山梨文学講座 山口素堂資料 山口素堂 詩文・序文・跋文・漢文・詞書
『依水書簡』曽良宛
『慶分船』不角編
『素堂一曽良宛書簡』
『枯尾花』其角編。「芭蕉追善興行」
『不求橋梨本隠家勧進百首』戸田茂睡編
『竹洞全集』人見竹洞の遺文 素堂の母死去
『甲山記行』自著 素堂、
『俳諧翁草』序文。里圃編。
『三書一軸の跋』
元禄九年の芭蕉三回忌追善集
『六玉川』敬文。百丸編。
『法竹子の父に手向る辞』法竹言丸一編。
『去来抄』向井去来著。
『茸狩り』
『芭蕉庵六物』素堂著。
『冬かつら』杉風編。…芭蕉七回忌追善集…素堂七唱
『宗長庵記』
『そこの花』浪花編。
『利休茶道具図絵』
第二次『宗長庵記』
『花見車』轍士編
山口素堂 詩文・序文・跋文・漢文・詞書
素堂53才 元禄七年(1694)
『依水書簡』曽良宛。
来ル十八日(三月)に翁(芭蕉)も参られ候筈に御座候。一席催し候間、素堂子御誘ひなされ候ひて、御出下され候に待ち奉り候。
山口素堂 詩文・序文・跋文・漢文・詞書
元禄七年(1694)
『芭蕉書簡』曽良宛。
(略)尚々宗波老へ預置申侯素堂書物早々かへされ侯様に待ち奉り侯に頼申よし御申候。浄久へも御伝被成候。
山口素堂 詩文・序文・跋文・漢文・詞書
元禄七年(1694)『慶分船』不角編。
五月あめ晴過る比慶分船をさしよせて、江の扉をたたく人有。この船や難波の春を始めて玉江のあしの夏狩りものせて是をおもしとせず。尚しほれ戸のからびたるも一ふしあるはそれすてみや。しばしかたらひ手をわかつとき
鳩の巣や帰る目路成芦のひま 素堂
春もはや山吹しろし萱苦し 素堂
山口素堂 詩文・序文・跋文・漢文・詞書
元禄七年(1694)
『素堂一曽良宛書簡』芭蕉、大阪にて死去(十月十二日)
御無事ニ御務稜成候儀、其後便も不承候、野子儀妻ニ離申候而、当月ハ忌中二而引籠罷有候。
一、
桃青大阪ニて死去の事、定而御聞可被成候、御同然ニ残念ニ存事ニ御座候。嵐雪、桃隣二十五日二上り申され候、尤もニ奉存候。
二、
元来冬至の前の年忘れ素堂より始まると名立ち候。内々ノミのむしみ忌明侯ハバ其日相たため可申候其内も人の命ははかりがたく候へ共、……云々
例の年忘れ、去年ハ嵐雪をかき、今年は翁をかき申候、明年又たそや。
曽良雅丈 素堂
山口素堂 詩文・序文・跋文・漢文・詞書
元禄七年(1694)
『枯尾花』其角編。「芭蕉追善興行」
深草の翁、宗祇法師を讃していはずや、友風月家旅泊と芭蕉翁の趣に似たり。
旅の旅ついに宗祇の時雨哉 素堂
山口素堂 詩文・序文・跋文・漢文・詞書
元禄七年(1694)
『不求橋梨本隠家勧進百首』戸田茂睡編。
人しれぬ身にますれはおのつから もとむともなきかくれかにして 法師茂睡
いろかある言葉の花の世にもれは 身のかくれかのかひやなからむ 信章素堂
山口素堂 詩文・序文・跋文・漢文・詞書
元禄8年
『乙亥歳旦』。
『竹洞全集』人見竹洞の遺文
『甲山記行』自著
『俳諮翁草』序文。里圃編。
山口素堂 詩文・序文・跋文・漢文・詞書
素堂54才 元禄八年(1695)
『乙亥歳旦』
積雲開一夜 百花卉新芽
凍釈水中水 雪残花外花
偏歓風物改 更忘老年加
幸□被光照 居前愛我家
山口素堂 詩文・序文・跋文・漢文・詞書
