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素堂講座 山口素堂の研究 上
荻野清氏著 『国語・国文学』 昭和七年一月号
『春泥発句集』『鬼貫句選』の序跋、及びかな『點印論』に於て、蕪村が他の
四子と共に素堂の風格賞揚し素堂の洒落を法とすべしといっているのは、洽く知
られてゐる事である。
蕪村には、尚、素堂の「浮葉巻葉」に模した句があり、又同じ素堂の句を發句
とした脇起しの試もあった。蕪村の實際の作句に就いて見るも、彼が素堂の粉骨
を模した跡は明かに看取出来る所で、
柳ちり清水かれ石ところところ
の如きも、嘯山の言を待つまでも無く、そのまゝ素堂の風格である。かくて、
素堂は天明の偉才蕪村に依つて摂取せられ、その骨肉となったもので、之に加ふ
るに、更に素堂が蕉風の開発に参興したといはれる事、芭蕉と終始渝らざる懇情
を持してゐた事、芭蕉没後にも元老として隱然俳壇に重きをなしてゐた事、及び
彼が葛飾派の祖と稱されてゐる事等を併せ考へれば、當然彼の名は俳謎史上逸す
べからざるものとして恩惟せられてくるのであり、彼の人物及び俳諧の検討が、
決して疎にせらるべき性質のものでない事に思ひ到るのである。今、彼を論ずる
に當り、私は順序として、まづ彼の生涯より筆を起さうと思ふ。
1、生涯
山口素堂、名は信章、字は子晋又公商、通称を勘(官)兵衛(太郎兵衛・松兵
衛・佐兵衛・太郎衛等の異説あり、今一般の呼稱に従ふ)素堂は素仙堂の略とい
ふ(連俳睦百韵)。別號として来雪、松子等を稱した。尚来雨の號があったと『
連俳睦百韵』はいってゐろが、之は明かでない。彼は、又茶道に於ける庵號とし
て、今日庵、其日庵を稱してゐる。
山口家は、その祖山口勘助良侫(蒲生家の家臣)以来、甲斐国北巨摩郡教来石
山口に土着した郷士であった素堂は、その家の長子として寛氷十九年五月五日(
一説に正月四日)に生まれたのである。
即ち、芭蕉に先んずる事二年であった。彼は幼名を、『甲斐国誌』に依れば重五郎といひ、長じて家名市右衛門を継いでゐる。
暫くして、家督を弟に譲り、勘兵衛と改名して上京した。
山口家は、後年甲府に移住したのであるが、それは恐らく、素堂の少年時代で
あったらうと思われる。
山口家は、甲府に於いて、魚町西側に本宅を構え、酒造業を営み巨富を擁し、
(功刀亀内氏蔵…『写本酒之書付』及び『貞享上下府中甲府再見』に依る)
『甲斐国誌』にも「家頗る富み時の人山口殿と稱せり」と記す如く、時人の尊
敬を享けたのであった。
かゝる正しき家柄と、巨富ある家に、幼少年期を過した素堂は、必ずや、端厳且つおっとりした気風を持って長じた事と思はれる。
とかくして、彼は、江戸に遊学のため出づる事になった。その時期は、勿論明
確な事は云へないが、先づ寛文初年廿歳頃と推測される。
元来山口家には好学の血が流れ、素堂の末弟の如きも、林家の門人にて、尾州
摂津守侯の儒臣であったといふ。彼も又少より学を好み、為に、あったと思はれ
る。彼が性格として又好学のため、酒造の如き家業を厭つた故もあつたらうが、
ともあれ此巨萬の富ある家を惜気なく弟に譲った事は、以て、彼の執着心の乏しさを、察するに足るものである。
江戸に於いては、一般に、林春斎に就いたといはれている。 これに就いて、
確たる文獻は無いが、人見友元が素堂を評して、「林門三才の随一たるべし」
(斎藤氏紹介の『含英随記』に依る)と述べてゐるのに依って、少くも彼が官学
の流を汲んだ事は疑ひ無い。
彼が、斯く若くして、漢学を学び、しかもその深さ素養を有するにいたつた事
は、彼の後年の人物俳風を考へる際に、かなり大きな意義を持つものであり、閑
却出来ない事である。
