山梨文学講座 芭蕉、 天和二年 甲斐流遇諸説
萩原先生の見解 引用資料『芭蕉の全貌』萩原蘿月氏著 昭和十年発行 

  第三節 芭蕉庵の焼失

  一、焼失の時日

 焼失の時日に就いて古来天和二年冬説と天和三年冬説とあつた。天和二年冬説は『菅菰抄』・『芭蕉翁傳』・『一代録』・『行往略記』・『句選手考』・『次郎兵衛物』その他他近頃の芭蕉傳悉く之を是とし、天和三年冬説其角の『枯尾華』の記事を本として、『略傳』・『芭蕉翁全集』・『春秋』等之に従っている。私はやはり天和二年冬誰がよいかと思ふ。『武江年表』に據ると、此火事は天和二年十二月二十八日駒込大円寺から出て、本郷・下谷・神田・日本橋・浅草・本所・深川に迄延焼した大火であった。『虚栗集』に、

 畑の中に年の昏けるを
かすむらん火々出見の世の朝渚   似春

 とあるは、即ち天和二年十二月の火事の惨害を云ったものである。似春は小西氏・当時恐らく本町に仕んでいたものだろうから・其附近の河岸の状況を詠んだのであろう。天和三年冬焼失とすると、第一芭蕉庵再興の天和三年九月の素堂の勧化簿が変になる。次に焼失後甲斐へ行って、五月江戸へ帰って来た事も貞享元年となり、同八月には甲子吟行と出かける事になって、芭蕉庵再興の時日と合はぬばかりでなく否芭蕉庵へ入らぬとしても餘りあはたゞしくて信ぜられない。『枯尾華』け文章は其角の校合などは考へて居ないやうだから当てにならない。例へば芭蕉野分の句は天和二年三月刊の『武蔵曲』に出ているに拘らず、其角は之を貞享元年秋の句にして出している。蓼松の『行仕略記』にも
 
今年(天和二年)冬十二月芭蕉庵焼亡す。此回禄の事は其角が終焉の記に三年と出しより大方の書三年とす。しかれども二年たる事正しき證項有こゝに略す。三年と書しは其角が誤なり。素蓮はこれを駁して、

 恐ラクへ蓼松・梨一等ノ誤説也。天和元年草庵造立シ、同三年焼亡アリテ、芭蕉ノ薄命ノ程モ知ラレ、實ニ玉ノ緒ノハカナサモ思ヒ遣ル。云々……
 と論じているが、之は其角の美文を過信した結果であろう。

  二 悟発といふ説

 草庵焼失には芭蕉も余程困ったと見え、北杖の火難に同情した手紙 にも
 ……池魚の災承り、我も甲斐の山里引きうつりさまざま苦労いたし候へば御難儀のほど察し申候。……云々

 とあるのでよく分ろう。「次郎兵衛物語」に、

 芭蕉の直話として、川に飛込んだ所、火が波の上を這ってくるので、流れ寄った古蓑を以て人を拂っているうち、蓑に火が附いたので拾てゝ了った。頭だけ出していると・顔に火が吹きかけるので、頭を出したり、浸けたりした。はじめは寒さを感じなかったが、後には凍へ死にさうになった。やがて下火になって来たから、浅い所へらうとすると、足がフラフラして歩けない。後先を見廻すと、道具や人が沢山流れて来
る。自分は首にかけた出山の佛を念じ、観音経を誦ていると、大い櫃のやうなものが二つ三つ流れて来たので、それにつかまり、やうやく浅みに這上ったら、誰れかが引上げてくれた。……

 とあるが、うまく想像化したものである。魯庵の『桃青傳』によると、

  天和二年春正月、江戸に霖雨・大洪水があって、葛飾は一圓湖水となった。芭蕉は前年火に会ひ、更に此水害に苦しめられた

 とあり、「次郎兵衛物語」にも、

  去年(天和三年)の水難以来芭蕉は癪気なほ又起り云々……

 とあるが、例へ水難があったにせよ、芭蕉は葛飾附近に居る筈もなかろうから、それがため苦しめられたとか、或は病気になる譯もあるまいと考へる。『枯尾華』に、芭蕉の火難に就いて
  是ぞ玉の緒にはかなき也。爰に猶如火宅の変を悟り、無所住の心を発して……云々