元禄八年(1695)
『竹洞全集』人見竹洞の遺文
素堂の母死去
素堂山子老萱堂至乙刻之夏忽然遭喪
山口素堂 詩文・序文・跋文・漢文・詞書
素堂54才 元禄八年(1695)
『甲山記行』自著 素堂、妻の故郷甲斐へ入る。母の願いの身延詣でを適えるため
それの年の秋甲斐の山ぶみをおもひける。そのゆえは予が母君がいまそかぴしけるころ身延詣の願ありつれど、道のほどおぼつかなうて、ともなはざりしくやしさのままその志をつがんため、また亡妻のふるさとなれぱさすがになつかしくて、葉月の十日あまりひとつ日、かつしかの草庵を出、
むさしの通を過てかわくなよわけこし跡はむさしのの月をやどせるそでのしら露
其日は八王子村に宿り、十二日の朝駒木根の宿を過、小仏峠にて山窓や江戸を見ひらく霧の底上野原に昼休、これより郡内領橋泊。橋の長さ十六間、両方より組出して、橋柱なく、水際まで三十三尋、水のふかさも三十三ひろあるよしをまうす
暫止吟 鞍往又帰 渓深苔滑 水音微
雲埋老樹猿橋上 未聴三声沾客衣
勝沼昼休み、此ところあふげば天目山、臥てみれば一里ばかりの間みな葡萄の実なり。
下くぐる心は栗鼠やぶどう棚
伊沢川日上人(日蓮)の一石に一字書つけてながし玉ふも拾ひつくして求るによしなし。
さびたりとも鮎こそまさめただの石
十三日のたそがれに甲斐の府中につく。外舅野田氏をあるじとする。
十五夜
またもみむ秋ももなかの月かげにのきばの富士の夜のひかりを
十三夜三寂興行に
楓葉巻簾入興時 主賓相共促新詩
今宵玉斧休脩月 二八蛾眉猶是宣
晴る夜の江戸よりちかし霧の不二
十九日信玄公の古府中を尋侍りて
古城何虜問栖鴉 秋草傷霜感慨多
力抜山今時不利 惜哉不唱大風歌
城外の夢の山にのぼりて奇石を見出し、草庵へむかへとりて山主人に一詩をおくる
万古高眠老樹起 一朝為我落塵?
石根臆見白雲起 今尚不醒在夢山
二十一日身延へ詣けるに青柳村より舟を放て
竹興破暁城門 紅葉奪名青柳村
十里舟行奔石上 急流如矢射吟魂
はき井の村につきて其夜はふもとの坊にやどりし。元政上人の老母をともなはれし事をうらやみて
ゆめにだも母そひゆかばいとせめてのぼりしかひの山とおもはめ
一宿延山下 終宵聞妙音
清流通竹鳴 閑月落松陰
暁見姻嵐起 偏忘霜露侵
鐘鳴猶寂箕 好是洗塵心
翌朝山上にのぼりて上人の舎利塔拝て、かひの府より同道の人
上人の舎利やふんして木々の露
北のかたへ四里のぼりて七面へ詣けるに、山上の池不払して一点のちりなし。此山の神法会の場に美女のかたちにて見え給ふよしかたりけるに
よそほひし山のすがたをうつすなる池のかがみや神のみこころ
下りには一里ばかりの間松明の火にてふもとの坊に帰りぬ。翌日甲斐の府へ帰路の吟、
蔕おちの柿のおときく深山哉
重九の前一日かつしかの草庵に帰りて
旅ごろも馬蹄のちりや菊かさね
山口素堂 詩文・序文・跋文・漢文・詞書
素堂54才 元禄八年(1695)
『俳諧翁草』序文。里圃編。
室生氏の家に、浦の浜ゆふをうつして植てももの縁を愛せられける。紫や伊勢の海、清きなぎさより出てみくまのうつしさらぬ所々にもはふ広こりぬ。これをゆふと名を呼ぶことは、葉なのいさぎよきをもて神に捧げかればなり。葉のもえ出るころは、おもとのいきほひに似て、後これをはせをといはんも過ぎたりとせず、色好の家には是をかたしき、ねぬる夜の夢に恋しき人に逢など、人しれぬ事にいひ伝へはべれど、もとより舞曲に名ある家ならず。