さて、彼は寛文五六年の頃、大和三輪神社に詣でてゐる。
京へも勿論その折上った事と思われ、彼が和歌を清水谷家に、書を持明院家に
受けたといふ『甲斐国誌』以下の説が、もし真ならば、この上洛の際に学んだの
であるかも知れない。
大躰、江戸出府以後、寛文末までの彼の消息は、甚だ明瞭を缺き、いかに穿鑿
するも要するに憶測に止まり、たゞわづかに、彼の俳諧生活に就いて、二三の知
識を得るのみである。彼の俳生活については後に一束して述べる。兎に角、此頃
の彼が、未だ立身出世を目指して、齷齪してゐた事は信じて誤なからう。延宝年
間に至れば、彼は後述の如く風雅にいよいよ傾いてゐる。併し、その頃、彼は尚
、疎にすべからざる何等かの公職(恐らく儒を以て仕へしなるべし)を持ってゐ
たのであって、彼がさらりと職を抛ち、風雅専一の閑居生活に入ったのは、延宝
七年長崎旅行より帰還した後であった。(こゝにいふ風雅とは箪に俳諧に限らず
更に廣汎のものを意味する)今、彼の職に就いて、私は単に何等かの公職とのみ
記して置いたが、事の序に茲でいさゝか筆を費して置かう。
彼は後にもいふ如く、元禄九年甲斐濁河の治水に、代官櫻井孫兵衛の依頼によ
って助力したのであるが、その當時の事を記して例の『甲斐国誌』には「素堂ハ
薙髪ノマゝ、挾二双刀一再ヒ稱二山口官兵衛一」といってをり、又若海の『俳諧
人物便覧』には、素堂の職を「御普請役」なりしと明示してゐる。
これらによっても元来彼が双刀を挾んだ地位にあった事が覗はれる。これら後世
の編著はしばらく信じがたしとするも、彼自身の遺作によってやはり略似に結論
を導き出し得るのである。
今天和二年の『武蔵曲』を見るに
(前略) 閑人閑をとはまくすれどきのふは
けふをたのみ、けふはまたくれぬ
行すして見五湖煎蠣の音を聞
の句が見出される。此句は『去来抄』『白蓮集解説』にも説く如く、上野の素
堂より深川の芭蕉庵へ送ったものである。此句の詞書に依れば、此當時既に世務
を避けて上野に閑居してゐた事を知るのであってこれは「素堂翁退隱の後しのは
すの蓮池に十蓮の佳句あり」と「連俳睦百韵」に於て寺町百庵の述べてゐるのと
一致する所である。更に同書に左の句が見える。
鰹の時宿は雨夜のとうふ哉 素 堂
句意は白氏文集十七の「蘭省花時錦帳下廬山南夜草庵中」を踏んで、上野忍之岡を以て廬山になぞらへ自己の隠栖を官途にある友人の栄達と対比せしめたものである。以上の二句を考へ合はす時は、彼が上野へ退隠したのは官職を辞した後である事が明かになる。彼が何を以て仕へたかは明言出来ないが、彼が後年濁河治水にて算用の才をあらはし、又儒学の嗜み深かりし事より考へて、いづれ智適技能を以て仕官してゐたものと思われる。
かくて又更に、彼の上野退隱は、既に『武蔵曲』の二三年前、延宝七年の事であったらしい。即ち、廷宝八年板の『江戸弁慶』『向之岡』に左の句が見える。
宿の春何もなきこそなにもあれ (江戸弁慶)
亦申上野の秋に水無瀬川 (向之岡)
蓮の實有功經て古き龜もあり ( 同 )
第一句は、退隱後の閑居の有様をよんだものであらうと思われ、第二第三は共
にいふ迄もなく上野での事である。これらに依て延宝七年暮春長崎よりの帰還(
註一参照)以後間もなく致仕して、上野へ移った事と推察される。
かの『花見車』(元禄十五年)に素堂を記して「若き時より髪をおろし」とい
ってゐるのも、此時の事ではなかったらうか。
彼が素堂と號し初めたのは延宝八年からであって、これも彼の致仕退隱と関係
があらう。此退隱の理由が何であったかは今知るに由ないが、こゝにも彼の執着
心の乏しさを見る。兎に角、彼は今や、人生に於ける新なる道を踏み出だしたも
のといふべく、隠士素堂の生活の第一頁は開かれたのであった。
