素堂消息 素堂、芭蕉にさきがけ「不易流行」を唱える
☆貞享4年(丁印)1687(46才)
◇素堂が芭蕉にさきがけ「不易流行」(『続虚栗』序文)を唱える。
素堂
十一月、其角の『続虚栗』に序文を与える。発句五、入集。
風月の吟たえずして、しかもゝとの趣向にあらず。
たれかいふ、
風とるべく影をひろふべくば、道に入るべしと。
此詞いたり遇て、心わきがたし。
ある人来りて、今やうの狂句をかたり出しに、
風雲の物のかたちあるがごとく、
水月の又のかげをなすに似たり。
あるは上代めきて、やすく、すなほなるもあれど、
たゞにけしきのみをいひなして情なきをや。
古人のいへる事あり。景のうちに情けをふくむと、から歌にていはゞ、
穿花?蝶深深見
點水蜻蛉靖???飛
これこてふとかげろふは、所を得たれども、
老杜は他の國にありてやすからぬ心と也。
まことに景のの中に情をふくむものかな。
やまとうたかくぞあるべき。
又きゝしことあり、詩や苛や心の緒なりと、
野渡無人船
月おちかゝるあはぢ嶋山などのたぐひ成べし。
猶心をゑがくものは、もろこしの地を縮め、
吉野をこしのしらねにうつして、方寸を千々にくだくものなり。
あるはかたちなき美女を笑はしめ、色なき花をにほはしむ。
花に時の花有、ついの花あり。時の花は一夜妻にたはぶるゝに同じ、
終の花は、我が宿妻となさんの心ならし。
人は皆時の花にうつりやすく、終の花にはなほざりになりやすし、
人の師たるものも、此心わきまへながら、他のこのむところにしたがひて、
色をよくし、ことをよくするならん。
来る人のいへるは、
我もまたさる翁のかたりけることあり、
鳰の浮巣の時に浮き時にしづみて、
風波にもまれざるがごとく、
内にこころざしをたつとべし。
余笑ひてこれをうけがふ。
いひつづくれば、ものさだめに似たれど、
屈原楚國をわすれずとかや、
われ若かりし頃、狂句をこのみて、
今猶折にふれて、わすれぬものゆへ、
そゞろに辨をつゐやす。
君みずや漆園の書、いふものはしらずと、
我しらざるによりいふならし。
こゝに其角みなし栗の績をゑらびて、序あらんことをもとむ。
そもみなし粟とは
いかにひろひのこせる秋やへぬらんのこゝろばへなりとや。
おふのうらなしならば、なりもならずもいひもこそせめ、といひつれと、
こまの爪のとなりかくなりと猶いひやます。
よって右のそゞろごとを、
序なりとも何となりとも名づくべしと、
あたへければうなづきてさりぬ。
江上隠士素堂書
入集句(抜粋)
改正
新年の御慶とは申けり八十年 釈任口
誰やらが形に似たりけさの春 芭蕉
桑さして榮行畑や老の春 杉風
元目や家にゆづりの太刀帯ン 去来
鶯や雑煮過たる里つゞさ 尚白
おもしろの春有かたき目和哉 千春
目の春をさすがに鶴の歩哉 其角
年の花富士はつぼめるすがたかな 糜塒(高山伝右衛門)
遊大音寺
梅が香や乞食の家ものぞかる 糜塒
梅の花義経になりし姿かな 曲水
老慵
蠣よりは海苔をば老の實もせで 芭蕉
蕗のとうほうけて人の詠かな 嵐雪
路々は束ねてもちる杉葉かな 沾徳
旅行
くりかへし麦のうねぬふ小蝶哉 曾良
青柳にいよく睡るこてふ哉 嵐蘭
草庵
花の雲鐘は上野か浅草か 芭蕉
木の間より花のものいふいんこ哉 風虎
詠唯一心
妻にもと幾人おもふ花見哉 破笠
我年の花にはこりぬ小袖かな 蚊足
春興
川盡て?流るゝさくら哉 露沾
甲斐山中
山賎のおとがい閉るむぐらかな 芭蕉
草庵の月見
名月や池をめぐって夜もすがら 同
聴閑
蓑虫の音を聞に来よ舛の庵 同
聞にゆきて
何の音もなし稲うちくふて姦哉 嵐雪
十月十一目鏑別曾
旅人と我名よばれん初時雨 芭蕉
秋山二句
甲斐がねや見直す秋の夕哉 露沾
甲斐山申にさまよひける夜、
宿かりぬべさかたもなくて
刀さげてあやしさ霜の地蔵哉 破笠
春もはや山吹しろく芭苦し 素堂
烏山を送る
もろこしのよしのゝ奥の頭巾哉 素堂
芭蕉いづれ根笹に霜の花 素堂
市に人てしばし心を師走哉 素堂
閑
年の一夜王子の狐みに湯かん 素堂
管くや五念の入て大晦目 蚊足