はまゆふや風にそよかかる露の夕ばへ
これをさゆふにとりこれをかざす扇にいつしたまへと
其不二や五月晦日の二里の旅 素堂
山口素堂 詩文・序文・跋文・漢文・詞書
素堂55才 元禄9年(1696)
『三書一軸の跋』
我住むかつしかの同じ郷人琴属、家に立圃が盲人の情を、うつせるを、其角が乞食を書けると、ならへ愛しけるを、はせをつくづくと見て、人として眼くらきは、天地を日月なきにおなじ。また食にともしきも、人にして非人なり。われたけひき食にともしからず。三界を笠にいだきて、風月をともなひ、吟行せし圖を、此のしりへにそなへんと、淡き墨もて書ちらし、濃州大垣の画工に丹青をくはさせさせて、所々の狂句をも書ぬべきあらましにて、行脚のいそぎやとりまぎれん。また立帰りての事ともやおもひけん、反古にまきこめ、風雲流水の身となりて、その年の時雨ふる頃なにわの浦にてみまかりぬれば、藻にうつもるる玉かしはとなりぬべきを、琴風漸くたづね出して、ほいの如く三画一軸とはなし侍れど、句を書のせざること賎心とやいはん。
また十分ならざる処かへつて風流とやせん。名印もあらざれば炎天の梅花、雪中の芭蕉のたぐひにや沙汰せん。されどもかの翁の友に、生残りてたらんもの我ならずして又そや。
しもつかさの国かつしかの散人 素堂
山口素堂 詩文・序文・跋文・漢文・詞書
素堂56才 元禄十年(1697)『陸奥ちどり』桃隣編。
元禄九年の芭蕉三回忌追善集
はせをの老人の行脚せしみちのおくの跡を尋て、風雲流水の身となりて、さるべき処々にては吟興を動かし他の世上のこころごころを撰そへて、むつちどりと名付らる、其人は武陽の桃隣也。予がむかしかならず鹿島、松嶋へていへるがごとく、己を忘れずばがら年のへぬれば、夕を秋のタ哉といひけむ、松嶋のタげしきを見やせまじ、見ずやあらまし。みちのおくはいづくはあれど松嶋塩釜の秋にしくはあらじ、
花の上こぐ海士の鉤舟
と詠じけるをきけば、春にもこころひかれ侍れどなをきさかたの月、宮城野の萩、其名ばかりをとどめきけむ。実方の薄のみだれなど、いひつづくれば、秋のみぞ、心おほかるべき、白河の秋風。
時是元禄丑の年八月望にちかきころ 素堂かきぬ
山梨文学講座 山口素堂資料 元禄11年
『六玉川』
『法竹子の父に手向る辞』
『去来抄』向井去来著。
『茸狩り』
山口素堂 詩文・序文・跋文・漢文・詞書
素堂57才 元禄十一年(1698)
『六玉川』敬文。百丸編。
凡日むそじあまり、六の国の中に、玉の名に流れたる川六所あり。ここに摂州伊丹の住百丸六玉川の詩歌狂旬までを、あまたあつめて、これに敬あらんことを求らる。
もろこしの玉川にすむ翁ならば磯中川の水をのみわくべきに、いざや川いざとこたへてやみぬれども、あくた川何をなりとも、かき流すべきよし。末の世には流砂川の伽藍もなかれず、名とり川に名をとりえん事かたし。なにはの藻にうつもるる玉かしはも、石ときけば猶々およびがたきや。殊玉の中に瓦石をまじへんもそのおそれなきにしもあらず。さりながら昆山の玉も、他山の石みがかざれば、光なきよし。よつて六のうちあふみ萩をいふ。