貞享二三年の頃、彼は更に静関の地を求むべく居を葛飾の阿武に移した(一般
に此葛飾移居を天和年間の事と傳へて居るが誤である。此事に就ては既に俳誌「
筑波」に寄稿して置いたから今は煩はしい考証は省略する)その折の作といふ。
長明が車に梅を上荷かな
に依って知るごとく、鴨長明の隠栖を慕っての移居であった。此新居の附近に
は芭蕉庵があった。これより芭蕉及び其門下の諸士との交情が更に懇に、彼の境
涯がいよいよ、隱逸の色彩を濃くしてきて事は想像に難くない。
それかあらぬか、貞享四年の蕉門代表撰集たる『続虚栗』に彼は序を與へ、且
つそれにはじめて江上隠士と署してゐる。
彼は此葛飾の庵にあって庭池に蓮を植え、又菊園を作って俗塵を避け、人を訪
ぬるをを厭ひ、「客半日の閑を得れば、主は半日の閑を失ふ」といって木下長嘯
の言を隣み(嵯峨日記)、ひたすら閑静に身を置いたのであった。
彼の和漢の古典に對する強い愛好、及び、後述の如き彼の多趣味は関を□す好
き材料となったに違ひ無い「素堂はあつまの長明ともいはんや」(とくとくの句
合)と百里もいひ、許六も、「江戸山素堂は隠士也」(歴代滑稽談)と評してを
り、隠逸の一言は退隠後の彼を評してあまりあるものであらう。
尚素堂の門人子光が、「非輿人對話則黙而如泥塑人」及び「其庵中所蔵書契数
巻及茶器爨炊之鍋釜而巳」(素堂家集序)といってゐるのは約に彼の隠逸振りを
躍如たらしむるものである。
私は今、彼が長明の境涯を慕ひ、又百里に依って長明に比された事を述べた。
併し、両者は、物に頬はされる事なき閑境を愛し、それに處したといふ點で共通
しているのみで、長明の底に流れる厭世観の如きは、素堂には見出し得ない。彼
の句に就いて見るも暗い影は無い。
錦江の『白蓮集解説』にも「志不尚佛豊儒使之然」と素堂に就て記してゐるの
であって、彼には佛教的きの如きは全く無かったのである。かくて彼の閑居にあ
るは、たジ端然さと静寂さであつた。此點、 又、同じ隠逸といふも、かの佛に
こもり厭世的傾向強く、むしろ病的ときへ考へられる丈艸(草)のそれとは甚し
い逕庭を認むるのである。
元禄三年、素堂は母を失ひ(註二参照)、天涯孤独の身となったのであった。
(要は既に早く寛文の頃世を去ったらしい)彼が母に仕へて至孝であった事は、
諸書の傳へる所であり、彼が後妻を迎へなかった事も、一は母の意にたがはん事
を恐れたためであったらしい。母の死に際して、彼が痛惜したのは、もとよりの
事であったらうが、それも一面より見れば、彼の閑居を更に徹せしめる事になっ
たと思はれる。
彼は『甲山記行』に見ゆる如く、元禄八年甲府に帰ってゐるが、その翌年、再
び甲斐に至って、濁河の治水に力を盡した。
此事は、彼の實際的才能の一面を窺い得る事で興味ある事ながら、今縷述を避
け、ここにはたゞ、此治水が元禄九年三月二十八日に起工され、五月十六日に竣
工を見たといふ『山梨県水害史』の談を擧ぐるに止めて置く。
元禄八年以後、彼はその歿するまで、前後八年に六回旅行を試み、就中、京洛
の地をいたく愛惜したものと見え、元禄十四年の如きは、春秋二回上洛してゐる
。彼には京に住居を求めんとする心さへあったのであった。
小野川洛陽に住居求むとて登りける頃
予も亦其志なきにしもあらねぱ
蓮の實よとても飛なら廣澤へ (とくとくの句合)
閑寂を愛し古典に親しみ、對人的関係は煩瑣の外何物にも感じられ無かった彼
が旅を好み、殊に史的背景に富み典雅なる京洛を愛して事は自然であった。尚、
彼の無繋累の安易さ、及び、元禄七年親友芭蕉を失って、江戸に風雅を語る友を
見出し得なくなった事も、しばしばの旅に彼を誘ひ出した有力な理由と考へられ
