素堂と芭蕉を結ぶもの
鹿島詣
素堂、芭蕉「蓑虫」の遣り取り
素堂、「蓑虫説」子光編『素堂家集』
素堂、『蓑虫説』(◎印、俳文学館蔵素堂自筆による)
芭蕉、簑虫説跋
簑虫賛(素堂)
奥の細道
服部嵐雪、簑虫をきゝにゆく辭
「蓑虫説」解説
『春鳥集』序文、蒲原有明著。
《参考資料》「蓑虫」の詠まれた句
<参考資料 鹿島詣>
芭蕉『鹿島詣』
……秋八月、曾良・宗波と常陸鹿島の月見に行く。「鹿島詣」
八月二十五日『鹿島詣』成る。
洛の貞室須磨の浦にの月見に行て
まつかげや月は三五夜中納言
と云けん狂夫のむかしもなつかしきまゝに、
此秋鹿島の山の月見んと思ひ立事あり。
ともなふ人ふたり、浪客の士ひとり、ひとりは水雲の僧。
僧は烏のごとくなる墨のころもに、三衣の袋をえりにうちかけ、
出山の尊像をづしにあがめ入テうしろに背負、杖ひきならして、
無門の関もさハるものなく、あめつちに独歩していでぬ。
いまひとりは、僧にもあらず、鳥鼠の間に名をかうぶりの、
とりなきしまにもわたりぬべく、門よりふねにのりて、
行徳といふところにいたる。ふねをあがれば、馬にものらず、
ほそはぎのとからをためさんと、徒歩よりぞゆく。
甲斐のくによりある人の得させたる、
檜もてつくれる笠を、おのくいたゞきよそひて、
やはたといふ里をすぐれば、かまがいの原といふ所、
ひろき野あり。秦甸の一千里とかや、めもはるかにみわたさるゝ。
つくば山むかふに高く、二峯ならびたてり。
かのもろこしに双剣のミねありときこえしは、廬山の一隅也。
ゆきは不申先むらさきのつくばかな
と詠しは、我門人嵐雪が句也。
すべてこの山ハ、やまとだけの尊の言葉つたえて、
連哥する人のはじめにも名付たり。和歌なくバあるべからず。
句なくばすぐべからず。まことに愛すべき山のすがたなりけらし。
萩は錦を地にしけらんやうんにて、ためなかゞ長櫃に折入て、
ミやこのつとにもたせけるも、風流にくからず。
きちかう・をみなえし・かるかや、尾花ミだれあひて、
さをしかのつまこひわたる、いとあハれ也。野の駒、
ところえがほにむれありく、またあはれなり。
日既に暮かゝるほどに、利根川のほとり、ふさといふ所につく。
此川にて鮭の網代といふものをたくみて、
武江の市にひさぐもの有。よひのほど、
其漁家に入てやすらふ。よるのやどなまぐさし。
月くまなくはれけるまゝに夜舟さしくだして鹿島にいたる。
ひるより雨しきりにふりて、月見るべくもあらず。
ふもとに、根本寺のさきの和尚、今は世をのがれて、
此所におはしけるといふを聞て、尋入てふしぬ。
すこぶる人をして深省を発せしむと吟じけむ。
しばらく清浄の心をうるににたり。
あかつきのそら、いさゝかはれけるを、和尚起し驚シ侍れば、
人々起出ぬ。月のひかり、雨の音、
たゞあハれなるけしきのミむねにみちて、いふべきことの葉もなし。
はるぐと月ミにきたるかひなきこそほゐなきわざなれ。
かの何がしの女すら、郭公の哥、
得よまでかへりわづらひしも、我ためにはよき荷担の人ならむかし。
和尚
おりくにかはらぬ空の月かげも
ちゞのながめは雲のまにく
月はやし梢は雨を持ながら 桃青
寺に寐てまこと顔なる月見哉 同
雨に寝て竹起かへるつきミかな ソラ
月さびし堂の軒端の雨しづく 宗波
神前
此松の実ばへせし代や神の秋 桃青
ねぐはゞや石のおましの苔の露 宗は
膝折ルやかしこまり鳴鹿の声 ソラ
田家
かりかけし田づらのつるや里の秋 桃青
夜田かりに我やとはれん里の月 宗波
賤の子やいねすりかけて月をミる 桃青
いもの葉や月待里の焼ばたけ タウセイ
野
もゝひきや一花摺の萩ごろも ソラ
