飯田蛇笏氏著作集「芭蕉に就いての感想」(一部加筆)
(『俳句研究』昭和10年1月号「芭蕉特輯」)
芭蕉に就いての感想
概ね芭蕉を看るに當つて、衆目のむかうところかがその閑寂幽玄の詩境にある。まことに夫れはあたらずと雖も遠からざる見方であつて、叉、芭蕉といふ人物それ白身が、まがうかたなく、可成り深く其の処を目指してゐたのだから、観察がひどく外づれるわけもないないのだけれどもど。たゞ這の一般的な看方を冷撤に所断すれば、外殻からいくぶん概念的に向ふとこみの遺憾があり得るものとして、一方、内面的に芭蕉を検討し、芭蕉に溶けこんでの批判に向ふとの差をしめすことになりはすまいかと思はれぬこともない。
すなはち、内照明に對する外照明的な遺憾さである。この内照明的な看方による輓近における文献を渉猟する中に、徳窟翁の近世日本国民史に於ける(翁によれば)彼は一生を通じて赤子のこゝろを失はなかつた。彼の心の底には涙の淵があつた。彼は人生の味氣無さを深く悟つてゐた。彼ば實に多恨多情の漢なのであると同時に、
「決して時代と没交渉の人間ではなかつた。彼は落伍者でもなく、叉た先登者でもなかつた。彼は慷慨家でもなく、叉た改革者でもなかつた。彼は時代を呪はす叉た時代より祝はれなかつた。彼は時代の調歌者でなき如く、叉た時代の謀反人でもなかつた。彼は唯だ一切を順受したまでだ」
と喝破する點に夫れがあり。小宮豊隆氏の芭蕉観に於ける「芭蕉」に可成り深くこれに触れてをるものを看取出來るし、ことにその俳諧の段に至つて多分にその點を認めることが出來る。それから叉、故芥川澄江堂の文稿が相當------例の歪曲味をたもちながら鋭く斬り込んでいつてゐる。主として澄江堂謂ふところの、被の矛盾を観るといふ鮎にかゝつて内照明的な冴えが看取されるのである。これを要するに、人間芭蕉、文藝家芭蕉の内照明的検討にあつては、より多角的な境地を示してゐることの発見に帰せしめらるべきである。この點いかにも然うであつて、吾人は先づ作家芭蕉としての場合、一般観察の如く閑寂境のいちじるしいものを認めるとともに、彼が多角的縦横な才能が、人生の瀞かな自然の流れにしたがつて、躍動し静止し或は明滅して行つてゐることを看るのである。而して其の詩的生命の脈榑は、たとへば左のやうな引例づけられる處へまではつきりと表はれてゐるのである。森川詐六の作品の中に、
名将の橋の反りみる扇かな 許六
といふのがあるが、これに封する芭蕉野の批評は、「この句は名将の作にして句主の手柄は少しもなし」といふのであつた。この批評は句境の幽玄を教へたのでもなければ閑寂をさし示したのでもないのである。芭蕉門下多しと雖も巣して能く芭蕉の此の簡潔に適ぎて説くところを理解し得たものが多かつたかどうかは凝はしく思はれるくらゐである。
なぜかならば、彼名門の一人たる此の作家に於いてすでにまさしく恁ういふ作品を産んでゐることが事實であるからである。作品は飽くまでも詐六その人の作品であるが故に、その作品の取材たる武将の作品であるべきだなどと云ふことは三才の児童と雖も肯き難いことは當然であるけれども、爰に横はるところの芭蕉の理論は、まことに這の詩の根本を抑へてゐるのである。此の許六の作品の極端さが、芭蕉をして若干毒舌味のある揶揄を吐かせたが爲めに、これをしるほどの俳家にして、許六の一作を蔑むものはあつても、この許六的作句方向をとつて盲目的に我れみづからが驀進をつづけてゐることを自覚しない者はざらにあると思ふのであるが、どうであらうか。芭蕉示寂後の俳壇として、天明に至つて既に著るしく此の名将の作にして句主