る。後年、彼の生活が豊かで無かった事は、彼の門人黒露が「……素堂翁は柱昔
家富壮なりし時云々」(白蓮集解説)といってゐる事によっても推知されよう。
これに就いて、もっとも筆を努してゐるのは百里の『とくとくの句合』跋である
(原文参照)。
併し、これは素堂の死歿十二年の後に草されたものであって、その間、記憶の
誤が全く無かったとは保し難い。少くも、素堂が、芭蕉生前より窮迫してゐたと
いふが如き、百里の言は大いに疑はしいものである。
彼の晩年が財政的に恵まれてゐなかつた理由としては、彼の庵がしばしば火災
にあった事、及び甲府山口本家の零落等を擧げ得られよう。
彼は儒を雋つて此不如意の生計に資したらしいが、それは勿論、隠逸の心境を
辭す程のものでは無かった筈である。足らぬ勝乍ら、彼は貧を逃れん為の醜い愚
かな足掻などはしなかった。遺作によって、彼が牡丹の富貴をにくみ 蓮の清
きを愛してゐた事が知られるが、その彼が清貧に甘んじた事は當然であった。む
しろ却って、それを好もしい境涯として享けた事であったらう。
かくて、彼が、葛飾の庵に七十五年の長い生命を終ったのは、享保元年八月十
五日であった。彼の遺骸は下谷感應寺に葬られ、戒名を廣山院秋厳素堂居士と云
ったといふ。
(註一) 彼が長崎へ行った事は、
長崎にて
珠は鬼灯砂機はつちのごとくなり(とくとくの句合)
長崎にて
入船やいさゝそよきて秋の風 (俳 枕)
の句に依って紛れも無い事実である。此旅行は『俳枕』上木の延宝八年以前に
行はれた事は明日であり、又「珠ハ鬼灯」の句の全く談林風なるを見れば、延宝
三年五月宗囚に會して談林の息吹を受けた後の事であるのも明である。
尚又、『俳枕』及び『蛇之鮓』(延宝七年)
山は扇汗は清見が關なれや (江戸蛇之鮓)
勢田にて
夕立や虹のから橋月は山 (俳 枕)
中山
爰ぞ命顔淵が命夏の月 ( 同 )
宮島にて
廻廊や紅葉の燭鹿の番 ( 同 )
右の如き彼の句が見えてゐるが、これらは此旅行往途の吟と思はれる。彼は江戸を夏の頃立ち、既に宮島にて秋を迎へ、更に長崎へと行を進め、同地にて前記秋の句二章を得たのであらう。彼は九州に於て翌年の春を迎へたものらしい、即ち『富士石』(延宝七年初夏の序)に見ゆる
此頃の龜を
二万の里唐津と申せ君か春 来 雪
は肥前唐津に於いて迎年した事を示すものである。
尚『とくとくの句合』に見ゆる左のものはこの帰途に於ける詠吟に違ひ無い。
西国に下りし比周防長門の間
の堤に大木の柳ありけるを
胴をかくし牛の尾戦く柳かな
かく見てくる際には、彼は夏の頃江戸を立ち、翌年の春半ば過る頃漸く再び江
戸に帰還したものと推測されるのであつて、此施行はまことに前後略一年に至る
長期のものであつた。
先に此旅行を延宝三年五月より延宝八年の間の事と概定して置いたのであるが
、此間に於ける彼の動静に依て更に見直す時は、此旅行は延宝六年の夏より翌七
年春までの事とより外患はれないのである。三年より六年春までは年譜に依ても
知るごとく、彼は江戸俳壇に於いて活躍していのであつて、その間かゝる長期の
旅行などをなす時日の余裕は全く無かったと思はれる。
又延宝七年初夏の序の『富士石』 前記に九州唐津にての吟ある事より察すれ
ば、此旅行は延宝七年以後の事でも無かつた。かくて、私は、素堂の長崎旅行を
延宝六年夏より翌七年暮春までの事と推定したのである。
(註二) 素堂の母親の歿年は、『韻塞』所見の素堂の母の喜寿の賀宴が、いつ
行はれたかに依つて相違してくる。
一般に此賀宴は元禄五年に行はれたとせられてゐる。成程此説にも無理からぬ
と思はれる節もあるのであって、若し斯く、此宴が元禄五年に挙行せられたとす
れば、その歿年を元禄三年とする如き説は當然誤謬である。