はなの秋草に喰あく野馬哉 同
萩原や一よはやどせ山のいぬ 桃青
帰路自準に宿ス
塒せよわらほす宿の友すゞめ 主人
あきをこめたるくねの指杉 客
月見んと汐引のぼる船とめて ソラ
貞享丁卯仲秋末五日
このあと素堂と芭蕉の「みのむし」の遣り取りがある。これまでは、芭蕉側から見た著書が多く、素堂がなにゆえ「蓑虫記」を記したのか、理解不足であったが、このあたりを調査した結果、その辺が解明できた。この一連の遣り取りは、芭蕉の生き方を「蓑虫」に例えた、素堂独特の示唆記事であり、しかもこの時代を代表する詩文でもある。
<参考資料 素堂と芭蕉の「蓑虫」の遣り取り>
素堂、芭蕉「蓑虫」の遣り取り
芭蕉・素堂
秋、芭蕉の帰庵の月、素堂亭に招く。
此月、予が園にともなひけるに、
又竹の小枝にさがりけるを
みの虫にふたゝびあひぬ何の日ぞ 素堂
しばらくして芭蕉の方より
草の戸ぼそに住みわびて秋風のかなしげなる夕暮、
友達のかたへ言ひ遣はし侍る
みの虫の音を聞きに来よ草の庵 芭蕉
素堂、「蓑虫説」子光編『素堂家集』
はせを老人行脚かへりの頃
簑むしやおもひし程の庇より
この日予が園へともなひけるに
蓑虫の音ぞきこへぬ露の底
また竹の小枝にさがりけるを
みの虫にふたゝび逢ぬ何の日ぞ
しばらくして芭蕉の方より
みの虫の音を聞きに来よ草の庵
素堂
これに答え『蓑虫説』を草す。
嵐雪
「蓑虫を聞きに行く辞」を綴り、一句を送る。
何も音もなし稲うち喰うて螽哉
芭蕉
『蓑虫説』跋を書す。
素堂
さらに『蓑虫賛』を著す。
素堂、『蓑虫説』(◎印、俳文学館蔵素堂自筆による)
まねきに應じて、むしのねをたつねしころ
素堂主人
みのむしみのむし、聲のおぼつかなきをあはれぶ。
ちゝよちゝよとなくは孝にもつはらなるものか。
いかに傳へて鬼の子なるらん。
清女が筆のさがなしや。
よし鬼の子なりとも、瞽叟を父として舜あり。
なむじはむしの舜ならんか。
みのむしみのむし、聲のおぼつかなくて、かつ無能なるをあはれぶ。
松むしは聲の美なるがために籠中に花野をしたひ、
桑子はいとをはくにより、からうじて賎の手に死す。
みのむしみのむし、静なるをあはれぶ。
胡蝶ハ花にいそがしく、蜂はみつをいとなむにより、往来をだやかならず。
誰が為にこれをあまくするや。
みのむしみのむし、かたちのすこし奇なるをあはれぶ。
わずか一葉をうれば、其身をかくし、一滴をうれば、其身をうるほす。
龍蛇のいきほひあるも、おほくは人のために身をそこなふ。
しかじ汝はすこしきなるには。
みのむしみのむし、漁父のいとをたれたるに似たり。
漁父は魚をわすれず。
太公すら文王を釣そしりをまぬかれず。
白頭の冠はむかし一蓑の風流に及ばじ。
みのむしみのむし、たま虫ゆへに袖ぬらしけむ。
田蓑のゝ島の名にかくれずや。
いけるもの、たれか此まどひなからん。
遍昭が簑をしぼりも、ふる妻を猶わすれぬ成べし。
みのむしみのむし、春は柳につきそめしより、桜が枝にうつり、
秋は荻ふく風に音をそへて、寂家の心を起し。
寂蓮をなかしむ。
木枯の後はうつ蝉に身を習ふや。
からも身もともにすつるや。
又
蓑虫々々 偶逢園中 従容侵雨 瓢然乗風 笑蟷斧怒
無蛛糸工 白露甘口 青苔粧躬 天許作隠
我隣称翁 栖鴉莫啄 家童禁叢 脱蓑衣去 誰知其終
葛村隠士 素堂書
簑虫説跋(芭蕉)
草の戸さしこめて、ものゝ侘しき折しも、偶簑蟲の一句をいふ、
我友素翁、はなはだ哀がりて、詩を題し文をつらぬ。
其詩や綿をぬひ物にし、其文や玉をまろばすがごとし。
つらくみれバ、離騒のたくみ有にゝたり。又、蘇新黄奇あり。
はじめに虞舜・曾参の孝をいへるは、人におしへをとれと也。
