誤伝山口素堂の背景

  一、素堂研究のきっかけ

 素堂の名がはじめて世の中に表れたのは素堂が二十七歳の時に刊行された伊勢に住む加友撰の『伊勢踊』である。
 県内で素堂の生涯について最初に触れたのは山梨県歴史書のバイブルである『甲斐国志』が初見である。その編纂は大変な労苦を伴うものであった事は、素堂の調査を開始してはじめて理解できた。しかし最近『甲斐国志』の記述で疑問視される箇所が研究書などに紹介されているが、素堂の記載については現在もそのまま信じられていて、諸書の研究や紹介には『甲斐国志』(以下『国志』)の内容はそのままに引用されて、更に史実でない著者の私見を加えて誤伝の部分が拡大しているのが現状である。『国志』は不詳な部分は後世の研究に委ねている。 『国志』によると素堂は私の住む白州町の上教来石集落(当時は教来石村)の字山口に生まれ、幼少の頃家族とともに甲府魚町に出る。元来家は富裕で時の人は「山口殿」と挙げ奉る家柄であったという。二十歳の頃に江戸に出て幕府儒官林家の門に学び、諸侯に講義する俊才であった。西山宗因や松尾芭蕉を友として林春斎と並ぶ人見竹洞とも交友を結び、元禄八年には父母の墓参りの為に帰郷して、かって僚属として仕えた甲府代官桜井孫兵衛に再会し、当時下流地域を水害で悩ましていた濁川の改浚工事の手伝いを依頼された。素堂は父母の国であり、住民の難苦を救うために快くこの件を承諾して一旦江戸に戻り翌年に桜井孫兵衛の手代として武士に戻り、工事の陣頭指揮をして桜井孫兵衛を助けて工事を完成する。後江戸に戻り松尾芭蕉と共に俳諧活動を再開して正風を確立した これが私たちの知る山口素堂伝でこれは『国志』の説である。私が山口素堂の研究を始めたきっかけは単純で、「目には青葉山ほとゝぎす初鰹」の一句は全国でも知らない人がない位有名であり訪れる人も多いので、素堂を町の文化興しに利用しない手はないと考えたのが始まりである。

  二、山梨県の調査から

 さて調査の手はじめに『白州町誌』・『甲斐国誌』・『北巨摩郡誌』等を読む。町内の石碑や痕跡を改めて調査するが新しいものばかりで残存する資料も少なく途方に暮れる。県内の刊行書の内容は大同小異で時代経過とともに素堂家は甲府府中魚町の酒造業を営む家であり、教来石の家は郷士であったとの説が追加されている文学研究書に出会う。また素堂の墓が在ると云う甲府尊躰寺に行き調査を始める。門外漢の私には理解出来ない点が多く何度となく訪れる。素堂の母の墓石や素堂を模した地蔵が新しい時代のものと感じられたし、親族以外に墓を訪れた跡が無い事も一抹の淋しさを感じた。私は甲斐が生んだ全国に誇れる文人素堂の墓前には線香の煙が絶えないものと信じていたのに現実は紙上だけの賛美であったのである。墓所には埼玉の俳人山口誓子が手向けた卒塔婆が傾いて立てかけてあったのも印象的であった。山梨県文学の歴史上、山口素堂は最上位に位置する人物である。諸本の中では無く人々の心の中に生きる素堂の希薄さが私には信じられなかった。『国志』を再度読むがどう読んでも素堂が教来石村の生まれとは書してはいない。「祖先は甲斐国巨摩郡教来石村字山口の生まれ」としか読み取れないのである。素堂に関する諸本を読むと「素堂は甲府魚町の生まれ」「江戸の生まれ」などの諸説が入り混じっている事が分かってくる。しかし山梨県の素堂に関する歴史書は「俳人素堂」として扱い、その内容は『国志』の丸事引用で実際に再調査した形跡は見られずに、その後甲府文庫の生みの親功刀龜内氏の『甲州俳人伝』素堂の項と著名な素堂研究者の論文が大きく作用して、以後の素堂伝として現在まで伝わって既に定説化しているのである。最近では甲府城も大掛かりの調査の結果で、長年にわたり天守閣の無い城とされていた定説が覆った。度々歴史調査の難しさに直面するが素堂事蹟の真実を求めて『国志』以下の定説を捨て白紙の状態で素堂の生涯を追い求めることを素堂の墓前で誓い調査活動を再開した。