だが併しながら、かの元禄五年説も絶対的肯定を強ひるには未だその證憑乏し
く、そこに此の私説も生じてくる次第である。
先づ私論の根拠を示さう。
昨年の夏、素堂一家の菩提寺である甲府の尊躰寺を訪れた際、私は光譽清意禅
定尼なる一つの墓碑を見出した。その墓碑の正面には、右の如き戒名の外に、元
禄三年午十二月十四日と毅年を記し、且つ墓碑の側面には、魚町山口市右衛門尉
老母と註してあった。前述の如く市右衛門は山口家の家名である。素堂は早く家
督を弟に譲ったのであるから、此市右衛門は素堂自身ではなく或は彼の弟である
かも知れない。
併しながら、いづれにせよ、此老母なるものが素堂の母親である事に狂ひは来
ないと思ふ。かくて、若し此墓碑に信を置く時は、素堂の母は元禄三年十二月十
四日に歿した事になるのである。更に又、喜寿の宴に於ける芭蕉以下七人の賀句
は、『韻塞』以外に素堂一周忌追善集『通天橋』にも録されてをり、同集所載の
賀句は左の如きものである。(『通天橋』は未見。黒露編の『秋七草』に右の七
人の賀句を記し『通天橋』集に見えし由を附記せり)
松江の鱸薄のほしを釣る 嵐 蘭
此句は句調佶屈にして未だ天和調の影響を脱し得ぬものであって、到底元禄五
年の作とは受取れない。むしろ貞享頃の作と見るが至當である。もし今、此句を
貞享頃の作とし、従ってかの喜寿の宴を貞享年間に行はれたものとする時は、素
堂の母の歿年を元録三年とするにいさゝかも不思議はないのである。如上が元禄
三年説の根拠であつて、これ又強ちに否定も出来なからう。勿論、私としても、
これを以て決定的な説として主張するものでなく、単に一説として提示するのみ
である。
2、俳諧及び俳諧生活
文献に見ゆる彼の句のうち、もっとも年代の古きは寛文七年素堂二十六歳の折
、『伊勢踊』集に江戸山口氏信章として入集してゐる五句である。彼は恐らくは
その二三年前より俳諧に手を染めゐたのであらう。當時の句が、純貞門風のもの
である事は、今いふまでも無い。彼が季吟に學んだとは、『綾錦』(享保十七年
)以来定説となってゐるが、少くも『伊勢踊』當時は 末だ季吟とは交渉さへ無
かったのである。同じ年、季吟は湖春をして、彼の門下その他彼と交渉ありし人
々の句を網羅して『続山の井』を撰ばしめてゐるが、素堂の名は見出し得ない。
『伊勢踊』に依れば、素堂ははじめ、玄札・立志あたりを師としたと思はれる節
がある。寛文時代の彼の句として知り得るのは、右『伊勢踊』所見のもののみで
ある。
併し、『廿曾集』(延宝二年霜月廿三日、
江月より信章の下りて興行
いや見せし富士を見た目にひえの山 季 吟
世上は霜枯こや都草 信 章
とあり、是に依って見れば、彼が江戸信章として、相當俳壇に地歩を占めてゐ
た事が想察され、その間俳諧に全然疎であったとも思われ無い。
始めて季吟との関係を見出すのであるが、此関係が寛文七年以後に生じたもの
である事はいふまでも無からう。
恐らく素堂は、寛文七年より延費二年の間に上洛した事があり、その際二人の
交はりが結ばれたものと推測される。これに就いても.一般にいふ如き密接な俳
諧の師弟関係であったかどうかは疑はしい。
今、此、『廿會集』を措いて両人の交遊を忍ばしむる材料は、全く見出し得な
いのであって、季吟撰の『續蓮珠』(延宝四年)さへ、素堂は一句も採録せられ
なかった。延宝五年の季吟任口判の『六百番発句合』には、彼の二十句見ゆるも
、之はその書の内容性質より見て、両人の師弟関係を裏付けるまでの資料とは考
へ得られない。
芭蕉を季吟門とする事に、今尚疑を持つ人もあるが、素堂に於いては更に証
拠不十分といはぬばならないのである。単に『廿曾集』のみによっては、到底未
だ、素堂を季吟門なりとは断定しがたいと思ふ。