 と巧に書いてみるが、是が玉の緒のはかなき初めであるかどうか分るものでもなければ、今更眼の覚めたように、猶如火宅の変を悟り、無所住の心を起して、旅立つやうな芭蕉でもあるまいと思ふ。常時たまたま芭蕉が佛頂會下に参し、正念工夫を凝らして居った時だから、其角が猶如火宅云々の法語を以て、芭蕉の心理を美文的に想像したのであろう。 山崎氏は甲州行を此悟発に基くものと考へているようだが。それは其角の想像を正直に取った謬見であろう。今頃悟発などといふべき苦労の足りない芭蕉とは考へられない。芭蕉駕の甲州行は宗教的の悟発でなく、物質的に困り切った結果である。今迄世話になつた ト尺や杉風の家も焼けて了った。それに又暮の事で、焼出された人の世話にもなつて居ら れないといふやうな所から、甲州へ先づ立退く事にしたのであろう。『次郎兵衛物語』によると、

  次郎兵衛が江戸の大火を聞き、天和三年正月六日伊賀の上野 を出立し、十一日の暮江戸へ入って深川へ来て見ると、残らず焼けて了っている。芭蕉庵は何処だろうと人に問うたけれど知る者はない。あちこち探してる中に医者らしい人に逢った。聞くと、芭蕉翁の事なら二本榎の上行寺に避難していると教へてくれた。……

 などと面白く作ったいる。医者に逢ったと云って暗に其角を利かし 、その菩提寺なる二本榎の上行寺を捻出する所など、脚色も巧みものである。

 《筆註》
 『次郎兵衛物語』は萩原先生の説のように本当に偽書か創作書なのであろうか。次郎兵衛は芭蕉の伊賀の側近で、芭蕉終焉の時は末期の世話をした人間で、まったく偽書など書く必要の無い人物と思われる。この本は手元ににあろうので、いずれ紹介する。

 三、甲州行

 焼け出されてすぐどこへ避難したものかそれは分らない。叉そのまゝ甲州へ赴いたものか、或はしばらく知人の厄介になっていて、春になって甲州へ行ったものかそこも分らない。去留の『全集』によると、駿河臺中坊家の屋敷に寓居したのは此時であろうとあるが、恐らく之は芭蕉庫の記事中の年数によって推定したのだらうが詳かでない。湖中の『略傳』に、

  此年(天和三年)の冬深川の草庵火にかこまれ云々。其次の年佛項和尚の奴六祖五平といふものゝ情けて甲斐に至り、かの六祖が家に冬より翌年の夏まで遊ばれしとぞ。……

 とある。此文意は天和三年の冬から貞享元年の夏迄滞在という事であらうが、此年の冬云々と云って、祖次の年とあると、天和四年(貞享元年)五平の情で甲斐に至り、同年冬から貞享二年の夏迄居たように思はれて、甚だ紛らはしい書方と云はなければならぬ。
 
『春秋』には、

   ……五月甲斐ニ行卿シ、六祖五平ガ家ニ止鐸。……

 とある。之は『枯尾華』の、

  ……其次の年大の年(天和四年)夏の半に甲斐が根に暮らして、
富士の雪みつれなければ、云々……

 とある文から推して、旅行を夏としたようであるが、諸書五月迄滞在とあって、五月
行った事にはなっていない。、例の「次郎兵衛物語」は甲州行とせず、

  天和三年朝鮮人来朝の事があるので、焼失した神社・仏閣・武家・町家の造作を急ぐように申渡され、深川邊は五六十日で大半建直った。芭蕉暗も四十四五日には引越された。盖し、芭蕉は中橋の沾徳、茅場町の其角、本所の素堂、堀江町の不
ト、呉服町の調和、濱町の嵐雪等へ招かれ、庵に帰る事は稀であった。自分(次郎兵衛)も翁の留守をつとめ、四月伊賀へ帰り云々……

 とあるが・小説らしく信じられない。
 甲州行は何人を頼みにしたか,異説多く一定しない。通説は六祖五平を頼ったとある。
成美の「随斎諧話」に、

  芭蕉深川の庵池魚の災にかゝりし後、しばらく甲斐の国に掛錫して、六祖五平いふものをあるじとす。六祖は彼もののあだ名なり。五平かつて禅法をふかく信じて、仏頂和尚に参学す。彼者一文字だにしらす。故に人呼で六祖と名づけたり。
はせをも又、かの禅師の居士なれば、そのちなみによりて、宿られしと見えたり。云々……