  三、諸書を読み直して見たら

 県内外の古書店をはじめ図書館巡りを始める。仕事の合間の調査活動であり時間の遣り繰りに苦慮する。各地の知人からの調査協力もありは思わぬ進展を生む。素堂の足跡は芭蕉関係の書に多くの記載があり、その抽出を重ねる。しかし『国志』以前のものには素堂が教来石村字山口はおろか甲斐との繋がりさえ実証する文献一向に現れてこない。『国志』は素堂が没後百有余年を経て編纂されたもので「素道」として紹介されその筆調は他に見えない講談調で、この項は素堂の事蹟が主ではなく、元禄九年の甲府代官桜井孫兵衛の事跡を素道の項を借りて記載した内容で、その基は濁川の傍らにある「桜井社」と孫兵衛の親族である斎藤正辰建立の孫兵衛の「顕彰碑」である事も解かった。素堂の事蹟は顕彰碑には記載はなくそれを窺う記述も見えない。又現存する桜井社の建立も孫兵衛の死後で生祀では無いことは明白になった。(孫兵衛の没年は享保十六年、建立は十八年)
 『国志』の記載はその後の素堂伝に大きな影響を及ぼしている。特に濁川改浚工事の責任者の件は確かな資料を持たずに有名になって独り歩きする。虚実でも複数の同様な記事は読む人に史実として伝わりしかもそれは定説となる大きな要因ともなる。定説化の主因は高名な人が書す事と繰り返し同説を掲げる事であり、これは歴史に良く見られる「歴史洗脳」とも云える。『国志』以外に素堂の動向を伝える文献は何処にあるのであろうか。
 素堂周辺の資料からは元禄九年の動向は不詳でこれは素堂の生涯で度重なる不幸に原因していると思われ、それは元禄五年の妹の死去、元禄七年には朋友松尾芭蕉と妻の死去、元禄八年には長く連れ添った母と死別、更に元禄九年一月には親友人見竹洞が死去して生涯で最も辛い時期となっていた。こうした事実は『国志』には記載されてはいない。これまで「素堂は妻を娶らず」従って「素堂には子供がない」、そして素堂の母の没年は甲府尊躰寺の墓石の元禄三年刻字 老母山口氏市右衛門尉建立を根拠に元禄三年が定説になっているが、素堂には妻も子供もいて嫡孫まで確認でき、しかも素堂の母の没年は確かな資料で元禄八年夏の事である。
 元禄八年には素堂は亡き母の生前の願いの甲斐身延詣でに江戸深川を出発する。道中記には俳諧や漢詩もあるがこれも山梨県ではどうした事が紹介される事が無い。素堂は尊敬する元政上人が母を伴い身延詣でをしたのを羨み身延詣でに出立したのである。道中の紀行『甲山記行』の「甲斐は妻の故郷」「甲斐府中外舅野田氏を主とする」の言は素堂の出自に及ぶ大切な部分である。野田氏は確証がないが当時の甲府代官野田勘兵衛が有力で勘兵衛の父同じく甲府代官野田七右衛門で代々甲府在住の家柄で、野田氏は素堂の妻の父であるがこれも諸本には見えない。素堂は寛文元年に江戸に出るとされるが、前年の万治三年には府中は大火災に見舞われ府中は殆ど消失する。山口家が如何に富豪であれ家督相続した長男素堂が母を連れこの時期に江戸に出ることなどは有り得ないしそうした記載資料は見えない。寛文年間の山口家市右衛門の母は今諏訪村に在住していたことが資料により判明している。素堂と山口屋市右衛門家は資料からは関係のない家系と思われ後世の作為と結びつけがこうした誤伝を生む結果となったのである。
 当時の俳諧での地位と信頼度は芭蕉より素堂の方が高く、芭蕉も素堂を先生と称した事は有名である。現在俳諧中興の祖とされる芭蕉の俳論の中には既に素堂が予兆を表わしていて、これは資料で確認が出来るのに何故か無視され論外になっている。素堂は文学の世界では芭蕉の陰に追われ業績を認めてもらえない犠牲者でもある。