惟ふに、素堂は季吟にたゞ俳壇の古老に對する霊を執つたに過ぎす、師弟の契
りいふ如き深さ閥係にまで立ち到らなかったのではなからうか。
尚立ち入って考へれば、彼は或は、季吟に国學古典に就いて疑義を質した事が
あったかも知れない。即ち両人は国學上の師弟関係を有してゐたかも知れ無い。
季吟の古典注解に於ける力量、及び素堂が古典に深い理解を持ってゐた事等より
推してかくも考へられるのである。
さて、彼は、『廿曾集』に依って窺へば、その頃貞門の固陋煩瑣なる風を厭ひ
自由を求めんとしてゐたものゝやうで、此態度は、翌三年五月東下中の宗因を
迎へ、桃青等と共に興行せる歓迎百韻に及んで俄かに著しい展開を見せてゐる。
即ち全く談林に近づいてゐるのである。同年、高政の『俳諧絵合』に彼の句が採
禄せられてゐる事も、彼の談林への接近を示すものである。
次いで翌四年には
梅の風俳諧諸國さかむなり (江戸両吟集)
とて談林讃美の情を披瀝し、以来延宝六年に至るまで、江戸三吟、江戸八百韻
その他に、彼は談林風の句を多く吐いたのであった。此前後約四年間は、全く談
林心酔時代であって、且つ生涯を通じて、彼の俳諧生活のもっとも興奮を呈した
時であった(次号所載年譜参照)當時彼の周園には、桃青・言水、幽山等の熱心
なる俳士あり、これらの人に動かされ、又、彼の壮年の気鋭も手傳って、後年の
素堂とは別人の如き活気が見える。前述の如く、彼の長崎旅行は、此延宝六年の
夏より翌七年の暮春にかけて行はれたのであつた。旅より帰った彼は、後二年が
程、年譜に依って知らるゝ如く、あまり句を作ってゐない。之は一つは、前にも
述べた境遇の急激なる変化が彼の心の安静を掻き辭したが偽でもあったらうし、
又一つは漸く談林の松江の輕佻なる俳風に行詰りを覚え、更に新しき方向にむか
はんとする過渡期にあったが為でもあろう。
或は又、年譜にも記して置いた如く、延宝八年難波本覺寺に於て興業の西鶴
『大矢數』中第四十二に信章の付句が見えてをり、此時彼は或いは江戸を留守に
し旅行して居たものかも知れないのであって、その為、俳書に見ゆる彼の句が少
なかったのであろうかとも思われる。ともその僅少の作句のうち左の如きものを
見出す。
宿の春何もなきこそ何もあれ (江戸弁慶)
王子啼て三十日の月の明ぬらん (東日記)
右に依て彼も又、俳壇一般の動きに鈍感ならざりしを知らう。
延宝八年、『誹枕』に彼は序文を輿へた始めであって、之は彼が俳書に序文を
輿へた始であって、彼の俳壇的地位、今や漸く高きを察せしむるものである。
天和に至って、所謂虚粟調が俳壇を風靡するや、元来漢学の素養深さ彼が之を
得手として事は當然で彼の句作熱はこゝに再び燃え來たったのであって、『武蔵
曲』『虚栗』の他に彼の句が見える。一説には素堂によって此新調が提唱され、
素堂こそ、その先達であり、指導者であったと考へられてゐるが、これは彼の漢
学に於ける素養を信頬し過ぎたものといふべきである。 元来、此佶屈なる新
風は藤林調の変形と見るべきもので、既に『常盤屋句合』『田舎之旬谷』にその
萌芽を見せてをり、延宝八年頃に至って、更に力を得来たり、俳壇一般に灘溺漫
してきたやうである。
今延宝九年の俳書を檢するに
黄舌は酒有て汝何有て呼子鳥 言水
麝香の臍神鴨□く風薫る也 京 千春(をくれ双六)
夜ル□ニ虫は月下の巣を 穿ツ 桃青
田中菴水鶏音を何と鳴鼈(スポン) 才丸
等有り、その一斑を察し得られよう。素堂は、前述の如く、延宝七八年の頃は
句作數も至って少く、又その句風にも、佶屈□牙なる漢詩調の痕は、格別認めら
れ無い。かくて素堂は、この新調に於いてはむしろ追随的立場にあったといふべ
きで、其角・杉風・言水等の若さ人々こそ、その前衛であったと解される。