其無能不才を感る事ハ、
ふたゝび南花の心を見よとなり終に玉むしのたはれハ、色をいさむとならし。
翁にあらずば誰か此むしの心をしらん。
静にみれば物皆自得すといへり。
此人によりてこの句をしる。
むかしより筆をもてあそぶ人の、
おほくは花にふけりて實をそこなひ、みを好て風流をしる。
此文やはた其花を愛すべし、其實、猶くらひつべし。
こゝに何がし朝湖と云有。この事を傳へきゝてこれを畫。
まことに丹青淡して情こまやか也。
こゝろをとゞむれバ蟲うごくがとごとく、黄葉落るかとうたがふ。
みゞをたれて是を聴けば、其むし聲をなして、秋のかぜそよそよと寒し。
猶閑窓に閑を得て、両士の幸に預る事、簑むしのめいぼくあるにゝたり。
芭蕉庵桃青
【語訳】
草庵の戸をとざして、ひとりこもっていて、ものわびしい折ふし、ふと、
蓑虫の音を聞に来よ草の庵
と一句を詠んだ。わが友山口素堂翁は、この句をたいへん興がって、詩を作り、文章を書いてくれた。
その詩は、錦を刺繍したように美しく、その文章は玉をころがすような響きがする。しかも、よくよく味わってみると、屈原の悲痛な詩編「離騒」のようなうまさがある。
また蘇東坡の新しさ、黄山谷の奇抜さもある。文のはじめに、父に憎まれても、かえって孝を尽くした虞の舜のことや、孔子の弟子で親に孝行して有名な曾子のことをいっているのは、人々にこのような虫からでも教訓をくみとれというのであろう。また、蓑虫がなんの能もなく才もないところに感心しているのは、人知の小を説き、無為自然を尊ぶ荘子の心を、も一度よく考えてみよと人々にいうのであろう。最後に、蓑虫が玉虫に恋したことをいうのは、人々に色欲を戒めようとするのであろう。素堂翁でなかったならば、だれがこれほどまでに、この虫の心を知ることができようか、できはすまい。
「万物静観すれば皆自得す」
という句がある。万物は、心を静めてよく見れば、みな天理を内に蔵し、悟りを得ているという、この句の真意を、自分はいま、素堂翁によって、はじめて知ることができた。昔から詩や文を書く人の多くは、言葉の花を飾って内容の実が貧弱であったり、あるいは内容にのみとらわれて言葉の詩的な美しさを失ったりする。しかるに、この素堂翁の文章は、言葉の花も、また美しく、内容である実もまた、十分食べ得るほど充実している。ここに朝湖という絵師があって、この蓑虫の句や、素堂の文章の事を伝え聞いて、蓑虫を絵に描いてくれた。実に、色彩はあっさりとしていて、心持は深くこまやかである。心をとどめて見ていると、なんだか蓑虫が動くようであり、枝の黄色い葉は、いまにも落ちるのではないかと思われる。耳を傾けて聞いていると、画中の蓑虫が声を出して鳴いており、秋風が絵の中からそよそよと吹き出して肌に寒く感じる。この静かな窓辺で、静かな時を得て、こうして、文人素堂と画家朝湖の二人の好意をこうむることは、蓑虫の面目この上もないことと感謝する次第である。(語訳は全て小学館『松尾芭蕉集 』村松友次氏による)
簑虫賛(素堂)
延喜のみこ兼明親王、小倉におはせし頃、
ある人雨に逢いて簑をかけられけるに、山吹の枝をたおりてあたへ玉ふ。
七重八重花は咲ども山吹のみのひとつだになきぞかなしき
との御こゝろぞへにて、かし給はざりしとかや。
又、小泉式部いなり山にて雨に逢ひ、田夫に簑をかりけるに、
あをといふものをかしてよめるとなん。
時雨するいなりの山のもみぢ葉はあをかりしより思ひそめてき
あをは簑のたぐひなるよし。客濡るに簑をからん時、
山吹の心をとらんや、いなり山の歌によらんや。
服部嵐雪、簑虫をきゝにゆく辭