  四、調査活動から見える素堂の事蹟 

 芭蕉時代の素堂の活躍と事蹟については正確に伝わっていない。幕府儒官人見竹洞(宣卿)とは特に親しくその親交は深く長い。竹洞は素堂の家を訪れた時の様子を日記に書しているが、その屋敷地の広さは広大なものである。また元禄六年に取得した深川の抱地は芭蕉庵に隣接するか、包含する場所で四百四十余坪の敷地で幕府郡代伊那半十郎の屋敷跡地である。
 素堂は門人ではないが水間沾徳を林家に紹介したり、甲斐谷村の藩主で後の幕府老中になった秋元但馬守に芭蕉と同じ伊賀出身の和田蚊助を俸禄二百石で仕官させている。芭蕉の筆頭門人とされる宝井其角や服部嵐雪も素堂の周辺の人で俳諧集の序文や跋文を与える程の間柄であった。素堂が序文・跋文を与えた俳諧人は多く時の有名な俳人は全て素堂の指導を請い慕ったと言っても過言ではない。重ねて言うと素堂は俳人ではないのである。一時はその道に没頭しようとした時期もあったが、それは芭蕉に任せて学識者として地方に出かけそれは晩年まで続いた。芭蕉亡き後には俳諧の復興を目指して活動し京都とには頻繁に出かけている。晩年の活躍は『国志』も語られていないものである。晩年は困窮した様な記述書もあるがそれは違う。素堂は没年の前まで活動を続けたのである。
又芭蕉の俳諧集の中には素堂の編集意見や素堂と模索した新風論もあり、二人で奏でた数々の試みは絶妙の二人三脚と賞賛する文学者も居られる。
 『江戸両吟集』京都の伊東信徳を加えた『江戸三吟集』や素堂と芭蕉の心の葛藤を描いた「蓑虫句文の遣り取り」や『甲子吟行』(『野晒紀行』)の絡み等は当時の俳人の追随を許さないものである。
 しかしこうした素堂の事蹟を芭蕉の事蹟にすり替えてしまった功罪は多きくそれが後世の素堂伝に大きな影響を与えた。   
 私は素堂と芭蕉の句作の優劣については触れる事は出来ないが、客観的に見れば新風を提示する素堂は芭蕉等の俳人に大きな示唆を与えていたのである。その素堂の句に奥行きがないと云う指摘は当たらない。
 芭蕉中心の俳諧論は戦国時代の武将中心の記載内容と良く似ている。織田信長が本能寺で明智光秀に殺害されたと云う定説も、矢切止夫氏が資料をもって史実で無い事を訴え、最近でもその説を取る人もいるが、歴史学界には何の変化も起きない。一旦定説になるとなかなか訂正されないのがこの世界なのである。
 隣の長野県の考古研究者は縄文時代既に稲作があった資料をもって主張したが、多くの考古学者は一笑に伏していた。最近では実証される遺跡が出現し定説の改変が迫られている。一部の学者の説を定説化してしまった事が起因している。素堂や県内歴史についても定説を繰り返すのみでなく確かな資料や遺構の出現が期待される。
 話は横道に逸れたが素堂の功績も長年にわたって芭蕉信仰で来た文学界では見直される事はなく、最近更に希薄になって来ている。素堂の事蹟資料は現在でも生きているのである。表面に出ないだけの事である。
 私は調査では作品よりは生活の一端を窺わせる部分の記述を重視した。また序文や跋文、及び俳文や前書きを拾うことで素堂の事蹟と人物像を探ることに専念した。理解不能の箇所については師と仰ぐ小川健三氏にお願いして理解を深めるた山梨県立図書館に納められている数々の素堂関係書のうちで特に俳諧作法秘伝とも云うべき「素堂口伝」は重要なもので、素堂没後も与謝蕪村や小林一茶にも少なからず影響を与えていたのである。俳諧にのめり込む事のなかった素堂の句作を「奥行きがない」「追求心がない」「愚作が多い」などは素堂を理解されない人の妄説で、俳諧を業とする人と一芸として俳諧を嗜む人を一緒にして論じる事は避けるべきであり、素堂に対するこうした評は素堂の人間性にまで及ぶ事もあるので十分な配慮が必要である。素堂は芭蕉や他の俳人の様に業俳宗匠では無く、広い活動を展開し俳諧はその一部分であったことの理解が欲しい。