実録 山口素堂 『甲斐国志』他について
一、素堂は甲斐巨摩郡教来石村字山口の生まれとする説。
一、素堂は甲斐甲府府中魚町の生まれであると云う説。
一、素堂の生家は魚町山口屋市右衛門である。
一、素堂の家は「山口殿」と呼ばれた。
一、素堂は二十歳の頃、江戸に出た。
一、素堂の仕官先は
(否定 桜井孫兵衛の僚属となるは年齢で無理)
一、素堂は甲府代官桜井孫兵衛の僚属であった。
(否定 形跡は無く、両者の年齢から云って無理)
一、素堂は林家の門人か
(肯定 資料から裏づけられる。元禄六年)
一、素堂は父母の墓は甲斐尊躰寺か。
(疑問 素堂の墓は江戸であり、母や妻の墓も江戸であり、尊躰寺の墓 は山口屋のもの)
一、素堂は甲斐濁川の工事を指揮したか。
(疑問 『国志』の以外の文献が無い)
一、甲斐は素堂の出身地か。
(疑問 素堂は自ら著した『甲山記行』で「甲斐は妻の故郷ととれるく だりがある)
一、素堂の墓所は(否定 『国志』のみ甲府尊躰寺説。素堂の墓所は江戸の感応 寺(今の天王寺)後甥の黒厳浄院に移す。位牌は天王寺に現存)
一、濁川工事の完成にともなって建立された「山口霊神」は (疑問 桜井孫兵 衛の生祠も死後のもの。山口霊神は『国志』以後の諸本のみ)
一、素堂の母の没年は元禄三年か
(否定 素堂の母の死は元禄八年)
一、素堂は官兵衛・市右衛門を名乗ったか。
(否定 『国志』のみ。名乗った形跡は見えない) 素堂の家系にある寺町百庵の『連俳睦百韻』の序文によると素堂は太 郎兵衛
一、素堂の祖先は山口に住んでいた郷士か。
(否定 資料がない)
一、素堂の生誕日は五月五日か。
(疑問 『連俳睦百韻』では正月四日とする)
他にも疑問点があるが、『国志』一書のみに記載された事項が如何に多いかが理解していただけると思う。一書のみで史実とするのは危険な事で、歴史書は後世書されたものより時代が近いものが優先されるべきである。『国志』より三十年前に刊行された『連俳睦百韻』には素堂の家系を伝えている。もし『国志』に素道(素堂)の記載が無かったら、『連俳睦百韻』の云う「素堂は太郎兵衛で鼻祖は蒲生氏郷の家臣山口勘助である時点で蒲生氏郷から離れ町屋に下ったと云う。素堂の出生については定かではないが、その後の活動から見て江戸とするが妥当であろう」となる。残念ながら『国志』の編纂者は『連俳睦百韻』を見てはいなかったのである。
素堂の仕官先の考察については本分を参照していただくとして、素堂は延宝六年から七年にかけて九州旅行に赴き唐津で越年する。これは素堂が仕官先への別離の挨拶に行ったとの説もあるが、この後に素堂の俳諧活動は活発になる。素堂の仕官先は現在でも不明であるが、九州旅行が深い関係をもつことは間違いない。長崎や唐津と素堂の関係はこれも資料が見えないが驚いた事に長崎県の山口姓は全国でも一位である。素堂没後において芭蕉の門人の向井去来に俳諧の再興を促す。去来は長崎の出で家は代々儒家であり軍学は甲州流の奥義をきわめ、素堂が晩年移住まで考えた京都の広沢の池に近い落柿舎に寓居していた。後に『俳諧芭蕉談』を著した長崎の卯七は、去来の門人でその著の中に「素堂云」を多用していて素堂に近い人物なのである。
山口素堂に最も近い人物として甥の山口黒露がいるが、素堂の晩年には京都にいて、素堂の逝去の後始末をし翌年追善興行を催した人物である。黒露は甲斐府中の魚町山口市右衛門の家僕が太郎右衛門を名乗り、後に山口屋を継ぐとする説もあるがこれは『国志』と『連俳睦百韻』を都合良く結びつけたもので、実証できる資料は無い。中には蒲生氏郷の家臣であった山口勘助が何らかの理由で甲斐教来石村字山口に移り住み郷士となり云々などの資料を持たない推論が史実の様に伝わっている。素堂の家柄については『連俳睦百韻』が詳しく信憑性もあるのに『国志』主論の補佐的に利用されているのが現実である。
しかし私は『甲斐国志』の説が真実で素堂は甲斐の出身である事を祈っている。三年間の調査の結果を拙い文章で綴ったのがこの研究書である。多くのご批判を仰ぎ、今後も素堂の真実の事蹟に近づきたい。
信濃の小林一茶は素堂伝来の『仮名口決』を大切に所持して常に参考としていた事は余り知られていない