月雪とのさばりけらしとしの昏 芭蕉
〔不易流行諸説〕
《『俳譜大辞典』》
素堂の序は、景の流行に対し情の重要さを説き、時の花(流行)のみでなく、終りの花(不易)の瀕養の大切さをいう、特に師たるものにとってはというのは、宗匠になった其角へのはなむけの言葉と聞こえる。(『俳文学大辞典』石川八郎氏)
素堂の序に「風月の吟たえずして、しかももとの趣向にあらず」とあるのは、俳諧の推移を説いたものであり、「景の中に情をふくむ」というのは、本質論としても注目される。(『俳譜大辞典』)
《『三冊子』》
師の風雅に茜代不易あり、一時の変化あり。この二つに究まり、その本一なり。その一といふは、風雅の誠なり。不易をしらざれば貧に知れるにあらず。不易といふは、新古によらず変化流行にもかかわらず、誠によく立ちたる姿なり。代々の歌人を見るに、代々その変化あり、また新古にもわたらず、今見る所むかし見しにかはらず。あはれなる歌多し。これまづ不易と心得べし。また千愛蔑化するものは自然の理なり。愛化にうつらざれば風あらたまらず。ここに押し移らずといふは、一端の流行に口質(くちつき)時を得たるばかりにて、その誠をせめざる故なり自せめず心をこらざるもの、誠の愛化を知るとばかりいふ事なし。ただ人にあやかりて行ふのみなり。せむるものはその地を足をすゑばたく、一歩自然に進む理なり。行末いく千愛萬化するとも、誠の蔓化は皆師の俳詣なり。かりにも古人の漣をなむる事なかれ、四時の押し移るごとく物あらたまる、皆かくのごとしともいへり。(『三冊子』)
《(筑波大学、黄東遠氏著『山口素堂の研究』)
(略)『続虚栗』(貞享四年)の時期に、其度は煮門の誰よりも早く「姿情論」に当たる俳諧を唱えていたのである。(略)芭蕉が『奥の細道』の行脚を終え、京都の落柿舎等で弟子に語り、後年、去来・土芳等の蕉門の門人によって論議された「不易流行」が、初めて、素堂によって提唱されたのである。「まことに景の中に荷けをふくむものかな」のような量を重んじる素堂の詩観、また「不易流行」に当たる理論は、芭蕉をはじめ、蕉門の人々に大きな形昏を及ぼしたものと考えられる。
(筑波大学、黄東遠氏著『山口素堂の研究』)
《『俳聖芭蕉』野田要吉(別天一氏著》
(略)『続虚粟』は其角が、前に敢行した『虚栗』の績篇として撰集したもので、(略)この集の序文は山口素堂が筆を執っている。鏑虚粟の発刊が、芭蕉の『笈の小文』の旅の出発後であったから、芭蕉に代わって素堂が書いたのであろう。
「あるは上代めさてやすく、すなほなるもあれど、ただにけしきのみをいひてなして情なさをや。古人のいへる事あり、景のうちに情けをふくむと。(中略)又ききしことあり、詩や哥や心の繪なりと、野渡無人船自横、月おちかゝるあはぢ嶋山などのたぐひ成べし。」云々
と云ってゐるのは景情備はるの句を佳しとする素堂の意見にして、又当時の芭蕉発句の傾向を窺ひ見るべきものと思はれる。げに、これを虚栗の佶掘な調に比すれば大体に於いて句調穏雅和平にして、内容的にも芸術味の饒かなものが重きをなしている。古池の句に依り開かれた芭蕉の俳諧精神が、暫くの間にかくも感化の及んだことは、営時の俳人の努カの然らしめる所であろう。〔『俳聖芭蕉』野田要吉(別天一氏著〕
《『百花譜』森川許六著》
当世の人の花過、古人の賞過ぎたる、いづれの時か花實兼備の世あらん。
或人問云く、
当時人情の花にうつり、鳥に心を動かし易きは、ことごとく此文章につきて、始めは人の耳目を動かし侍る。今先生が歎くところの俳諧の實はいかなることをいふにかあらん。おぼつかなし、はやくこれを明にし、俳諧の大道に悟入させよ。
答へて曰く、
それ實のかたちいはむ、茄子の顔のぶつぶつとしたる、實性の人の髭元よりくるしく、もしあつき題の歌よまむと思はば、はやく此もとに立ちよるべし。へめ姫瓜の丸顔はごんちゃ風の悌あり、ひさごの青ざめたる、熟柿のあから顔、下戸上戸はふるくして、今様は是をとらず、目焼けの梨のじゃくれたる座当のあたまこそ、俳諧の賞には窮り侍る。
(『百花譜』森川許六著)