元禄元年の素堂と芭蕉(素堂を慕い頼りにする芭蕉)

芭蕉書簡……羅月宛書簡

芭蕉、更級紀行へ

芭蕉帰庵

素堂、はせを庵に帰るをよろこびてよする詞

素堂、九月『素堂亭十日菊』

素堂、『芭蕉庵十三夜』

〔素堂余話〕『素堂亭十日菊』

素堂書簡「芭蕉庵十三夜の記」の素堂序と句

《参考資料》芭蕉像、素堂賛

『野ざらし紀行翠園抄』

素堂の詩 『俳諧二百年史』

『俳諧史上の人々』高木蒼梧氏著   

「素堂の詩境凡ならず、國府犀東」

 

 

★芭蕉書簡……羅月宛書簡

夏花集豚筆書跋は御仰候共、名前次第之跡書直し可申と存候

へ共、其儘と有之いずれにも近日書添へ可仕候まゝ、まずま

ず御まち可被下候。

一、素堂主に別書申上候まゝ是もきぬせつ下され、書冩之

事被仰越候へば、ちかき内□□(ママ)又々□□(ママ)此通

に御座候

朝顔は酒盛知らぬさかり哉

羅月様                       はせを

 

芭蕉、更級紀行へ

八月十一日、信州更科に仲秋の名月を賞すべく、越人同伴で岐阜を発つ。

送られつ送り果は木曾の秋      (出、『更科紀行』)

草いろいろおのおの花の手柄かな  (出、『笈日記』)

人々郊外に送り出でて三盃を傾け侍るに

朝顔は酒盛り知らぬ盛り哉      (出、『笈日記』)

ひょろひょろとなほ露けしや女郎花 (出、『更科紀行』)

(この項、『芭蕉年譜大成』今栄蔵氏著)

 

芭蕉帰庵

八月下旬、更科紀行を終えて越人同伴で帰江。

 

素堂、はせを庵に帰るをよろこびてよする詞

「はせを庵に帰るをよろこびてよする詞」(『柱暦』所収)

むかし行脚のころいつか花に茶の羽折と吟じてまち侍し、

其羽織身にしたひて五十三駅再往来、

さらぬ野山をもわけつくして、

風にたゝみ日にさらせしまゝに、

離婁が明も色をわかつよしなく、

龍田姫も染かへすことかたかるべし。

これ猶、

ふるさとの錦にもなりぬるかと、をかしくもあはれに侍る。

たれかいふ、素堂素ならず眼くろし、

茶の羽折とはよくぞ名付る。

其ことばにすがりて又申す。

茶の羽折おもへばぬしに秋もなし

 

素堂、九月『素堂亭十日菊』

貞享五戊辰菊月仲旬

蓮池の主翁(素堂)又菊を愛す。

きのふは廬山の宴をひらき、

けふはその酒のあまりをすゝめて、

獨吟のたはふれとなす。

猶おもふ、明年誰かすこやかならん事を

いざよひのいづれも今朝の残る月    はせを

残菊はまことの菊の終りかな         路通

咲事もさのみいそがじ宿の菊         越人

昨日より朝霧ふかし菊畠         友五

かくれ家やよめなの中に残る菊            嵐雪

此客を十日の菊の亭主あり           其角

さか折のにひはりの菊とうたはゞや   素堂

 

よには九の夜日は十日と、

いへる事をふるき連歌師のつへしを

此のあした紙魚を拂ひて申し侍る。

又中頃恋になぐさむ老のはかなさ、

むかしせし思ひを小夜の枕にて、

我此心をつねにあはれぶ、

今猶おもひつまゝに

はなれじと昨日の菊を枕かな         素堂

 

素堂、『芭蕉庵十三夜』

ばせをの庵に月をもとあそびて、

只つきをいふ。

越の人あり、つくしの僧あり、

まことに浮艸のうきくさにあへるがごとし。

あるじも浮雲流水の身として、

石山のほたたるにさまよひ、

さらしなの月にうそぶきて庵にかへる。

いまだいくかもあらず。

菊に月にもよほされて、吟身いそがしひ哉。

花月も此為に暇あらじ。

おもふに今宵を賞する事、

みつればあふるゝの悔あればなり。

中華の詩人わすれたるににたり。

ましてくだらしらぎにしらず、

我が国の風月にとめるなるべし。

もろこしの富士にあらばけふの月見せよ     素堂

かけふた夜たらぬ程照月見哉         杉風

後の月たとへば宇治の巻ならん            越人

あかつきの闇もゆかりや十三夜            友五

行先へ文やるはての月見哉           岱山

後の月名にも我名は似ざりけり            路通

我身には木魚に似たる月見哉     僧 宗波

十三夜まだ宵ながら最中哉           石菊

木曾の痩もまだなをらぬに後の月     はせを

 