 とある。之に據れば五平は甲斐の産と見える。仏頂の奴僕とあるか ら、臨川庵往来の
時・芭蕉と知合いになったのだろう。又湖中の『略傳』に一説として、

   一説に、甲州の郡内谷村と初雁村とに久しく足をとどめられ し事あり。初雁村の等力山萬福寺といふ寺に、翁の書れしも の多くあり。又初雁村に杉風が姉ありしといへば、深川の庵 焼失の後、かの姉の許へ、杉風より添書など持れて行れしなるべしと云。

 とある。郡内とは『略傳』に・自書云、甲斐の國郡内と云所に至る途中の苦吟、「夏馬ほくほく我を繪に見るこゝろ哉」とあるから、此時の旅中吟と思はれるけれど、『句選年功』に、或人の家蔵眞蹟の書翰にとあって、木曾路にて発句の事、此度は日数の間も無之故、発句も二三句ならでは致さず候、其くせ不出来に候。漸く浅間邊にて、 馬ぼくぼく我を繪に見る夏野哉、
 此句ばかりかと存候。云々。
  柑水丈  はせを

 の文を挙げている。叉松瑟の「水の友」享保九年刊には画讃と趣して此句が出ている。考へると郡内途中の吟を直して、後に浅間旅行の吟にして了ふ事も変だし、甲州行の次手浅間へ廻った証左もないし、かたがた郡内途中吟があやしくなる。画讃式の方は昔作った句を繪にあてはめて題する事もあろうから、年代に関係もなからうが、旅中吟、はさうは行かない。因に此句は『赤双紙』に、

  ……はじめは夏馬ほくほく我を繪に見る心かな」 とあり。後直 とあるが、『一葉集』には、
馬の遅行我を繪に見る心かな

 とある。白亥の『眞雄の鏡』に高山麋塒の子の記として、

亡父幻世(高山伝右衛門繁文、俳名麋塒、後に幻世と改)懇甲州郡内谷村へも度々参られ、ある時は一唱など同道す。云々……

 とある。之に據ると郡内は麋塒の郷里であったように思はれる。
『一葉集』に麋塒・一唱・芭蕉の三吟歌仙が二巻出でいるが、之は芭蕉庵焼失後郡内へ行っての作であるか、或はそれ以前の作であるか分らないが,郡内が芭蕉とかゝる関係の土地であるとすると,甲州行は郡内の高山氏を頼ったとも考へられよう。初雁村に杉風の姉がいるといふ説は詳かでないが、若しそうだとすれば、焼け出された後の一時の寓居には都合のよい所であらう。
 又『一代録』に、

  ……甲州都都留郡内谷村と云所に、白瀧とて名高き名所有、久住
といふ人にいざなわれて、彼所に宴す。
 勢ヒあり山家も春の瀧津魚 芭蕉。
久住は磯部源左衛門と云御旗本也。知行四百八十石。爰に枕
して遊歴ありとなん。云々……

 ともある。郡内には多く知人があったと見える。
 去留の『全集』に、

  ……七月(延宝九年)再び富士に登り、冬の半まで吉田谷村に滞
留し、甲斐国を遊歴あり。富士の自画讃に、

   雲霧の暫時百景畫きけり。
   甲斐に遊び、山中にて、
  山購のおとがひ閉るむぐらかな。
   谷村の白瀧、
  勢ひあり氷庄滑ては瀧の魚
 
  と聞えたるは此時の事にや。
 とある。雲霧の句は『芭蕉句選拾遺』に、百長をつくしけりとあり、勢ひありの句は麦水の『新虚栗』に、氷滑てはとある。山賤の句は甲斐山中と題して、『続虚栗』に出ているから、貞享二年夏『甲子吟行』の帰途甲斐遊歴の吟であろう。

  四、芭蕉庵再建

 天和二年五月芭蕉は江戸へ帰って来た。山崎氏・樋口氏は芭蕉の帰庵を其角の招請によるやうに言うているが詳かでない。江戸へ帰った芭蕉は直に芭蕉庵へは入らなかったようだ。云々