『俳諧二百年史』斎藤氏は、尾張俳人濯友の手紙を引いて、素堂を新風開発の
先達としてゐられるが、この濯友の尺牘は貞享以後のものと推定され、これのみ
を以て新風始發期の朝は云云出来ないと思ふ。
ともあれ、彼が此新調を愛し、その熱心なる支持者となった事は否まれない。
そして又、少くも貞享三年に至るまでは、此緊張せる俳諧生活は續いたものと認
められる。通説に素堂の句作に精進せしは天和末までゝあるといふ。併し、これ
はやゝ信じられ無い。後にも云ふ如く、貞享中に於ける彼の俳諧観は澄徹したも
のであり、又當時の彼の句はその殆どすべてが精彩あり、之を芭蕉の吟作に比す
るも毫も遜色を見出し得ないものであって、これに依っても、貞享年間に於ける
彼の精進振りの一斑は難解出来ると思ふ。けだし、かゝる現象は、俳諧への絶え
ざる関心の結果としてのみ生じ、気紛れの作為によっては断じて起り得ないもの
だからである。而してこの精進は、延宝五六年頃に於ける狂奔的態度と質を異に
し、自然を凝視し、静観のうちに句を覓むるものといふべきであり、前者を動と
すれば、これは静であった。こゝに問題となるのは『續虚栗』に與へたる彼の序
文の
……われわかゝりし時、狂句を好み、今になは折にふれて忌れぬものゆへ…
なる一節と、同じ冬の『続の原』の跋に
……狂句久しくいはす他の心尚わきがたし……
と、彼が述べてゐる事であらう。併しながら、前者は、貞享中に於ける彼の句
作熱衰退を意味せるものといふより、むしろ、彼が上述の延宝貞享の句作態度の
相違を意識しての言であらうと思われ、後者の「久しくいはす」も、決して長い
期間を指すものでなく、単に貞享四年に於いて句作より離れてゐたの意であると
解せられる。
同年には彼の興味はむしろ詩文の方面にそゝがれてゐたらしく(次号所載年譜
参照)為に俳諧に疎となったものであらう。かく考へる時は、私の云ふ如く貞享
三年まで彼の精進が続いたとする事に強ち無理も起らないやうである。尚この
『続虚粟』に序を請われ、『績の原』に芭蕉・調和・湖春と共に判者に選ばれて
ゐる事は、常時素堂が、一蕉門のみならす、俳壇に動かすべからざる地位と聲望
を持ってゐた事を想察せしむるものである。
元禄に至るも、なほ三四年の頃までは、彼は相當句作に力め、単に數の上より
見れば天和貞享の頃よ更に多くの句を吐いている。併し、二三のものを除けば、
貞享中の句の如き至醇境には程遠いものであった。此頃、漸く彼の句風は、純蕉
風とはどこやら調和せぬ所を生じきたったのであった。後述の如き、蕉風と一致
しない彼の俳諧観が、その根柢となった事は争へない。元禄四五年以後、素堂の
俳書に見ゆる句は年譜によっても覗ひ得る如く著しくその數を減じてゐる。かく
て彼は、芭蕉生前、既に句作熱の沈衰を来たしたのであるが、その後彼の終焉に
至るまで、俳壇に於ける積極的活躍の痕は、もはや漆にふたゝび彼には見られな
かった。進んで俳筵に出座する事は勿論なく、或は旅に出でゝ風懐を吟じ、或は
芭蕉を追憶して吟する等、全く折にふれて所懐を述ぶる程度に止つてゐる。いは
ゞ、孤立的な、一人楽しとする隠士の俳諧以上に出なかったのである。併し、此
無精進に係らす、彼の俳壇的地位は依然として高かった。彼は、芭蕉歿後、なほ
十部餘りの俳書に序跋の類を請れてゐる。此際、彼の古き俳歴、すぐれたる人格
學識、及び芭蕉の親友なりし事等は、彼の地位を保持するものだったと考へられ
る。 芭蕉歿後の彼の消息中、もっとも吾人の注意を惹くは、去来に新風興行を
すゝめたといはれてゐる事であらう。
『去来抄』に依って見れば、それは同書の成った年の事であったらしい。