いで聞きにまからん。行程二十町をぞや、
かの虫なきやすべき、よしや虫まつともあらじ、
またるべきに身にもあらず、面白や橋はふた國にまたがり、
入江の釣舟は、まさ横さまに打こぞりぬ。
鷺眠り鴎流れつ、駿河の山はいつこゝら来つらん。
川隈におほふ程ちかし、致景興をふるひ、
あかむともなきに、柴門の雫、衣の襟にひやこく、
草の露わら履につめたし。あるじなくてやありけん、
とがめもたまはず、さし入て見れば簑虫の聲鳴すましてつくりと居給ふ、
おとろへくらべれは、霜にいまだ壯なりしが如く、
力を論ずれば風流猶ゆよし、ふむ所座する所音なし、
かみ子のふるければなり、ゆえによりこの聲は聞きしか、
性のさはがしきにはなに戀しともきこえず、
聞く事にもあらじ、見ることにもなけん、
かれが情と人間の閑と、
猶閑人のすぐれたるなるべし虫よ翁のかしましからむ、鳴きぞ。
何の音もなし稲うち喰ふて螽かな 嵐雪
(『俳諧三十六歌選』所収 津田房之助著)
「蓑虫説」解説
(略)芭蕉が自ら『荘子』を読んで「無才」「無能」の意味を晩年に悟った可能性も考えられるが、「無才」「無能」を早くも貞享四年に唱えたのは、「蓑虫説」をめぐる交流を通した素堂であった。その素堂の提唱を通して、芭蕉は『荘子』の「無才」「無能」思想を学び始めたのである。それは、芭蕉自ら「蓑虫説」にて、(略)「翁(素堂)にあらずは此むしの心をしらん」(略)
「蓑虫説」が詠まれる以前には、芭蕉が「無才」「無能」の『荘子』思想を悟らなかったとしか考えられないのである。(略)芭蕉は「蓑虫説」をめぐる素堂との交流を通して、『荘子』の核心思想であると言える「無才」「無能」であるゆえに「造化」に順応することを素堂から学んだのであった。(筑波大学、黄東遠氏「山口素堂の研究」より)
《註》
『春鳥集』序文、蒲原有明著。
思ふに俳文の上乗なるものうちには却てこの散文詩に値するものありて、かの素堂の蓑蟲の説の体、葢しこれなるべし。云々
《註》この素堂の『簑虫説』の主要本は全部で十一本あるという。(筑波大学、黄東遠氏「山口素堂の研究」より)
一、「簑虫記」 天理図書館蔵本(素堂自筆本)
二、「簑虫辞」 国文学資料館蔵本(素堂自筆本)
三、『素堂家集』所収本の一(旧松宇文庫本、『俳諧集覧』六所収)子光編 享保六年序
四、『素堂家集』所収本の二(旧松宇文庫本、『俳諧集覧』六所収)子光編 享保六年序
五、『風俗文選犬注解』所収の「簑虫説」(介我著、嘉永三年/1850成)
六、『浜田岡堂蕉門俳諧資料』(鈴木勝忠編、昭和五十一年刊。明治書院)
七、『蕉影餘韻』所収の「みのむし巻」(素堂自筆、巻子本。)
八、『素堂家集』(写本、国立国会図書館蔵本)
九、『蕉影餘韻』所収の「簑虫説」(蚊足清書、貞享四年/1687秋)
十、『風俗文選』所収の「簑虫説」(許六編、宝永三年/1707)
十一、『芭蕉文考』(板坂元氏蔵本、享和元年/1801跋)
◎ 『蓑虫説』 素堂自筆(俳句文学館蔵)
《筆註》
私には素堂や芭蕉の深層の流れる思想や俳諧理論は理解できないが、素堂が芭蕉に与えた大きな影響については理解できる。素堂と芭蕉の交遊関係は、
一、素堂が芭蕉を指導する。
二、素堂と芭蕉が対等の立場。
三、お互いに独立。
のようになると思われる。芭蕉優位の書ではそれ以外に、
四、芭蕉に従属する素堂。
の立場に捉える書も見える。無理もない話で「俳聖芭蕉」にとって師や強い影響を与えた人物は抹消することが「俳聖芭蕉」を創作する近道である。
当時の俳壇で芭蕉個人が全ての俳論に先行したのではなく、多くの人々の努力が芭蕉俳諧を作り上げたとする顕著な姿勢も必要だと思われる。