仲秋の月はさらしなの里、

姨捨山になぐさめかねて、

猶あはれさのみにもはなれずながら、

長月十三夜になりぬ。

今宵は宇多のみかどのはじめてみことのりをもて、

世に名月とみはやし、後の月あるは二夜の月などいふめる。

是才士文人の風雅をくはうるなるや。

暇人のもてあそぶべきもの問い費、

且は山野の旅寐もわすれがたうて人々をまねき、

瓢を敲き峯のさゝぐりを白鴉と誇る。

隣家の素翁、丈山老人の、一輪いなだ二部粥といふ唐歌は、

此夜折にふれたりとたづさへ来れるを壁の上にかけて、

草の庵のもてなしとす。

狂客なにがししらゝ吹上とかたり出けれは、

月もひときははへあるやうにて、

中々ゆかしきあそびなりけり。

 

貞享五戊辰菊月中旬  蚊足著

物しりに心とひたし後の月

 

蚊足

本名、和田源助。若いときより芭蕉の周辺に居る。素堂の口入れで若年寄り、秋元田島守に仕官する。二百石。絵も達者で芭蕉没後、肖像を描きまるで芭蕉が生きているようだと評判をとる。又蚊足の描いた芭蕉石刷像に素堂の讃がある一幅がある。

 

〔素堂余話〕『素堂亭十日菊』

『芭蕉と蕉門俳人』・「芭蕉と其の周辺の資料」大磯義雄氏著

二、「素堂亭十日菊」

きのふ竜山の交(ママ)を□□□□(  ノシルシアリ)

けふは其酒のあまりをすゝめて

狂句の戯をなす

いさよひの何を今朝にのこる菊             芭蕉

残菊は誠の菊の意かな                路通

咲事もさのみいそかし宿のきく             越人

昨日より朝露ふかしきく畑            松江

かくれ家やよめなの中に残菊          嵐雪

此客を十日の客の亭主有        キ角

さか折のにゐはりの菊とうたハはや    素堂

よには九の夜日には十日といへるつらね句に

たよりて云又中比恋になくさむ老のはか」

なさむかしせしおもひを小夜の枕にて

予此心をつねにあわむ(ママ)今なほおもひ」

出るまゝに

離れしときのふの菊のまくらかな

 

(略)さて、この「素堂亭十日菊」は『笈日記』や『陸奥鵆』所収のものと比較して相違する所がある。その主なものは、芭蕉句の前書、「昨日の」句の作者、素堂の後語、素堂句の句形である。以下、簡単に説明を加えておく。

簡単になっている。現物自体の破損カ所がある。「昨日より」の句の作者は『笈日記』などに友五とある。友五は松江の養嗣子という。素堂の後語も比較すると到底書違いと言うべきものはではない。『笈日記』などには「昨日の菊を」となっている。要するに誤記もあるが『笈日記』『陸奥鵆』とは別点で、私はこれを原稿の写しではないかと考えている。なお次を参照されたい。

 

三、「芭蕉庵十三夜の記」の素堂序と句

十三夜

はせをの庵に月をもてあそひて只月をいふ

こしの人ありつくしの僧ありま(空白)の 

うきくさに逢かことしあるしも草枕一鉢の身として

あるは宇治川のほたるにさまよひ

さらしなのつきにうそふきて庵に帰り

いまたいくはくの日あらす菊に月にもよほされて

吟身いそかしいかな花月もこの人の為に晦あらし  晦=(ママ)

われきく今宵を賞すること日のもとにかきりて

支那にはあらすくたらしらきにもしらす

我かたの風月にとめるなるへし

 

もろこしに富士あらハけふの月も見よ

如此御認可被下候

此人の為に晦(ママ)あらしの句翁へ御伝可被下候

《雑纂書留第四紙所収》

 

注目されるのは素堂句の後にある書簡体の文言である。(略)素堂が誰かに宛てて出した書簡に相違ないのである。『武蔵野三歌仙』所載の芭蕉真蹟、および『笈日記』『陸奥鵆』所載のものとも文章にかなりの異同が認められる。

(略)芭蕉が素堂の諒承のもとに自分の気に入るように書き改めたのではあるまいか。

(略)素堂の原稿に「晦あらし」の語がみえ、終りにも「此人の為に晦あらしの句」として引用する「晦」の字についてである。

(略)「花月もこの人の為に晦あらし」は語句ではなく文中の発句だったのである。『笈日記』などに「花月も此為に暇あらじ」となっているのはどういうわけか。意味の上でも「悔』(「晦」か)の方がずっと優れている。云々

詳細は『芭蕉と蕉門俳人』を参照のこと。

 

《参考資料》芭蕉像、素堂賛

「蚊足筆素堂賛石刷芭蕉像」(森川昭氏蔵)元禄九年の作。

芭蕉翁忌日に蚊足絵がける翁の旅姿にむかひて

けふとてや行脚姿で帰花       素堂

 

晩年の芭蕉》

 こうやって芭蕉の伝記を紐解いていると、不思議な心境になる。この時代生きた俳人の動向は定かではなく、芭蕉が最も信頼していて、芭蕉亡き後も山口素堂は義仲寺を訪れその都度手追悼句を手向けている。この素堂の想いは、芭蕉生前の交友と信頼の深さからきているもので、素堂と芭蕉に関係をもっと調べていけば、さらに芭蕉の生き様がわかって来る。素堂なくして芭蕉は語れない。

ここでその一部分を紹介しよう。