萩の露礫にうつてしれとかやその玉川のああふかさも
山口素堂 詩文・序文・跋文・漢文・詞書
元禄十一年(1698)
『法竹子の父に手向る辞』法竹言丸一編。
洛陽の法竹子亡父一回忌とて、玉川の水にこと葉の花を結びて六々のつらね歌となし、愚老一旬を手向よとすすめられる。もろこしの玉川にすむ翁ならば磯中川に水を汲みわくべきに、石瓦をもて玉のほとりにながうたんもおこがまし。さりとてただに見逃さんも本意なきわざなれば、誠に申さん。凡ひといけるほどは氷におなじ、誰かはもとの水に帰らざん。
一水一月千水干月、又
月ひとつもたぬ草葉の露もなし
などといへるも、みな人々仏性の心ならべし
花水にくだけて舎利となる水
かつしかの隠士 素堂 拝書
山口素堂 詩文・序文・跋文・漢文・詞書
元禄十一年(1698)
『去来抄』向井去来著。
今年素堂子、洛の人に榑へて日、蕉風の遺風天下に満て漸々変ずべき時至れり。吾子こころざし同じうして、我と吟会して、一ツの新風を興行せんとなり。
先生の言かたじけなく悦び侍る。予も兼而此思ひなきにしもあらず。幸に先生を後ろ盾として、二三の新風を起さば、おそらくは一度天下の人をおどろかせん。しかれども、世波、老の波、日ようちかさなり、今は風雅に遊ぶべきいとまもなければ、唯御残多おもひ侍るのみと申。素堂子は先師(芭蕉)の古友にして博覧賢才の人なりければ、世に俳名高し。近来此道うちすさみ給ふといへども、又いかなる鳳流を吐出されんものをと、いと本意なき事なり。
山口素堂 詩文・序文・跋文・漢文・詞書
元禄十一年(1698)
『茸狩り』
戊寅の秋洛陽に遊ひ、一日鳴滝に茸狩して両袖にいたきて帰りぬ。其片袖は都の主人にあたへ大津の浦の隠士安世のかたへ此三唱を添て送るならし。
茸狩や見付ぬさきのおもしろさ
松茸やひとつ見付し闇の星
袖の香やきのふつかひし松の露
山口素堂 詩文・序文・跋文・漢文・詞書
素堂58才 元禄十二年(1699)
『芭蕉庵六物』素堂著。
石川丈山翁の六物になぞらへて芭蕉庵六物
その一(文台 号二見 武陽隠士曽良に在)
西行法師二見の浦にて、くほかなる石をひろふて硯となし、扇をしきて文嚢とし玉ふにより、はせをの庵の文台に扇を繕きて、是をふた見とよふ。明鏡台になしといへとも、台なくては文のやとす処なく、後世に傳ふることもかたかるへし。玉の床より賎がふせ家にいたるまで、台それぞれになきことあたはず、されば此台にも、いくばくの風月をのせきたるや、其おもき事はかりがたし。
銘日
四友之外 窓前並面 寫西行風 開芭蕉扇
筆海作航 文山為桟 不欠不崩 壽魔同硯興
そのニ 大瓢米入 号 四山 濃州大垣住西川濁子にあり
ある人芭蕉庵にひさこをおくれり。長さ三尺にあまり、めぐり四尺にみつ。天然みかづつして光あり。うてはあやしきひ心きを出す。是をならして謹歌しあるは竹婦人になぞらへて、納涼のそなへとし、また米をいる器となして、うちむなしき時は、朋友の許へ投すれは、満て帰りぬ。予是に銘していはく、
一瓢重岱山 自笑稽箕山
莫習首陽山 這中飯穎山
その三 小瓢 帯はさみ