《参考資料》「蓑虫」の詠まれた句
蓑むしの角やゆづりし蝸牛 素堂
蓑虫にそむきも果てずけふの菊 支考
みのむしとしれつる梅のさかりかな 蕉笠
蓑虫の出方にひらく桜かな 卓袋
みのむしや常のなりにて涅槃像 野水
みの蟲や形に似合ひし声悲し 杜若
蓑むしを聞かぬぞけふの命かな 桃隣
みのむしの茶の花ゆゑに折られける 猿雖
みのむしのさがりはじめつ藤の花 去来
蓑むしも木に離れたる落葉哉 残香
奥の細道
『奥の細道』の旅は、いうまでもなく、芭蕉にとって、集大成の旅であった。前年、『更科紀行』の旅から帰った芭蕉は、しばらく草庵に落ちついていたが、その問も、ぼつぼつ旅への計画を思い立っていたらしい。明けて元禄二年の春には、早々郷里の兄に宛て、
「何とぞ北国下向之節立寄候而成、関あたりより成とも通路いたし、しみじみ可申上侯」
と、書き送っているし、二月に入ると同じく郷里の猿雖にも、奥羽・北陸の旅の予定を知らせて、
○「一鉢境界乞食の身こそたふとけれ」と、乞食僧のような旅に出る覚悟のほどを示している。
そして、住みついた家も人に譲って、近くの杉風の別荘に移つた。
草庵を捨てたのは、人の世のはかなさや無所住の思いに徹し、そうした境涯に身を置いて風雅の道を究めようとする気持が強かったのだろう。三月の節句すぎには出発する筈だったのが、都合で少し延びたらしい。(この事については別記する)
道中は一曽良が一緒に行くことになった。曽良は芭蕉庵の近くに住んでいて、始終山入りしていたが、今度の旅先きの事をいろいろ調べて、「延喜式神名帳抄録」を作ったり、「名勝備忘録」を作ったりした。旅に出てからは、丹念に日記をつけて、日々の動静を明らかにしている。
(このたびを芭蕉と曽良と別に見ると、この度が芭蕉の一方的な思いでなく、時の社会情勢や、曽良の仕官先の仕事柄とも深い関わりが見える。別記)
この旅の出発は、ひっそりした出発となった。しばらく草庵で隠士的な生活をし、静かに自己を見詰めていた芭蕉にとって何か期するものがあったのかも知れない。きびしい求道者のような心境であった。
月日は壱代の過客にして、行かふ年も又旅人也。
舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらへて老をむかふる者は、日々旅にして旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて漂泊の思ひやまず云々。
曽良の「随行日記」によると、二人は、3月20日深川を出船し、干住に上った。芭蕉は、見送りの人々に、
行春や鳥啼く魚の目は泪
と、留別の吟を詠んだ。
干住・室の八嶋・日光・那須野・黒羽・芦野・白川関・須賀川・浅香山・鯖野・飯坂・笠島・武隈・仙台・壺碑・塩釜・松島・石巻・平泉・尿前・尾花沢・立石寺・大石田・羽黒・鶴岡・象潟・市振・金沢・山中・大帥、上寺・吉崎・丸岡・福井・敦賀・種の浜・大垣
日光
あらたふと青葉若葉の日の光
芦野
田一枚植ゑて立去る柳かな
象潟
松島は笑ふが如く、象潟はうらむがごとし
象潟や雨に西施が合歓の花
以下
荒海や佐渡によこたふ天の河
塚も動け我が泣く声は秋の風
「奥の細道』の文は、芭蕉が元禄三年幻住庵に入ったころから整理に着手し、晩年に至るまで推敲をつづけていたようである。さいきん、曽良の『随行日記』と対比することによって、その文学か実録かが問題とされているが、その論議より、こうした旅の成り立ちを調べてみると、思いがけない展開も見えてくる。これは資金・宿・訪問先それに随行者の動向などである。(この項別記)