の手柄にはあらざる紙の作品が満ちて來るし、さらに、世紀を閲して噴飯に値すべきことには、芭蕉椰楡するところの名將的作品が、いよいよ氾濫し來ってゐるのである。ただ一見、名将ならざるかの如く慨面を冠つてゐることには名將が背廣の紳士に変ってをり、木材の反橋が鐵筋コソクリートによつて造られてをることだけである。實にたゞそれだけである。けれども之れは自ら別個の問題である。芭蕉は材料如何を言ふたのではないのであつて、彼が持ち合せた南蛮紅毛趣味の如き、その詩作の事實に照らして日常茶飯事であつた限り、取材の鐵筋コンクリート橋たると起重機たると、持つに扇に替ゆるにマドロス、パイプをもつてするも、然ういふことに間題はあり得ない筈である。さうした枝葉の間題は姑く別として----否、別ではない當然取材の如きは如何様にも自自由であり得べきだとして、もつと根本的な間題に触れて、其の處に絶大な信念と透徽した理論とを持してゐた芭蕉は、當然天地霄壌の閉におのづからなる自由闊達な多角的な制作に出づべき源泉をたゝヘてゐた。この源泉から、幾多縦横なるものが流れ出したことはおほむね窺はるべきことでなければならぬ。
念の爲めに、此の概要の説の説に加へて、彼自らの作品の一つをもつてしておく。
昨日からちょつちょつと秋も時雨かな 芭蕉
この作をもつて単なる主観句と云ひ得る者があらうか。而して又単なる客観句と云ひ得るものがあらうか。況んや叉単なる輸廓的写生をや、安易なる自由律をやである。而も、現代写生主義者にせよ自由律作家にせよ、その何派たるをとはす、茫々四百年、芭蕉が制作的力量に魅了せられざらんとしても得ないのは、そもく奈何の理ぞやである。と云ふのである。近來やゝ』下火になつた----といふよりは問題外に押し遣られてしまった當燃な運命にあるところの、(ひとしきりはよく問題に上つたことだつた)客観論にしても主観論にしても、悉ういふ間題にまで類推して、低うした単なる一つの作品でさへ、それに解決をあたへることが明瞭であるし、これに對して、地下に於ける芭蕉の苦笑を創造し得ることは甚だ容易であるのである。
先年のこと、近江湖畔一帯の探勝の折、義仲寺に存する芭蕉の墳墓をたづねたことがあつた。そのとき、昔人にとつて最も感銘の深かつたものは、その墓石であつたことを独記する。その折の手記「素描旅日記」に恁ういふことをしるしておいた。
「墓石の丈ヶ一尺五寸を出です。形容薩摩藷に似て、腰据はり、頂きに至るに從つて石やゝ削げて尖らす。地黒く、克明に芭蕉翁の三字を刻す。墓邊、芭蕉の葉、微かに風に鳴り、秋日影あたりに漲る。墓石儼として、驕れるに非ず。悠揚として、驫飄逸に過ぎたる感を興へす。敬虔にして卑下に失せす。天下無敵のすがた。宛然松尾忠右衛門宗房が個性そのものを示現するに似たり。石、素、山野に轉せるものゝみ。誰か能く蕉翁が碑たるを知らんや。しかも門弟うちつどひ、歿後の蕉翁がすがたをいかにかのこすべきを相はかつて、その結果、無碍圓満なるこの石こそは擇ばれ來りぬ。芭蕉敢へてはかるところなし。思ひのおのづから門弟のこゝろを流れてこゝに至るを偉とす。世上泡沫の塵事、傲ふにこれに及ぶものあるや否や。----」と。
吾人寡聞にして、いまだ芭蕉の此の義仲寺に於ける墓石そのものに触れての協力なる言説に接することがなかつたが、他はしらず、吾人においてこの感銘は、けふ尚まざまざとこゝろに生きて、而もますますはつきりと、彼の天性なり、作品の因つて來る所以なり、その全人格を現じてあまりあることに思へるのである。若し、俳諧佛の圓光を云爲するがごとき場合があげとするならば、こゝに認むるところなくして、いかでか他にこれをもとめんやである。