東都松木紋水にあり許子は捨て、顔子は用う。これらの人、用捨てに分別なしとはいへども、用りかたに ていはば、人みな陸地に波をおこして、世にわたる事、阿波のなるとよりもあやふし。このひさごのごとく、世にかるうわたるをりは、風波をのかれて、平地をゆくべし。かたちはすこし奇なれとも、大なるはたらきなからましや。中流に舟をくつかへす時、一瓢干金の心なるをや。
桔瓢蚤か茶臼をおふこころ
その四 檜笠 江州膳所珍タにあり
甲斐の山人にこひもとめて、行脚の出る時宗祇法師の、
世にふるもなし時雨のやとり哉
といふ句を書て、ついに難波の浦にて、時雨のころに終りぬ。予洛陽のかへさに、膳所にやどりける頃、珍タたづさへ来りて、銘あらむことを求られるるにより、銘して曰、
一笠一天地 一身一葉心
江山皆蕾友 仰月臥花陰
その五 画菊
予が家に、菊と水仙の書一を久しく翫びけるが、ある時はせををまねきて、此ふた草の百草におくれて、霜にほこることし、友あまたある中に、ひさしくあひかたらはんとたはふれて、菊の絵をはなして贈る時、
菊にはなれかたはら寒し水仙花
その六 茶羽折
此翁行脚のころ、身したかへる羽折あり。五十三騨ふたたび往釆、さらぬ野山もわけつくし、あるは、越路の雪にさらし、あるは八重のしほ風にしみて、離婁か目にも色をわかちかたく、龍田姫もそめかへすによしなからんのみ。これを故郷の錦にもなしけるやと、をかしくもまたあはれならずや。勢州山田が原の三四とかや、ひとたひ見て、素堂素ならす、眼くろし、茶の羽折とはよくも名つくへきもんたひなしとて興に入ぬ。羽折変せば何にかなり侍らんと有しに
ムササビとなりぬへらなり茶の羽折
山口素堂 詩文・序文・跋文・漢文・詞書
素堂59才 元禄十三年(1670)
『冬かつら』杉風編。…芭蕉七回忌追善集…素堂七唱
素堂59才 元禄十三年(1670)
ことしかみな月中二日、芭蕉翁の七回忌とて、翁の住捨ける庵にむつまじきかぎりしたひて入て、堂あれども人は昔にあらじといへるふるごとの、先恩ひ出られた涙下りぬ。空蝉のもぬけしあとの宿ながらも、猶人がらなつかしくて、人々旬をつらね、筆を染て、志をあらはされけり。予も又、ふるき世の友とて、七唱をそなへさりぬ。
其一
くだら野や無なるところを手向草
其二
像にむかひて紙ぎぬの佗しをままの佛かな
其三
像に声あれくち葉の中に帰り花
其四
翁の生涯、鳳月をともなひ旅泊を家とせし宗祇法師にさも似たりとて、身まかりしころもさらぬ時雨のやどり哉とふるめきて、悼申侍りしが、今猶いひやまず。
時雨の身いはば髭なき宗祇かな
其五
菊遅し此供養にと梅はやき
其六
形見に残せる葛の葉の繕墨いまだかはかぬがごとし
生てあるおもて見せけり葛のしも
其七
予が母君七そじあまり七とせ成給ふころ、文月七日の夕翁をはじめ七人を催し、万葉集の秋の七草を一草づつ詠じけるに、翁も母君もほどなく泉下の人となり給へば、ことし彼七つをかぞへてなげく事になりぬ。
七草よ根さへかれめや冬ごもり
山梨文学講座 山口素堂資料 元禄14年
『宗長庵記』
『そこの花』
『利休茶道具図絵』
『島田宗長庵記』
山口素堂 詩文・序文・跋文・漢文・詞書
素堂60才 元禄十四年(1701)
『宗長庵記』
