名庵を出て、京の去来宅に移り、10過ぎまで在京。

    7月中旬、帰郷。

    7月15日、盆会を営み

〈家は皆杖に白髪の墓参り〉

の句を作る。

●9月8日まで伊賀上野滞在。

●9月上旬までに『続猿蓑』の撰をほぼ終える。

●9月8日、支考・素牛・二郎兵衛・又右衛門らに付き添われて伊賀上野を立ち大坂に向う。途中奈良に一泊して、大坂酒堂亭を仮の宿とし、後日、之道亭に宿を移す。

●9月10日の晩より悪寒、頭痛に悩まされはじめ、20日頃まで毎晩繰り返す。

●9月26日

〈この秋は何で年寄る雲に烏〉の句成る。

    9月27日、園女亭で

<白菊の目に立てて見る塵もなし>の「九吟歌仙」興行。連衆は、芭蕉、園女、諏竹(之道)、澗川(一有)、支考、惟然(素牛)、酒堂、舎羅、何中。

    9月28日〈秋深き隣は何をする人ぞ〉の句成る。

    9月29日の夜、病気が再発、泄痢(下痢)により臥床。その後、容態は日ごとに悪化する。

    10月5日、病床を御堂前花屋仁左衛門方に移す。

    10月8日の深更、支考に病中吟

    〈旅に病て夢は枯野をかけ廻る〉の句を示す。

    10月10日、暮方より高熱に襲われ容態が急変す。夜に入り去来を呼んで談あり、その後支考に遺書三通を認めさせ、兄半左衛門に宛ては自ら認める。

    10月12日、申の刻(午後四時頃)死去。夜、淀川の川舟に遺骸を乗せて伏見まで上る。遺骸に従った者は、去来、其角、乙州、支考、丈草、惟然、正秀、木節、呑舟、二郎兵衛の10人。

    10月22日の昼過ぎ、遺骸を義中寺に運び入れる。

    10月14日、遺言によって義仲寺境内に埋葬。導師、直愚上人。門人・焼番者80人、会葬者300余人。

 

以後

 

元禄8年

○其角編追善集『枯尾花』刊行。

○嵐雪編『芭蕉一周忌』、

○支考編『笈日記』、

○如行編『後の旅』、

○路通編『芭蕉翁行状記』等の追善集が刊行される。

・元禄9年

○史邦編『芭蕉庵小文庫』刊行。

元禄10年

○沽圃ら編『続猿蓑』刊行。

元禄10年

○素龍浄書本『奥の細道』、京都の書騨井筒屋庄兵衛より板行される。