『去来抄』は籾山氏の研究に依れば元禄十一年より十三年の間になったといふ。
尚、素覧の『東武太平鑑』なる書には、此事に閥関して次の如く見えてゐる
さうである。
江戸風の俳諧とて今世さまざまに品つくり、
變りたる風をよるこびて、月にあまる事お
びたゞしければとて、葛飾の素堂大人此由
丈草去来がもと、そのほか伊賀の衆にはか
り俳諧花風のおもてを興さむとありしかど
も去来は手届かず、又丈草は此ほど身すぐ
れずとて取合ず。たゞ伊賀の衆中には志を
のべてこしたるもありけれど、力なくてや
みき云々 (『俳譜二百年史』紹介』)
この両書に依れば、素堂が、去来その他に、新風興行をすゝめた事は、動かす
べからざる事実のやうであるが、私は尚そこに疑を持つものである。第一、彼が
去来・丈草等と格別深い交渉を持ってゐたとは考へられない事である。何が故に
、素堂は、これら特に親交なき人々を、わざわざ選んで、新風奥行の相手たらん
事をすゝめたのであろうか。又元禄十二三年の頃は、年譜に依って知るごとく、
彼の俳諧生活は萎徴として振はず、精進の気概などは全く見られ無いものであつ
た。この彼に、率先して新風興行の盟主たらんとする意気があったとは、到底事
実として受け取れない。更に彼の人物に考を及ぼす時は、此事は一層信じ難く思
はれる。彼は、前述せし如く、隠逸にして、人を訪ぬるさへ煩わしいとした人物
である。かゝる彼が、俗に趨いた其角一派の句風に飽き足らず思っていた事は肯
かれるとするも、それ以上新風興行等の煩瑣なる企畫をなそうとは思われ無い。
尚又、彼の俳諧観及び其角との関係より見ても此事は疑はしい。
『去来抄』に就いては、現尚偽書とする説を存し、『東武太平鑑』とて俳書目
録等に見えず、或は後人の假託の書とも邪推され、彼是思ひ合せて、尚暫く此事
は後に疑を存して置きたいと思ふ。
彼は、晩年、自句を左右に分つて、『とくとくの句合』を選んだ。これ彼の唯
一の著述であって、恐らくは、正徳元年、七十歳の折、成ったものと思はれる。
此句合は、彼も「老のおもひ出とせり」と跋に述べてゐる如く、自己の俳風を世
に問はんとする如き意図の下になされたのではなかった。尚又、一般に素堂が晩
年葛飾風なる一派を創立したかのやうに傳へてゐるが、事実は、雁山、(後ノ黒
露)素丸、(後ノ馬光)予光等の慕ひ寄る二三の人に對して、たゞ指導の勞を執
つたに過ぎす特にに一派を立てゝ俳壇の一隅に呼号したが痕跡は、全く認められ
無い。
葛飾蕉風なるものは、其日俺三世溝口素丸に及んで、誇稱されるに至ったもの
と思われる。かくて、素堂は、かつて業俳として門戸を張らず、且つ、障害一の
撰集だに公にせずして世を終ったのであった。かの「とくとくの句合」は享保に
至って出版されたものである。彼の晩年に就いては、彼の一周忌追善集『通天橋』が発見されゝば尚明らかにされよう。
以上概略述べきたつて、彼の俳諧生活が前後五十年に亙る長きものであったに
拘らず、概して不活発消極的なりし事に気付く。わづかに、延宝俳壇混沌の頃、
活躍が見られるのであって、芭蕉以下が眞個の俳諧精神に目覚めたる後に於いて
は、彼は天和貞享の数年にのみ、やゝ精進し上るに止り、その後約三十年間は、
たゞ俳人として餘端を保ってゐたに過ぎなかったのである。
しかも、延宝・天和・貞享に於いてすら、他の俳人に比すれば甚しい寡作であ
った。今、五十年の俳生活に於いて残されたる、彼の句を拾ふも、僅々約四二七
句を得るに止る。此寡作の理由は後述に譲り、今は、彼が職業俳人たらず、強ひ
て句作する必要なき立場にあった事が、その一つとして考へられる事を擧げて置
かう。(未完)
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