連歌の達人蕾庵宗長居士は、当嶋田の郷にして、父は五条義助、母なん、藤原氏なりける。若年の頃今川義元公につかへ、故ありてみづから髪を薙出、華洛にのぼり、種玉庵宗祇法師にま見え、連歌を学び、道既長じて宗祇の宗をうけつぎ、斯道の規範として猶歌仙に人丸赤人有がごとし。性行脚を好み、江山を友とし岩上樹下を家となして風月に宿る事いまさらいふに及ばず。記詞花言葉・新撰筑波集・北国の道之記及び宇津の山の記にのこれり。然共宗祇居士、牲丹花翁のごとく世にいひ傳へたる事多からず。同国の東北にあたつて天柱山のふもと柴屋といふ所に両居士は文亀年中相州箱根山にて終たまふよし、宗長居士は享禄元年弥生初の六日と計傳へきて桂城の地きはめてさだかならず。此郷にて出生の事はうたがふ所なし。よつて郷人風雅の旅人をやどさしめむとおもひたつこと久し。予たまたま此郷にやどりて聊きく所をしるしさりぬ。他日よくしれらん人、記つきたまへ、
元禄辛巳(十四年)二月五日 武陽散人素堂書
山口素堂 詩文・序文・跋文・漢文・詞書
素堂60才 元禄十四年(1701)
『そこの花』浪花編。
粟津がはらにて奮友はせをが墓をたずねしに、
志賀の花湖の水それながら 江戸素堂
むかひに志賀の山、前に湖水あり、それはたぶさにかけるたていとかかり、三世の仏に花奉る。また一休の詠に
山城の瓜や茄子もそのままにたむけになすぞ鴨川の水も
此二首にすがりていふ。
山口素堂 詩文・序文・跋文・漢文・詞書
素堂60才 元禄十四年(1701)
『利休茶道具図絵』
茶人山田宗偏は素堂とも深い関係がある。素堂は今日庵三世を名乗ったとされる。「予の喫茶の友…」で始まる序文は未見である。宗偏には他に『茶道便蒙抄』・『茶道要録』がある。素堂にも『茶入號朝日』・『鳳茗記』がある。(後述)
山口素堂 詩文・序文・跋文・漢文・詞書
素堂60才 元禄十四年(1701)
第二次『宗長庵記』
仲秋十二、島田の騨にいたる。日はまだ高けれ ど名にしほふ大井川の水にさへられ、はからざるに此所に旅牒す。つたへ聞、宗長居士は此郷より出て名をふるふ。五条義助といへる鍛士の祖族たりとぞ。母なん藤原氏なりけり。偶如舟老人かへらぬ昔を慕ひて一草庵をしつらふ。名づけて長休と號し、故墳となして往来の騒客をとどむ。しかはあれど、牽強するにはあらず。其風姿をしのびよれるものは、親のこときし子の如くす。
ふらばふれ牛は牛づれ秋のくれ
舟翁、何がしの両三子にかの記を乞求めて一軸とし、愛敬してしばらくも身をはなたず。予ひそかにあるじをたばかりて見るに、流石にほろき難波江のよしともあしともいふべき事ならぬ。只祇長の風がに徳ある事を感じて涙を落すのみ。
そよ更にむかしえをうゑて忍ぶ草
朝霧や嚥朝寝にて柴の庵
そよ更にむかしえを植て忍ぶ草 素堂
石蕗に色つく庵の巻筆 如舟
来年と捨ておく月の晴でて 乙州
ささいからお宿申や燕子花 如舟
衣更せす夜着も借るまし 素堂
山口素堂 詩文・序文・跋文・漢文・詞書
素堂61才 元禄十五年(1702)
『花見車』轍士編(俳藷人を遊女に見立て晶評したもの)
素堂
武州お松
はちす葉のにごりはそまじながれの身とはなり給はず、わかき時より髪をおろして、深川の清き流れに心の月をすませり。
御手洗の中葉ながるるとし忘れ